祈るとか瞑想とか。その3。

学問が神秘主義とかの領域に踏み出さないっつーのはオカルトでトンデモ扱いされるのがアレなんでってことなんだろうけど明らかなオカルトはともかく分からない世界についてはどうなんだろうな?って思うよね。

 

まぁ神秘主義とは違うにしてもニールス・ボーアが量子物理学と東洋哲学に類似性を感じて東洋哲学を研究してたとかシュレーディンガーなんかも生物と量子みたいなことを考えてたりっていうニューエイジとかで安直に科学とスピリチュアリズムを融合させるようなのはもってのほかなんだけど、もっと科学的に非科学か科学では分からない領域を思考できないものか?って思うんだよね。

 

神秘主義っつーか人間の認知は限界があるのは当然だし、科学で分かってないこともいっぱいあるっつーか科学主義と言えるのは科学がほぼ完全になってからの話で全然まだまだじゃん?で、この時点での科学主義ってただのイデオロギーだよね。科学で扱えないものとか反証できないものは扱わないっつーのは思考停止なんだと思うんだよね。

 

不思議なのは人文系が科学でも何でもない社会学とか心理学とかを引き合いに出して真剣に精神についてとか表象についてとか語るくせに神秘的なものになると一気に距離を置くっつーところだよね。あとユングのオカルトっぽい部分からも距離を置くとかね。

 

それ言い出すとフロイトとかも十分オカルトだと思うし(笑)思想としてならいいんだけど科学扱いしてるのを見ると笑えるよね。あとまぁドゥルーズとかラカンとかニーチェっつー別に科学でもなんでもない思想を根拠にあくまでそれを科学のように扱うっていうさ、それってアカデミックのルールなだけであって思考としては相当異常だよね。

 

神秘主義とか初期キリスト教の神秘主義のルーツみたいなやつとかを読んでるとまぁそれに慣れてくるからたまに近代の哲学的議論がなされてるようなのを読むと異常なまでの科学への執着というかファインマンとかが社会学をディスってたような、科学性を持てないから科学にルサンチマンを抱いてるみたいな、そんなのを感じるよね。

 

哲学って放言だからね。立証なんてできないわけだからっつってもファイヤアーベントみたいに極端にはならないにしてもさ、まぁ例えば占星術みたいなレベルと哲学って立証不可にしてもレベルが違うわけで(笑)あとまぁ神学とかにしてもやっぱ嫌になるのが文献学的な実はこんなことを誰々が書いていた!みたいなね、そういうのは本当にどうでも良くなってるから読まないようにしてるんだけど、そういう意味で宗教は哲学と違って実践が即、思想を行うことになるからいいよなって思うんだよね。

 

哲学は言葉遊びになりがちで「だからなんなのよ?」ってことになるのと、あとまぁいつも書くように認識論とかは科学に置き換わってるのが多いから哲学の場所が無いとかね、あとまぁ政治とかも政治哲学以前のレベルにまで劣化してるからアクチュアリティが無いとかね、だとするとやっぱ評論なのか哲学なのか分からないようなのってもうオワコンで実践の時代よね。色んな意味で。

 

まぁ文字の世界の学問はやってればいいんだけど言葉の乱用みたいになるけど身体性とか体現性が無い思想ってのはどうなのかな?って思うんだよね。その思想がそいつの行動の原理になってるとか絶対揺らがない信念みたいになってたら凄いと思うんだけど、やっぱそれの究極系って宗教だよね。

 

だからなんか俺も決めなきゃいけないっつーとアレだけど神学者っつーか神学を志す人間として、まぁようはキリスト者として生きるってことを決めたんだったらその辺を曖昧にできないなって思ったんだよね。

 

別にアピらなくてもいいんだけど(笑)常にキリスト者足りえているのか?とか完璧は無理だとしても前に進めているのか?ってのを自問してないと神学やってる意味無くなっちゃって一番恐れるただの読書好きおじさんになっちゃうからね。

 

で、太極拳やってて思うけど概念とかを身体性として出力するってすんげー難しいことなんだよね。「もっと腰を上げて」とかっていう卑近なレベルではない抽象的なレベルでの意識と身体を繋ぐってのは繋ぐ練習をしてないと動かないから、それは思想然りだと思うんだよね。

 

具体的な行動とか何かをする際の軸になってるのか?っていうところだよね。まぁプリンシパルだよね。白洲次郎で言えばプリンシプルだね。そういう血肉化してないものか血肉化しようがないただの言葉遊びに本当に興味が無くなったなって思うんだよね。

 

だから一瞬一瞬の精神状態が凄く重要になってくるわけよ。んでまぁイライラするような場面でも不動心を持ててるのか?っていうね、まぁこの辺の感受性ってまぁHyper Sensitiveだからってのもあるし、そういう過敏が故に悩まされてきたから生きるために鍛えざるを得なかったっつー自分なりのコンテキストがあるよね。

 

そこでまぁ大げさなことをしなくても日々キリスト者であるということは自覚とコミットメントなわけで一瞬でも気が抜けないんだけど、かといってもそれが疲れるということではなく律するという意味でのプリンシパルになるんだよね。だから結果的に心は落ち着くということになる。

 

心がザワついててノイジーなのが一番嫌だからね。だからまぁそこで思うのは瞑想とか祈りってのをただの心を休める脳科学的に立証された有効な手段とかっていう即物的な世界観で居たくないってのがあるよね。虚が実になるってのも結局は信仰心ありきだと思うしね。

 

今はバリバリの虚状態だけど(笑)信仰心とコミットと日々実践するということでそれは実になっていくよね。善行ってのは何もボランティア活動とか人助けに限らないわけで自分を救う善ってのが無いと他人は救えないよね。まぁ他人を救うなんて烏滸がましいけど善ってようはマインドだよね。

 

そのマインドがあると何かがあるとその善が行いとして顕在化するっつーことだよね。だから普段からそれを磨いてないと咄嗟の時に出ないわけでしょ。それだといつまでも凡夫のままだからね。

 

だからまぁ自分なりの信仰心ってのはキリストには帰依してるけどドグマとか神みたいなもんじゃなくて善なんだよね。善への信仰心だよね。そういう意味でまぁプラトニズム的で昔からあんま変わってないってことなんだけどまぁ色々とアップデートされてるってことだよね。

 

キリスト教的善なんつーと万人にニコニコして接するみたいな不気味な感じがあるけど(笑)そりゃ人を選ばないと自滅するからね。クズみたいなやつと真摯に接する必要はないし善の共有なり受け皿が無いようなところを善で満たそうとしてもそれは全く意味が無いからね。

 

あとまぁ特に砂漠の師父とかって呼ばれるような初期キリスト教の教父なんかの教えとかを読んでると極めて禅っぽいんだよね。人がどうのっつーより精神性を高めるという内面に凄く重きを置いてる感じがするんだよね。だから観想が中心の生活になるんだなって思うわけね。

 

まぁでもこんな現実だからこそそこに宗教が絡んでようが絡んでいまいが関係なく瞑想は大事だなって思うよね。精神性を高めるというのは本当に大変だと思うんだよね。ただそれが高まっちゃうとそれより最強なものは無い気がするんだよね。まぁ覚者まではいかないけど色んなものに惑わされないわけだからね。

 

まぁそんな感じで今日はこの辺で。