ほどほどに孤独。その11。

最近はMOBAにも飽きて来てんで一気に知識欲が爆発してるから買いまくって全く読んでなかった神学の本とかあとまぁ同じ聖典系としてウパニシャッドやらインド哲学の本とかをちょっと読みつつ基本読書の生活が続いてるんだけどまぁ楽だね。

 

まぁこれが本来の俺の生活だから一番合ってるんだろうなと改めて思ったわ。何より読む本が膨大にあるから全く進んでる気がしなくて読書が最優先になるんで他のことを全くしなくなるってのがまたいいんだよね。まぁ読書もアクセル踏むまでが大変なんだけど一回エンジンかかるとオッケーだからね。

 

ただ昔みたいに丸一日読む!とかってやってると頭が疲れすぎて急に鬱っぽくなったりするんで「また明日続き読むか」みたいな感じで一気にやるっつーより継続するっつーことにフォーカスしてるね。まぁそれが一番効率いいからね。

 

んでまぁあれなんだ、まぁメモ程度に書いておきたかったんだけどブルトマンなんだけどさ、ハイデガーの実存哲学をそのまま神学に応用したなんて単純なもんじゃないんだけどまだまぁ全然読んでないからなんとも言えないんだけどちょっと啓示について読んだ感じで言うとまぁこれも非神話化の一環なんだけどつまりは実存的に理解するってのはどういうことなのか?っていうことでもあるんだけどね。

 

それをブルトマンは友情で例えてるんだけどもっと分かりやすく言えばセックスとか愛だわ。まぁ俺も過去のトラウマ(笑)なんかから防衛的になってセックスなんて性器の擦り合いだとか愛なんてのは幻想だってのもまぁあれだよね、ようはよくあるじゃん?詩とか音楽とか表現とかっていう人間臭いものでも解析してパラメーター化すれば客観的な理解ができる的なね、どういうものが人の心に響いて逆にもしくは響かないか?というのが工学的に分かる的な馬鹿げた発想ね。

 

もっともらしいんだけどまさにこの誤謬が表現とか愛とかセックスの本質を理解してないからそんな風に分析的に考えるというのが客観的な理解だとかって思っててもんじゃあ恐らくそいつは愛とか何らかの表現とかで文字通り雷に打たれたような経験をしたことがないんだなっていう本人の経験の浅さとかもっと言えば人格の薄っぺらさが明らかになるんだけど、それと同じで神学にしても客観的な神学っていうことで言うと所謂それを研究し尽くしてどういう現象なのか?とかどういうモノなのか?ってのを例えば愛だったら脳がこう反応してなんたら体が反応してどうのっていう分析的というか工学的というか医学的というかまぁそういうオブジェクティヴなメカニズムとしては記述したり理解はできるけどそれを理解したところで愛そのものが分かるわけではないじゃん?

 

んでまぁ端的に言えばブルトマンは啓示も同じことだって言うんだよね。神学とか聖書とかの内容を記述したり分析できたりしてもまぁここからはだいぶ俺の考えも入っちゃうけど(笑)まぁようは雷に打たれたような経験なり体験をしたものにしか啓示は分からないっていうことになるんだよね。

 

んじゃあなんでそれが実存的なのか?っていうとまぁカルトとかも一緒だけど深い悲しみの中で何かの一節を読んだとかカルトだったらフラッと勧誘されて変な宗教に入っちゃったっていうのと一緒で体験なんだよね。

 

だから逆に言えばなんでそれが聖書なのか?っていう必然性は無いってことなんだよね。まぁ俺は雷に打たれたような経験を哲学書では何回もしてるけど宗教的なものではせいぜい仏教ぐらいでキリスト教に関してはそんな体験は無かったけどまぁそういう体験があったんだよね。

 

でもそれは科学的に記述できるようなものではなくてっていうのがつまりは愛の現象とは何なのか?という記述はできてもそれ自体を経験するなり体験して分かったことっていうのはあくまで主観的じゃん?それがたまたま聖書なりキリスト教なり色んな偶然が重なった上で必然を感じるような何かに導かれたとかっていう下手するとオカルトスレスレなんだけど(笑)ただまぁ人によっては家がそうだったからとか特に傾倒はしてなかったけど奥さんの家庭がそうだったからっていう理由で入信したとかってのもあると思うんだけどだからそういう意味で入信=啓示ではないんだよねってまぁそれは当然なんだけどね。

 

宗教的な契機がどこにあるか?っていう普遍性なんてのは問えないんだけどただまぁ啓示に関してはむしろ実存でしかありえないだろうってことになるんだよね。まぁでも一般的にはそれがありがたいとされているとか今みたいな文明化したような社会ではなくてもっとプリミティヴに魔術とか奇跡とかが当然のことのように信じられていた時代はそれがデフォだったかもしれないけど現代における啓示ってのは実存的なもの以外ありえないだろうっていうのがつまりは実存的な神学ってことにもなるよねって話なんだよね。

 

仏教にしたってあとから尾ひれがついてブッダは悟りを得たから神通力を得ていたのでなんとかっつー山に座りながら飛んで行ったとか(笑)現代でそんな神話を実話として受け取るなんてことはないだろうっていうかまぁそれを信じる人もいるんだけどそういう知的退行みたいなのを「信仰」とかって呼んだりするから宗教に傾倒するやつは頭が弱いんじゃないか?っていうイメージとか偏見を抱かれる原因でもあると思うんだけどまぁそれは多分にあるにせよ(笑)ある程度まともな頭だったら旧約聖書の内容を史実だなんてまず思わないし旧約の本も色々読んでるけどまぁすんげー雑な旧約が成立する以前のイスラエルとかのもっと昔の土着信仰とかプリミティヴな呪術のようなものが入り混じったものなんだなっていうのが分かったりなんかしてまぁこれも成立っていう意味だと面白いんだけどまぁあんな荒唐無稽なものを神が書いたものと信じるなんてのはアホ以外ありえないしそれを「信仰」としてしまうと信仰するということが知的退行を意味しちゃうことになるよね。

 

でもなぜか教会だのなんだのっていう入信するためにはこれを守ってくださいみたいなイエスがぶっ壊したいと思っていたようなファリサイ的律法ってのが事後的に作られちゃってぶっ飛んだ話も全部信じてそれは神の言葉だっていう風に信じるのが教義ですとかって言われるからマルクスに宗教はアヘンだと言われたりニーチェが俗化したキリスト教を批判したりすることになるんだけど仏教にしてもキリスト教にしても日本の神話とかにしたって文字通り全部真実だなんて思うっつーのは無理があるよね。あ、その特に超自然的でなおかつ史実的な根拠が全くないものについてはね。

 

でもそこでんじゃあなんで日本人は宗教とかは信じないんだけどデフォで割と神道チックなものにはアレルギー反応が無くて初詣に行ったり神社に行ったりするのか?ってのはつまりはこれも実存よね。まぁこれは民族的な実存というかそういう環境に育っててそういった神道的な神に関しては他の宗教と違ってもっと身近で特に神とかを信じる信じないではなくなんとなくお参りをしてしまうっていうような自然なものがあるわけじゃん?

 

これは決して啓示ではないし神道に帰依するぞ!なんつーストリクトなコミットとかがあるわけじゃないんだけど結局まぁ本人が決めてることだからね。まぁ最初に書いたブルトマンが言うような啓示とはだいぶ違うんだけどその神道が身近にある感覚というのは神道の由来とか細かいことは全く分からなくてもなんとなくお参りに行ってしまうというのが実際のところのリアルな信仰であるっていうところで言うとブルトマンが言う啓示と凄く似てると思わない?

 

神道研究をしていてめっちゃ詳しくて帰依してるとかじゃなくてむしろあんま知らないけど神社的なものは当たり前にあるから当たり前にお参りするっていうのがまさに土着的な信仰だよね。まぁ肌の感覚みたいな感じの信仰よね。でもそれは日本神話を完全に無謬な史実として認めるみたいな強制力とか認識がある上での信仰じゃないじゃん?

 

なんとなく感じるヴァイブスとかみんなパワースポットだって言ってるからっていうようなことだったり(笑)まぁ実際に神社って文字通り神々しいからなんとなく神様がいるような気がするっていうようなことだったりするわけだよね。

 

でもそれと日本神話を無謬とするってのは全く関係ないんだよね。でもまぁキリスト教の場合、日本神話的な完全なるどっからどう見ても誰もが事実だとは思わないような神話を歴史的事実として認めるということが「信仰」になってるから特に西洋チックな信仰は日本の肌で感じる仏教とか神道なんかと比べて異様な感じがするんだけどブルトマン的な実存の感覚で言うとあくまで実存レベルでの信仰だから無謬説だ教会がどういってるだ何かに所属してるだとかってのを関係なく信仰はできるしむしろ現代だったらそういう信仰しかありえなくない?っていうことなんだよね。

 

まぁ別にそこは自由だからぶっ飛んだ奇跡の話とかキリストが生き返ったとかって話を信じるのは勝手なんだけどなんかそういう古めかしい何千年前とか紀元前のおとぎ話をナイーヴに信じるとかってのもう辞めない?って話なんだよね(笑)

 

じゃあキリスト教からそういうぶっ飛んだ神話チックな部分を取り除いたら何も残らないか?っていうとそんなことはないよね。それはお経然りだわ。シンボリズム的な意味として火がこういったとか風がこういったみたいな話はあるけど実際に火が話すということはないわけで(笑)それはシンボリズムとして理解するしかないよね。あとまぁ逆にっつーと変だけどなんで火がいったとされているのか?という深い意味を考えたほうが理解が深まるわけで実際に火がいうかどうか?なんてのを検証しても全く意味がないか不毛ってことだよね。

 

まぁそれと同じことが史的イエスの研究の限界にあったわけでそれがあってのブルトマンの流れだよねっつってもブルトマンの系譜としてもっと前にもそういう流れはあったわけなんだけどもまぁそれは勉強中だからあんま中途半端な知識では書かないことにするわ。

 

ってことで続きますんでんじゃまた。