瞬間をゼロに近づける。

恐らく論理的というよりかは精神的なものである禅語録みたいなものとか抽象的な仏教の話とか神秘主義の話がストンと心に入ってくるのはやっぱりある程度のAwarenessと心の状態ってのがあると思うんだよね。言葉の世界に限界を感じたというか逆に言葉の世界がなんですべてだと思っていたのか?っていう疑問からだんだん心が変わり始めて・・・的なね。

 

そういう頭のフィルターになるとキャッチする情報も変わってきてきっかけはなんだったか分からないけどっつーかまぁ最近のキリスト教ベースなんだけどそっからの仏教とか禅への系統の中で寒山詩ってのがあるんだけどまぁ要約すればハードコアウォール伝って感じなんだけど(笑)結局まぁ俺はこういう厭世的な仙人的なものに惹かれるんだなと思いつつそれになぜか惹かれるという魂の傾向がありつつ結局は色々と考えていっても必然的にそうなるよねっていう世界なんだっつーことなんだよね。

 

まぁホント、最近思うんだよね。今まで色々と消費したり欲しいものを見つけまくって金使いまくってきたけどコロナになってから前ほどは使えなくなって、結果的に外に出る機会も少なくなってっつーか世間的にそうしろって話でまぁそれはいいんだけど本当にサステイナビリティが心配になるよね。まぁもちろん精神面では最近色々と見つけたものに傾倒することである程度大丈夫にはなったにせよ、物理的な面ではもう何も求められないなっつーのがあるよね。

 

それは仏教とかで言われる執着を無くすというよりやりつくして無くなったっつーほうが正しいんだけど、でもまぁ執着とか欲望って悪い面ばっかじゃなくてまぁくだらないことだけど「実力を世に知らしめてやる!」とかって色々と頑張る動機づけにはなるじゃん?まぁもうこういうの一切興味ないんだけどでもそうなるともはや生きてるってのが何なのか?ってことになるよね。

 

20代30代は色々な欲があったから頑張れたしやってこれたけど今みたいに中途半端だけど若干解脱気味な場合、余生って何なんだろう?って気がするんだよね。もちろん精神的な面での修養とかロマン的にサイキック的な能力を伸ばす!とか面白いんだけど、人間ってフィジカルな面も多いわけじゃん?フィジカルな楽しみとかさ、旅行行きたい!とか友達と飲みたい!とかって素敵ですよね。でも元々そういうのがあんまりないのとそれに加えてまぁもう外の世界何にもねーなって言い始めてだいぶ経つけどそっから今みたいな宗教路線があると余計にそれが促されるよね。

 

だからなんだろう、もう完全に割り切って修道の道を歩んでるぐらいの認識のほうがいいのかなと思ったりね。ただなんで俺が世の中とのつながりを大事にするのか?っていうとやっぱ生活のためなわけだよね。全く喋らないで本ばっか読んでテンガでシコってたら人格変わるでしょう(笑)そういうところの社会性みたいなのは維持したいって思うんだけどそれすらもいらなくなった場合、本読んでテンガでシコるのが人生でもよくなるよね。

 

ってことは生活さえなんとかなればいいのかってことになると寒山詩みたいなのが余計に響くんだよね。誰も来ない年中寒い山みたいなところで暮らせればどうにでもなるさ的なね、まぁただこれを西洋的なミニマリズムとか我慢する金ないタイプのセミリタイアとかって考えると超ダサいんだけど寒山詩は覚者がそう思っているっていうところだから俗人に実行は無理にしてもね、でもなんかどっちが先なのか?的なね、生活があるから生活のことを考えなきゃいけないんだけど生活が無かったら考えなくてもいいってことになるよね。極論だけど。

 

そうなると人生というより生活って何なんだ?ってことになるんだよね。だからそれを「別に何でもない」って言いきれるぐらいまで精神レベルを高めれば生活とか人生そのものが消えて悩みとか苦痛からも解放されるんだろうなって思うと目指すべきはそこかなと思うのとあと前にも書いたけど悪い意味での煩雑な世俗とのつながりで乱されるものがあったりするとそれは凄く嫌だから自閉的にならないにしてもなるべく自分の領域を犯されないようにする生活を考えるっていうまぁ生活デザインになるよね。

 

ただ砂漠の師父の言葉っつー本でまぁ色んな「あるとき彼はこういった」的なアフォリズムっつーの?まぁ色んなそういうものの砂漠の教父時代のコンピみたいな本なんだけどその中で祈ってたら神からこんなお告げがあったっつーんだよね。「耳蝉よ、人を避けよ。そうすれば救われる」これって創作じゃなくて名前の部分を耳蝉にしただけで内容一緒だからね(笑)

 

南直哉さんも言ってるように何が一番世の中で辛いのか?って人間関係なんだよね。サークル仲間とか釣り仲間的な仲間ならいいんだけど俺が言いたいのは不可避な人間関係ね。あいつ苦手だから接するのやめるわってやめることができない人間関係に縛られて苦痛を感じるってのが地獄なんだと。サルトルも似たようなことを言ってた気がするんだけどまぁようは普遍的ってことだよね。

 

でも世の中では人と繋がりましょう!とか人間関係の重要性とかって言うけどそれは相手によるだろうと。「人間」って一括りにはできんだろうって話だよね。だからこちらが人間関係を選べる立場でありなさいっていう教えっていう風に拡大解釈するとまぁようは自分で自分の舵を取れる人間になれってことだよね。ただまぁ人と関われ!ってイデオロギーみたいなもんで自明じゃないからね。なんでもかんでもそうなんじゃなくて人を選べるぐらいの人間になっててなおかつそういう人たちとだけ関われるのであればそれはもうヴィヴァ人間!ですよ。でもそんな人間稀ですよね。

 

だから繋がったほうがいいし人生も豊かになるような人との関係は大事にしたほうがいいけど強いられる人間関係は苦痛でしかないからそういう意味で「人を避けよ」ってのは間違いじゃないどころか正論過ぎるよね。人間9割ぐらい色んな意味で腐ってるから絶対に人に期待しちゃダメだよね。自分がなんかやって人がついてくる分にはいいんだけどね。

 

なんかさ、不貞腐れてこういう思想とかにハマってるわけじゃなくて仏教のゼロポイントなんかにも書いてあったけどまぁ僧侶であるってことはニートであるってことで尊いとされる労働が僧侶にとっては宗教的実践に代わるわけで、まぁこれも「どう生きるか?」って考えるとそこまで異様な話でもないんだよね。

 

金が全てだから経済活動から金儲けから何かしらの金に繋がるような実学みたいなのが良いとされるけどいつも書いてるけどこれって本当に金が中心の世界だからね。自分が理解するキリスト教の場合、この現代の金にあたる部分がキリストなり神なんだよね。でもそれは金みたいなエゴとか損得ではない純粋な中心としての神だよね。今はっつーかもう何百年ぐらいそうだけど金が中心になり過ぎたよね。

 

なんかそこをなんとかできないのか?っていつも考えるんだよね。任意の労働はありだけど労働がデフォというのはどうなんだろう?っていうね、俺が言っても説得力無いんだけどブッダとか近代だとハンナ・アーレントも人間的活動を中心に生きなければ!って言ってたわけでさ、まぁそれが文化ってやつじゃない?

 

これは前から書いてるけど俺は頑張ってるんだ!って頑張りマウンティングしたらダメですよね。そりゃ自分が家族なりなんなり何のためかは分からないけど任意で労働してるわけでその頑張りを頑張ってない人に押し付けたらダメだよね。お前もやれ!なんてのは奴隷意志だからね。

 

まぁ俺ってアメリカにいたぐらいの頃は奴隷になるなって言いまくってた気がするけど以外にもこの考えって普及してるよねっつーか俺が普及させたとかじゃなくて(笑)本当にクソみたいな人生になっちゃうからなんとかしなきゃなっていう気付きが凄く重要とされるようになってるじゃん?そこだよね。なんかだから目覚めてる人たちってすでに相当いるんだよね。

 

まぁあとは風潮ですな。労働マウンティングとか労働自慢するのは超ダサいっていう風潮にしたほうがいいよね。俺は仕事も含めて人間関係なんかも良好で楽しんでるよ!って人に「くそ!俺も楽しまなきゃ!」っていう意味での楽しみでの競争心が生まれればいいと思うけどね。まぁ別に競争自体はしなくていいんだけど「だったら俺はもっと働いてやる!」みたいな時代じゃねーんですわ旦那ってことだよね。

 

そういう強いられる労働からの解放ってのがアフターコロナのテーマだと思うんだよね。いきなりなんか色々ダメになったり急激に社会が変わってもサステイナブルでいられるという一種のモデルだよね。労働一極依存だから色々ダメになるしダメになったら即死ぬみたいなことになるって超不健全だからね。

 

なんかそこはなんとかしたいって一番思ってることかな。自分もそうでありたいし労働好きだったり仕事好きな人はいいけど好きなことをしてやっていきたい人はそれがやっていける世の中が良いに決まってるからなんかそうなんねーかなーって思ってるんだよね。社会的な関心というともっぱらそこだよね。生活費だ家賃だ必要に迫られて労働をし続けなきゃいけない人生ほど地獄なものはないからね。

 

まぁそれでも衣食住があるだけいいだろ!って下を見て下水みたいなところで住んでる人もいるんだぞ!とかって言う人もうさすがにあんまりいないだろうけど(笑)結局これって文明の進化なんですよ。そういう労働に依存せずにやりたいことだけをやって生きていけるような仕組みの社会って高度な文明化ですよね。

 

でもそれはシステムだけではなくて個々のマインドが凄く重要ということなんだよね。そういう意味で俺は瞑想なんかも含めてそういうマインド力って人を捩じり殺せるんじゃないかってぐらい念が強いから(笑)そういうマインドを染み込ませるんだよね。つまりは主体的に生きたいわけだ。っつっても主は神だから神を主体に生きたいってことだよね。そういう意味では生きたい意欲はめっちゃあるんだけどまぁ聊か単調で退屈なんだけどね(笑)

 

あと精神を高めるって日々の認識とか知識と行動とか認知の動きの察知とかっていう凄く高度で煩雑なことを習慣化するってことで、そういうところでは俺は変なスピリチュアルでなんとかしようとは思ってないんでそこはあくまで理知的だしウォール伝スタイルですよ。そのために瞑想をしてアストラル体を・・・とか言い出したらアレだけどね(笑)まぁ瞑想とかの理論でそういうのがあるのはいいけどそういうアストラル体どうのっつーセミナーを受けたからマインドが変わるんじゃなくて日々のマインドを変えていくってことなんですよ。

 

だからまぁやっぱ俺にとって一番良いのは霊性があってオカルトとかスピリチュアル過ぎないさっき書いたような寒山詩とか砂漠の師父の言葉とかっていうような良書を読みながら瞑想と日々のマインドの動きに気を配るってことを絶えずにやるってことなんだよね。なかなか難しいですよ。ホント。でもやらないことには習慣にならないからね。

 

ただ今思うっつーか実験してるのは気を配ることを絶えずやるという瞬間瞬間とかって言われるものの瞬間を限りなくゼロに近づけたいってことなんだよね。離散的なんだけどゼロという意味では連続体みたいな西田哲学みたいなのとも通じるところがあるんだけどそういう認識の働きだよね。そこは脳に楽させないでそれこそ頭脳の労働として日々やるってことが自分的には宗教的実践って感じになってるかな。

 

まぁ今日はそんな感じでこの辺で。

 

んじゃまた。