魂のゆくえ。その2。

一か月ぶりに太極拳に行ってきたんだけど体を動かすことの凄さって半端ないなっていうね、もちろん先生とか他の生徒の方々が素晴らしいっていう環境的なことが大きいんだけど、まぁどこまで書こうかな。まぁ誰がこういったとかじゃなくて色々まぁ雑談をするわけなのね。ただなんつーか俺ってプライベートな自分のことは全部書く割に他の方が絡むと名前出さなくてもなんでも書くんかい!ってことになるしっていうかまぁなんだろうな、なんかとりあえずいいや、今から書くのはその雑談がベースとなって色々と考えたことを書きたくなったんでねっていうか哲学というと大げさだけどやっぱ対話に尽きるよね。

 

あと俺みたいに「ハイデガー曰く」とか固有名詞を出してくるような理屈臭いやつじゃない、俺みたいに本ばっか読んでるような理屈臭くない人の鋭い話とか世界観ってのは宝だと思ってるんだよね。まずさ、言い方悪いけど俺が話してて楽しい!っていうレベルになる人って滅多にいないわけよ。だからそういうのを含めても本当に今の太極拳のクラスは俺の宝だなって思うんだよね。ただまぁ一か月体調不良とかまぁもう躁鬱っつーか気分障害カミングアウトしなきゃいけないだろうとかって思ってたんだけど、なんかあれだね、いざそうなるとなんかやっぱ引け目を感じるよねっていうかなんか言いづらいってやっぱあるよね。

 

普段から積極的に言えばいいとかいいながら結局俺も健常者というとアレだけど平然を装いたいのかっていうね、ワクチンの副作用が凄くて・・・っつってもまぁそれがトリガーになっても明らかに元は俺の躁鬱が原因でワクチンがトリガーになったとは言い切れないけどまぁ体調悪くなるきっかけになったわけでさ、まぁなんかワクチンっつー話にしてるけどまぁ実際は躁鬱の超絶鬱期なんだよなっていうね、そこは認めないといけないよね。でも認めたくないっていうか人と交流していると自分もあたかも健常者のようにふるまいたくなるのは心の奥底で自分の躁鬱に対する恥ずかしさとか引け目とか憎しみがあるんだろうなっていうね、それをすんげー感じたわ。

 

特に考えることなく「こんな感じで体調不良だったんですよー」って説明するときに特に見繕うことなく勝手に自分から出てくる言葉の数々にそういう引け目をすんげー感じたってことね。もちろんそれで差別するような人がいるクラスではないのは当然で先生には軽く話してあるし理解あるから周りの人たちがどうというより自分の中の問題としてまぁすんげー自分を差別してんなーって思ったんだよね。

 

あとまぁ一か月やってないと一般的な太極拳はともかく俺が言ってるところのガチ太極拳クラスだと簡単に戻るようなもんじゃなくて一か月っつってもなんかリハビリ感覚だったよね。まぁあと実際に体調が悪かったのはマジなのでそれもあって相当先生も気を使ってくれてたんだけど、武術とかになるとまたそこが歯がゆいんだよね。気を使わないでガンガン投げ飛ばしたりしてほしいんだけど(笑)まぁ投げ飛ばすようなところじゃないんですよ。俺が技を受けたいんで先生に頼むんだけどね、ただまぁなんだろうな、先月あたりのやつって滅多にないからね。

 

なんか別に鬱あっての躁だしこれが俺の個性さっ!とかって思っててもあれだけ続くやつなんて滅多にないから正直、怖くなっちゃうよね。あとやっぱワクチンのせいじゃないにしても三回目打つのを相当躊躇するよね。まぁワクチンの話はいいや。謎だらけのことってことで保留にしておかないとね。

 

なんかでも改めてすんげー鬱持ちだなーって思ったんだよね。元々会社勤めなんてできないんだけど太極拳もそうだけどコンスタントな体調を求められるものに適応するのが凄く難しいから困ったもんだよね。こないだまで元気だったのに何なのいきなりからだが動きませんって?って別に言われるわけじゃないんだけど客観的に見ると自分でそう思うのね。なんなのこの急激な変化?っていうね。

 

ただこれも自分の中だけだといつものことだって流せる部分はあるんだけど、今の太極拳クラスみたいにコンスタントに通って人と会うみたいなことって留学後全くないから(笑)改めてそれを感じるってのがあるんだよね。で、さっきも書いたけど散々それはカミングアウトするべきだっていうかカミングアウトという言葉すらもおかしい!なんつってる割にすげー言いづらいとか「自分躁鬱なんでー」って意外と言えないもんだなっていうね(笑)

 

これってある意味何かしらの接点が誰かとか組織的なものと無いとある種自覚ないよね。それが俺だと思っているから当たり前なんだけど接点があることで顕在化してくるっていうか改めて分かるっていうね、普通一か月も調子悪いって明らかなワクチンの副作用は一週間以上続いたけど、その後の激鬱は正直原因が分からんからね。

 

っつーかこの自分の鬱を自覚する的なテーマで長くなりそうだけどまぁそのダイアリー的に書きたい雑談で色々と話したことを書くけどね、まぁあれなんだ、まず悪の問題なんだよね。で、こないだ書いたような俺が思う最低限ラインの道徳を満たしている世の中っていうことなんだけど、極端な相対化をすると道徳って何?っていうことになるよね。ことになるよねというより「何?」と問えることは出尽くしてるんだけど、改めて考えてみると根源的な問題ほど「うーん」ってなるよねっていうかね。

 

あ、んで誰かにこう言われたからここで論破する!みたいな稚拙な論破王的なことはしないんで安心してください(笑)まぁんで悪なんだけどまぁ過去にも書いてきたことだけど改めて考えるとまぁ俺が言ったことなんだけどね、俺が言ったことは「俺が言った」って言えるからそれでいいや。まぁ例えば北九州事件っつーか名前あってるか分からないけど考えうる悪以外の何でもないものを考えてみても、例えばその根源を探ってみるとその悪が起こる原因が実は幼少期に受けた虐待なり両親の独特の育て方にあったりっていう、トレースすると行いだけ悪と見ても悪の原因がある場合、それは悪をなした人間に悪が帰属するのか?という話だよね。

 

俺はやられたら確実に誰でも嫌になることってのはあると思ってるけど、必ずしもそうとは限らないこともあるから「嫌」という感覚すらも相対化すると何が嫌なのか?っていうのは絶対的な基準がないんだよね。でもまぁバラバラ殺人を「善い」という人間はいないと思うけども。

 

いや、何が言いたいのか?っていうと「これは悪だ!」って決めつけすぎると結構思考停止に陥るなって思ったってことなんだよね。それでも俺は悪は悪だと思うのは変わらないんだけど、ハッと思ったのが悪の偶発性ってことなんだよね。生まれてこないほうがよかったと思うようなやつっているじゃん?まぁこれを悪だと言えないとちょっとその人の感覚どうなのよ?って思っちゃうほどの悪ってあるじゃん?

 

でもそれが可能世界的に同じ人間が別の時代に違う国と違う家庭で育ったらそんな風にはならなかったかもしれないってことを言いだすとほとんどの悪は偶発性によるものってことになるよね。いや、あと自分もそうなったかもしれないっつーこともあるってことだよね。自分はそんな悪の道っていうかやくざ的な悪の道じゃなくて殺人を犯してしまうような環境にいなかったとか居合わせなかったから悪の行いをしていないだけで別の条件下に置かれたら悪を成していたかもしれないってなんか最近流行りの親ガチャ的な話にも通じるけどね。

 

これと法の話ってごっちゃにしちゃいけないんだよね。法的には裁かれるけど悪を成したわけではないっていうこともあれば悪を成しているけど裁かれないってものもあるでしょ。まぁどんな話が来ようがそれが偶発性だろうが必然だろうが悪は悪だということには変わらないんだけど、ここが難しいのが悪そのものと悪を成したが故の社会的制裁とか責任っつー話なんだよね。

 

飯塚幸三事件となると本人がどうというより上級国民だから法的に守られるというようなところにこそ理不尽さを感じるわけで、ただの老人だったら一瞬で裁かれた話が飯塚幸三だったからペテンな言い訳がなぜか通り続けて遺族と国民の精神を逆なでし続けたっつーね、悪っつってもシンプルじゃないんだよね。

 

いや、なんでこんな自明なことを考えるのか?っていうとそういえば俺は善ばかり考えていたなっていうね、善の反対が悪だとは思わないけど、悪は明白だし善ほどの深みはないと思っていたけど悪は悪で色々あるよなーっていうね、んで俺って昔から「悪は許さん!」的なシンプルな勧善懲悪が好きじゃん?

 

いや、この勧善懲悪のモデルがナイーヴだなって改めて思ったのね(笑)いや、殺人を行った人にも理由があって・・・なんて聞くとまぁそれが本当に同情に値するものならともかく快楽殺人とかだったら家庭がどうとかってのがあったにせよそりゃダメだろうっていうさ、でもね、いやね、すげー心に突き刺さってるのが悪の偶発性と悪と言っても色々あるよねってのは明白なんだけど悪は悪だで決めつけで悪でいいのか?って話があってっつーのは極めてこの相対主義的な悪の概念ってリベラルだよね。

 

まぁ俺が大嫌いな人権派というかさ、遡れば家庭に原因があるっつっても光市母子殺害事件だとかあんなのは話の余地がないじゃん?でも余地がないで済ませるというのが思考停止的だなと思ったのね。いわば考える余地もないほど決定的なものが実は考える余地があったって話なのね。

 

なんで考える余地もないのか?ということの答えが「明白だから」という自明性しかないんだよね。まぁその自明性は揺るがないんだけど危険なまでの善悪の相対化をやってみる必要があるなって思ったんだよね。思考実験的にね。

 

なんだろうな、全ては相対的であるっつっても人間の感情に迫るような胸糞悪い事件とかって完全に悪だって思うもんね。ある種、感情に支配されて理性が働かないのかもしれない。でもそこで理性を働かせて「これは悪だ」って言えないとなんか根拠が弱いなって気がしたんだよね。根拠が弱いなんて極悪の殺人者とかにそんな言葉はいらないんだけど「そんな言葉はいらない」で済ませないようにしようかなって思ったってことだね。

 

でもなんだろうな、善とかに関しては古くはプラトンからカントに至るまで色々と話が多いよね。まぁそれも相対化しなきゃいけないっていう上で今の自分の宗教的実存の中でもう一回捉えなおすっていうね、でもあれだな、大杉漣さんの教誨師ってぼろくそに書いた魂のゆくえとかより本当に実存的なのと、まさにこの善と悪って何なの?っていう主題があるよね。いや、主題じゃないか。見直す必要がありそうだ。

 

ただまぁ教誨師も魂のゆくえもそうなんだけど大体牧師がアル中なんだよね(笑)アル中っつーかアルコールでも飲んでないとやってけねーっつー問題でパンドラの箱なんだよね。つくづく思うのはなんで俺は自分さえ楽しければいいやで済まないのか?っていうところなんだよね。これもある種の自分の躁鬱と一緒で病気なのかもしれないよね。別にかっこつけてるわけじゃないよ。

 

ただなんかさ、絶対的な善とかって無いと生きていけなくない?もちろんそれは歴史とか場所とか文化とか時代に規定される美人の基準みたいなもんだってのは百も承知なんだけどさ、いや、分かってるのよ。現実は相対的で善も悪も偶発的に起こっていることが大半で人間がやれることには限りがあるっていうね。でもなんかそれだと希望が無さすぎない?自分の希望とかどうでもいいんだよね。そんなの個人の人生だからちっぽけなもんだけど世界がそれじゃダメなんじゃない?って思うのね。

 

なんだろうな、危機神学なのかなこれって(笑)でも危機を感じるんだよね。言わば偶発性によるものっていう処理になると自然現象と同じになるから人間が相対的ながらも善い行いをしている人が大半というところでも災害は起こりうるのと同じで悪は起こりうるというより発生するというほうが正しいのかな。

 

それでも日本は海外と違って自分が絶望的になって所謂、無敵な人になってべらんめぇで大量殺人とかをやる比率は少なくてみんな自殺するから野蛮な海外(笑)から比べると全然いいんですよ。銃社会とは言え無敵の人になって銃乱射するとか偶発性によるものって分かってても不条理だよね。まぁそういう不条理なのが世の中だし、それと神は関係ないんだけどね。

 

自分はどちらかというとそういうドライな相対主義からニヒリズムに陥った後に主にシュトラウスとの出会いで相対主義へのカウンターとしてのプレモダンな善ってのを信奉し続けて今はそれの形態が変わってというか色んな体験があってキリスト者になってるけど、変な言い方になるけどこれってある意味での護教だよなとは思ったんだよね。

 

散々バルトを護教家だとかって言っておきながら自分もって自分もとか言うとバルトと並んでるのかって感じがするけど(笑)まぁそれはともかく危機意識としての善の護教家じゃね?って感じなんだよね。

 

なんか相対主義で終わらせてるところでさ、問題が厄介だから考えたくなくて「悪だ!」って言いたいのは分かるけどもっと深く考えなきゃいけないんだよなって思ったんだよね。いや、何度も書くけど俺は悪をめちゃめちゃ憎みますよ。だからこそ悪の中に入っていかないといけないって思ったのね。何の使命感なのやら(笑)

 

悪の中に入るって悪を行うとかじゃなくてなんかね、メキシコの麻薬戦争とかこの世の終わりみたいな世界の状況って腐るほどあるじゃん?そういうのに目を瞑って「善の行いを」なんて言ってるのってやっぱナイーヴ過ぎるんだよね。

 

目を瞑ってはいないんだけどさ、悪がデカ過ぎるんだよね。相対化したとしてもメキシコの麻薬カルテルなんて悪以外のなんでもないでしょう。なんかまぁそれ言い出すとさ、麻薬カルテルに挑んだ警察官が報復で首を切られて生首がパトカーに並んでる写真とか思い出したけど、これすらも野蛮だ!って思うのも文化の違いってことになっちゃうよね。

 

メキシコはともかく中東のある国だと動物の首を切るとかって普通に路上でしてるんですよね。だから人間の首を切るというのも動物の首を切るのと同じぐらいの感覚なんですね・・・って言われても異様さしか感じないでしょ(笑)それが事実でも容認できないよね。

 

まぁあれか、あとまぁ捕鯨反対か。鯨を食ってきたんですっつっても現代だと哺乳類を食べるなんて野蛮だ!っていうね、路上で首を切る文化と同じにするような話ではないんだけどさ、個々の色んな悪とか野蛮さとか大雑把に言うとヒューマニズムっていうのを見ると仮にそれが文化でも一律化って言うかある程度の基準の並列化を求められるよね。

 

あ、そうだ。ちょっと書き忘れたんでね、まぁさっきの悪の偶発性だけど、それはそれでしょうがないってある種まぁそういうもんだと認識するのがリベラルとは言わないけどまぁ俺の勝手なイメージだとリベラリストって何かの原因があるわけで個人に過度に罪を押し付けるべきではないっていう考えがあるみたいだけど、そういう意味で野蛮なのは俺なんだと思うんだよね。神の王国ってまぁ悪が根絶はされてないけど最低限の善のラインは満たしてる世界っつーとすんげー数の人間が切られるじゃん?

 

結局は選民主義になるよね。エリーティズムまではいかないと思うけど、俺の思想の根源ってやっぱそこがあるんだろうなって思ったのね。だから悪は切り捨て当然という考えが前提になってるし遺伝的に狂ったことをしてしまうような人間ってやっぱダメだよね。でもリベラル的になるとそこもまぁ裁く権利はなくて救おうとか治そうっていう考えなんだよねってことになると善を求めれば求めるほど保守主義的になるんだけどでも全然それだったら保守でいいですよ俺は。

 

だってそんな危険な人間が世に放たれてるってヤバいと思わない?人間の命に差をつけてはいけないっていうけどその危険な人間によってひどい目に会うかもしれない人の命はどうなるのか?っていうのを秤にかけたときに危険な人間を排除するのは当然だよね。

 

あとはなんなんだろうな、その悪の連鎖といっても肝心のその悪の行いを受けた人の命とか命は助かってもそれが一生トラウマになるとかさ、なんかどっち?って極論言われたときに悪を受ける側ってならないのかな?って思うんだよね。親ガチャなんつーけど人生自体ガチャみたいなもんですよ。究極的な相対主義の中では誰もが悪を成しうるってことになるわけでしょ。

 

だとしたときに無辜の人間が被害にあうのかね、何が悪だとは規定できなくても命の危険にさらされるような偶発性の可能性を極めてゼロに近づけていくってのが筋だろうって思うからまぁ俺は昔から管理社会っつってもそれが善によって行われていればディストピア的でも自由に悪が行える状況よりよっぽどいいと思ってるのね。

 

それはやっぱり被害者の意識ですよ。被害者とその家族の心ね。辛く感じる心って凄まじいものがあるでしょ?酔っぱらった生きる価値もないようなしょうもないやつにレイプされて一生それが心のトラウマになるとかね、そんなのやっぱ許せないわけだよね。

 

客観的に見ればそれは「たまたま」でしょう。その酔っぱらったヤバいやつに会っちゃったっていうのも運が悪いと言えば運が悪いけどさ、まぁこれも偶発性だよね。そいつは元々ヤバいやつだけど素面に戻ってたらもしかしたら襲わなかったかもしれないよね。でも襲ったという事故が起こったらそれはもう悪だよね。

 

だから由来がどうのとかね、失業していたとかまぁ色々な社会的な複合的要素を考慮に入れないといけないっていうのは分かるけどやったことはやったことだよね。もちろんそこで悪自体と罰を一緒にしちゃいけないんだけどその悪に手を染めたというのがある種の災害のような主体性が無い、そういう風な流れにならざるを得なかったものだったとしてもやったことはやったことですよね。

 

だから悪を退けないといけないんじゃないの?って思うんだよね。もちろんそれは悪の排除という一定数の不運な人たちと少数の元々悪を成す確率が高いやつを切り捨てることになるけどそれって傲慢なのかな?その切り捨てが傲慢っつっても「それもあるね」「悪っつっても相対的だよね」「まぁ起こったことはしょうがないよね」っていう無関心を装う相対主義的なアパシーとか悪によって起こりうる無辜の人間が理不尽に感じる苦痛ということへの想像力が無さすぎじゃないのか?って思うのね。

 

だから俺はそんなことはあってはならん!って傲慢と言われようがそれは絶対だと思うのね。悪を裁く権利がなんで人にあるのか?っつっても悪を憎む心が無かったら人間は生きる価値無いですよ。ようはそこが実存なんだよね。別にニートだろうがなんだろうが構わないけど悪だけはするなっていうことをよく言うじゃん?あと人によって何が嫌かどうか分からないという微細な嫌なことじゃなくて明らかなハラスメントレベルのことをやらないとか人として当たり前のことをやってれば生きてていいんですよってことになるわけじゃん?善く生きれれば最高!ってところだよね。

 

やっぱ相対主義は憎いな(笑)相対主義者のほうが頭が良さそうに見えるし俺みたいにキリスト教なんかを持ち出して善を語るやつはダサいからね(笑)でも映えないものこそ真実だと思うのね。ソフィスティケートされたものほど実は時代的な価値観に縛られていてそのソフィスティケートされた考えというのも時代を経れば古いものになるけど映えないけど古代から通底している善のようなものは古くならないからね。

 

それが俺は普遍であってほしいと思うけど思想的に洗練されたかっこよさとかが一切ないからダサい役回りを演じることになるし話してても頭悪そうに見えちゃったりもするんだけど善に殉じるしかないんだよね。別に知恵比べとか思想の映えとかじゃなくて真実へのコミットだからね。善って本当にまともに語るとダサいよね(笑)

 

ただまぁ結局それが政治的なものまで拡張するとどうしてもネオコン的になりがちになるっつー自覚は必要だよね。でもアーヴィング・クリストルとかってトロツキストだったりしたわけで、最初はそりゃその青年的な理想から始まるわけですよ。で、現実に目覚めた結果、ネオコンになるのは当たり前だよね。相対主義とかリベラル止まりなのはやっぱり成長してない学生マインドのままなんだなって思うよね。別に特定の人のディスではないんだけど相対主義の稚拙さだよね。そんなの考えて論理を突き詰めるというほどでもないぐらい自明でそれをどう乗り越えるのか?っていうのが問題なのに相対主義で止まってるってのは学生気分で頭が止まってるようなもんなんだよね。

 

相対主義は構造が簡単でなおかつ客観的な事実だから簡単なんだよね。だからこそ陥りやすい。で、「悪を憎む」とか言い出すと宗教臭くなるからそんなこと言えないし、映えする思想とか態度のほうが楽に生きられるからそっちに流れやすい。あまり考えずにただ相対主義という武器を持って思考停止ということ自体を正当化しやすいからみんなそれに陥りやすくなる。

 

自分は人の意見を変えようと思わないけどさっき書いたように悪を憎むからこそ悪の中に入るっていうか深淵を見ようとするというか、見るつもりはないんだけど見させられる機会が多かったから(笑)どんどん悪を憎むようになっていったっていう人生の流れがあるんだよね。だからまぁそれがミッションなんだと勝手に思ってるんだけどいざ言葉にしてみると頭がおかしいやつだよねやっぱ(笑)

 

でもそれと同時に前は旧約聖書はどうでもいいって書いたけど旧約にも良いところはあって、まさに現代病とも言えるべき相対主義へのカウンター的な要素がいっぱいあって、最近は熱心に勉強するようになったんだよね。でもなんかさ、いきなりキリスト教に目覚めて神学を熱心に勉強してるって真面目な青年ならともかく俺みたいなやつがそんなこと言い出すと気違いじみてて、相対主義者がまともに見えるってそれ自体が狂ってるよね。

 

俺がいつも言う俺は狂ってると思われがちだけど狂ってるのはお前らのほうだ!っていう狂人と全く同じ考えを持ってるわけなんだけど(笑)見栄えとしては善良な市民が相対主義者で善に狂っている俺はよくアメリカの映画とかで出てくる聖書を手にしながらボロボロのホームレスみたいな恰好をして辻説法的な説教をしている狂人っていう感じだよね(笑)でもなんかそれでいいと思ってるんだよね。狂ってると思われてても倫理的に正しいことならそれを突き通したいからね。汚らしい現実との妥協をして生きていくぐらいなら突き抜けたほうがいい。

 

あ、んで今回書いたことは特定の人とかこの話のもとになった雑談をした人たちへのディスとか賛美とかではなくて、今まで自分が考えてきたことを色々と敷衍するきっかけになったから色々と広げてみたっつー感じで書いたんでね。

 

ただでも思想って人を傷つけるよね。結果的に誰々へのディスじゃね?ってことになるのはそれが論理だからしょうがないよね。でもそれを恐れて当たり障りのないことばかりを喋っていても建設的じゃないからね。だからまぁ建設的な話が雑談でもできるって凄いことだよね。でもなんかそれは幻想化し過ぎかもしれないけど学生運動の頃とか内容は稚拙にしても「君の今言ったことは修正主義的じゃないか!」とかって怒鳴り合いの論争をしてたりするって「いいなぁー」って思うよね。アツいじゃん?イデオロギーが右であれ左であれ思想に希望を持って良い世の中を実現しようとしているという情熱ぢゃん?

 

でも別な言い方をすれば強い思想を持ちすぎるとセクト化するか人とぎくしゃくしやすくなるから論争的なものを避けるっていう傾向は日本人に多いよね。それはやっぱり調和を美徳とする価値観なのかもしれないけど、その荒波を立てない調和が「そういう考えもあってもいいかもねー」的な相対主義的アパシーを後押ししてるように感じるのは俺だけじゃないはずなんだよな。

 

ただこれだけは言えるのは思想無き社会に未来はないですよ。人間の主体性がテクノロジーと機械的なメカニズムに取り込まれてあたかもそれが主体のようにふるまうっていう社会のオートメーション化が進んだらそれこそあるのはディストピアだけだよね。そういうものとの親和性が高いのが相対主義なんだよね。極めてロボット的な思考じゃない?で、オートメーション的なことにも違和感を感じないし合理的だからむしろ歓迎するみたいなね、まぁ別にラッダイトってわけじゃなくて、頭まで機械に乗っけるなって話なんだよね。

 

機械仕掛けの神ならぬ機械仕掛けの人間だよね。あと俺がさっきディストピアになるぐらいだったら管理社会でもいいみたいなことを書いたけどそれって機械が主体性を持ってる管理社会じゃなくて善という感覚を持った管理社会なんだよね。まぁそれもディストピアだしメガテンのメシア教みたいになっちゃうけど(笑)ディストピアになるぐらいならそっちのほうがマシだと思うんだよね。

 

ってことで猛烈に長くなったけどそんな感じでんじゃまた。