ラディカルに突破する。

毎日読書生活はいいんだけどいつも書くように程よい娯楽が必要だよね。で、コロナ禍になってからあんま金使えなくなったからレコード買うのも辞めて洋服屋に月1行くのもやめて飯食いに行くのもやめて・・・って色々やめても別にそこは困らないんだけどさ、ただまぁなんかあれだよね、外出するってだけでだいぶ気分違うじゃん?

 

でも今っつーか今年はもうずーっと起きて本読んで寝ての繰り返しで読む本がない!とかだったらもう終わってんだけど(笑)本があるのはいいんだけど最近また自分の神学レベルが上がってきたのかつまらないと感じる本が増えてきたんだよね。

 

まぁそれは後で書くけどまぁ娯楽マジでないんだよな。ずーっと読書だと疲れるから結構どうでもいい本はどうでもいい映画とかゲーム実況とか流しながら読むと捗るんだけどなんかこうもっと絶対的な受動性っていうかさ、脳死状態でキャッハー!って楽しめるのないかな?ってマジでないんだよね。

 

いよいよヤバいよ。金かからないからいいんだけど(笑)本を読むために必要な合間のリクリエーションだよね。リクリエーションっていい言葉だわ。主体がなんかあってそれをやるということが軸での休みとか生産性とか関係ないことをするってことだもんね。

 

まぁ俺は生産性ないことばっかやってるけど(笑)音楽も学問もっていうかこれが仕事だと思ってるから仕事しかしてないんだよね。マジで。娯楽ってマジでない。やばい。最近それで気分が不安定になってきて若干鬱気味になってるんだよね。いや、いかに一か月に数回程度でも都内に出るとかってことが重要か?ってのが分かったね。

 

ただまぁ今更だけど渋谷もすんげーつまんなくなったしっていうか都内に行って面白いことがないからね。たまたま洋服屋とレコード屋があるから渋谷周辺に行くってだけで別に街が好きで行ってるわけじゃないからね。前は好きだったんだけどなぁ。レコファン無くなったりHMVとかもJ-POPのアナログ再発!とか見ると文化死んでんなーとかって鬱要素しかないっつーかさ、マジでつまんねーんだよな。

 

恋愛もリアルに興味無くなったし逆に興味あったころのほうがワクワクしてたよね。でも今は良い意味でないっつーか変に成熟してきたのかな?とか思ってね。ただ本当に気になるのはお金とか生活って意味ではなくて強度を維持できるのだろうか?っていうサステイナビリティだよね。

 

生活に刺激ばかり求めすぎるのは危険なのはわかるんだけどやっぱ刺激ジャンキーなんだよな。でもまぁちょっとの刺激じゃ全然刺激にならんっつーね。まぁそんな感じで好きでやってること以外のどうでもいい娯楽がなくて困ってるって話ですね。

 

まぁそれはともかくあれなんだよな、ティリッヒ著作集って神学やろう!と思った最初の年に買ってからずーっと読んでなくて2年ぐらい経ってんのかな。逆に今は神秘主義とかヘシュカズムに興味が行ってるからああいうのもう熱心に読まなくなるかなと思って読んじゃおうと思って読んでみたら浅さに唖然だよね(笑)

 

深遠な神秘思想とか京都学派のエックハルトの本とか禅の本とか読んでるからああいう所謂普通の哲学っぽい神学が本当に軽く感じられるんだよね。特に酷いのが社会主義とキリスト教っつー感じのテーマのやつでまぁ年代的に社会主義に希望が持ててたっていうか60年代とかに書かれたものって念頭に置かなきゃいけないにしても貧困すぎるんだよね。

 

いや、こないだ書いたラディカル・クリスチャニティの勧めでミュンツァーをイデオローグにするって書いたけどミュンツァーの何が凄いか?って共産主義とかっていうドグマとかなしに、ただキリストの福音を実行しようと思えば今の権威的な教会とか貧困状態に置かれている農民とか社会の貧富の差とかキリストの意思に反していることばかりだ!みたいなことじゃん?ざっくり書くと。

 

そこが凄いんだよね。プロテスタントがどうのカトリックがどうのみたいなくだらない教義の話じゃなくてすんげーラディカルなんだよね。まぁ極めてキリスト的って意味ね。それに比べてっていうとティリッヒはさ、社会主義の正義の論拠をマルクスに丸々置いてるだけなのね。キリストがどうのとか神がどうのとかってのがなくて哲学のコピペみたいな感じの近代の神学者にありがちなすんげーつまらない実効性がないような話ばっかでさ、なんで根拠がマルクスなの?っていうね、呆れちゃうよね。

 

それでいうとポストモダン系でキリスト教の脱構築とかやってるあたりのもだいぶ買ってたんで色々拾い読みしてるんだけどまぁーどれもつまんないったらありゃしないんだよね。まぁつまんないと体感できるぐらいいろいろ読んでレベルが上がったからなんだけどまぁーつまんねーわ。今の俺の生活を象徴するかのようなつまらなさだよ(笑)

 

不思議だよね。なんでギリシャ教父とか砂漠の師父とかドイツ神秘主義のほうがラディカルに感じるのか?ってことだよね。あとあれだ、ティリッヒは神秘主義を逃避とかって言ってるんだけどまぁあくまでキリスト教を掲げながら社会改革をしたかったんだろうからその意見もわかるんだけど神秘主義のラディカルさってヤバいじゃん?

 

神秘主義って何なの?ってことになるし言葉が乱用されてるからあえて言うなら禅とか原始仏教って切れ味凄まじいでしょ。それが社会改革に繋がるとかではなくてラディカルに個人の意識とかメンタルセットを変えちゃうよね。まぁそれが宗教的と言われる所以なんだけどそれで言ったら哲学だって意識が変わっていくはずなのに近代のやつは心に響くやつが全然なくてただの言葉遊びになってるんだよね。

 

宗教も宗教学とかオーソドックスな神学ってまさに言葉遊びだよね。これで言うとこの神の概念と矛盾するから聖書のここの部分と照らし合わせて・・・みたいなイエスの徒というよりイエスの小間使いみたいなことをやってるっていうね(笑)なんでこんなに興味がわかないんだろうか?俺は向いてないんだろうか?って思ってたけどヘシュカズムとか初期教父の思想に出会えてすんげービビっと来てるからむしろめちゃめちゃあってたんだなと思ってるんだけどね。

 

結局善自体がラディカルなもんなんだよね。何かとグレーすぎる思想だの社会だの政治だのっつーところにある種の絶対的な価値観ってのを入れちゃうわけだからね。それを危険だっていう人もいるけどそれをやれないで宗教者になれるわけないだろうって気がするしそこで色々と控えるとただの相対主義になるわけじゃん?最悪だよね。

 

結局まぁ救いって社会改革とかじゃ無理だよねっていうかそれは宗教の役目じゃないだろうっていうね、あとまぁ基本政教分離だから政治は政治でやるべきで、まぁその中でもちろん善が中心にある政治をしなきゃいけないんだけどまぁこんなこと言ってもくだらないよね。現実の政治が終わってるからもうああいう話したくないし。

 

だからまぁ前から書いてるように個の意識が変わっちゃうっつーことがすんげー革命的なのよ。くだらない俗っぽい世の中の流れから離脱するっつーかそれは逆に突破者であるってことだと思うんだけどね。中国の寝そべり主義とかってディオゲネス的な犬儒派の思想が根底にあるじゃん?

 

あとはまぁ経済活動とかまともな生活をしようと思うと資本とか人間疎外待ったなしのシステムと関わらなきゃいけないからもう知らねーっていう考え方でしょ。まぁでも俺が提唱するラディカル・クリスチャニティはまぁこれと似てるよね。降りるというより人間疎外を起こすシステムへの抵抗として参加しないっていうストライキみたいなもんでさ、諦観というより既存の概念を突破するんだよね。

 

ただまぁやるのはすげー大変だよ(笑)普通の人からの批判待ったなしだからね。でもまぁPhaさんとかオリジネーターに近いよね。見た目ニートだけど頭いいからなるべく体とか労力を使わない所得を増やしてあとは引きこもってるって最強でしょ。これって賢くないとできないからね。最低限の金を稼ぐスキルとか知識も必要になってくるし、かといってもそれで超貧乏か?っつーと今なんて務めてたって貧乏なんだから変わらないんだよね。

 

むしろ労働力を売り続けることで人間疎外が生まれるってのが一番ヤバいわけで、そういうものから距離を置きつつ金はゲットできるってのが最強だよね。まぁかといってもシステムと関わるっつってもこっちにメリットしかないような好条件だったらそれはやったほうがいいに決まってるんだけどね。それで超ラッキー!ってのが一番いいよそりゃ。

 

でも仕方なく体を売るしかないってのが一番ダメな生き方だよね。それで「頑張ってる人たちを応援しよう!」とかって言ってるのはもっとダメ。現代奴隷制だからね。あれは。そんなの人道的に許されるわけない。言わずもがなキリスト的には超アウトですよ。

 

いや、こういう流れで自然にキリストが出てくるんだよね。人間疎外がなく信仰心を持つかどうかは別として基本祈りとか観想的生活をするってのは神と繋がり続ける生活を維持するということじゃん?くだらないSNSで虚構の繋がりを続けるようなものとは偉い違いだよね。あれはまぁ別の宗教だよね。みんなスマホをいじってるのは一種の宗教ですよ。

 

まぁ逆にスマホでやれることがあるっていうかいじれることがあるのは逆にうらやましいぐらいなんだけどね(笑)仕事で使ってるならまぁそりゃ別だけどね。

 

結局なんつーのかな?宗教の論理で生きるっていうか帰依するってそれに反するようなことはなるべくやらない!ってことになるじゃん?ただそこで個人間でトラブルが起こるようなことは別として相手が社会であれ「やらなきゃいけない」とかって言われてることであれ神との繋がりが第一というプライオリティの設定は超ラディカルでしょ。ある意味めちゃめちゃ反社会的じゃん?(笑)

 

でもそんなのってなんか金稼いだり生産的なことやってないとダメっていうのがデフォルトの世界だからダメなんであってさ、まぁ世界は修道院じゃないけど(笑)基本祈りが推奨されるような場だったら一気に変わるじゃん?逆にそれをやってるのがリスペクトされるんだよね。

 

あとまぁ祈りにせよ宗教関係研究するにせよ基本死について考えるということは絶対ついてくるもので結果的にそんなに生に執着しなくなると思うんだよね。生に執着しすぎてるから生存を脅かされるようなことがあると凄く不安になってその不安が原動力みたいになって何もかもの選択が不安ベースになっちゃうっていうね、ただ傍から見ればアホみたいなもんですよ。これは。

 

何しろ不安になったところで何も変わらないからね(笑)ゲームやってても現実変わらないのと一緒でむしろ不安になることで体調崩したりメンタルダメになったりするわけで何にも良いことはないんだよね。俺みたいに退屈でメンタルダメになるのは工夫したほうがいいけどね。

 

だからまぁ楽しんだもん勝ちだよね。大変なこともあるけどやりがいがある仕事で自分の内発性ベースでやれてる仕事とかをやれてる人は最強だよね。何も仕事やるやらないの話ではなくてスタンスの話だからね。嫌なことをやらないと生きていけない時点でもう終わってるからどうせ先も良いことないし頭は死んでいくし体も病んでいくからそれを変えなきゃいけないわけだよね。

 

あとはやらなくても生きている道があるならそれを模索したほうがいいよね。疲弊するために生きてるってもうなんか逆転もいいところですよ。何のための生なのか?ってことでしょ?

 

俺も別に毎日楽しいわけじゃないけどクソみたいなことは絶対したくないしその場限りならともかくそれを永遠とやっていかなきゃ生きていけないとかってなったら人生からリタイアしますね(笑)宗教的隠者が死ぬのは自殺じゃなくて遷化なんていう言葉があるから便利ですよね。

 

でもそうなると先のことなんてどうでもいいしだからこそ今が大事になるんだよね。今がくそみたいに退屈だったりイマイチ本に集中できないってことがクソなことになるからそれをなんとかしていこう!ってのが結果的に能動的な動きになるんだよね。

 

諦めとは真逆なんだよね。暗いネガティヴで終わっている世の中とは真逆のベクトルに行くことがパンクですよ。だから観想的生活というのもAttitude次第ではパンキッシュになりうるよね。まぁ世の中に順応しないパンク野郎っていう根は絶対変えたくないよね。それが宗教の装いでさらにパンク度が増したっていうね、まぁ我ながら最強だと思うわ。そういう突破モンになりたいよね。

 

ってことでそんな感じでんじゃまた。