ユア・ストーリーの話が長くなったので。

更新が無いのは創作フローが永遠に続いているということで良いことなんだけど(笑)なんだろうね、アウトプットって何かで満たされるとそれでいいのかもね。だから何も作ってない時はなんか書きたくなるんだけど今はアシッド一辺倒なのでね。

 

ただもういつも書くけどストック曲が半端じゃねーのよ。んでそれをアルバムとして一応構成して出す作業というのが普通に面倒になってきてて(笑)イッたら終わり的な作ったら終わり的なね、ただまぁその創作フローが楽しいからやってるんであって作った後ってんじゃ次!なんだよね。

 

ただまぁ色々とアシッド関係をレコでもネットでもディグってるとシカゴハウス再評価ってのが自分的にアシッドを通してすげーブームなんだけどリバイバルって2012年ぐらいからあるのね。所謂ローハウスっていう俺が知ってたDJ BoringとかのLo-Fiハウスじゃなくてまぁ一種なんだけどアンビエントじゃないアナログ回帰的なハウスってのがリバイバルと共に半ばデフォのジャンルと化していて客観的に見ると俺って今さらそれやってるって感じなんだけど俺的に別にアシッド始めただけでローハウスって意識は無かったんだけどそういうのがあるんやなーって思うと参考程度に聞いておくのは必要かなーとかって思ったけどね。

 

ただ自分のがロー過ぎて(笑)自分のロー基準を満たすのってなかなかなくてやっぱりオリジナルのシカゴハウスとかゲットーハウスのオリジナル盤の音質とか質感に勝るロー感はないなって感じだけどね。でもローさって意図的にプラグインとかで出すとすげーダサくなるから単純に雑でいいんだよね(笑)ギターウルフ的なアンプにギター直刺し!みたいなね、天然のローさよね。

 

www.youtube.com

 

Winonaとかヴェイパーウェイヴ系とかの上手いローさってサンプリングソースが例えばヴェイパー系だと80年代のビデオとかソースがツベの動画で録画がビデオみたいなやつをそのまま使ったりするから出来上がる天然のローさの質感よね。

 

www.youtube.com

 

んでまぁ私見だけどキャリアがありそうな作家が作ってるやつより80年代のサンプルっつーか曲自体をChopped & Screwedしました!っていうただ年齢的にまだ10代だったりする作り手なんでヒップホップのChopped & Screwedなんて生前のカルチャーで知らねーよ!みたいなぐらいの天然さがあるやつが輝くよね。

 

パンクでもそうだけど初期衝動と良い感じの下手さだよね。成功するとつまらなくなるのは設備投資とかして機材が良くなるとか(笑)普通に曲作りできるようになっちゃって音楽的にし過ぎてつまらなくなっちゃうとか、やっぱ上手くなると取ってきた音のピッチ下げてループさせるだけだとつまらなくなっちゃうんだよね。

 

あとなんかもっと作家性みたいなのを出したくなっちゃうんだけどそこの余計な自我を抑えられるだけの精神性とか自分へのこだわりのなさがあると良いのが作れるよね。逆に自己愛が強すぎたり自己顕示欲とか承認欲求が強いとどんどんダメになっていくよね。

 

俺の場合もCS1-X一台でシカゴハウスを作ろうとしていた時の精神性ってのをすげー大事にしてて実際にちゃんと作ろうとしたやつほどつまらなくなるんだよね(笑)だからオナニーした後に急に思いついて適当にやったやつがめっちゃかっこよくなったりする確率の方が高くて作ろう!と思って作ったやつほどろくでもないのが出来上がるんだよね(笑)

 

だからいかにそのまぐれに出会うか?っつーところだよね。技術を上げよう!とか音楽理論学ぼう!っていうところじゃない感覚的なところだからこそ読めないし確立を上げる方法なんてのが確実なものがあるわけじゃないから蓋然性しかないっていうね、まぁそこも含めてチャンスオペレーション的な作曲でいいんだと思うけどね。

 

扱ってるモノがアシッドなだけでやってることは前から一貫しているある種の実験音楽だよね。まりんとかテイトウワみたいな曲を作りたい!みたいな欲求に関して諦めきっていて捨てきっているからこそできることっつーかね(笑)まぁこういうとかっこいいけど俺って基本的になんでもパンクしかできないんだよね。

 

もうそれは思想がそうだし元々の人間性がそうだからそれがあらゆるところで共通するというのも必然なんだよね。だからその自然性に任せたほうが一番いいんだよね。作為的に変なことをやらないようにするのが一番いい。まぁ自然体ってことだね。きどらないしかっこつけないっていう素っ裸の自分よね。

 

でもまぁそれも経験あってのものですよね。だからまぁ今ある意味できているのかなって思うよね。

 

まぁそんな感じですわな。ところで書き忘れてたんだけどっつーか書いたかもしれないけどドラクエのユアストーリーズってのを見たんだよねっつっても三か月前ぐらいなんだけど(笑)んで賛否両論っつーか酷い!って意見のほうが圧倒的で見る前とか全く知らなかったんだけどさ、見た後にこりゃヤバいなって思ったよね。

 

ネタバレになるけど書くけど最後にどんでん返し的なメタ目線が入るじゃん?ゲームの世界なんて所詮はプログラミングの世界なんだよっつってね。んでまぁ大抵の人はここで怒るんだけど普段の抽象度が高い人は別に驚かないどころか期待するはずなんだよね。「おうおう!そうだよ。現実と同じようにね!んでんで?って良いの頂戴!」って超期待するわけ。

 

んで出てくるのが「そんなプログラミングの世界で熱くなってないで大人になれ」っていう目線なんだよね。あーそういうメタ目線だったのね。クソレベル低いどころかそれまでが良くても最後にそれ足すだけでガキが書くようなシナリオレベルになっちゃうじゃん!っていう台無しなことをしてるんだよね。

 

そこで例えば返しでそれ言い出したら現実も同じだろう!っていう回答からドラクエ的な熱さっていう現代とかでは「何アツくなっちゃってんの?」とかって冷めた目で見られるような熱さってこそがリアルなんだよ!っていうまぁ脚本のレベルが高いロボアニメとかだとそういう感じじゃん?

 

だからまぁ周りがどうとか世界がどうとか構造がどうとかそれはプログラミングという虚構で現実はリアルだみたいなのはどうでもよくて重要なのはアツさだろう!っていうまぁナデシコで言うところのゲキガンガー的な精神よね。

 

で、ナデシコで言うと木連にとってのゲキガンガーって言わばバイブルで国民的アニメなわけじゃん?それが聖典化するほどのものがあるっていうね、それをスライドさせるとドラクエは日本の国民的ゲームで日本国民にとっての聖典なんだこれは!っていう、元がアニメとかゲームとかっていうリアルなものじゃなくてもよりリアルなものを生成する力があるんだゲームには!とかアニメには!とかっていう返しで「大人になれ」とかっていう連中とかを吹き飛ばすみたいなさ、そういうアツさがスクリーンを超えて個々に「さぁ君の心はどうなんだい?何か燃えるようなものがあるかい?そういうのを「大人になれ」とか言われて心の炎を消してはいないかい?」みたいな問いかけになってたりするといいなってあのシーンに出くわすと多分期待する人はそう期待するはずなんだよね。

 

そしたらそういう抽象性とか思想自体が一体どこに存在するのか?っていうような、思想や生き様や生き方とは何なのか?と問うようなものが全くない、凄くベタな興ざめするような以外でもなんでもないどんな架空世界でも可能な無駄なメタ目線を持ってきちゃうっていうね、エヴァのファーストシーズンの最後の酷さと似てるよね(笑)

 

抽象性が高いと思わせておいて小手先だけだったとかだったら「期待し過ぎたか」で終わるんだけど映画全体に泥を塗るようなことをしてることに気がついてないようなやつが国民的RPGの映画を作ってたのか・・・っていう落胆よね。見る側は好きで見るから作る側のドラクエ好きとかリスペクトみたいなのが垣間見えたらそれだけで嬉しくなるんだけどそういうのを全く感じないっていうところに落胆があるんだよね。だからあんな余計なことしちゃうんだなっていう、だったら愛が見えなくても別に作品自体はあれでいいんだから最後の余計なのいらないよねっていうそれでいいのにあんなの足しちゃったもんだから最悪よねってことなんだよね。

 

メタ系なら色々テンプレあるわけだしあれだったらとりあえずマトリックスのネオとアーキテクトの会話みたいにしておけばいいわけで

 

www.youtube.com

 

まぁマトリックスの場合、革命思想とかメシア思想とかが入っててまぁネオってジーザスみたいなもんじゃん?現実も虚構もどちらもアンリアルだけどジーザスだけはリアルであるっていう真言よね。光がありロゴスがあったという事実よね。っつーかメタ視点を出す場合、この革命路線ぐらいしかありえないわけでメタに対してはアノマリー=ジーザス的な革命家っていう構図しかむしろありえない気がするんだよね。旧約聖書の怒れる神に「ファックユー!」というジーザスみたいな痛快な図とかね。

 

でもこれってメタ系ではベタよね。でもナデシコとかだとこれがもう事実として受け止められていて国家のイデオロギーにすらなっているっていうところが特に説明もされずにデフォの設定になってるっていう奥深さがあるわけじゃん?我々の現実はそうじゃないかもしれないけどでもまぁスクリーン上で言われる「現実上」ではドラクエが国民的RPGである理由はみんなそれぞれが勇者だからなんだ!みたいなね、みんな虚構におけるアノマリーになれる潜在性を持っているんだ!っていうロマンをぶち込めるよね。

 

もしくはそれを既成事実化して国民に投げて是非を問うみたいなことでもいいじゃん?「お前ヘタレじゃないよな?」的なマッチョな問いになるし左翼とかは愛国映画だ!とかって言うかもしれないけど構造的に革命そのものだから右も左も包摂してるっていうかね、まぁある種の普遍性ですよね。

 

愛国映画にしたくなければ別に特に劇中でドラクエが日本のゲームみたいなことを表さなくていいだけでユアストーリーがどうだったか忘れたけど「全ては虚構だ」的な言い方に対して「だからどうなんだ?それだったら俺はその虚構のアノマリーになってやる!」みたいなね、ネグリの野生のアノマリーじゃないけどむしろポストモダンじゃないとありえない思想とか構造よね。まぁそれを述べる土台って映画内でも現実でも出来上がってるわけで逆に「なぜそうしない?」って思っちゃうわけだよね。

 

それやらないぐらいなら変なメタ構造出すなって話ですよ。ドラクエを侮辱してまで出すものですか?ってことだよね。せめて泥を塗らないような方法はいくらでもあっただろうにっていうね、監督が相当痛い地雷監督らしいんだけどその監督のせいなのか分からないけど全くナラティヴのセンスがないねっていうないどころかマイナスなのがヤバいんだよね。

 

作ったやつの目線と観客の目線が全くあってないってのは最悪ですよ。作った人の目線がさらに上を行くものだったりすると「おお!」ってなったりするんだけど全くズレてたらどうにもならないよね。そもそも見るのはドラクエ好きが大半なわけでどういう目線の客が見るのか?なんて予想は簡単にできるだろうにね。まぁその辺の感覚のズレが作り手の致命的なセンスの無さなのかもしれないよね。

 

まぁそんな感じでドラクエの話が長くなったけど今日はこの辺で。