魂のゆくえ。

いや、タイトル通りなんですけどね、すんげー期待して見てがっかりしたって見たとき書いたけどネットフリックスで見れるようになってたんでまた見たんだけどやっぱ絵とかモチーフはいいよね。冬の光と田舎司祭の日記を足して二で割った感じなんだけど、俺は映画監督じゃないけど猛烈にリメイク作らせてくれ!って思うんだよね(笑)

 

大筋はオッケーなんだけどダメ出しばっかになっちゃうけどまずさ、なんだろうな、神の不在とか沈黙みたいなベルイマン的な主題かな?とか思いつつここがブレてるんだよね。主人公がリアルで色々あって息子を無くして奥さんと離婚してっつーのもまぁ息子を戦争に行かせたのもまぁ信仰故っていうところはあるんだけどこのなんつーか個人の事情とかさ、環境問題とかさ、神はいるはずなのになんで環境は壊れていくんだ?とかさ、神の視点が基本本当にダメだよね。

 

俗流の神の理解がまさにこれ!って感じで別に神はなにもしてくれないですよ(笑)ただ間違いないのは人間がクソ過ぎるからクソな世界が出来上がるわけだから個々が地の塩となって神の王国を築くっていうようなまぁある種のマルチチュードじゃないですか?政治的に言えばそういう連帯よね。

 

だからそれ自体がすでにもう政治問題で人間がいかにふるまうか?っていうところの人間の問題なんだよね。そこの人間への絶望と神への絶望が実存論的にごっちゃになってて主人公が悩んでるのは主に人間とこの世への絶望だよね。それがなんで神への絶望とか不在になるのか?って話なんだよね。

 

最後に教会で自爆テロしようとするとかありえない感じだし、それを偶然助けたのが例の鬱の旦那の未亡人ってそこに神の存在を見るってことなのかなんなのか、ちゃんちゃらおかしいヒューマニズム映画なんだよね。なんでもっと実存的に濃いものか切り口にしなかったんだろう?っていうね。

 

ベルイマンとか田舎司祭とかって昔の映画で淡々としてるけどだからこその実存の濃さじゃん?タルベーラの映画なんかもそうだよね。やっぱアメリカにはヨーロッパ的なものは無理なのか?って思っちゃうんだけど、言い方悪いんだけど、こないだの100億あるのを想像しても一瞬楽しくはなるけど虚しさは消えないっていうアレなんですよね。

 

でも魂のゆくえの場合、金があればなんとかなりそうなことが多いしっつーのはそれが世俗の出来事だからだよね。個人の不幸はしょうがないにしても仮にあれでミリオネアっつー設定だったらなんか全然悲壮感無いじゃん?

 

なんか実存って金でなんとかなるようなもんだったら実存じゃないんだよね。もちろん金が原因とか金で解決できる鬱とかはありますよ。でも実存はイコール鬱ではないからね。根源的な空虚さじゃん?まぁハイデガー的なね。

 

だからまぁ実存なんだけど形而上学なんだよね。まぁ映画の中でも神の恩寵と個人のProsperityを繋げがちだけど・・・っていう話とかもしてるんだけど、まるで一個一個の問いや答えが生き死にを決めるような真剣勝負だったとかって言ってるけど本当にこれも浅いんだよね。

 

まぁなんか絶望しているようで全く絶望しきれていないのと、個人的な経緯の絶望を神の不在と繋げちゃってるっていうマズいことをしてるってことだよね。いや、自然現象と神って関係ないからね。いつも書くように仏陀を考えればいいんだよね。もしくは如来っつーか覚者とかさ、別にそれって史実的に居た人で偉大な思想家で覚者だった人がいるってだけで別に津波は起こるしテロは起こるし地震も起こるじゃん?

 

個人に降りかかる不幸も幸福も例えば毎日祈ってるから幸福がやってくるとかそんなことじゃないじゃん?全く関係ないよね。脱オカルト化するならイエスは思想家だったわけで神という位置づけはブルトマン的な概念を借りちゃうけどやっぱケリュグマだよね。旧約聖書とのつじつま合わせも全部それだよね。

 

でも地震が起ころうが神や仏もないなっていう世の中でも仏や神はありますよね。そこに帰依して祈って仏教者なりキリスト者として生きていくかどうか?ってそれだけだよねぶっちゃけ。

 

単純なようで凄く抽象的だけどね。存在とただ在る世界というフラットさの中で超越論的な観点で形而上学を展開して、それが結果的に実存とか神の概念も内包するようになるっつっても非概念的なのもあるし形而上学って「これです」って言える単一のものじゃないからね。

 

だから難しいわけじゃん?論理の突き詰めではニヒリズムに至るし、神の偉大さとか超越性ばっかり言うとバルトみたいな護教論になっちゃって全く現実に対して無力な信仰になっちゃうんだよね。そうじゃなくて存在っつー地平線にある種のアノマリーというか特異点を見出してそこから次元が変わっていくことで一面的だったものが多面的になったり一義的なものが多義的になったりするわけだよね。

 

それでも神は汎神論でもあり単一でもあるっていう語りえない存在なのは間違いないんだけど、存在者がどう世界を見ているか?っていうパースペクティヴで全然それは変わってくるじゃん?

 

顕在化した事象やら偶然やら精神やらの諸々の連続性と非連続性の徴表に対する感性と解釈だよね。ただそこに原理は無いしこうすればこう解釈できますっていうような普遍的なものではないので、だからこそシーニュの主観的解釈っていう一種の決断と理性しか残らないからこそ狂人になりえるような理性の非理性によって世界が解釈されることで形而上学的な実存と神学が可能になるわけだよね。

 

もしくはシーニュを解釈しないというのも一種の解釈でヴィッパッサナー瞑想なんかはまさにそういう感じだよね。でもそれって頭がぼーっとしてても憂鬱としててもダメで絶望的なのに頭は冴えているような状態じゃないと無理なんだよね。そこで飛躍するようだけど全然論理的には飛躍してなくてだからこその瞑想とか神秘主義になるんだよね。

 

神秘主義を現代的に理解するならこういった形而上学的なもの以外ありえないと思うし、ただ重要なプロセスを修道士とか僧侶全般が書いてなかったりするけど、まぁ空海の名前忘れたけど覚者に至る道みたいな密教的なやつも言わば形而上学だよね。

 

そこで霊性みたいなあるかないのか分からないようなものが出てくるのも逆にそういった霊性のようなものがないと本質的に神学も仏教もできないんじゃないかと思うし、逆になんで僧侶がそういう霊的な能力を持っているのか?っていうとそういう訓練とそういう思考法を普通にやっているからだよね。かといっても俺みたいに哲学から現代思想から・・・みたいなややこしい回り道をしなくても彼らにはそれが見えているっていうかね、まぁ全ての僧侶がそうなわけじゃないんだけどまぁ覚者ってそうだったんだろうなと思うのね。

 

アメリカとかイギリスとかってそういう形而上学から一番程遠い感じがするし、逆に映画にしても何にしてもそういった形而上学的なものが感じられるのはヨーロッパとかあとロシアとか大雑把な言い方になっちゃうけど中近東とかさ、しかもメインストリーム張ってるような思想じゃなくてマージナルだと思われてたようなものだよね。

 

でも完全に哲学ってのが死んでからはって死んでると思ってるし死んでるって前から言われてるけど、そこは音楽のストリーミングサービスとかと一緒で最新のものが最新というより個々がピックアップした色んな時代のいろんなジャンルのものが本人にとっての最新のものになるんだよね。

 

まぁポストモダン的な状況だと思うけど、そこでシュトラウスなんかはいち早くプレモダン的な感覚というのをポストモダン的な感覚へのカウンターとして浴びせてた感じがするけど、今はポストモダンですらも過去である意味何もないからこそ全ては平面化してるんだよね。

 

哲学といってメインストリームは無いし、別に言葉を西洋哲学の言葉とかジャーゴンで語る必要も全くない。そういう意味でまぁ神学やって分かったことだけど東洋思想も古代の思想も神学も人間的なリミットがある中での真理の追究という意味では哲学なんだよね。

 

これって言わばオントロジーじゃん?とかって感じられればもうそれはオントロジーなんだよね。でもこれが絶望的なのは明確なメソッドとかが無いのと色々と大量にインプットしたところで非概念的なものを思考できるようになるのか?ってまた別で、そこが俺が神秘主義とか仏教の瞑想法とかに傾倒する理由なんだよね。

 

言葉の世界もあるし言葉の世界によってここまで分かるようになったけど非概念的なものは精神の作用とかデフォルトの枠組みすらも相対化しちゃうようなある種の離人症的な感じが必要だと思っててさ、結局考えると過度な主観化が入っちゃうし、かといっても前から書いてるように客観性といっても結局は主観の中での客観性なわけで、完全な客観性は無理なのとValue Freeだったっけな?ウェーバーが言ってた価値をそこに入れない客観の見方ってのは無理なんだけどまぁそれを目指すってことだよね。

 

でもずーっと瞑想と思索だけやっていければいいけど日常の煩雑なこととか色々と引っ張られることがあるし、あとは精神にも引っ張られるよね。そこを律するとか鍛えるってのが瞑想とか精神を鍛えるってことだと思うんだけど、思うにこれができてないとロクな思考ができないなっていう風に思ったんだよね。

 

もはや「誰曰く」の時代じゃないじゃん?偶発的に発見した見方とか考え方を探したり待つしかないよね。でもそれが俺にとっての神学なんだよね。まぁプラトン的なエロスだよね。だからエロスとアガペーってことになるわけよ。

 

でもそうなると結構アレなのが人間が思考してきただろうことを可能な限り知っておいたほうがいいってことなんだよね。だからまぁ一つのジャンルに絞るなんてことはどんどん真理から遠ざかることになるからキリスト教の枠組みだけで考えるとかありえない話なんだけど、それと同時になんかの存在が存在者に知らしめるものってあるんだよね。ちょっとオカルト臭いけど(笑)

 

でもその辺の感受性ってこうやって言葉にするとオカルト臭いなんだけど実際は完成とか脳のチャンネルが開いてるかどうか?ってことでそれが開けていれば存在が存在に知らしめること以外でも、言語でもそういったような理解が可能になることもあると思うし、自分は凄くそれを意識的にやってたんだけどなんかそれをやり過ぎたのか分からんけど一か月近くに渡る凄まじい鬱がね(笑)

 

今持ち直してこうやって書けてて進められてるからなんか「これなんだよな」ってのを感じるんだよね。ある意味での究極のチャンスオペレーションでもあるよね。全ての可能な限りで思考されてきたものを知るってのは不可能に近いんだけど求めているものがあたかもそれが知らしめるかのようなタイミングで手元に来るとか、元々持ってたけどピンと来なくて置いておいてあるとき読んでみようと思ったらピンとくるものがジャストで来た!とかね、サンプリング音楽なんかもまさにそうだよね。

 

狙ってやっているというよりかは作り手が色々とディグってきてたまたま見つけた使えるところをループしたらかっこよかったっつーのもそれは作り手のセンスでもあるけどそのレコードが作り手の手に渡るってのはその作り手がそのレコードをたまたま掘るために何時何分に何々っつーレコード屋のソウルのNのコーナーを掘ってないとありえなかったとかね、究極の偶然だよね。

 

無作為に選んだレコードから音楽を作るということも可能だけどでもそれが作為的であろうが無作為であろうが結果的に行為としては同じなんだよね。そこの無作為さと作為の間ぐらいのところに存在が語り掛けるものっていうのがあるような気がするのね。

 

でもそれは外部的な例えば社会から与えられる地位とか幸福とか富とかからは来ないんだよねっていうのがまぁ最初に書いた個人的なProsperityと実存は全く関係ないか、関係あった場合、実存だと思ってたものはそうじゃなかったって話で、だから100億円で解決できない話が実存なんだよね(笑)

 

むしろその究明に命を捧げるんだったら他のことは全部雑事でしょう。もしくはなんの解決にもならないただの承認欲求が満たされたとか金銭的に潤ったとかっていうような刹那的なものだよね。まぁただ金あれば邪魔されなくなりやすくなるから金は絶対あったほうがいいんだけどね(笑)

 

結局これは単純化しちゃえば神秘主義者とか修道思想とかで神への献身以外のことはほとんどがくだらないことだみたいなエクストリームな見解と似てるよね。でもそれは価値判断もあるけどそのくらい思ってないとフォーカスできないぐらい大変なことってことなんだと思うんだよね。

 

だからこれはある種の真理への信仰みたいなものが無いとやり続けることは困難だよね。どうでもよくなるか心折れるか努力が結実するとは限らないことだからパスカルの賭けみたいなことになるんだよね。でもなんかこういうベクトルってカルトとか日本だとオウムの影響でヤバいベクトルなんじゃないか?っていう偏見があるけど、オウムって相当狂ってますからね。LSD投与して独房みたいなところに監禁して現実がいかに地獄であるか?ということを説いてるビデオを流し続けるとかさ(笑)

 

いや、俺が言ってるのはそんなことじゃなくてキリスト教神秘主義風に言えば聖なる読書と観想と祈りの世界ですよ。あと恐らく神秘主義者の本とかを読んでると分かるけど彼らの神秘体験って激しい修行とかオウム的なエクストリームな方法とかじゃなくて現代人が見れば飽き飽きして嫌になるぐらい単調な生活を送りながら絶えず観想と読書と祈りを欠かさないっていうところから来てるものなんだよね。

 

まぁ元々そういう能力があったんじゃね?って人も中にはいるけど、元々人間ってそういう能力は持ってて、ただまぁ使うことが無くなって退化してるだけなんだよね。0からは何も伸ばせないけど1とか0.1あればそこからは増やせるからね。霊性ってのはそういうことだと思うんだよね。まぁちょっと意味不明な先月みたいな謎の鬱とか今後もあるかもしれないけど得ているものは大きいからリスクはあってもやり続けますよ!

 

ってことで今日はこの辺で。