オカルト話、今日は言語編だ!。

オカルト話、今日は言語編だ!

 

ってことでまぁオカルトかどうかはともかくとして常識的な言語とか分析哲学とかに見られるような言語の概念とは違った言語について書きたいと思うんだけど、まずいきなりディスから始まると(笑)分析哲学とか嫌いじゃないですか?俺。

 

なんでか?って色々理由があるんだけどちょっと理系寄りの文系が考えそうな浅さがあるからなんだよね。あとまぁラッセルとかも薄っぺらくて大嫌いなんだけど、言語学とかを厳密にやったことがあるわけじゃないから何とも言えないっつっちゃーそれまでなんだけど、言語を命題として扱うとかさ、記号として扱うとかってまぁそういう方法論でやるっていうならいいんだけどそれが言語分析になるのか?っていうとならないよね。

 

理由は簡単で言語ってそんなに簡単なもんじゃないからね。概念エラーとかしっちゃかめっちゃかみたいになるのを覚悟して実験的に色々と書くと言語っつってもそれを取り出せば言語かもしれないけどぶっちゃけ人によって違うよね。犬という概念と人が考える犬という概念は似てるようで全く別物だよね。

 

何しろ人間は概念だけ考えるっていうことを特に具体的なものに関してはできないでしょ。犬っつったときに愛犬家なら「うちの可愛い子」とかが浮かぶかもしれないし、犬嫌いで昔に噛まれたトラウマがある人は「嫌な動物」っていう連想をするかもしれないしっていうか連想じゃないんだよね。それはもうコギト的なその場でセットになって不可分になってしまう概念として想起されちゃうんだよね。

 

もっと抽象的なものでも数字とかにしてもそうだよね。3って言われて3月は俺の誕生日だって思う人もいれば「トリオ」だとかトリオの芸人が浮かぶ人とかさ、分からん、まぁ色々あるじゃん?ってことだよね。3だけを考えてくださいって無理なんだよね。3とセットで必ずそこに連想とか「うーん」っていう浮かぶものはなんでしょう?っていうこと以前の直感的な想起ってのがあってそれは3という概念と不可分だからそれ自体がその人にとっての3のイメージになるんだよね。

 

でもなんで一般的に言語的コミュニケーションが可能になってるのか?っていうとそれは犬とか3っていう概念っつーよりコンテキストで「あそこに犬がいて」っつったときに「犬がいるんだな」って思えるからコミュニケーションが可能なんだけど実はそこにおいても「犬がいて」の「犬」は個人によって違うんだよね。

 

かといってもその指す「犬」が違うからといってコミュニケーションが成立しないわけじゃなくて微妙なズレが常にありつつもそれは近似として成立するってことなんだよね。言語を離散的な「犬」「椅子」「ナイフ」「タンテ」とかって考えるんじゃなくて意識の連続体として考えるんだよね。

 

で、その「犬」の概念のあたりを「犬」と言われればその人なりの犬が占める連続体の言語領域の中でその人なりに概念を浮かべるんだけど、それは近似でしかないんだよね。言った人と言われた人の犬は一緒じゃないんだけど差異が微妙な端数程度のものなんで大体通じるってことだよね。

 

ただその犬という概念もスタティックなものではなくて常に生成されたり塗りなおされたり意識の連続体に情報が入ってきてその概念が指されるときに意識状態によっても犬の概念に揺らぎが生じるんだよね。

 

だからよくあるのは「あの人とは会話が通じない」ってのは同じ言語を使っていても近似レベルではない誤差が生じすぎちゃって話がかみ合わないってことなんだよね。で、片方が論理的に「さっき言った僕の言うことはこうで・・・」って言ってもそれが伝わるかどうかも分からないわけだよね。それはその人が一方的に考える自分が言った「さっき僕の言ったこと」なわけで相手がそれで納得するかとか理解するか?ってのは別問題だからね。

 

IQが違い過ぎると会話が成立しないってのも似たようなもんだよね。音楽っつーとガチ勢の場合、それが商業音楽じゃなくて純粋芸術の音楽を指す場合でもパンピーが言う音楽は商業音楽だったりするから音楽が好きって言ったときに最近のヒット曲で好きなのってなんですか?みたいなどうしようもない会話になるんだよね。

 

あとはまぁ音楽=カラオケで歌うものとかね、まぁ明らかにレベルが低いけど相対的に考えるとそれもさっき書いた人によっての定義とか考えの違いなわけで明確な音楽の定義があってそれに沿っているというわけではないんだよね。

 

それは人間のファジーさとも言えるんだけど実は逆でもっと超絶カオスの世界なんだよね。だから分析哲学みたいに言葉を公理とかルールとして考えて・・・みたいな安直な取り出し方はできないか、それでやったとしてもその独特のそういう世界の分野でやっている独特の理論ってことになるよね。だから心に響かないんだよね。

 

それって脳が機械と一緒と同じ発想だと思うんだよね。まぁあれは相当くだらない議論だよね。SFの世界ならいいんだけどリアルにそう思ってるとめちゃめちゃ浅い考えだなって思っちゃうよね。そこがまぁ俺が言う「念」とかにも通じることだし、特定の言葉に宿るなんか謎なものとかってのも人間じゃないと感知できないものがあったりして、それは音の響きであったり身体であったり色々と環境をセッティングした上でその言葉を発すると特別な意味になるとかそう聞こえるとか、言語だけで完結しないっつーか言語自体が元来そういうもんだろうっていうことなんだよね。

 

でもそれは言語外の意味合いとかでしょっつっても言語外の意味合いが無い言語なんて実質存在しないわけだよね。言葉の強調とか言い方とか文章にすれば褒めているように見えるけどコンテキストで見ると皮肉になるとかってのもまぁ意味論じゃん?

 

クリプキのクワス算とかもくだらないのは完全に抽象してルール化してるからああいうくだらない話が出来ちゃうんだけどあれは屁理屈だよね。機械的に考えればそれも可能かもしれないけど言語と言ったときにそれは人間が扱うものとか内在されているものっていうことを想定するとあの話自体がナンセンスだよね。

 

何より加算というのは論理学とか基礎論的な記述が必要なんじゃなくてペットボトルが1つあって友達がもう一つペットボトルを持ってきました。さてそこにあるペットボトルの数はいくつでしょう?っていうプリミティヴなのが加算だよね。

 

それは数学というより自明の直感的なことなんであって数と具体的なペットボトルの数は対応しないっつってもそれは数学の場合はそうかもしれないけどそこを言語と結びつける場合、それはもう具体的なペットボトルの数なんですよね。

 

だからペットボトルの総数が何個以上になると加算ルールが変わるなんてことはありえないというのはなぜか?と基礎論的に問うというよりペットボトルの総数が何個以上になったところでそこにペットボトルを足していったらそれは数字と同じように数が増えていくっていうただの常識になるわけじゃん?

 

加算はルールであるというより卑近な人間が自然にやる数えるっつーことに繋がってるってことだよね。だからいくら分析哲学の連中が意味のない議論をしていてもまぁでも実世界ではそういうことは起きませんよねで終わっちゃうんだよね。抽象化した世界ならそれも成立するっていうルールとして考えればそうだけどペットボトルの数というのはルールじゃないからね。物質的な現前性だからね。

 

文系の連中の一時期の不完全性定理の乱用とかもまさにこういう概念エラーだよね。それが言語の限界だとか理性の限界だとかって勝手に繋げられたりするけど、あれはある命題が真であるということをその公理系の中で真であると証明できないっていう公理系の話なんであって人間が使う言語とは全く関係ないといって差し支えないと思うわけだよね。

 

だから別に言語って公理系で回ってるものでもないし私的言語とは違った意味で一人一人の人間が違うわけで同じ人間はいないってのと一緒で同じ言語感覚とか概念を共有している人なんて一人もいないぐらいに考えたほうがいいんだよね。これってめっちゃ複雑じゃん?個人の領域やらコンテキストやら場やら心理まで扱うのか!ってことになるけど実際そういうもんだからね。

 

青いものは青いと言えるのか?なんていうのも分析哲学的な言語で考えると「うーん・・・」になるけど、そもそも「青い」ということ自体が物理現象なわけで、自明も何もそれはそういう色を青と言っているから青と言うっていう犬と同じ話だよね。それは何より青いという現象が先行していてそれを名指しするときに青という言葉が使われるだけでようは意識の問題だよね。それと公理系のルールとかとごっちゃにすると「うーん・・・」ってことになっちゃうんだけど「うーん・・・」になる必要はなく青いものは青いわけだよね(笑)

 

それが真か否か?言語は社会的ルールではないのか?以前に色が目に入るという現前があるからね。それをどう呼ぶか?はある種ルール的なところもあるかもしれないけどそんなの重要じゃないんだよね。別に言葉変えたところで色んな母国語が違う人に「青いものを指してください」っつったら障害とかが無い限りみんな青いものを指すじゃん?

 

だからまぁそれは言語っつーより感覚なんだよね。基礎論とかを読んでた時にブラウワーとかの直感主義とかに共感したのもまさにこれなんだよね。人間の感覚とは別の抽象されたものは想像の産物でオントロジーの対象とはなりえないんだよね。まぁオントロジーになるんだけどね実際は(笑)見えない物理現象が数式で表現できたりその数式の表現が成り立つから仮説が成り立って実験したらそれはありましたっていう数学からの現象の逆算っつーと変だけどまぁそういうのがあるわけじゃん?

 

ただそういう物理とか高度な数学の世界と卑近なペットボトルの数はいくつでしょう?っていうのは違うってことだよね。ペットボトルの数は算数なんであって数学じゃないわけだよね。だからまぁ俺は算数が大嫌いでただ数学は大好きなのは両者が全く別物だからなんだよね。一般的にも学校で最初に教わるのがつまらない算数なんで「数学苦手」ってことになりがちなんだけど俺みたいに算数嫌いでも数学は好きになる可能性ってあるわけだよね。

 

数学ってまぁ数扱わないからね。AとかXとかっつーものを扱うわけだからね。完全に概念の世界よ。だからそこを日常の算数にアプライしたりしちゃうとおかしなことになっちゃうのは算数の世界と数学の世界の違いだよね。数学的にこういう演算方法もありうるっていう独自な方法があってもみっちゃんとさっちゃんが一つずつペットボトルを持っています。さてペットボトルはいくつあるでしょうか?っていう答えは変わらないんだよね(笑)その事実を概念をどういじくりまわしたところでペットボトルという物体の加算の事実というのは変わらないんだよね。

 

その事実を概念をどういじくりまわしたところでペットボトルという物体の加算の事実というのは変わらないんだよね。ぶっちゃけそれを抽象化すれば1+1になるけどその抽象化の世界で繰り広げられるものが卑近な物理世界の全てに対応するか?っていうとそうでもねーよって話だよね。

 

っつっても数学で記述できるということとペットボトルが一つあるという現前性は全く別物ってことだよね。え!これってさっき書いてた言語の話と一緒ぢゃん!ってなりますよね?

 

なんかだからポイントは色々あるけど連続性ってことだよね。離散的に考えがちだし抽象するときには単一だったり処理しやすいように個人の心とかを当然無視するように(笑)抽象化した時点で人間性というか身体性というか肉が発する言語と離れるってことだよね。

 

ただシミュレーション仮説とかになると一気に話は面白くなって(笑)観測者が入った時に普段見えてないものは見えるとか存在するようになるってことだと、仮に数式で「記述できる」ということを観測者として仮に定義すると数式で記述した途端にその数学で記述したものが現前化するってことになるよね。月とか人がいない山奥以外の分子やら量子のレベルでも観測者が入ると存在するようになるってことになると観測者がいないと成立しない物理現象があることになっちゃうけどなんか今書いてて思ったけどシミュレーション仮説ってここで破綻してるな(笑)

 

月とか山とかって考えるとオープンワールド的に考えられるんだけど物理現象レベルだと関係ないもんな。まぁ物理現象の観測者をどう定義するか?にもよるんだけどさ、ただ観察者効果ってオカルトとかスピ系で乱用されがちな概念だよね(笑)不完全性定理と同じ感じだよね。

 

概念エラーを起こしてる場合、スピ系っつーかスピ寄りの仮設とかでもそもそもの仮説の立て方が間違ってるからロマン補正考えても無理があるってことになっちゃうから、やっぱり仮説って立脚できる科学とか現象とか今は無理だけど将来科学で可能になりそうなものを想定しないといけないんだよね。だから科学知が必須なんだよな。

 

あと「量子力学で分かっていることは」っつーのを文系が言う場合、文系の立証不可能なものを一般書レベルの理解の量子力学を持ち出して科学化するっつーか裏付けを科学に求めるみたいな乱用もあってさ、この辺は根深いよね。文系の研究ばっかしてる人が厳密なレベルで量子力学をやれるのか?っていうとやる人もいると思うけどリアルに時間無いだろってことになっちゃうしね。

 

でもなんか俺的には体験として気があるっつーのが分かっちゃったし、謎な世界もたとえばまぁいつも出すけど衝撃を受けた手相占いとかも統計だろって言われても統計をバックグランドにしてもあそこまで当たらないだろうっていうのがあって逆にこっちが情報を与えてない中であそこまで引き出されると恐ろしいっていうことがあったりなんかして、まぁ気と占いって違う世界だけどまぁ謎な世界ではあるよね。

 

占いとかに関しても統計で大雑把なこと言ってるってさすがに分かるじゃん?でも仮にそれ言い切っちゃって違ったらどうすんのよ?っていう間違ったときのリスクが高いことを平気で当てられるってのはエグいなって思ったんだよね。まぁ特に俺が見てもらった人ってただの手相占い師っつーより能力者っぽい結構顔写真とかが載るような有名な人だったんだけどね。

 

見た目はこんなチャラい恰好してるけど(笑)実は凄く昭和気質というか戦前とか大正の頃の日本人みたいな気質で・・・って言われた時も驚きだったよね。まさに俺ってその世代の人じゃん?内面はね。保田與重郎とか戦前の右翼とかサムライ魂とかそういう感じじゃないっすか?

 

その時も気功の先生とかに言われたことと同じことを言われて神秘十字線がえげつない量であるから霊的っていうと占い業界では今は問題あるらしいからご先祖様に守られてるとか大いなるものに守られてるから、そういった面(つまりは霊性)に日々気を使いながら生活するといいって言われてさ、まぁこれって何年越しだけど今の生活がまさにそうなわけで、まぁ俺が神社のお参りを年に何回か行くようになったとか墓参りを必ずするようになったのもこの手相がきっかけなんだよね。

 

で、そう思うとパワーがすげー場所に行くと気当たりするんだよなとか「気」っつー概念で考え出すと色々と説明つくところがあってさ、逆に今までって全部うつ症状で片づけてたけどあとまぁ整体行くようになっても分かったけど微妙な環境の変化とか気圧だの季節の変化に滅法弱いらしくて、誰でも寒暖差が激しい時は調子悪くなると思うけど俺はめっちゃ顕著なんだよね。

 

でもそういうの知らなかったから全部うつ症状って思ってたけど「あ、これは自律神経系やられてるな」とかって分かるんだよね。色々と整体の先生に話を聞いてるからなんでメンタル系の調子が悪い時は腰が痛くなるんだろう?って謎だったけど正体は仙骨だったわけで、まぁ東洋医学ってエビデンスが無い経験ベースの話なんだけどこれも当たるから面白いよね。

 

そう考えると体の何をケアしたり気を付けたほうがいいのか?ってのが分かってくるからそれを気にすると体調が良くなるというより悪くなる地雷を踏まなくなるっつーのかな。気功整体に生きだしてそろそろ一年ぐらいになるけどキリスト教の影響もあるにしても死にたいレベルのうつ症状ってのはだいぶ出なくなったんだよね。

 

気功の先生に良い気は持ってるんだけど感じやすすぎるから場所とか接する人に気を付けて!って言われてるのも一般的に言うエンパス体質なんだと思うんだけど、基本しょうもない人間を塵ぐらいにしか思ってないはずなのに嫌なオーラを感じてしまうのはなぜなんだろうか?って思っててさ、それって相手の微妙な顔とか声のトーンの変化に気づきやすいとかってのがエンパス体質って言うけどそもそも塵が何を言おうが言語じゃないから気にならないはずなのに気疲れするのはなぜだろうか?って思ったときにやっぱり気なんだよね。

 

気の影響を受けちゃってるんだよね。だから先生には徳を高めてそういうものにチューニングしないぐらいの体質を作るしかないって言われててそこがまさに俺が言う霊性と全く同じで驚きなんだよね。ってことは霊性を高めればバッドなヴァイブスとかに合ったときも影響を受けづらくなるから鬱要因が減るってことだもんね。

 

まぁそれは別としてもやっぱり双極性ではあるんだけどさ、でも双極性以外の要素でもうつ症状になることがあるっていうかそれはうつなんじゃなくて別要因でトリガーされてるもんなんだなって思うと数で言えば素の鬱ってそんなに多くないよなって思ったんだよね。

 

なんかまぁこういう東洋医学とかも視野に入れると色々と有機的に繋がるわけなんですよ。西洋医学って脳がダメになってるから薬でなんとかしましょうだけど東洋医学の場合、体を見てこれは神経やられてるからほぐしていくとかツボを入れておくとかさ、実際にそれで劇的に体が軽くなったり一時的な鬱が治ったりするから驚きなんだよね。まぁ気功とセットでやってもらってるから効果が凄いってのはあるんだけど。

 

あとまぁこれは西洋東洋の二項対立関係なく運動は脳にいいですよね。だから太極拳はちょっとあんまやる気無い日とかでも(笑)メンタルクリニックに行くものだと思ってやってるんだよね。んで最近は稽古のレベルが初期から比べると変わってきてるからまぁすんげー疲れるんだけどまぁそれがめっちゃ脳にいいのとあとまぁ先生は気という言い方をしないけど俺は気の運用を重点的にやりたいって伝えてあるんで気の運用ってことになるとまぁ武功の気とは言え気は気だから気を練るってことができてるわけなんだよね。だから疲れるんだけど体の調子は良くなるっていうね。

 

まぁ体を動かさないことの不健康さってのもあるよね。まぁ別にここは太極拳とかやらんでもランニングとかウォーキングとかでもいいわけでね。

 

まぁそんな感じで視野を広げると色んなものが見えてくるとか生活が変わるってのがあるんだよね。東洋医学なんてエビデンスないじゃん!っつっても俺にはめっちゃ効果あるからもうそれでいいんだよね。なぜ?ということが問題にならないんだよね。効いてるからそれでいいってことになるわけなんだよね。

 

ってことでまぁそんな感じかな。

 

んじゃまた。