クンダリーニ症候群なのか?その4。

鬱がやっかいなのはそれが体とか内臓の不調によって鬱症状になっているのか、もしくは今みたいな寒暖差とかで体調がすぐれない結果なのか、もしくは実存的なことなのか?っつーところなんだけど、まぁ俺で言えば全部だけどさ、でもしつこく書くけど鬱の時の世界観っつーか鬱とはちょっと違うんだよな。鬱って「何もかも終わりだ・・・」みたいな病的な悲観とかだったりするんだけど、俺の場合、ニュートラルな世界観っつーのかな?

 

刺激のなさへの退屈とか根源的な虚しさとかっていう実存的なことが原因だし、今までもそれが多かったところを色んなもので誤魔化してきたんだけど今は誤魔化しの方法が無くなってきていて、んでなおかつ瞑想でそういうのと向き合うようにしてるから余計に悪化するように見えるってことなんだけどさ、キルケゴールとかがあんな昔にもうそういう刺激を求める生活とか、まぁキルケゴールは美的生活とかって言ってるけどその行きつく先は絶望と退屈であるとかって言ってるんだよね。

 

気まぐれに生きるということもできない場合、どうすりゃいいんだ?っつーところの解決ってまぁあるわけないですよね(笑)でも思うに享楽が根源的な人生の空虚さからの逃げだったり一時しのぎだったりするんだとすればアルコールとかドラッグって体は壊すけどメンタルは守るよね(笑)

 

冷静に見て「美的生活が破綻している」みたいな論理的な思考を奪ったり鈍らせて素面では面白くないようなことに面白さを感じることができるようになるっつーまぁすんげー逃避だなって思うんだけどさ、まぁそれ自体は否定しないけどこういうのって美的生活も含めて根源的な解決にならないから問題なんだよね。

 

ただ空虚さを解決するって何なんだろう?って本当に思うわけなんだよね。仏教が言うところの他人のために生きるとかさ、敵を愛するとか全然リアルじゃないじゃん?もっと地に足がついた処方箋はないものか?って思うんだけどまぁ無いよね。

 

あとまぁあんま考えないようにするってことだけどそれは俺はできないし仮にできたとしたら脳細胞が日々死んでいくっていうのが加速しそうだよね。どんどん頭悪くなりそうだからまだ色々と考えて辛いほうがマシって気がするんだよね。

 

ただまぁキルケゴールの筋書き通りに美的生活から最終的に宗教的生活とか宗教的実存ってことに今の俺はなってるけど、これって段階じゃなくて常に混在してるんだよね。例えばって一気にゲームの話になるけどすんげー評価が悪いCODのCold Warが半額になってたんで買うじゃん?んでまぁFPSなんてテーマパークと一緒で一瞬楽しめればいいからディズニーランドみたいなもんだよね。

 

んでまぁやり始めるとっていうかキャンペーンはもうちょっと気力が出てきたらやろうと思うんだけど(笑)マルチの面白さってまぁ色んな武器を使って試して考えて・・・っつープロセスだったりするんだけどまぁすぐ飽きるけどね。強武器ってすぐ分かるしあとはマップの把握で立ち回りとかは別に特に変わるわけじゃないから変化ないじゃん?まぁそうすると一瞬で飽きますよね。まぁまだ飽きるほどやってないけどすぐ飽きそうだなーってのがすぐ分かるよね。

 

まぁあのスコアストリーク地獄はなんとかならんのか?って思うけど(笑)前に出ないでロングレンジで芋るほうが有利でスコストでヘリとか空爆呼びまくるってのが定石とかなかなか冷める仕様だけど(笑)冷めるも何も所詮ゲームなんてこんなもんですよね。基本ゲームは冷めるようにできてるよね。

 

まぁこれが一時の享楽ってやつですよ。ただバカじゃないからそんなに何百時間もやり込む前に飽きるんだけど一時は面白いからそのために買うっていうね。欲を無くすっつっても欲に期待しなくても触ってないゲームは一時は楽しいからそういうのには手を出すじゃん?まぁ美的生活とは言えないけどさ(笑)ただまぁそういうののループだよね。

 

超金あって海外旅行しまくったりしても実存問題が解決するとは思えないしなんでも買えたところでそれは今買えるもののグレードが上がったりするだけだから慣れるとこれも飽和するよね。コレクターとかのまぁコレクションが趣味の人はいいけどね。

 

あとあれじゃんね、神学もさ、神秘主義とか正教系の思想に傾倒するにつれて読んでて面白いものが圧倒的に少なくなってきてるんだよね。あまりにつまらないからディスりまくってたバルトの著作集とか教会教義学を読もうと思って読んでも本当にくだらないんだよね。何なのあの神の言葉によって・・・とか神の言葉は・・・とかその神の言葉って何なのよ?っていうさ、なんかああいう西洋系の神学のくだらなさってうさん臭い霊感商法とかと似ていてバルトで言えば「神の言葉は」とか「イエス・キリストによって」みたいなところを「この超神水によって」みたいなうさん臭い商品名にするとそのまま霊感商法とかうさん臭い水を売る商法の言葉と同じなんだよね(笑)

 

全く内容が空虚っていうかさ、これに感謝しなければ我々の生活は無に帰するであろうとか意味不明の決めつけとか基本なんか盲目的な崇拝だよね。フィロカリアとか東方系とか西方でも神秘主義だと神の言葉のありがたみと日々の実践と祈りと・・・っていうプラクティカルな感じがあって凄く整合性があるんだけどまぁ神秘主義は体系にはならなくてあくまで主観的なものだから学問にはならないっつーか神秘主義研究という学問は成立するけど神秘主義者の書いたものが学問か?っていうと違うと思うけどでも宗教ってそういうもんですよね。

 

まぁフィロカリアも言葉にならないことを言葉にしようとしてるからロゴセントリックとも言われるけど空虚な神の名前と根拠のない偉大さを永遠と語り続けるバルトみたいなのと比べたら全然いいよね。学問的になるとイエスの譬えがどうのとかさ、ここでこういう風な言葉を使ってるけど別のところではこうなっているから・・・みたいな重箱の隅を穿るようなくだらないものになったりするじゃん?

 

まぁスコラ主義的と言うのか。だからまぁ興味がさ、前に書いた寒山詩みたいな悟りの境地とプロセスが詩になったものとか、まぁそれが仏教とか禅とかキリスト教関係なく興味あるのがそれだけなんだよね。だから結構神学のやり初めに買った文献学的な学問的なやつとか全然興味なくて読んでもつまらんから「よし神学だ!」みたいに思ってた頃の楽しみがないんだよね。

 

まぁそれは自分の知識とか霊性のレベルが上がった結果、そういう文献学的だったりスコラ的なやつに興味が無くなったっていうことでいいんだけど、どんどんミニマルになるよね。読む文献が膨大にあったほうが楽しみなのにその大半が藻屑というかさ、つまらないごみ本になっちゃうから滅多に良い本と出合えないか、あとは現代音楽についてとかでも書いたような大体良い好みのやつは手元に揃っちゃうんだよね。

 

まぁそんな膨大に本を読めばいいってわけじゃないにしてもディグる楽しさってあるからね。それが無いのがね。宗教音楽にしても中世とかの作曲者がアノニマスなやつとかさ、DufayとかPerotinみたいなやつが結局一番いいよなってことになるとなんかもうそれで完結しちゃうじゃん?なんか色々と音楽聞いた結果、ロバート・ジョンソンが一番いい!みたいな感じに似てるかも(笑)

 

ジャズ趣味のクリシェだけどマイルスでジャズ入門して最終的に良いのがマイルスというマイルスに戻ってくるみたいなのと同じだよね。まぁジャズに関してはそうは思わないけどまぁでも似たようなもんだよね。

 

なんか一般的な学問的な神学って砂上の楼閣だよね。語りえない神とか神秘体験が必ず先行している必要性はないにしても啓示の宗教と言われてるわけだから啓示が無ければただの盲信だから無駄な言葉を重ね続ける意味がないというかね、普遍性でいうと初期仏教とか初期の砂漠の師父とかギリシャ教父に尽きる感じがあって、その後は教義学っつーかさ、スコラ的な護教学の時代が永遠と続くわけじゃん?で、神秘主義的なのは異端扱いされたりね。

 

まぁでも聖者の記念日が俺の誕生日なシメオンとかが東方教会とかの基礎になったりしてて、基本スピリチュアルっつーと語弊があるけど西洋とかって罪がどうのとかさ、なんかひたすら空虚なものに感謝するみたいな、ニーチェがまさに批判してたような世俗的なキリスト教って弱者の宗教みたいになっちゃってるのに対して正教も完璧ではないんだろうけど基本祈りと生活における実践に重きが置かれてるし、カトリックとかみたいに定説への異論は許されない!とかってこともないみたいだし、所謂世俗宗教としては正教が凄くしっくり来るんだよね。

 

まぁプロテスタントとかの西洋的なキリスト教に興味が失せたってのはだいぶ前からそうだけど正教関係の本を読んでいるとその精神性がすげーなって思うよね。まぁ別にかといって正教徒の精神性が凄いというわけではないんだけど、やっぱり東方系って仏教とか修験道とかと似てる感じがあって俺が日本人だからそこがしっくりくるのかな?とは思ったけどね。

 

日本人にとってキリスト教が異様なのは元々異様な西洋的なキリスト教がデフォっていう考え方があるからなんだよね。でも正教は俺の理解では凄く論理的整合性があるし、いろんな説はあるんだろうけど、俺的にただのユダヤ教の概念だろうって思える罪の概念なんかもアダムが死んで腐るっていうmortalityを受け継いでるだけで西洋のキリスト教が言うような原罪なんてのに重きが置かれてない気がするし、そもそも原罪って意味分からないからね(笑)

 

それを引き継いだキリストは現在の贖いのために処刑されたとかもこじつけもいいところだし、殺され方としてはソクラテスがラディカル過ぎて目をつけられて処刑されたのと同じじゃん?もしくはまぁ後の意味付けだよね。ただキリスト教の柔軟性のなさってこういう教義が不動のものとしてあるからこそ変ななじみのない異様なものとしてしか映らないし近代っつっても18世紀とかまぁもっと言えばもっと前からだったかもしれないけどそりゃ信仰離れしますよね。

 

でもキリスト教の本質ってそういうことじゃないわけでさ、あとまぁ正教系の思想家って明らかに西方のと比べてマイナーじゃん?西方のがバルトに見られるような空虚さとスコラ的な乾いた感じに比べて東方のって血が通ってるんだよね。もっと人間の可能性があるだろうっていうところがあるんだよね。それこそ哲学と神学が混在している感じでまぁ結局ギリシャ的なんですよね。まぁそりゃ俺がプラトン好きだからだから正教好きなんでしょ?って言われたらそれまでだけどね。

 

でもまぁ神ってプラトンが言うGoodをGodに置き換えたところで整合性に全く問題ないものだと思ってるんだよね。だからぶっちゃけ信仰心とかもいらないっつーか宗教的じゃないんだよね。つまりはまぁ真理なんだよね。もちろん正教とかだと聖なる知識とかっていう「聖なる」っていう概念がつくけど別につこうがつくまいがそれは信仰の有無だけで信仰があろうがなかろうがその真理の概念が通るってのが普遍だと思うからね。だからまぁ西洋的キリスト教の普遍性って絶対無理なんだよね。普遍性を意味するカトリックが一番普遍から遠いって皮肉だけど(笑)

 

あと日本語で読める入門書みたいなのがマクグラスぐらいしかないってのも問題だよね。ようは西洋的キリスト教の観点がドミナントになっちゃうのは明らかに西洋的キリスト教に比べて正教系がマイナーだからなんだよね。まぁ世界的に見てもカトリックが一番多くて次にプロテスタントで正教会は二桁いかないぐらいなんでしょうがないんだけどまぁなんつーかあれなんですよね、キリスト教というよりキリスト思想に共感してれば教会がどうの政治がどうのって関係ないからね。

 

ただ仏教とか禅って思想として受容できるところがあるんだけどキリスト教って違うじゃん?でも凄いキリスト教思想家っているんだけど大体メジャーなのが西洋系ばっかだからこれまたキリスト教に近づきにくいっていうかどうしても馴染めないって感じになっちゃうんだけど中世の修道思想とか神秘主義とかだと仏教とか禅と似てるところがあってむしろ日本人のほうがそういった霊性に感性が開けてると思うから西洋人より真のキリスト者に近いのって日本人なんじゃないか?って勝手に思ったりしてるんだけどね。

 

なにしろまぁあれですよ、仏教徒とかって別にどっかに所属しなくても仏教的な教えを実践できるじゃないですか?でも西洋的キリスト教だと教会に行ってどうのっていうプロセスがあるから日本人に馴染まないんだけど本来はあれ一人でやるもんですからね。色々読んだ今ならそう言い切れますわ。何しろキリスト自身が一人で瞑想したり祈ってたわけだしキリストが存命してた時代に教会なんてなかったわけだし。

 

多分キリスト教の布教を目的として逆効果をバリバリ発揮しちゃってるのがバチカンとかなんですよね。だから宗教離れが加速するんだよね。でも本来のキリスト教的霊性ということを考えるとああいった腐敗した組織とか中間の人間や組織が介在してる教会とかって邪魔でベストなのはまぁいつの時代も同じなように隠居して修道的生活を送ることなんだけど別に隠居しなくても修道的生活は送れるし、古くはRichard Rolleっつーイギリスの隠者が教会ディスりまくって隠居生活をしながら修道生活を送ってたりして、まぁ教会ディスりまくってるからあんまり取り上げられることがないんだけど、でもまぁそういう異端とかマイナーとされてきた神秘思想家とかキリスト者の著作とかって昔と違って今は普通に読めますからね。

 

あんま文献的なこと分からないけど昔のマイナーだった神秘主義思想家の著書とかって比較的最近になって簡単に読めるようになったっつーか、それこそ20世紀初頭とかだと一部のコアな研究者を除いてまぁあの時代だったらトレルチがどうのとかシュライアマハーがどうだとかってまぁ基本1800年代のドイツの神学者研究とかがメインだったっつーかドミナントだったんだよね。まぁ単純に学問的だからなんだけど。

 

だからキリスト教の長い歴史を考えると初期の教父とか神秘思想家の著作がフォーカスされてるのってホント、割と最近のことなんだよね。まぁ20世紀後半ぐらいといっても過言ではないよね。なんかそこが宗教離れと逆のベクトルでむしろ信仰とか関係なくキリスト教神秘主義者の著作が広くではないけど読まれてるってのは面白い現象だと思うんだよね。やっぱりまぁ分かる人にはこれぞキリスト教の神髄!ってのが分かるんだと思うんだよね。

 

初期キリスト教思想とかだと煩雑な文献学というより初期特有の霊性とか精神性とかに重きが置かれてたからその分、キリスト教思想が純化されたままなんだよね。そこから色々と教義学とかっつー政治要素が絡んできてつまらなくなったり膠着したようなものになっちゃうんだけど、まぁそれは仏教とかにも言えるのかな。まぁでも仏教は比較的キリスト教とかに比べれば初期の仏陀そのものの思想がずーっと生きてるよね。でもキリスト教の場合、キリストというより政治とか教会の都合っつーところに行き過ぎてるんだよね。まぁあとそもそも殺戮をしてきたりしてる時点で宗教として終わってるんですよ(笑)

 

ムハンマドの啓示とタリバンとかISISとどう繋がるの?とかっていう同じ現象がキリスト教では大昔から発生してるんだよね。なんであんな虫も殺さないような思想が軸になった宗教が侵略戦争をするのかさっぱり分からないでしょう。あと異端だっつって焼き殺したりね。仮に時代背景考えても魔女がいてもペイガンっつー多様性を認めて特に害がなければ殺す必要ないわけじゃん?時代背景考慮しても弁解の余地がないのが西洋的キリスト教なんだよね。

 

で、今は形骸化して腐敗したカトリックとアメリカみたいなキリスト教というよりアメリカ教とも言えるような異質なカルトみたいになった福音主義とか世俗のキリスト教だよね。特に民度が低い田舎でそれが酷いのは人間のオツムと比例してるんだよね。

 

だからそういう意味で万人に開かれてるとは言え仏教然りキリスト教然り、やっぱ難しいんですよ。だから南無阿弥陀仏ってとりあえず唱えてりゃ良いファスト仏教みたいなのも生まれるしアメリカのキリスト教福音主義みたいなものになっちゃうんだよね。

 

だとしたら人間というより教えを重視して仮にその結果、小乗になっても真のキリスト者の道を歩むべきだと思うし世俗に迎合して思想が変わっちゃうぐらいならそんなのやめたほうがいいんですよね。

 

まぁ昔の思想に特有だけどっていうかギリシャ哲学は別としてっていうか愚者の船っつー話が出てくるぐらいでさすがだなって思うんだけど宗教になると万人ってことになるじゃん?でもロクでもないやつが多いわけだし新約聖書でも使徒たちの裏切りっていう形でそれは描かれてるじゃん?だから万人って無理なんですよ。かといっても極端に難解にして小難しく見せる必要はないんだけど、ただ簡単な宗教じゃないから万人ってのは無理だよね。

 

だから世俗化した一般向け宗教としてのキリスト教ってのがドミナントになっちゃうんだよね。

 

なんか全然クンダリーニの話じゃないけど(笑)とりあえず今日はこんな感じでいいや。

 

んじゃまた。