ウォール伝、ディープWebアンダーグラウンド。

わたしがウォール伝を書くのは地上に平和をもたらすためだ、 と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために書いているのだ。

ほどほどに孤独。その15。

完全な夜型になってるんだけど明らかに体調良いんだよね(笑)スピっぽくなるけど日中って電車やら電話やら人やらってのがガヤガヤしてるからそういうガヤガヤした磁場になるらしんだけど夜中ってのは基本的に少なくとも日中に比べればガヤガヤしてないんで結果的に磁場が変わるらしいんだけど感じやすい人ほどそういうのに敏感だからそれを考えると深夜の方が調子が良いというより日中は色んな影響があって調子が出にくいって考えたほうがいいのかもね。

 

まぁそういう話とは別に遺伝で朝方夜型って決まるらしいんだけど夜型の難点は日中の用事がこなせなくなることだよね(笑)っつっても今はコロナだし外でないのが正義になってるから気が楽と言えば楽なんだけども。丑三つ時ってのが霊が活動しやすくなるってのもそういうことなのかもね。磁場云々の干渉が無いから存在を出しやすくなるっていうかさ、西洋だと3時ぐらいらしいけど時間帯が似てるのが面白いよね。

 

ただそういうのってスピも含めて不可知論として判断は別としてそうも考えられなくもないっていう仮説として立てておけば無理やり治すっつーより自分はそういうもんだからそういうもんだと思ってではどう生活していこうか?って考えたほうが建設的だよね。日中は日内変動もあってダルいんだって思ってたけど今日はなんと夜中の12時頃に起きたんだけど起きてからダルくないんだよね(笑)なぜだ!

 

あ、んで今日はあれなんだ、こないだ書いた実存的啓示の話なんだけど実存的なものがある種の蓋然性とかランダム性とかってのに左右されるのに対して全く霊的とか宗教的なものを別として如実に実存的なものに訴えかけてくるものは何か?って考えたわけじゃないんだけど思いついたのが陳腐な歌謡曲なんだよね。「君だけを愛している。君に会えない日は生きている気がしない。また会える日まで俺は君を待ち続ける」みたいな(笑)自分で今書いてても赤面しそうになるぐらいの噴飯ものの歌詞が大衆の共感を得るのはっていうか今時そんな陳腐なJ-POP無いだろうけどでもまぁさ、こないだ今作ってるやつの素材を色々と探しててフィジカルで久々に見に行こうと思って病院の帰りにタワレコ行ったんだけど唖然としたんだよね。

 

嵐と思われる曲がずいぶんとデカい音でかかっててまずフロアが自分が行ってた頃の4分の1ぐらいになってて入口には大量の嵐のCDとK-POPのコーナーで埋め尽くされててジャズとかクラシックとかはお土産屋のお菓子セクションぐらいの量しかないっていうね(笑)客もJCかJKがガキしかいないっていうまぁあの環境だったら普通の人はいかないよね。

 

まぁああいう衆愚的なものとかさ、メガチャーチみたいな知的水準のものってようは最大公約数的なものだよねってまぁ数学的に間違えてる言い方だと思うんだけどまぁ共感できる類似点が多いってところでしょ。その凄く陳腐な意味でね。安っぽいメロドラマとか一切の分析や思考を必要としないものとか単純な暴力モノとかも人気があるのは共感とかカタルシスが得やすいからだよね。

 

実存に訴えかけるというと大げさだけど比喩的な意味での最大公約数ってまぁつまりはそういうことでしょ。ただこないだ書いた実存的啓示というのはその人固有のものであって他人との類似性が一切ないとは言わないけど固有のものっていうことなんだよね。一回性の出会いとか物事の巡りあわせとか偶然っつーことだよね。

 

自分の場合、道理で言えば哲学の先に宗教があったって言えなくもないけどここまでコミットするのはやっぱり啓示的なものがあったからなんだよね。ただまぁいつも明かさないようにそれはすんげーパーソナルで書いたら「は?」って感じなことになるんで書かないんだけどまぁ意味論ですよね。

 

まぁいいや。その啓示云々はここまでであとあれなんだよな、書きたかったことを思い出したんだけど唐突だけどModulationっつーテクノ好きだったらオナニーに目覚めた中学生の裏筋の如く擦り切れるまで見たと思われる映画あるじゃん?90年代のまだ未来がある良い音楽の黄金期を象徴するような作品なんだけどあ、んで話逸れるけどあれってまぁ90年代後半じゃん?

 

でもあの辺がピークってのが色んなジャンルで共通してるから面白いよね。ディスっぽくなるけどテイトウワなんかもフューチャーリスニングで凄まじい才能を発揮して音楽史に残るサウンドミュージアムをリリースしてラストセンチュリーでまぁ収まったみたいなね(笑)まりんにしてもクロスオーバーからTake offからLove Beatに至るまで90年代中盤から2000年代前半までだもんね。

 

まぁそりゃおっさんの好みの実存だろって言われればそれまでなんだけどあの時代のやつって今聞いても良いどころか全く古くならないし20年前の音!!って思うと唖然とするよね。いつも書くと2000年で20年前の音っつったら初期YMOとかニューウェイヴですよ!90年で考えたら70年代だからレアグルーヴよね(笑)

 

あ、んで話し戻すとその中でまだ子供みたいなっていうか元々童顔で今もあんま変わらないけどQ-Bertがレコードってのは音のアーカイヴだからそれがレコードという媒体である以上、なんでもタンテに乗せて再構築できるみたいなことを言ってたんだけどCDJでなんでも焼けばレコードという媒体じゃなくてもなんでも再構築できるようになったばかりかっていうか後にって意味だけどんで今は実質なんでも再構築可能なんだけどそれを邪魔してるのが古い著作権っていう概念だよね。

 

今は合法非合法関係なくほぼドマイナーな音でもない限りなんかしらの方法で聴けるから実質それは録音可能で再構築可能な音のリソースだよね。音が樽に入った液体みたいなイメージだよね。昔はそれが固形のものだったけど今は実質無限だから液体みたいになってる。

 

それをサウンドソースだと考えれば別に自分で打ち込まなくても俺がやってるようなそのままビート持ってきちゃうとかさ、ループを切り貼りするとかもっと言っちゃえばトラック自体持ってきちゃってもいいぐらいなんだよね。もちろん著作権的に問題はあるんだけどでもこのアーカイヴ時代に著作権って何なのよ?って話だよね。

 

言わば音というのが全部音ネタなんだよね。著作権フリーのループ音源です!なんつーのはユダヤ教のカシュルートみたいなもんで観念的にはフリー音源だけど実質的にそれはマテリアルとして考えればどちらも豚肉ですよねって意味で別に豚肉だったらなんでも使えばいいって話なんだよね。

 

何よりこれが良いのは俺みたいの全く作曲能力が無くてもDJ的発想っつーかミックス的発想であれとあれとあれ繋げばいいんじゃね?的な感じで曲が作れるから作曲の敷居がすんげー下がることなんだよね。まぁそんなのMPC時代からそうっていうかヒップホップがそうだったじゃん!って話なんだけど別にヒップホップに限らずなんでも素材にしちゃえばいいんだよね。

 

んでこの著作権っつーしつこい古いイデオロギーが自己生成したものじゃないとダメ!みたいな思い込みを強いるんだよね。いつも書くようにサンプリングしまくるやつよりある意味サンプリングしまくってるのが自称作曲しましたっつってる色んなところからパクってる所謂メロディとか譜面が書ける作曲家達だよね。

 

いつも書くけどすぎやまこういちなんてクラシックマニアのコラージュ音楽だし(笑)あれで先生とか言われるなら俺も先生だわっていうね、ようは音楽が飽和化してるからこそなんでも使っちゃって良くて飽和化して同じことの繰り返しをやるよりも大胆に素材を使いまくってまた再生成したほうが面白いわけで素材は使うべきなんだよね。

 

俺は一見恐れ多いような現代音楽とかおいしい素材集にしか見えないんで使いまくってるけど(笑)それをそのまま出す!とかね、そういう暴挙以外のことをしなければ素材として使ったぐらいでガタガタ抜かすなよってことなんだよね。音というのはドメインなんであってドメスティックなものではなくてパブリックなものなんだよね。まぁクリエイティヴコモンズの思想とまるっきり同じだけど例えば俺みたいなやつが現代音楽の断片なり丸々一曲使って再構成して音を足して自分の曲としてアップロードしたところで色んなところからもらってる作曲家先生たちとやってることは同じだし言わば二次創作だよね。

 

あとまぁエディットっつーのももはや作曲でいいと思うんだよね。この曲かっこいいんだけど無駄にサビが長いからノリが良いところを長くしてビートを差し替えようっつったらもうそれはそのエディターの音楽でいいわけなんだよね。まぁこれって歴史は長いんだけどね。ポップスをディスコミックスにするっていうエディットってのは80年代からあるんである種伝統的な方法なんだけどそういうものを一見やりやすそうなポップスとかハウスとかテクノだけでやるんじゃなくてなんかやっちゃいけなさそうな権威的な音楽とかでもガンガンやればいいんだよね。まぁコーランとか使ったりいじっちゃいけないものは別として(笑)

 

でもこれって何気に思想的に現代音楽的でメシアンが鳥の声を採譜してピアノ曲だかにしたように逆もありなんだよね。なんかの既成曲を別な音源で鳴らしたらもうそれはアレンジなわけですよ。そもそもその音色の選定という意味でコンポジションの要素が入ってるからね。そういう意味でコンポジションというのは布置とか構造に限らず音色選定とか構造の変更とか脱構築とかもコンポジションなんだよね。

 

まぁ言葉通りコンポジションってのは構図の組み立てなんで手が入ればそれはアレンジだしリミックスだしエディットなんであって立派なコンポジションだったりリコンポジションだったりするわけだよね。いや、改めて今神学とかそれに関する哲学を読んでたりすると脱構築に繋がるようなハイデガーに限らず解釈学とか脱構築って昔から行われてきてたんだよね。

 

言わばその思想の原型みたいなのがギリシャ的なものなのかユダヤ的なものなのかギリシャ的なものを経由したキリスト教的なものなのか?っていうところだけでブランチは大体一緒だからホワイトヘッドなんかはプラトン以降の哲学は全部プラトンの脚注だっつーのお頷けるし、あとヨーロッパ史とかを読んでて全く哲学とかが栄えなかった中世の黄金期に十字軍とかがイスラム圏に侵略して色んな物資とかを強奪した中にアリストテレス哲学があったり当時のイスラム圏では広く知られてた科学とか建築学の知識とかがあったりして強奪した側は一気にそれを吸収して社会の構築に役立てたっつーのも今みたいに知識とかがなんでもネットとか電子的なもので手に入る時代とは違って物理的に書かれたものとかを参照せざるを得なかったとかってのもアレなんだけど当時にしてもアリストテレス哲学なんて何千年も前のものなのにそれをレアグルーヴ的に発見して思想が栄えたっつーのも凄いことだよね。

 

まぁようは何が言いたいのか?っていうと先人の偉大なリソースは使うべし!ってことなんだよね。アルファラビーとかマイモニデスなんかもアリストテレスっつーギリシャのリソースがあったからイスラム教的思想とかユダヤ思想とかにアプライしたりなんかして言わばリミックスとかエディットだよね。なんらかの素材とか雛形があってのエディットなりリミックスなんであって偉大な人はゼロから作るっつっても何らかの知的ヘリテージがあってのものじゃん?

 

そういう意味で哲学なんて無から生まれたものは無いわけでさ、プラトンのソクラテスが元祖だとは言われるけどソクラテス以前の哲学者っていたわけだしその以前の哲学者も何らかのオリジンとかきっかけになるようなものがあってそれを発展させたり自分の考えなんかも入れてリミックスしてきたわけでしょ。

 

だから思想とか宗教哲学ってエディットとリミックスの歴史なんだよね。で、それがポストモダン的により方法論的にラディカルになったのがフッサール以降の意識的な解釈学とか方法論としての脱構築とか実存的解釈とかだよね。

 

まぁ近代思想の特徴と言えばこれに尽きるよね。だからまぁハイデガーの影響ってヤバいよねやっぱ。それで言うとその近代思想の元となったキルケゴールとかニーチェとかも本当にヤバいんだけど基本的にオリジネーターってあんまりいないよね。やっぱり規制のものに独特なアレンジを加えた連中ってのが圧倒的に多いよね。あんま詳しくないけどヘーゲルなんかもそうだしね。

 

哲学史的に言うと中世って暗黒期でアキナスから一気にデカルトまで飛ぶ感じになるけど通底してるものはギリシャ的なものであったりキリスト教も含む宗教哲学的なものだよね。で、西洋哲学がデフォになりがちだけど東洋哲学も独自の発展を遂げていてショーペンハウエルとかニーチェとかハイデガーが影響を受けるぐらい独特のもんだったわけで文化のミクスチャーだよね。この感覚がさっき書いた固形のある種ドグマティックな思想なりレコードになっているものしかアーカイヴとして利用できないっつーところからなんでも録音できるものは再構築可能になったように元々思想はドグマに偏ったり固執しない限り元々が抽象的なものだから液体的な感じがあるんだよね。

 

だから柔軟性があって色んなものと混ざりやすいわけだ。もちろん混ぜる人のセンスとか知的能力とかも大いに関係するんだけど偉大とされる思想家に共通してるのは卓越した知性は言うまでもないけどそれとミクスチャー的センスだよね。学んだ思想なり宗教を自家薬籠中の物としつつその頃の時代精神とか思想の流れとか自分自身が養ってきた思想自体とかってのをアウトプットする技術にまた長けていたからこそそれが後世にも読まれたり語られるものになったっていうね、まぁだから思想って死なないんだよね。

 

人間はたかが100年も経たないうちに死ぬのに原型とされるギリシャ哲学とか宗教思想ってのは何千年も続いてて今も生きてるってのが凄いよね。もちろんそれは必ずしも取り込まれたりされているわけではないんだけどそれは弁証法的に止揚されたりコントラストとして常に比較されたり何らかの対象として生き残ってたりっていう、まぁ弁証法なんて言うと大げさだけどそれこそプリミティヴな弁証法はざっくり言っちゃえばソクラテスの対話がそのものなわけでさ、ヘーゲルはそれを例えばフッサールの現象論とかデリダの脱構築みたいに明確な方法論として提示した感はあるけど方法論的じゃないにしても元々あるやり方なんだよね。音楽におけるグルーヴ感みたいなもんだわ。

 

それが通底している以上、グルーヴは続くっていうまぁつまりは思想は死なないってことだよね。だからこそそれはどんな兵器より危険なものにもなり得るってことなんだよね。そこでの明確なディレクションを与えるのがイデア的なものであったりプラトン的な善であったりGood=God的なギリシャ的発想の神の概念だよね。それこそが相対主義に取り込まれない常に侵犯されない脱領域化された次元の善でそれが実存的な契機により個人の中でローカル化されるんだよね。それがつまりは神と自分との関係っていう唯一性だよね。だからこそに神義論とか神の存在云々っつー話は出てこないんだよね。ある意味神学論争は関係ないっつー次元の話だよね。別にだからといって神義論とか神の存在云々の神学論争が意味ないとは言わないんだけどね。

 

まぁそんな感じで今日はこの辺でいいかな。

 

ってことでんじゃまた。