分析的神秘主義。

いや、例の見えない世界にフォーカスするっていうことなんだけど、それでまぁ書いたっけ?ニューエイジ臭いやつとかも偏見なく何か得られるかも?と思って読んでるんだけど、相対的に考えるとある意味まともに考えるってのは人間を機械論的に考えるってことなわけで、近代科学的観点ってのはまぁ「まとも」であるデフォルトって感じだよね。

 

でも俺が言う見えないものってなんつーか例のサイキック能力とかだけじゃなくて見えないもの全般なんだよね。ルパート・シェルドレイクって人が「生命のニューサイエンス」って本を昔に出してニューエイジ界隈で盛り上がってたらしいんだけど一時だけの人かな?と思ったら邦訳されてないだけでコンスタントに本を出しててそれが結構面白いっつーかまさに今の俺にダイレクトな感じなんだよね。

 

例えばまぁなんだろうな、人間というより生物を機能的に考えた場合、それって何なの?って説明がつかないことが多いのは確かじゃん?シェルドレイクも実験したみたいだけどなんで犬は飼い主が帰ってくるのが分かるのか?とかまぁ全部の犬がそうじゃないにしても例えば出勤の時はソワソワしないけど休日のプライベートの外出の時は行くな!とか連れてけ!と言わんばかりに騒ぐとか、犬はそういう感覚に優れているってなってるけどじゃあその「そういう」とは何なのか?ってことだよね。

 

まぁそれ言い出すと人間でも「嫌な予感がする」とか「なんとなくこう思った」的なこともまずそれって機械じゃ無理だからね。なんとなくって01の世界にないじゃん?まぁあとそういう感覚が優れている人と鈍感な人っているっつーけど、それって半ばそういう「予感」みたいな感覚に優れている人がいるってことを認めてるってことだよね。でもそれが何なのか?ってのは分かってないかあとは科学に乗せると研究に値しないくだらないことってなっちゃうんだよね。

 

でも考えてみれば人間が完全に機械的なものでそれ以外のものは持ってなかったら成立しないことっていっぱいあるよね。もちろん「これだ!」と直感で思ったとかってのも分析的に考えれば無意識でそういうものを求めていてそれがたまたま目の前に現れて潜在的に求めていたものに合致したんで「これだ!」って思う言わば演算の所産なんだともいえるけど、そういう風に説明できるケースと説明できないケースってあるよね。

 

全部が全部そうじゃないわけでさ、んでなんかすげー思うのは機械論的に科学的に考えるのがまともで他の考え方するとトンデモになるからそういうのは考えないとか無いという風にするって考えた時点でそういう次元の世界観とかが一気に無くなるよね。感覚もシャットダウンするから「そんなのありゃしない」という思い込みでそういう感覚に鈍感になるよね。

 

で、今の俺はシャットダウンをしなくなったのといろんなのを読んでも所謂霊性を高めるとそういう能力が鋭くなるってのはニューエイジ関係なく古代の文献とかにも載ってるわけじゃん?あとおそらくなんだろうな、サイキック的な要素で言うと俺もそういう感覚がゼロではないからあるように思えるんだと思うんだよねってこないだのカウンセリングから思ってるんだけどね。全くそういうのが無い人にとっては経験がないからでたらめにしか思えないんだけど、人に言えるほど凄いもんじゃないけど「すげー」ってなるようなことの10分の1ぐらいのことは経験してたり体験してたりするよなって思ったんだよね。

 

だからあれじゃんね、こういう感覚は誰でも持ってるって勝手に思ってたけどそれが全くない人もいるってことが分かったってことだよね。ただ俺は先鋭化してないんで能力者でもなんでもないんだけど素質はあるってことなんだよね。だとしたら先鋭化させたら何が起こるのか?ということが気になるに決まってるよね。

 

でもそれは色々なものを読んでそういう感覚を高められる方法というのを研究して最低でも一年ぐらいはそれをずーっとやるぐらいに考えてないと判断できないよね。いきなりできるようになるとか分かるようになるってことはないわけでさ、ただ重要なのは分かるようになるかもしれないって錯覚でも脳がそう思うことが重要なんだよね。

 

それによってそういう見えない次元の世界にも感覚がオープンになるじゃん?ただまぁいつも書くけどそれで金儲けしようとか能力者だ!とかって自慢するとかじゃなくて単純な興味だよね。「俺にはそういうのは分からないけど」って思ってたけど感覚を研ぎ澄ますっていう方法があるのか!ってのはなかなかのコペ転だよね。

 

ただまぁそれってのはこれまたいつも書くけどキリスト教の流れがあってそっから神秘主義にいってそれとは別に健康のために気功の施術を受けたら完全に気はあると確信したってのもあるしまぁ毎週太極拳やってるから余計にそう思うんだけどね。

 

ただぶっちゃけ歴史を見るとそういう見えない世界のものがあるって考えられてたのが割と近代までで科学が発展したのってこれまた近代で否定されたのが近代だからそういうイデオロギーの中で育ってきてるんだよね。でも歴史を見ると何千年と見えない世界は当たり前にあると考えられてきたのに一気に唯物論的になっちゃってるんだけどでもそれが当たり前だから「昔のやつはアホだな」みたいに思うんだけど、実はそれは大間違いで極端に機械論的で唯物論的な見方しかできないのであれば見落とすものっていっぱいあるんだよね。

 

でもその割に例えば「運」だとか「偶然に見える必然」みたいなのって信じられてるっていうか残ってるよね。逆にそういう迷信めいたものを何もかも否定するのって科学を妄信するような理系とかさ、でもまぁぶっちゃけ理系でもなんつーか体験が先立っちゃってる場合、頭で否定しようと思っても体験があるから否定しきれないとかってのがあるわけだよね。

 

なんだろうな、そういった見えないもの全般が完全になくなった中でロマンを求めて見えない世界を探るとかじゃなくて否定しようにも確実に存在するっていうことが分かっちゃってるんだよね。で、否定の根拠が弱すぎるっていうね。科学が万能な場合、まぁいずれは万能になるけどまず「謎」があっちゃいけないよね。でも謎だらけじゃん?ただそこで一気に論理を飛躍させてなんたらパワーがあるとかじゃなくて、歴史的にそれはなんたらパワーとかって考えられてきたっていう歴史と体験者とか過去の能力者とかの記録に依拠する感じだよね。

 

まぁそもそも宗教体験ってそういうことなんだと思うんだけどすべての人が体験するわけじゃないからまぁ世俗的なものになるとルールを守るとかそういう生活習慣にするみたいな形骸化されたものになっちゃうんだけど啓示がきっかけになったりするものってまぁ全員が経験するわけじゃないよね。俺はまぁ詳しくは書かないけど啓示があったからいきなりキリスト者になったんだけど、でもまぁある意味唯物論的ともいえる仏教も神秘体験抜きには考えられないよね。

 

ただまぁ宗教は神秘体験を体験するのが目的じゃなくて神や行を通して徳を磨くとか魂を上昇させるっていうものでまぁ今でいえばモロにスピリチュアルなものなんだよね。だからそれって「神様お願いします」って頼むものじゃなくて自分の魂を上昇させるための帰依する教えなり神に服従するっていうものだよね。

 

俺はそれをしないと自滅するっていう危機感があるからやってるってのもあるんだけど思うに現代人全般がこの魂の上昇を求めない限り真の幸福ってのは得られないし常に虚無感との闘いになるよなって改めて思ったんだよね。で、別に魂の上昇って宗教に帰依しなくても魂のトレーニングというか魂の筋トレみたいなもんだから単純に健康のためにエクササイズをするように魂のエクササイズもするってことなんだよね。

 

それで現代の場合、瞑想が一番いいというか元々は宗教的なものだけど宗教臭さを抜いた機能的な瞑想ってのもあるからそれをやればいいってことになるんだけど、最近思うのは俺は刺激ジャンキーだけど外界からの刺激というのにはもうあまり反応しなくなったというか色々と経験すると飽和化するじゃん?でも刺激がないと生きていけない!ってなった時にコペ転なのはなぜその刺激を外界に求めるんだ?ってことになるんだよね。

 

いや、内面から来る刺激はどうなんだということだよね。だから俺の刺激ジャンキー気質の求める場所がシフトした感じだよね。太極拳で言えば気とか頸を使った力は凄いし感動があるけどひたすらフィジカルを追い求めて物理的なスピードでどうにかするというような力業には感動が無いのと一緒でってまぁそれはそれで面白いんだけど「こんな力の出し方があるのか!」っていう感動と発見が太極拳にはあるわけで、それが極めて内的なものなんだよね。

 

その力を出すために体を鍛えるとかじゃなくて体の使い方と力の出し方を覚えるっていうことなんだよね。まぁそれに似てるんだよね。まぁ習い始めの頃は一発KOみたいな技を知りたい!とかって思ってたけど色々とやっていくとフィジカルの世界って浅くてもっと根源的な力の出し方とか気のほうが奥が深くてなおかつそっちを時間をかけて極めていったほうが面白いんだよね。結果的に当たるかどうかってのは別としてその力を出したときに凄く効く力が出るってのが重要なわけじゃん?

 

まぁ驚異的な力が出るんだよね。力じゃ浮かせられないものが出し方次第で浮かせられるようになるんだけどまぁすんげー地道な作業なんだよね。まぁでもその地道さがまた面白くて魂のトレーニングも似たようなものなんだよね。マニュアルがあってこれ通りにやれば魂は磨かれますってことじゃなくてちょっとずつやっていって磨き方が分かってきたり磨かれた結果、生活とか精神とか世界の見え方の変化が出てくるっていうね、ただまぁすぐ求めるのは絶対ダメでだからまぁ俺はすんげー長いスパンで見てるんだけどね。今後はこれだなっていう確信はあるんでね。

 

現代の機能主義的な機械主義的な考えだとヨガなんかも背骨が結果的にこうなって健康になりますっていうような即物的なフィジカルな結果になるけどまぁ語れるほどの知識はないけど元々は精神世界じゃん?で、その精神修養のために身体を使うって考え方だよね。でも今はその精神の部分が無くなってるかオカルト扱いされてるんだよね。

 

もしくは日本なんかだとオウムとかの件があったからチャクラとか言い出すと「うわーニューエイジだ!」とかっていううさん臭さの代名詞みたいになっちゃうんだけど(笑)ちゃんとした歴史的な厳密な理解をすればそんなものにはならないしあとニューエイジ思想でもそういうインド哲学とかインドの古代からのヨガを徹底的に研究した結果行きついた思想がニューエイジとかって呼ばれてるっていうこともあるってことなんだよね。さっき書いたシェルドレイクなんかはアカデミアの人で生物学だかなんだか忘れたけどちゃんと学位持ってる人だし、まぁスピ系でも物理の博士持ってる人とか普通にいるよね。

 

スピ系でもなんかキラキラしたスピ系ブログをやってるような、バックグラウンドが分からなくて自己紹介みたいなエントリーで「幼少期から色んな体験をしまして・・・」みたいなのは問題外なんだけどっつってもそういう人がガチの場合もあるから一概には言えないんだけどそういうキラキラ系のスピ系の人もいれば求道者的だけど言ってることがニューエイジとかスピ系って言われがちな人ってのもいるなっていう印象があるんだよね。

 

ただまぁ俺に言わせればそんなジャンルはどうでもよくて知りたいのはただの真実じゃん?まぁそれが哲学でしょ。かといっても哲学はそういう精神世界をオカルト扱いしたり客観的に見ればそれ自体がオカルトだっていうようなのがなぜかアカデミックには認められてるから学術的とされるようなね、ポストモダンなんかが顕著だけど何の根拠もないからねああいうのって。

 

んで哲学で言えば宗教の影響を受けてないものなんてないわけでカントにしてもスピノザにしてももろに宗教がドミナントな時代の人だからめっちゃ影響を受けてるんだけど換骨奪胎されて論理のみが取り出されてるんだけど実はエッセンスは宗教的なものにあったりするわけじゃん?

 

哲学の行き詰まりも必然だよね。ただのロゴス主義っつーかさ、でも果たして真実ってのは論理を突き詰めれば分かるものなのか?って分かる分野もあるけど分からない分野もあるからそれは使い分けをしなきゃいけないのに一元化されてるんだよね。それはもう西洋哲学という一種のイデオロギーなんだよね。もうそのパラダイムではまず扱わないとかオミットするっていうものが暗黙で決まってるから思慮の対象にならないんだけどでも実はハイデガーとかってすんげー神秘主義者だしウィトゲンシュタインなんかもモロにそうだよね。

 

ただ現代ってやってる学者にそういう感覚的なものとか言葉にできないようなものを軽視してるか全く問題にしないってやつが多くて結果的にすげー重要な部分が漏れてるって感じだよね。まぁそこで俺が京都学派が好きなのは宗教的感覚とか神秘的感覚と哲学の学問的厳密性みたいなのが絶妙なバランスで存在しているっていうところなんだよね。あれこそが哲学だろうって思うんだよね。

 

んでまぁよくわからないこと全般なんだけどさ、それを脳の記憶とか錯覚とか何らかの形で我々が知っている限りの可能性があるものをピックアップして「おそらくこうなんじゃないか」って考えるのって凄まじいリミットをかけてるよね。それって暗黙に「それ以外ありえないから」っていうことを認めてるわけだよね。

 

でも実際にありえないことがあるわけでじゃあそれをどう説明する?ってことになるとまたこじつけかあとはその話自体がありえないから嘘ってことになるんだよね。そんなことあるわけないということになるんだけど経験した側から言えばそれは経験以外の何物でもないし視覚的に表れたのだとすればそれを見てしまったわけで嘘でもなんでもないわけだよね。

 

でもそれは現代の未熟な科学では扱えないから嘘にするしかないんだよね。そういう都合が悪いものを全般オカルトっていうレッテル張りをすることで科学の権威を守ろうとしてるけどオカルトって元々語源的に隠されたものって意味合いがあるからまぁオカルトって言い方が間違ってはいないんだけどね。

 

まぁ俺はオカルトというよりEsotericなものっていう考え方だけどね。一部の人にしか分からないし逆に全くそういう経験がない人間のことを考えたらあるわけないって考えるのが当たり前だからしょうがないだろうなって思うけどただ体験自体をありえないから嘘とするっていう態度は如何なものか?って感じがするよね。その体験した人を何の根拠もなしにただ物理的にありえないということで嘘とするってまぁすげーひでー話だよね。

 

見えないものへマインドを開いていくってのはそういう否定から入らないということだよね。あと全ては空なんだから全ては相対的というのは自明なんだから逆に機械論的身体観というのも現代的な観点の一つでしかないというのも自明になるよね。見えない世界のことを端から否定ってのは見えない世界からのものに対して丸腰ということでもあるよね。それこそ悪質に付け込んでくるようなのってだいぶなくなったとは言えそういうのってあるわけじゃん?だから精神世界リテラシーってのも教養なんだよね。

 

ただ精神世界だから色々と論理がイッちゃってるか?っていうとそうじゃなくて整合性が無いものは納得がいくわけがないし体験が先行しているものはまず体験をしなきゃいけない。だからまぁマインドをオープンにしておく必要があるってことだよね。

 

まぁなんだろうな、まずありえないようなことがあって次に連鎖するようなことでこういうことがあって・・・っていう論理は普通の論理なんだよね。当然。ありえないことが起こったからありえない論理が可能になるわけじゃなくて起こることとかにありえないことが含まれるだけでそれはあくまで論理の中なんだよね。もしくはレンマの中とかね。

 

良い意味でぶっ飛んでるのは面白いけど全く熟考に値しないものはそれはスピ系であれ哲学であれ同じでしょう。でもなぜかアカデミックなお墨付きがつけばくだらないことでも哲学という学問的サンクションが与えられるから意味がないということにはならないんだけどEsotericなことというのは普遍化が不可能だから学問化できないし体系化もできないから俎上に乗せられないだけなんだよね。普遍化ってのは客観的な普遍という意味ではなくて主観的な普遍化ね。まぁそれが普遍になったらEsotericというワード自体に矛盾が生じるからEsotericなもんはそれはそのまんまでいいんだと思う。

 

ただ極度な秘教化や神秘化はいけなくて、あくまでそれはマテリアリストとして挑んで構造主義的に色々とパーツに解体していくっていうことをするんだよね。分析的神秘主義とでも言うのかな。神とか謎の力が出てきたから全部それで説明がつくじゃなくて神も謎の力もあくまで分析される対象なんだよね。

 

当然そこで体験が伴う場合、言語や論理より先に体験が来るから言語ってのは常に後のことになるんだよね。だから分析的と言いながら論理だけでやって行っても体験していない人の頭の中だけでの考えになっちゃうんだよね。そこでやはり体験を伴わせるっていうことが大事で、それが実践と知識のバランスなんだと思うんだよね。

 

まぁそんな感じですかね。

 

んじゃまた。

 

あ、んで書き忘れたけど見えないものの存在が自分の中で絶対的に存在するものになったというきっかけはキリスト教も大きいけどやっぱ気功だよね。気功と整体の施術を受けるようになってからずーっと体調がいいし、前は不調な場合、また脳が不調になってるっていう所謂本文で書いたような機械論的な考えをしてたから薬を増やさなきゃ!とかそんな考えにもなってたんだけど、酷いエンパス体質ということを自覚して、ガードする術を考えるとか気が詰まっているからかもしれないって考えるとか、なんでも脳のせいにしないっつーところなんだよね。

 

で、まぁ俺的に色々と個人的なことを書けば色々あるけど東洋医学的な考え方とか気で考えると自分の不調が分かりやすくて分かりやすいから対処もしやすくなるんだよね。結果的に今は比較的健康っていうところが何より見えないものの証明してるでしょってことだよね。いや、でもそれは気のせいでしょうとかプラシーボでしょとかって言われても完全に治ったわけじゃないし調子が悪くなる時はいくらでもあるんだけど泥沼化しなくなってるってのはただの気のせいではないっていうことの証明だと思うんだよね。

 

まぁんでコペ転だったのがそういったものの影響によって不調になりやすいってのが逆を言えばそういう感性が鋭いっていうことでもあるんでそこを伸ばせば癒す側にすらなれるかもしれないっつー可能性だよね。こりゃ大発見ですよ。まぁんでこういうのもいつも書くように導かれている感があるんだよね。しかもいきなりではなくてジワジワと何年もかけてこういう段階になった自分というのがいる。

 

そうなると人生のサステイナビリティが全然変わってくるんだよね。なんだ!そうだったのか!だったらこれをやればいいじゃん!っていうブレイクスルーが現れたから今までのウジウジしてたような考えから脱却できるどころか新しいスタートみたいになってるっていうね。

 

ただ自分の場合、順番がすげー良かったなって思うのが学問でガッツリとした論理の重要性とか厳密性の重要さってのが体に染みてるわけじゃん?そういう中でまぁちょっとうさん臭くも思える精神世界とか見えない世界へ飛び込んでいくっていうのも固いリジッドな論理と厳密性ってのがあるからわけのわからない世界に溺れることはないってことなんだよね。あとまぁ信仰ね。まぁつまりは変な宗教にハマったりもしないと。

 

まぁそう思うと全部が召命のようにも思えるし啓示とも思えるんだけどね。ただ事後的にいきなりキリスト教に目覚めたのが分かったってのは結構な衝撃なんだよね。まぁより信仰心が高まったというかね、一生キリスト者として生きていく覚悟ができたというかなんというかね。

 

まぁそんな感じで。