daimonionさんへの返信。

id:daimonion 2021-08-11 11:15:53

 

mimisemiさん 初めまして、私はdaimonionというものです。コメントをさせていただくのは初めてなのですが、実は5年くらいもしくはそれ以前から時々ブログを読ませていただいてました。

 

 

それで久しぶりにブログを見ると、mimisemiさんがキリスト教に目覚めているとのことで少し驚きました。私は哲学科にいたことがあるので宗教学的(信仰する立場ではない)な立場からキリスト教を勉強したことがあります。そのため少しは宗教を語れると思うのでmimisemiさんと語り合いたくてコメントしてしまいました。

 

 

まず、宗教と言った時に宗教的な思想と宗教的な集団が意図的、もしくは意図せずに混同されていることがあるように思っています。宗教集団は教義を信じるものと信じないもので内と外を分ける集団化と無根拠なものに対する権威付けを行なうことが最たる特徴で、こういった集団は構造上、絶対的に正しい教義や正しい我々を守るように力学が働くので腐敗していくし、教義の理念も形骸化していくものだと思います。

 

 

信徒集団と神秘思想や目覚めた者の距離は近いようで遠い感じがします。mimisemiさんがおっしゃるように神秘思想に目覚めた科学者はいて、今だとアインシュタインなんかも何かと神に関する言説を残した人だと認識されていると思います。

 


しかし、アインシュタインは人格神を否定するようなことを言い、当時は神学者なんかにも反論を受けユダヤ人が迫害されることを正当化してしまうから妙なこと言うな、何ていう脅しみたいなことを言われたりしていたようです。

 


作られたイメージとか誤解されたイメージに関する話ではやっぱり、聖書を読んでみるとキリストやその直弟子の描かれ方もイメージと違って面白いですよね。彼は当時、ユダヤ教という律法を守ることが当たり前の世界の中で律法が救いきれなかった貧乏人や異国人もともに同じ食卓を囲みパン(当時は大きくて平たいパンなので一つのものから千切っていたらしい)を分けて食べようなんていう活動をするわけですけど、俗に言えば行政が救えなかった、または救わなかったものを自分なりのやり方で居場所を与えて助けようとするんです。何ていうかロックですよね、反体制とまでいくかはわかりませんが。一方で直弟子達は異国人との食卓を一緒に囲まなかったりするところが描かれていて、これも人間味があって面白いんですよね。

 

 

話は変わるんですけど私は今、数学科に在籍して数学を勉強させてもらっています。そこで数学について考えていて思うのは、数学は内部的には論理的で厳密だと思うこと、一方で数学が広がっていく最先端もしくは基礎にある根本的な概念というものは曖昧で捉え所のないものの本性をどうにかして掴み取ろうとして格闘し得たものなんだということです。

 

 

つまり内部的に静止している一方で外に広がる動きの二面性があるように感じます。mimisemiさんのおっしゃるように近代科学には機械論的な物の見方が中心にあることには間違いないと思うのですが、そもそもの数学や物理学なんかは世界をどうにかして理解しようとする技術ですから世界が機械論的に動いてる何ていう前提があってはおかしいんですよね。

 

 

また数学自体がある意味でオカルティックな技術という側面もありますよね。面積を求めることから抽象化されて生まれた二次方程式が代数の幾何学的制約を離れて虚数の概念を生み出して、それが振動や回転を記述する言葉になったりもする。今じゃ当たり前に使う数字だったり数えるっていう概念、単位を決めて距離を測るなんて考えも不思議ですよね。明確な境界のないものに境界を決めて一つものとして考えようなんてのも、無限や連続を有限離散化しようとするとんでもない技術ですよね。

 

 

最近考えている位相空間なんかも連続って概念をどうにかして代数的にみようとした技術なんじゃないかと思っているところです。 すみません、長々とまとまりのないことを書いてしまいました。私はmimisemiさんほど論理的に厳密に考えるプロセスを経てないので観念的なことばかりにかまけてないで、もう少し近代のあたりに留まって勉強してみようと思います。

 

daimonionさん、コメントありがとうございます!この話題にコメントというのはめちゃめちゃ嬉しいので返信のテンションが高くなり過ぎたらすみません(笑)


宗教の意図的混同は全くおっしゃる通りですね。僕はキリスト教に目覚めた当初は教義学や組織神学などを勉強して、プロテスタントの教会で洗礼を受けて、通うことが可能ならば神学校に行こうとすら考えていました。

 

ただ勉強を進めていくうちに今の僕のような既存の宗教ディスりまくりっていう立場になったのも、daimonionさんがおっしゃる「内と外」の区別というか差別や権威付けなどの、それまで僕が政治学などで勉強してきた組織の腐敗の構造そのままで、例えるならミヘルスという政治学者が言っていたような、仮に凄い正義感でナチスのようなものを革命的なクーデターを起こして制圧したとしても、後にできる政権はその所謂、構造そのものが持っている腐敗の傾向によって同じような道を辿るようになるということなんですが、数ある諸宗教の中でもキリスト教は歴史的に本当に酷くて、国教として制定されたりした後はむしろ教義というよりかはキリストを掲げた権威にしかなってない気がしています。

 

その結果の数ある侵略戦争や元来のキリストの教えに背く「異教徒を殺す」というような魔女狩りや、キリスト者でも教義に反するようなことを言っていると異端扱いして炎で焼いて殺すだのマンソンファミリーとかジム・ジョーンズなどのカルトと比べても見劣りがしないぐらいのエゲつなさですよね。

 

もちろんそれは歴史的なコンテキストを踏まえなければいけないので、過去はそこまで色々なことに寛大ではなかったとかっていうような考えを入れるにしてもやってきたことが酷すぎますね。じゃあ同じ宗教でも仏教はどうなのか?というと変なカルトとかはあったのでしょうけど仏教の教義の違いで戦争が起こったとか大量虐殺が起こったというのはあまり聞いたことがありませんよね。皆無ではなかったのでしょうけども。

 

信徒集団と神秘思想の違いは今の僕の理解で言えば信徒集団は世俗化された教義や慣習などを守ることと教会にひれ伏すような、キリストがもっとも忌み嫌ったパリサイ的な人間たちで、神秘思想に目覚めた人間はキリストの教えの確信に近づいたものだと思っています。何しろ聖書が書かれた時代に教会はなかったし守るべき戒律などもユダヤ教などと違って厳密に制定されていたわけではないどころか、daimonionさんがおっしゃるようにパリサイ的な旧約聖書の教えをアップデートするようなことを平気で言っていますよね。だからパリサイ派に目をつけられるのも当然ですし、当時の時代背景から考えると相当危険なことを言っていたと思います。

 

例えば「目には目を」の話なんかも攻撃されたら反撃せよ的なロジックだと思うのですが、キリストのアップデートバージョンだと奪おうとするものに与えよって言いますよね。これは一見すると「こいつ何言ってるんだ?」って話で(笑)不可能なことを言っていると思っていたのですが、あくまで僕の理解ですが、キリストのアップデートバージョンは究極的な悪人に逆らうなという思想で、つまりは悪人に攻撃されたら攻撃し返してしまうとそれこそカルマではないですが、その後にも恨みやら怨恨を残す結果になりますよね。あとそこで攻撃するとか反撃するという行為で悪人と関わってしまう。

 

でもキリストのアップデートバージョンを僕なりに解釈すると徹底的に悪なるものには関わるな!ということだと思うのです。キリストの例えは分かりづらいですが、現代風に言えば悪人にたかられたら金でもくれてやって一切関わらないでくれっていう風な、僕が最近書いてるような悪なるものを意識したり引っ張られたりそもそもチューニング自体をしないという究極のスルー術だと思っているんですね。だとしたらキリストはこんなことをどう思いついたのか?というのが不思議でなりません。

 

ある種、奇跡などよりオカルト的ですね(笑)オーパーツ的というか、なんでそんなことを思いついたというかそういう考えに至ったのかが謎なぐらい凄まじい悪を退けるという方法だと思うのです。それに関して言うとブッダも不気味なんですけどね。なんであんなことを思いついたのか、昔の人が今の人間より劣っているとは思いませんが、それにしてもあんなことを思いつくのはブッダだけだろうっていう気がするんですよね。

 

キリストはdaimonionさんがおっしゃるようにまさにロックです。そして究極のリベラリストであり革命家ですね。反体制というつもりでやっていたわけではないけども、あまりに行為がロック過ぎて反体制と見られて危険分子扱いされて処刑されたという感じですよね。そのくらい行為がヤバかった。だからキリスト教が保守的などということはありえないんですよね。同性愛差別や女性差別なども特に女性差別などはパウロが教会に女を入れるな!みたいなことを言っていたというだけで、では果たしてキリストはどうだったのか?というとマグダラのマリアを弟子にするような人間だったわけですよね。

 

経過は色々あるのでしょうけどキリスト教が同性愛を差別するなんて考えられない話です。というかキリスト教はそういうもので、キリストそのものとは全く異質なものと考えれば、ここでよく書くことですがマルキストとマルクス本人は違うみたいなものだと思うんですよね。

 

主義になると政権を持ったりしていなくても結局はセクト化して、特に戦後のマルクス主義による無茶で支離滅裂なテロなどを見るとマルクスの思想が教義化されて守らないと反ブルジョワ的とか言われてリンチされたり反革命的だと言われてこれまたリンチされたりめちゃめちゃな世界ですよね。なんでマルクス思想が文化大革命やポルポトの大虐殺に繋がるのか、マルクスを読んだだけではさっぱり分からなくて、一部の言説が誇張されてキメラ化してあんな風なテロや虐殺に繋がったのだろうなとしか思えない所産ですよね。

 

弟子たちは異国人との食卓を一緒に囲まなかったというのはおっしゃるように人間的ですね。キリストが捕まる前のゲッセマネでも「私は瞑想するから君たちも瞑想していなさい」って言ってキリストは一人で瞑想するためにどっかに行っちゃうんですが、その瞑想があまりに長いために弟子たちはみんな寝てしまったという(笑)

 

あとキリストが捕まったときに身の保身のために「キリストなんて知らない」と逃げたりしたのも人間味ですよね。弟子たちは所謂、ただの人間なのでキリストの精神性などには及びもしていなかったわけですよね。それでもめちゃめちゃ敬虔な連中だとは思いますが。ユダなども悪人というイメージがありますが人間臭いですよね。師匠を金で売ったわけですが、結果的に罪悪感により自殺しているというのはやはりキリストを尊敬していたからだと思うんですよね。

 

話は変わって数学なんですが、その二面性って道教とかで言うところの陰陽なんですよね。daimonionさんがおっしゃるように偉大な科学者で神秘主義に目覚める人が多かったというのも、ただの論理だけではない深遠な世界を知っていたからこそ、そういったものに目覚めたんだと思うんですよね。ニールス・ボーアの家紋が太極図だったりするのもそういうことでしょうし、アンドレ・ヴェイユの愛読書がヴァガバット・ギーターだったりするのもそういうことなんだと思っています。シュレーディンガーなんかも「生命とは何か」という本を書いていますし、内容は科学的でありながら形而上学的ですよね。

 

あとまさにおっしゃるように数学や物理学は人間が扱う部分は論理ですが、世界が機械論的に動いている場合、あんな妙なことが物理学や数学で発見されるわけがないんですよね。ガリレオは数学は自然の言語だと言っていましたし、ヘルマン・ワイルなどもドライな機械論的な考えではなく有機的な考え方をしていましたよね。

 

数学の哲学や基礎論を色々と読んでいた時期があるのですが、機械論とは対照的な世界にあるというのが確信できましたね。ゲーデルなどが晩年にライプニッツ思想にハマっていたのも結局はそういうことなんだと思います。

 

結局、数学的なことは自然を人間の力で記述するというようなものなので機械論的ではない世界のフィードバックを数学という言語に変換する作業なんですよね。もしくは自然から与えられた部分的な要素から論理で煮詰めていって全体像を明らかにするような、そもそも外部が無いと成立しないものですよね。

 

論理学となるとまたちょっと違うのでしょうけど、この辺はレンマという考え方もあり、仏教などはむしろレンマ的であり(レンマ学においてのレンマ)0か1だけで考えてしまうのは近代の西洋哲学や西洋的な考え方の悪い流れなんですよね。

 

でもまぁ哲学者でそんな0か1だけで考えている人間なんて少数なんですけどね。それで言ってしまえばプラトンはそもそも神秘主義的でプラトンを哲学のひな型だとするのなら、哲学者のほとんどはその神秘思想を受け継いで哲学をやっていたことになりますよね。

 

当然、キリスト教がドミナントな時代が多かったのでキリスト教の影響を受けていない哲学というのもほとんどないですね。逆にショーペンハウエルの場合は東洋思想やインド思想などに影響を受けているわけですが、これも0と1の世界ではないですよね。で、ニーチェは機械論的な0と1の世界とは程遠いスピノザやショーペンハウエルからの影響を公言しているわけですよね。

 

で、現代思想の父とも考えられなくもないハイデガーは元々は神学をやろうとしていたけど、バルトなどの優秀な神学者がいたので「こりゃ無理だ」と思ったのか哲学をやるようになりますが、彼の哲学にあからさまな神秘思想は出てきませんけど、明らかに影響がありますよね。晩年は禅などに興味を持ったというのも0と1だけではない抽象的な世界観への親和性を感じたんだと思うんですよね。

 

「自分が言いたかったことは鈴木大拙が書いている!」なんて言ったのを鈴木が聞いて「そんなの全然違うよ」とかって言ったらしいですが(笑)西洋哲学は学術的な規模でドミナントなだけで、思想や思想に関わらず数学や科学の世界などでも0と1だけで分かるようなことだけではないわけですよね。しつこいようですがdaimonionさんがおっしゃるように世界が機械的だったら現在の科学はありえないわけですよね。

 

それは「科学でここまでわかっている」ということがアプリオリだから機械論的に考えてしまうという人間の思考の癖のようなもので、俯瞰して見れば機械的ではないことは明らかですね。


daimonionさんの最近の数学の関心の分野の話で言うとおっしゃるように結果だけ見れば論理かもしれないがよくよく考えるとオカルト的なのっていっぱいありますよね(笑)僕がその辺で勉強のし初めに感嘆したのはカントールの無限の概念全般なんですが、後にカントールのバイオグラフィーの本を読んでみるとカントール自身が敬虔なクリスチャンでカントールが考える神の概念からカントールの無限の諸概念を生み出したという話があるんですよね。

 

つまりはカントールなりの「神のイメージ」というのがあり、それを数学として表したのがカントールの一連の無限関係の概念と言えなくもないんですよね。完全なオカルトで言うとラマヌジャンですが(笑)あれはオカルトというより事実なのでしょうがないですね。

 

オカルトと呼ばれがちなものの面白いところはそういった能力はインスピレーションを受けないものからすると完全なインチキの世界なんですが、ラマヌジャンが良い例で話はあるわけがないオカルト話なんですがそれが結果的に数学のアウトプットという実証に結びついていることですよね。「そういうイメージを見ました」だけだと「はい、そうですか」だけど実際に論証ができるレベルの数学としてアウトプットされているのでオカルト的なプロセスは実証可能ではないが、結果は実証可能であるというかつまりは証明可能であるというものが出ているということですよね。

 

だから最近思うのはプロセスなどにおいても「普通」なんて言葉を乱用してはいけないということなんですよね。言ったら学会から干されたり誰からも相手にされなくなるような方法かもしれないけど、特殊な方法でインスピレーションを得ているかもしれないわけですよね。

 

神秘思想や東洋の特に神秘的な密教的なものはほぼそれだけの世界といっても過言ではないんですが、時代や場所も違うのに言っていることが似ていたりするのが凄く面白いと思うんですよね。キリスト教は旧約聖書との兼ね合いもあって唯一神の宗教となっていますが、神秘主義者にとっては仏教でいうところのブッダへの帰依というのがキリストへの帰依になるわけでといっても厳密に全く同じ概念かは別として似ているものですよね。

 

で、それとの合一を目指すというのも創造神との合一などありえないので、あくまで実在した受肉された存在であったブッダやキリストへの合一が可能になるということですよね。

 

でもキリスト教の教義ではキリストのみが唯一神の受肉をされた人間なので合一はキリスト以外はできないってことになるんですが、エックハルトのような神秘主義者の場合、唯一神を否定しているわけではないのですが精神の浄化をして神との合一をするという風に言っていて、まぁその神というのは東洋思想で言うところの無なんですが、こういうところが宗教の核心であってエッセンスであって、それを目指す行こそが宗教だと僕は思っているのですが、世俗化された宗教は全くベクトルが違うので同じ名前の全く異質なものですよね。


ところで話がまた数学に戻るんですが、僕の場合、何かとイメージが先行するので概念自体は頭の中にあったりイメージで理解可能なものを数学という言語で厳密に記述するというのが言語化のプロセスなので、言うならば太極拳や気功などで「気」は確かにあるけど言葉にできない・・・みたいな体験や感覚が先行しているものを厳密に記号化したり言語化したりするというところが数学の凄さだと思うんですね。

 

だからなんでしょうね、事象はすでにあるんですよね。人間に観測不可能だったり理解不可能なものを含めると現象は比喩的に無限にあると思います。その局所的な、人間にイメージが可能で凄まじい技術によって数学などにより記述化できたものが数学なんだと思ってるんですね。まぁこれはよく数学の哲学や基礎論などであるプラトニズム的数学観というやつですね。そういう意味で僕はプラトニストであるのとイメージ先行型であるのというのと、あとゲーデルがプラトニストであったというところにも非常に影響を受けていまして、ナイーヴだとは思いますが僕はやはり数学はイデアだと思うんですね。

 

それは数学の哲学で議論されるような、すでにあるものを発見したのか人間が作り出したのか?っていうことですよね。ちょっと厳密さを欠きますが機械論的世界観においては「作り出す」という言葉がしっくりくると思うんです。その作り出したものを利用して色んな技術に役に立てたりというまさに機械の歯車のような役割をするのが人間によって作られた技術なんですが、機械論的ではない世界観の場合、それは人間が数ある現象の一部を数学的技術によって抽出した結果、使えるようになったもので、いかにそれを人工的に機械的に利用しようとも原理は自然ということなんですよね。

 

ただそこで人為的な操作が加わるので自然から逸脱したようなものも機械論的に可能になってしまうというのが、技術や生命などにおける倫理の問題なんだと思うんですよね。

 

最後になりますが、最近僕が偏見をなくして開こうと思っている未知の世界は、今の段階では科学的に証明されたり実証はされていないが、そういった未知のものを利用した結果、出来上がったものがあったりそういった精神状態に持っていけたというような、主観的な体験やプロセスは本人の記述ぐらいしかなく、どうやればいいのか?というのを普遍化はできないが明らかに結果が出ているものという意味での「隠されたもの」にフォーカスするという感じなのですが、下手すれば一気にスピリチュアルに振れたんか?とかって思われそうなところを絶妙なまさに僕が思っているバランス感覚に即したコメントをしてくださったdaimonionさんには非常に感謝しています。

 

また返信などがありましたら是非よろしくお願いします!哲学と数学を勉強しているというのは最強だと思うので、ガンガン学問の道に邁進していってほしいと心から願っています!