クンダリーニ症候群なのか?その6。

なんとか今の何もできないっていうかゲームぐらいしかできない生活から脱却せねば!と思って次に診察に行くときにまたカリフォルニアロケットを試してみようかと思ってまぁ提案したらオッケーしてくれて前はサインバルタから一気にリフレックスに変えようとしてやめたのか、あとまぁめっちゃ食欲が出るんで太ったからやめたのか、ただ太るのは恐ろしいし何より命より大事な買った洋服が似合わなくなるってのは死よりも辛いことなんでなるべく太る薬はやめようって思ってたんだけどいくら命より・・・と言えど今は命が危ないんでカリフォルニアにしたんですよね。

 

んでまぁ単体で飲んだらどんな感じになるのか?と思って試しに飲んでみたら一時間後ぐらいかな?起きてられないレベルの睡魔が来てっつってもこれは経験済みでリフレックスの睡魔って見かけだけで寝れない人にとってはめちゃめちゃ眠い状態で寝れない状態が続くっていう異様な状況になるんだよね。

 

まぁんで眠いなら寝る前のマックスで眠くなる薬の数々を飲まなくてもいいじゃん!っつっても寝るために飲まなきゃいけなくてんでまぁ飲んだら案の定、寝てるんだけど寝てないみたいな状況が続いてやっと寝れたんだけど次の日の寝起きですぐ分かるんですよね。あーリフレックス効いてるなと(笑)

 

寝起きのこの世の終わりみたいな気分が薄れてるんだけど、リフレックスって過去も飲んでたから自分の過去ログで「リフレックス」って検索すると色々と出てくるんでそれ読んだりしてるんだけどね(笑)ブログがいいのってあの頃何してたっけ?とか、あの時はあれ見つけてテンション上がってたけどそれって続いたんだっけ?みたいなね、そういうの探ってみるとまぁ結構あるんだよねっていうかなんか見つけてテンション上がってんでその後数週間後のエントリーのタイトルが「孤独のFPS」とかになってて(笑)結局今と変わらねーじゃん!っていうね。

 

まぁでもブログってそういう意味で自分の過去ログなんだよね。人に見せるというより自分のために書いてる感じだよね。ブログはもう時代遅れだなんていうけど自分にとっては全然関係ないんだよね。俺が読むために書いてるから(笑)ただなんか2017年ぐらいですでにリフレックスがどうのっつーエントリーでやっぱまぁ鬱が激化したりっていうのはたまにあったんだよなとか思いつつ買い物に行ってきたけどつまんねーってもう書いてるのね(笑)

 

外出てもつまらない歴ってそんなに長かったっけ?っていうね、コロナ禍で外出できなくてストレスが溜まってる人ってまだ救いがあって思うように外出ができるようになったら楽しみが増えるわけでしょ?でも外出ても楽しくない場合、終わってんのよね(笑)マジで行く場所無いもんな。あとフェイズがだいぶもう消費じゃなくなってきたよね。消費じゃ誤魔化せないというのが究極的に分かった感じよね。

 

でもまぁ4年も前からそうなんじゃそりゃ今更って感じでちょっと気持ちは落ち着いたかな。それをずーっと誤魔化してきてたんだなっていうところだよね。ただまぁ2017年だからそっからギターとかキリスト教の流れが来るからね。んでまぁ今は冬の光というか魂のゆくえモードですよね。

 

っていうか太らない良く効く抗うつ剤ってないのかな?空腹感って相当うざいよね。だからまぁ食欲無いときの鬱モードの飯の量でも生きていけるわけでそれを基準にして勝手に起きてくる空腹感はただの妄想だって思うようにしてるね。前はその空腹感に従って食ってたから太ったわけで。

 

ただまぁサインバルタってそういう意味で太らないからいいよね。やっぱメインはサインバルタなんだよな。ちなみにあれかね、リフレックスを昨日飲んだだけで効いたのは過去に何回か飲んでるからだよね。だから頭が「リフレックス来たな」ってわかってすぐ効くんだろうな。ワクチンと似てるわ。いや、医学的根拠はないけど。

 

ただリフレックスって一気に躁状態に転じる時があるから気を付けないといけないんだけど昨日飲んだだけで頭がすっきりして何より最高なのがまた読書生活に戻れそうなことだよね。こうやって精神がマシになってくると何が自分にとって興味があることなのか?ってのがはっきり分かるんだよね。で、ゲームの魅力が一気に無くなってやっぱり本に戻るんだよね。ただ鬱の時は集中できないからゲームぐらいしかなくなるんだけど頭がすっきりしてるときの集中力はすさまじくて気が付いたら二時間経ってたとかね、これもまぁ逃避つっちゃー逃避だけど改めて分かったんだよね。いや、読書に生かされてるんだなと。

 

ようはそんだけ集中できると「はぁー虚しい」とか感じてる暇がないわけですよ。で、時間が過ぎるのも早く感じるからそれだけやり過ごせてるということになる。でも恐らく一時前だったら学問全般に興味を失ってた時とかがあったから行き場所がなかったような時期もあった気がするけど今は神学っつーと語弊があるけどまぁ例のキリスト神秘主義とか正教とかの勉強ですよね。それが捗るのが最高だわ。ずーっとこれやっていたいなと思うんですよ。

 

やっぱ楽しいよね。一番知的刺激を受けるし分からないことが多いしそれで大量の時間を過ごしてもロスした感じが無くて儲けた感半端ないんだよね。知識を得るってのは何よりも好きなことだよね。やってて一番虚しくならないし充実している感が出るんだよね。逆に他のことは大抵一時楽しくても虚しくなるんだよね。

 

で、今は知識だけじゃなくてアブストラクトなニューエイジ的ではない初期キリスト教的霊性みたいなのもあるわけじゃん?でもそういう瞑想なり信仰ってのもメンタルやられるとできなくなるよねっていうか瞑想とか祈りっていう行為ってすんげーパワーがいることなんだなってのが分かったのね。

 

信仰を失いそうになるってのはそんだけ信仰することにパワーが必要だからなんだよね。恐らく。俺は別に自分がどうなっても世界がどうなっても世間的な信仰とは違うんで物事がどうなろうが信仰は失わないけど信仰へ向かうパワーってのはニーチェの力への意思と一緒ですんげーパワーが必要なことなんだよね。

 

そんなことを体感してみるとニーチェはキリスト教をベースに信仰への力をそのまま力への意思に変えたっつーかさ、んで超人っつーのも言わばイエスなんだよね。キルケゴールも教会批判をしていたしニーチェはキリスト教って言ってるけどまぁようは世俗のキリスト教なんだよねっていつも書いてるけどさ、アンチクライストってタイトルなのは間違いないんで誤解が多いんだよね。

 

という俺も最近になってキリスト教を勉強して分かったことなんだけどね。すんげーキリスト者だよね。ニーチェは。まぁツァラトゥストラ自体なんであんなキリストみたいな感じにしたのか?って新約聖書をベースにしてるからだよね。あとまぁシンボリックなテーマとかね。

 

ただキリスト教を激しく憎んでいたっていう通説は普通に訂正されないで載ってるから困ったもんだね。結局、レオ・シュトラウスの相対主義へのカウンターとしてのプレモダンな善に戻るってのも言わば善への信仰だからね。相対主義=必然的なニヒリズムと考えるとやっぱりちゃんとした思想家はニヒリズムを真剣に捉えてなんとかしようとしてたんだよね。

 

まぁそういう意味で特にキリスト者だったキルケゴールとかキリストの心情はすさまじいものがあったと思うけどね。だからまぁあんな檄文みたいなのを書いたんだと思うんだけど。ただまぁ上目目線になるけど(笑)人類が古い世俗化した宗教から抜け出て超人を目指すような宗教に目覚めるには時間がかかりそうだね。まぁ真のニーチェ理解というかね、ニヒリズムの克服というか。

 

結局、仏教の坊さんとかがニヒリズムに陥った人に人のために生きてはどうですか?って言うのもようは善に帰依しなさいってことなんだよね。仏教は我を捨てるってことが大事だからそういう話にもなりがちなんだけど、結局、ニヒリズムの原因って極端な主観性なんだよね。でもそれは客観性によって人生自体の意味のなさが分かり切っちゃうからこそ主観的にニヒリズムの陥るんだよね。

 

でもそれは主客の世界の話だから仏教とかだとまずその厄介な主を捨てちゃって他に生きろっていうわけでしょ?難しすぎて何のアドバイスにもなってねーじゃん!っていつも思うんだけど(笑)でも宗教的に生きるってのはそういうことですよね。その坊さんのアドバイスである他に生きるっていうことがキリスト者とか俺がキリスト者かどうかは分からないけどキリスト者として生きるってのは神に生きるってことだからね。神っていうとヤハウエとかアッラー的な喋りそうな感じの(笑)神が連想させるからやっぱキリストがしっくり来るよね。

 

ただ面白いのが仏教の瞑想とかでも神はいないって言ってるんだけど如来への祈りみたいなのはあるんだよね。ようはツール的に如来というイコンを使うわけだ。いや、キリスト教ってそういうもんじゃないの?って思うんだよね。まぁ悟りを開いた人ってことだと思うから如来=仏陀じゃないにしてもまぁそんなもんだよね。だから覚者なり聖者を想像するなりイコンにしてその導きに生きるって意味だと恐らくどの宗教も構造は同じだと思うんだよね。ただイコンとかシンボルとか言葉の違いがあるだけでね。

 

なんだろうな、お寺とかでお祈りするって凄くなんか良い行為な感じがするじゃん?神社然りだよね。その時点で神道と仏教が混在してるんだけどキリスト教もそうなんだよね。でもそうじゃないのはイタリアとか南米のどっかみたいに町中にキリストとかマリア様が飾ってある祠みたいなのが無いし何よりマイナー過ぎて一気に教会になるから政治っぽいのとうさん臭いってのがあるよね(笑)

 

目立つのがエホバとか統一教会だからそれでも俺はカトリックは嫌いだけど少なくともカルトに行くよりかはちゃんとした宗教に帰依したほうがいいんだよね。でもなんで日本は創価学会なんだろうな?って思うけどね(笑)キリスト教ってすげー良い宗教だと思うんだよね。何より教義が善だからね。実際の教会とかコミュニティでそうなってるかは分からないけど思想的にはそうだしイスラムみたいに明日から「キリスト者になるぞ!」って思えばそっからキリスト者になれるからね。洗礼とか教会の会員とかにならなくていいからね。

 

あんな頻繁に祈らなくてもいいとは思うけどそういうところのイスラム教の生活に根差した感じはすげーなって思うよね。信仰と生活が一体化してるもんね。まぁ実際のイスラム教徒はどうなのか?ってのは別だけどね。まぁイスラムでも原理主義とか関係なくピュアなちゃんとしたイスラムの世界でも宗教離れは起こっててっつってもまぁ一応イスラム教徒だけどコーランを読んだりしないしダメと言われていることをやらないってわけでもないから全然普通のアメリカ人とかと同じって人が多いみたいだけどこれって重要だよね。「一応ムスリム」ってのがすげー重要。ちゃんと根本はそこを持っているっていうファンダメンタルなところだよね。いや、原理主義という意味ではなくてね。

 

だから日本人も無宗教とかって言わずに何かに帰依してほしいんだよな。無宗教が無関心を生むとか義理堅いようで表面的なコールドな民族っていうさ、これもまぁ伝播するからね。周りがそうだから自分もそうじゃないと生きていけないっていうね。

 

まぁ日本人ってニヒリスティックな民族だよね。といっても戦後から顕著なんだと思うけどね。相対主義と小室直樹が言っていたような日本教と山本七平の空気の支配ってのが永遠に変わらなさそうだよね。それでも個の時代になりつつある!っていうなんかそれだからこそ主客の主じゃなくて主に帰依してほしいんだよね。その上での個を満喫してほしいんだよね。

 

白洲次郎が言っていたようなプリンシプルを持つってことだよね。すべてが物質的でルカーチ的な意味でフェティッシュなんだよね。何もかもが物象化してて金に支配されてるから全部金が基準で動くことになる。まぁ金勘定の損得で動くってことだよね。あとは金じゃないにしても自分にとって利があるのか?という基準で動くっていうね、それって相当クソだよね。

 

俺みたいに山ほど失敗したやつが自己防衛でそうなってるならいいのよ。それは損得が全てではないってわかったうえでだけど世の中怖いやつが多いからガード固めておこうってなるんだけど最初から損得ベースってのは相当マズいよね。それこそプリンシプルが無いよね。

 

まぁだからなんだろうな、AVとかエロ漫画見てても思うんだけど男って中出しってのに興奮するわけじゃん?仮にほぼ生と同じ感覚のっていうかすでに結構あるけど生でもコンドームでもほぼ局所的な局部の快楽に関しては変わらないって言う場合でも生でやってるっていうのに興奮するわけじゃん?エロ漫画とかだとよく「赤ちゃん作っちゃう?」とかって言葉が使われるけど生殖っていう言葉をキーワードに観念的な性欲っていうのを喚起させてるんだよね。

 

テンガ使ってて思うのは結局、局所摩擦って大して気持ちがよくなくて性的に興奮してればちょっとの刺激でもイクんだよね。だから俺みたいな性的倒錯者は相当オカズに困るんだけどまぁそれはともかく子供を作るとかって今の時代最高に非合理的なことだよね。でもアクシデント的に妊娠するってちゃんと育てる前提で言えばすんげー素敵なことだと思うんだよね。セックスが過熱し過ぎてパートナーが好きすぎて後先考えなくなっていたっていうね。

 

まぁそれで逃げるとかは別ですよ。結果的にその愛の絶頂が結婚に繋がったとかって最高だと思うんだよね。かといってもまぁ結婚が良いとは言わないんだけどそういうアクシデントね。非合理的だから生まないってのはDINKSとかの合理性じゃん?まぁそれはいいと思うんだよね。でもできちゃったっつーのはやっぱりめでたいことなんだよね。

 

子供をこんな世の中に産み落とすのは罪なんじゃないか?みたいなのもあるとは思うけどまぁだからこそちゃんと育てようって思うわけでしょ?俺にはありえない話だけども(笑)だから最近はまぁ見た目じゃ分からないけどパパとかママっていうのをリスペクトしてるんだよね。まさに他に生きてるじゃん?

 

でもまぁ子供は他じゃないけどさ、でも子供ができることで主ばかりに生きるというわけにもいかなくなるわけじゃん?結果的に子供のために!っていうのに生きるってのは凄いことだと思うんだよね。あとは子供がいるから生きていけるのに失ったら何もない・・・っていうのもまぁ今の俺の状態みたいになるから生きていけないってことになるわけだよね。体感的にニヒリズムを分かってるわけだ。すべてのパパママがそうじゃないにしてもね。

 

エロ漫画とかっていかに倒錯しているか?とかこんなことやっちゃってるんですよ!みたいな変態的な非日常性を描くものなのに子供作っちゃう?っていうある種、生殖行為として当たり前のことが性的倒錯のようになってるって凄いことだよね。

 

なんかただこの生殖って面白い材料だなと思うんだよね。親になるということでどう実存が変わるのか?とか子供のために頑張れる!とはどういう心境なのか?とかね。だから親としても立派で仕事も立派にやってるとかやっぱすげーよなって思うんだよね。なんかそこへのリスペクトって絶対無いとダメだよね。これを「なんであえて茨の道を進んでいるのか?」とかって思ったらなんか終わりだよね。逆にまぁ良い家庭を築いてる人から見ると俺なんか茨の道をあえて進んでるように見えるかもしれないし(笑)

 

あ、なんの話してたか忘れたけど(笑)まぁ俺の話に戻すとなんかあ、そうかリフレックスの話か。んでまぁ4年前も同じようなことを書いてるし感じているっつーことでしたね。だからまぁ結局ニヒリズムとの格闘なんだよな。さっき冬の光とか魂のゆくえって書いたけど魂のゆくえはオルタナティブなエンディングのバージョンがあれば傑作なんだけど途中まではいいよね。あとまぁ田舎司祭の日記だね。

 

凄くまぁ最近はこういう宗教的実存に惹かれてるんだよねっていうか凄く状態が似ていると思うっていうまぁ親近感か。今まではただの実存だったけど今は神と実存になってるからだいぶ違うんだよね。で、まぁ今はリフレックスで一時的に若干回復してるけど、一か月ぐらい続いたありえないぐらい酷い鬱を経験して感じたことなんかが今アウトプットされてると思うんだけど正直、瞑想とか祈りどころじゃなかったっていうね。

 

まぁ祈りは日課にしてるから祈るけど瞑想的な祈りは無理だよね。もうなんかマインドがやられてると本当にダメ。ただ昔の修道士とかが書いてた魔境とか悪魔からの攻撃とかってのがああいうもんなんだと思えばまぁアントニウス伝ですよね。でも語尾が伝なあたりがウォール伝っぽくていいな。俺の聖職者としての名前はウォールで聖ウォール伝とかね、ただまぁ性ウォール伝って気がするけど。

 

なんつーか思い込みじゃないよね。ニヒリズムとの戦いに仕向けられてる気がするんだよね。なんか他の道があるだろうって言っても虚無レベルというか認識レベルが上がると虚無レベルってめっちゃ上がるから幻想もなくなるし隣の芝生は青く見えるみたいな錯覚もなくなるんだよね。All in Vainですよね。

 

そんな中でどう生きていくのか?ってマジで分からないです。ちょっと調子良くなったからめっちゃ真剣に瞑想しながら100億円持ってるって想像してそしたらどうなる?って考えたら昔だったらっつーかそういうのを想像しがちなのって10代とかじゃん?だからまぁレコードとかCD買いまくって洋服とかスニーカー買いまくって海外旅行しまくって大きい家建てて・・・みたいなのがある程度達成された部分と達成しても別に実存に影響はないってのとか色々なのが経験値で分かると特にテンションは上がらないんだよね。

 

金の心配をしなくていいというのは大きいけど金が使えることの楽しみってのを考えると別に特にないんだよね。金持ちも結局は飽きるってマジだなって思ったよね。なんつーのかな?金ってなんていうか金があったら1000万のワインを親にプレゼントするとかさ、そのジャンルがワインの時点で金持ちが超ハイスペックPCと周辺機器でFPSやってるみたいなさ、金はあるけどフォーマットはFPSかよ!っていうね(笑)結局そこなんだよね。

 

お金を使って楽しむゲームという媒体は結局それを発揮できる媒体が所与のFPSとか買い物とかジェット機とか豪華な飯とかそういうのしかないから、そういうのって色んなテクノロジーの恩恵もあってそんなに金なくてもできるようになったじゃん?だからなんかグレードが上がるだけとかさ、年収が何千万以上になると幸福度はあまり変わらなくなるとか本当にリアルだよね。

 

だからこそやっぱ金の時代じゃないんだよな。前に見えないものって言ったけどまさにそれなんだよね。本当の精神というか人生の糧になるものっていうのが本質的なものになってる時代だよね。あとそれは金で買えないというか金でアクセスできるようなものじゃないものに多いわけね。ようは個人の忍耐とか生きようとする意志とか変わろうとする意志とか成長しようとする意志だとかっていう別に金に規定されない個々のコナトゥスだよね。といってもポストモダン的解釈のスピノザでまぁネグリとかドゥルーズのスピノザね。まぁ実質ニーチェ的といっても過言ではないんだけど。

 

あ、んで長くなったんでそろそろ終わるけどまぁ鬱状態でも書けなくはないんだけどこういうニヒリズムを抱えつつポジティブなことが言えるみたいなモードにならないのがキツイよね。あと精密さに欠けるぼんやりとした感じも鬱の時に書いたやつの特徴だよね。今はそのはざまだからちょうどいい感じにアウトプットで来てる感じがするんだよね。

 

やっぱだから死に至る病って絶望だよねってことになるよね。宗教的実存の中ではそういう意味でキルケゴールが書いたものである意味結論は出てるよね。ただキリスト者にならないとしっくりこないのが難しいところだよね。あとまぁニヒリズムにしてもニヒリスト気取りとニヒリズムでマジで精神的に死に至るっていうまぁある種の当事者研究みたいなものじゃないと本当のニヒリズムって分からないからね。ニヒリズムってホント、いいもんじゃないですよ。なんかニヒリズムをかっこいいとか思ってるっつーか俺なんかはそうだったけど(笑)ニヒリスト気取りって自己愛者だからただのバカなんだよね。自己愛があるならニヒリズムに陥るわけないじゃん?自分が大好きなんだから。死のうとも思わないでしょ。大好きな自分を自分で殺すなんて!って話でしょう。

 

まぁそういう意味でSNSとかの不毛な承認欲求はバカだと思うけど承認欲求が必要とされるようなジャンルとかってのにコミットできてる人は凄いよね。もちろんそのコミットが無くなった時が危ないんだけど、でもニヒリズムが入る余地がない生活をしてる人ってのはそれで成り立つからいいんだと思うんだよね。ブラック過ぎて入る余地がないとかだと人権問題だから問題外なんだけど。

 

でもまぁ実存って本当に当事者研究だよね。それを対象にするのと本人がそうなのとでは全然違うからね。サルトルやらキルケゴールやらニーチェやらみんな当事者だもんな。別に俺がその名に連なるわけじゃなくて(笑)程度は低いけど俺も当事者研究として学問やってるんだなってのに改めて気づかされたって感じってことね。

 

ってことでんじゃまた。

 

f:id:mimisemi:20211001202015j:plain

f:id:mimisemi:20211001203655j:plain

 

青年期はかっこつけて実存的問題の悩んでいるフリをするけど、ガチの人は年齢関係なくこうなるんだよね。でも見た目は一緒なんでかっこつけてんのかガチで悩んでるのか分からないっていう(笑)まぁでもガチから見ると顔つきで分かるけどね。あとありがちなのが↑の魂のゆくえの1シーンみたいな感じのやつなんだなとかって思わせつつっていうかそういう雰囲気あるのにリア充とかね(笑)

 

リア充死ね!なんじゃなくて可愛い彼女がいて友達がいて・・・って時点ですでに悩んでねーよ!っていうね、これって勘違いされそうなのが彼女がいないから↑みたいになるのか?ってことじゃなくてそういうものはすべて空虚だって分かっちゃうからニヒリズムに陥るわけでね、「彼女でも作れよ」って何の助言にもならないんだよね。So What?の世界ですね。あとまぁそれで何か得られそうならそれにすんげーコミットすると思うんだよね。一時期の俺もそうだったけど(笑)

 

あとまぁあれだ、リアルミニマリストと何にも買えないからミニマリストぶってるやつの違いもこれだよね。何もかもを得て全てが虚しいと分かってミニマルになったやつと最初からその結果だけを見て何もかもを得るというプロセスを経てないやつが覚者ぶってるってのが似非ミニマリストだよね。いや、経験が無いと無理なのよ。リアルなニヒリズムはそういう意味である種恵まれている環境にいないとそうならないんだよね。色々と得るきっかけがないからね。だからこそすべてが虚無だと気づくきっかけにならない。もしくは虚無だと分かっていても手に入れてみるっていうリアルプロセスを経ていないとニヒリズムのリアル感も薄れるんだよね。

 

そうじゃないと最後の誘惑の最後のキリストのようにはならないんだよね。最後のキリストに訪れる誘惑に絶対負けるはずだからね。