キリスト教の哲学化。

 新作できたのでよろしく。

The Interior Castle

The Interior Castle

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daimonionさんとのやり取りで出てきた宗教のオリジンみたいな話なんだけど、ちょっと自分的にまとめたかったので。というのもユダヤ教みたいにその宗教自体が神話も含めてその民族と深いかかわりどころかその民族そのものを規定するようなものである場合、なんだろうね、言葉が見つからないんだけど枢軸的宗教とでも言うのかな(笑)

 

つまりはそれが民族的であるが故にそういう枢軸的宗教は政治性を持つし権力を持つようになるよね。っつってもまぁ宗教全般なんて語れるほど宗教学詳しいわけじゃないんだけどまぁ大雑把に仏教を語るとっていうかこの枢軸っていうことに当てはめると当てはまらないよね。

 

っつーのは仏教は教えという面が主だからね。ブッダの言葉という宗教でなおかつそれが民族の成り立ちとか民族の存続をかけたようなものではなくて、極めて内面的なものだからある意味、民族関係なく広がるんだよね。で、元が教えなんで権力とか民族主義にはならないっつっても教えを流用して悪用する権力とかカルトはいくらでもあるんだけどブッダ自体には何の非もないよね。

 

なんかこの二つだけ考えても同じ宗教っつっても全然違うよね。よく宗教同士の対話とかエキュメニカルとかって言うけど同じ宗教と定義されてるだけで全く別物っつーかさ、イージーリスニングとデスメタルの対話ってあんま意味ないじゃん?(笑)違い過ぎるからね。ブラックメタルとデスメタルとかイージーリスニングとソフトロックとかならまだ分かるけど宗教同士の対話と言われるものは大体前者の違い過ぎるものなんで全然意味ないんだよね。

 

イスラムはどうなのかな?っつってもまぁタリバンとかの蛮行を見てるともうなんか書きたくないわ(笑)もちろんあれはイスラムという宗教を悪用したならず者集団なんだけどイスラムは元々政治性とか民族性を内在してるものだから普遍足りえないし普遍足りえようと思ったら世界イスラム化計画とかしなきゃいけないってことになるよね。

 

まぁ俺って根本がリベラルだから選民的思想が入ってるやつがすげーダメなんだよね。考え方は選民的なんだけど(笑)軸の思想の部分でそれを持つということはありえないからそれは普遍じゃないといけないわけで、だからやっぱり宗教と言える宗教って権力化したり俗化して権力を振り回すようなキリスト教じゃなくて神秘主義的だったり修道的な内面とか修養的生活というのを重視するキリスト教と仏教だよね。仏教は一応デフォは修養的生活だからね。

 

いつも書くけど旧約聖書が選民的思想があって選ばれし民みたいな言い方をしてるっつーかそういうもんだからしょうがないし何よりユダヤ教の聖典なんで文句を言わなくてもいいんだけど無理に旧約と新約を繋げるやつは論理破綻してるから整理しなきゃいけないと思うんだよね。

 

旧約も悪いところばかりではないんだろうけどこれ以外の神とか教えは認めない!的な、イスラムの異教徒は認めない!みたいなね、まぁ異教徒の定義にもよるんだけど、こういうのって昔独特の野蛮さってあるじゃん?歴史的コンテキストを考えなきゃいけないにしても問題は原理主義っつーかイスラム原理主義じゃなくて聖典を絶対とする思想の場合、文字通りに批判的であることがありえないからキリスト教以外の宗教を信じているやつは異教徒ってことになるもんね。

 

だからまぁ異教徒は排除せよっていうプロトコルが入ってるイスラムと旧約の論理が入ったキリスト教が歴史的に戦争を何千年も続けてるのは当たり前なことなんだよね。まぁあと十字軍なんかもちゃんとした頭の良い十字軍と戦争始めちゃったから十字軍認定された無法者とかっていたわけで、そもそも宗教の名のもとに戦争してる時点でアウトなんだけど歴史的なキリスト教は本当に野蛮だよね。野蛮過ぎて歴史に興味が無くなった今でも一応歴史みたいなのは読むけど異教徒殺しに関してはイスラムの比じゃないからね。

 

その異教徒は認めない!的な偏屈さってまぁ旧約聖書だよね。新約はヨハネの黙示録みたいな電波文章も入っちゃってるけどちゃんとしたのだけ集めればキリストとその使途の話だけで民族がどうのとかって話は出てこないし異教徒って話も出てこないよね。何しろあれだよ、これもキリストの思想だから仏教と一緒でブッダは仏教ができるなんて思って色々言ってないから異教徒なんつー概念がないんだよね。キリストも一応ユダヤ教徒だったんだろうけどユダヤ教の批判者ではあったからニュートラルではあるよね。人がどうあるべきか?とかどう考えるべきか?とかっていう話じゃん?まぁ思想よね。

 

でも別にユダヤ教とかイスラム教が差別の宗教ではないのは明らかで真っ当な人たちが大半なわけだから批判したいわけじゃないんだけど、ただキリスト教のアンバランスとかダメなところって旧約との無理やりな繋げ方と新約の編集の仕方だよね。言わば昔のラフドラフトな状態のがもう聖典だとされたから変更できないみたいなさ、9条みたいになっちゃってるんだよね。でもそこは違うだろうって思うんだよね。

 

何しろ何千年も経ってて研究も進んでるわけで古代の宗教のユダヤ教とかなら別だけどキリスト教が出来たのなんてキリストが死んでからだいぶ後だし成立自体いつっつーことを言える根拠ってないぐらいだからね。キリスト本人的にはユダヤ教と分けるつもりはなくてユダヤ教のアップデートバージョンを実践しようとしていた思想家兼神秘家みたいな感じだったんだけど後になってそれがユダヤ教とは別のキリスト教を生み出す基盤を作ったわけで、ここからの解釈ってある意味自由なんだよね。

 

昔からある旧約と新約を分けないっていうのも一つではあるけどあくまでそれは昔に決まった話で今から見ればユダヤ教とキリスト教なんて別物だし、特にキリストが祈りとか瞑想とかを重視していたってのを考えるとっつーかそういう思想を継承したものって独自の発展を遂げてるじゃん?だからもう別物なんですよね。教会の権威によってそれがドグマになってるのとキリスト教関係の研究が煩雑なのも旧約聖書も含めた論理的整合性とかを考えるから範囲が無駄に広くなっちゃうんだよね。

 

でもキリスト思想ってことだけにフォーカスすると重要なところってすんげー長い教義学とかに比べればシンプルでかなり仏教とかに近い内面世界のものなんであってそういうものに帰依するっていう形があってもいいと思うんだよね。まぁ俺みたいなフリースタイルのキリスト者みたいなね。

 

でもまぁあれよね、ユダヤ教ならカバラとかユダヤ神秘主義っていうような、より俺の思う宗教と言えるような精神性にフォーカスしたものもあるし、それで言えばイスラムのスーフィズムなんかもまさにそうだから、結局、神秘主義的な分派がガチなんだよね。より密教的で世俗的ではないものだよね。

 

それは閉じられているのではなくて普通に生活してると実践しづらくて日々の信仰みたいな軽い感じにはできないっていうまぁカジュアルさが無いハードコアなものっていう感じなんだけどそれで言うとそもそも宗教ってハードコアだよね。仏陀の修行を見てもハードコア過ぎるしキリストの人生とか祈る時間とか瞑想する時間とかハードコアでしょ。だからそもそも世俗化不可能なものが無理やり形骸化された状態で世俗化されたのが大体の宗教と言えるよね。

 

だから俺が思う宗教ってのはイコールそのまま密教になるんだよね。まぁ凄まじく小乗的な内省的なね。ただキリスト教で面白いのは初期ギリシャ教父とか砂漠の師父とかには祈りと生活を重視した禅僧みたいな実践者が多かったってことなんだよね。というかこれがやっぱキリスト教なんだよね。原始キリスト教とでも言うのかな。

 

で、変化してくるのがまぁ権力と密着したカトリックとかだよね。こうなるともう別物になっちゃうわけだし、そもそもそう思うとガチのキリスト教って隠者の思想なわけで仙道とかと似てるよね。聖アントニオスみたいな人が真の実践者なわけだよね。で、とてもあんな人がキリスト教を広めるために他国に侵略するっつー計画を思いつくわけがないわけで(笑)恐らくキリスト教はこの時点から悪化しかしてないから仏教とかと一緒で色々と混ざっちゃった後期のものよりもなるべく資料は少なくても原始のものに限ったほうがいいんだよね。

 

でもまぁそれも色々な歴史的キリスト教研究があって色々なものと照らし合わせて出てくる原始キリスト教っていう像があるから歴史的な学問の成果ってのにリスペクトを評するのは当然だけどね。そういったものに帰依できるようになってるっていう基盤を作ったのは数えきれない人数と年数の研究とか文献掘りだからね。でもまぁ仏教のハードコアな修行僧がそうだけどキリスト教がおかしいのって明らかにハードコアな仏教僧ほど瞑想とか祈りとかの修行をしてないのに一気に宣教をすることだよね。

 

それこそ神学校出ましたはい次は教会に就職して宣教しますみたいな職業じゃん?まぁ職業としての宗教者ってのもあるんだろうけど実践者だったらまず修行が最初に来るはずで人に何かを語るとか宣教するなんて下手すれば一生できないかもしれないわけだよね。禅なんかだと公案を出す老師なんてまぁ老師って書くぐらいで長年の修行の果てに老師になった禅僧だよね。23ぐらいの禅僧が公案を出すってあんまり考えられないよね。かといってもホリエモンのすし職人の論理じゃないけど修行は最低何十年って決まってるんだ!なんつーことで修行の長さが決められるべきではないんだよね。

 

中には天才みたいなやつがいて一瞬で悟っちゃうやつもいるかもしれないわけで、そこは年齢関係ないよね。ただ覚者になることの大変さって半端じゃないでしょ。9割がなろうとしてなれないわけでしょ。結局禅って思うに悟りなり長い修行の中で起きた神秘体験とかまぁ体験した側じゃないと言えないことしかないんだよね。でもキリスト教って既存の教義学とかの場合、積み上げの学問とかと一緒で体験が伴わなくても最低限の知識があればオッケーになっちゃうでしょ。まぁ職業的宗教家ってことで言えば寺を継いだだけの住職とかも同じだから別にキリスト教だけが良くないってわけではないんだけどね。

 

あ、んでユダヤの選民的な感じをフォローしておくと長い間えげつない迫害を受けてきた中で「我々は神に選ばれし民族なのだ」という神話がどれだけのユダヤ人を救ってきたかってことなんでそれ自体は批判できないんだけど、そういう民族の歴史を理解するのは当然としても、それが聖典であるが故に変わらないままでいるってのはどうなのかな?っていうところだよね。なんかそこは歴史的バックグラウンドと表象の問題っていうかさ、それを守り続けることで現代ではあまり良いことが起こらない場合、どうなのよ?って検討することって大事よね。聖典の問題は不可侵なものっつーところにあるよね。っつーか宗教全般の問題ってここにあると思うわ。

 

ニーチェの遠近法主義じゃないけどって微妙に違うけどなんつーか特定の時代とその民族の置かれた状況における思想とかその思想の解釈がそのまま聖典になって不可侵のものとして盲目的に信仰されるってのは問題だよねってことだよね。

 

戦前の国家に利用された国家神道みたいなのが形として残っちゃうみたいなもんじゃん?いや、ユダヤ教はそんな国家神道みたいな悪意はないにしてもよ、宗教プロパーに足りないのって宗教への批判性だし哲学者に足りないのは宗教への理解の浅さとか軽視だよね。哲学者でもリクールとかジャンリュックナンシーとか近代の哲学寄りな神学者はそうでもないんだけどバランスが良い人ってあんまりいないよね。ただまぁ実際の現代の宗教の形骸化が酷いからって何百年前からそうだけどそれが故に批判的にならざるを得ないのは分かるんだけどそういう世俗宗教と密教的なesotericな宗教って散々書いたように違うから、なんかその辺の摺り寄せってのが大事な気がするんだよね。

 

ただ思想もセンスだから哲学的センスには長けてても宗教的センスが無かったり圧倒的に多いのは野暮ったい神学者の神学プロパー過ぎて哲学の理解が浅いっていうようなものなんだよね。なんかもっとエピックな感じの神学者っていてもいい気がするんだけどいないんだよね。まぁそういうラディカルな哲学とラディカルな神学を行き来できるような思想家がいない限りキリスト教って衰退するだけだよね。まぁただ逆を言えば仏教とかは元々ラディカルだから凄い強い思想なんで調整がいらないのに対してキリスト教は野暮ったい世俗っぽいのが多いからラディカライズできる余地がいっぱいあるっていうところなんだよね。思想のジャックポットというかね。

 

他の哲学に比べて特にキリストの福音を中心に考える場合、解釈が自由だからドグマ化することもなければ形骸化した儀式化するようなものでもないんで、キリスト教思想ってすげー掘れる分野だと思ってるんだよね。それは自分がキリスト教に目覚めたとは関係なくそれがきっかけで読み始めたらジャックポットだったっつーラッキーさもあるんだけどね。

 

でもそれは歴史的なキリスト教思想家を勉強するとかキリスト思想史をやるってことじゃなくてキリスト自体をブッダ的な思想家として捉えてフィロソファイズすると膠着化した宗教とは全く別の自由で実践的なものが出来上がるってことだよね。もちろんそういうのをやってきた人はいてやっぱりそれが俺的に言えばキリスト教神秘主義者に多い気がするんだよね。あとまぁ東方系のキリスト思想家とかね。

 

その点、哲学とか思想は聖典ではないし解釈は宗教に比べれば相当個々の考えの余地があるからだから例えばネグリとかはスピノザのアップデートバージョンみたいなのを哲学として提示できてなおかつ政治学にも応用したりだとかさ、ドゥルーズとかも言わばニーチェだけじゃないけどやっぱニーチェの影響が強いと思うんでニーチェのアップデートバージョンよね。デリダで言えばハイデガーかな。

 

でも途端に宗教となるとそれがキリストの言葉ではなくてもキリストの言葉に準じたものとなると一気に不可避感が出てくるんだよね。でも実は中世とか東方の神秘化って凄く上手くフィロソファイズしたり観想という部分のよりフォーカスしたりっていうアップデートなりアレンジを行ってるわけだよね。でもそれはキリスト教というよりキリストの福音自体のフレキシビリティなんだと思うんだよね。

 

だからこそドグマ化は勿体なさすぎるしああいったこういったの解釈の違いだけでギャーギャーずーっとやるってのは学問的には必要かもしれないけど相当不毛だなーって思っててね。別に聖書学とかディスるわけじゃないし特に高等批評なんかは必須でこれがもたらすドグマの崩壊って痛快なもんがあるし、でもイスラムとかだと絶対無理だよね。

 

そこがキリスト教の良いところだと思ってるんだよね。でも書店のキリスト教関係のところに言っても面白いのって全然ないし、ただまぁ戦後の昭和に創文社とかから出てたような戦後の日本の神学者って優秀な人が多くて哲学となるとロクでもない輸入かただの文献研究みたいなのが多いのに対して日本の戦後の神学者って独自の哲学化をしてる人たちがいるんだけど何分、ジャンルがマイナーだけにあまりフォーカスされないっていうね。

 

ただまぁ俺はそういう日本の戦後の神学者とかの硬直化したドグマへのカウンターみたいなフィロソファイズに相当影響を受けてるんだよね。思想のレアグルーヴ感があるよね。まぁ哲学だけやってたらまず読まないだろうし。

 

ただまぁ痛みの神学とかああいうのはどうかなー?って思うけどね(笑)ただまぁそういうのだけじゃないってことだよね。良いのもかなりあるってことなんだよね。で、まぁそこが京都学派とかと似ててバタ臭くないというか、キリスト教圏じゃないからこその絶妙なキリスト教への距離感があるんだよね。キリスト教徒ではあってもガッチガチのキリスト教徒みたいな聖書への不可侵感とか畏怖とかってのはあんまりない気がするんだよね。

 

仮になんでも脱構築可能で解釈学的な再解釈が可能であってもそれが聖典の場合、なかなかそうはいかないような、これは定説なので(笑)っていうまぁ決まった解釈しかありえないとかっていう場合、思想のダイナミズムが全然ないんだけど、キリスト教は聖典ではあるけども特に新約は思想書として読めるわけで、まぁあと旧約でも詩編とかは凄くいいと思うけどね。

 

ただまぁなんだろう、原始キリスト教の神学者がやってきたような、プラトニズム寄りでヘブライ的というよりはギリシャ的な神学を展開してた人たちって多いわけで、まぁそういうベクトルってすげーありだよなっていうのと、なんで初期のものは割と自由に哲学化できているのだろう?って考えると憶測もあるけどやっぱりキリスト教っつーかカトリックが国教とかになっちゃって「この解釈以外認めん!」みたいな異端は焼き尽くす!みたいなことをやる前だったから可能だったのかな?ってのはあるよねっつってもまぁ結構リアルタイムに独自過ぎてディスられている人たちは多いんだけど焼き殺されてはいないんでね(笑)

 

ただまぁそういう意味で東方系は焼き殺すみたいな世界とは距離があったと思うんで、だから神秘化とかキリスト教思想家が多かったのかな?って思ってるんだけどね。まぁそれでもずいぶんやりづらかったとは思うんだけど。まぁ東方にロマンを求めちゃいけないんだけどね(笑)ただまぁローマのカトリックの統治っていう意味での自由神学的な個々の独自の解釈が異端とされたっていうのは本当に負の遺産だよね。ただまぁ教会とか組織単位での腐敗は西方だろうが東方だろうが関係なく腐敗してるんだけどね。

 

だからまぁ教会に救いは無しってことだね。まぁでもそれはキリストが言ってるよね。神と自分との関係において救いがあるわけじゃん?仲介はいらないわけだしましてや腐敗した仲介なんてキリストがもっとも忌み嫌っていたパリサイ派的なものなわけで、腐敗した教会とかキリスト教を掲げている腐敗した組織=アンチクライストだよね。それってキリストが忌み嫌った形骸化した司祭とかが威張ってるようなパリサイ派と同じなわけだからね。

 

ニーチェがアンチクライストって言ってたのも現状のキリスト教の腐敗と負け犬の傷の舐め合いみたいな宗教になっているっていうことの批判なんであってキリスト自体への批判ではないし、ニーチェは人一倍キリスト者だったからこそ現状の腐敗に心を痛めてたわけだよね。まぁそれはニーチェが言ってるからね。真のキリスト者はキリストのみだったってね。まぁエックハルトとかは評価してたみたいだけど。やっぱりニーチェの課題も結局はニヒリズムの超越だったわけで突破者のエックハルトとか仏陀とかキリストはニーチェ的に言えばニーチェ的な超人ではないにしろ超人っていうジャンルに入ってたと思うんだよね。

 

で、まぁそこを宗教抜きに突破するんだ!っつーのがニーチェの超人思想だったわけで。本当のニヒリストな場合、ニヒリズムを克服しようと思わないからね。それはキルケゴール然りだけどキルケゴールなんかある意味ニーチェより既存のキリスト教への批判が凄まじかったからね。そのおかげで今でいう炎上みたいなのをしちゃってたわけだし大変な人生だったんだけどね。なんかまぁ分かるっしょ?俺が言ってる真のキリスト者はいつでも異端者の烙印を押されて批判にさらされたり焼き殺されるっていうね。それはまぁ真実を言う人は非難されるっていうソクラテス的な図式と全く同じなのかもしれないけどね。

 

何よりキリストの時代に教会なんてなかったわけだしキリスト自身が観想とか祈りによって神と通じるということをしていたわけだし、行動も神がそうさせているっていう神が主体だったわけじゃん?つまりは個の宗教なんだよね。宗教というと語弊があるなら個の精神性というわけで、後世の教会とか教義とかを抜くと極めて原始仏教と似てるよね。

 

キリスト教思想とかキリストの福音って世界の財産なんで教会だとか特定の宗派だけに開かれていたり特定の宗派が勝手に規定したものしか読んじゃいけないとかっつーのはまぁ世界遺産を破壊するような行為なわけで、もっと開けてていいんだよね。別に特に哲学好きなわけじゃないけどニーチェは読むみたいな人っているじゃん?そんぐらいの感じで宗教は嫌いだけど新約聖書は読むって人がもっといてもいいと思うんだよね。

 

だからそれには大げさな宗教臭さってのを抜く必要があるよね。それこそ俺みたいに自由にキリスト教を満喫して研究できたほうがいいわけで。実際にそこに救いがあるからね。まぁそれは神秘体験とかを伴うものだから確率論でしかないんだけどなんか「お?」って思ったらあんま教会とか気にしないで読んだほうがいいよね。

 

ってことでまぁそんな感じですかね。

 

んじゃまた。