魂のゆくえ。その3。

昨日みたいな宣言をした後だとなんか勝手にまた重荷を背負った感じがするんだけど(笑)いやね、凄いことがあったんでね、っていうかよくある「たまたま」とか俺が「神の声」とかって思ってることが起こったんですよ。

 

というのも昨日色々と書いたじゃないですか?で、俺がやってるのは相対主義や相対主義じゃないにしても善や悪をあまり考えないようなアパシーへの善への護教なんだと。んでね、話は飛ぶようだけどバルトをぼろ糞書いてるけどさ、ぼろ糞書けば書くほどぼろ糞書くほど読んでるのか?って病的な俺の主観の一部が言うんだよね(笑)

 

まぁ一種の病気ですわ。「全部読んでから言え!」っていう声が聞こえる。幻聴ならぬ幻思だね。造語ですわ。いや、で、今じゃないんだよね。だいぶ前からぼろ糞書いてるからちょっとは読もうかと思って教会教義学と著作集を結構持ってるから全部読破してやろうと思って、ただ教会教義学が英語でなんか最近日本語の本ばっか読んでるから英語ちょっとダルいなっていう英語離れがあって良くないなーとか思いつつ邦訳で読もうとするとセットが何十万なんだよね(笑)

 

3年前か4年前ぐらいに新しい英訳のセットを送料込みで300ドルという激安で買った俺にはやっぱり読む必要がありそうだっつーか、まぁせっかくあるんだから読もうと思ってさ、んでカール・バルト著作集の14がたまたま手元にあってまぁロマ書のやつなんですよね。

 

んでなんか昨日の消化不良のもやもやと善の護教と悪の分析か・・・とか思いつつさ、まぁ相対主義者との勝手な脳内対決が始まってるんだよね(笑)んでまぁ最近は割と調子が戻ったんでまた読書がメインの生活になってるんだけど、ここでのまぁ「たまたま」なんですがね、まぁ脳が答えを求めているときにたまたま開いたページにその一節があっただけと言えばそうなんだけど「おお!」ってなるような一節がたまたま目に入ったのね。

 

ってのがこれなんだけど「救拯使信の勝利を配慮する護教論などいうものは存しえない」っつーロマ書の主題的事実 1:16-17からなんだけど「よっしゃ!」って感じやん?(笑)「この使信はあらゆる予見を破却しかつこれを基礎づけるものであるから、それは世界を克服する勝利である」!!!!!!!!!!じゃん!!!

 

いや、バルト先生ディスってすんませんでした。俺がアホでした(笑)でも当たらずしも遠からずで、まぁ今後の課題にバルト研究が加わったなとか思いつつ、2年前ぐらいのアシッドやる前にまだまだ神学理解が浅いときにバルト研究の本なんかを読んだりしているときに俺の勝手な解釈だとバルトの危機神学って何が危機なのか?っていうと昨日の俺の焦りと不安のような「やっべーぞ」っていう危機感から来るものなんだよね。

 

バルトの場合は言うまでもなくナチズムの到来やら神学者やら諸先輩やら師匠格までもがナチスを信奉したりして、まぁそういう時代背景があったにせよ凄まじい危機だったわけだよね。だからなんか他に歴史的イエスとか細かいのやってる場合じゃないから今見れば護教っぽく感じるけどディフェンスをせざるを得ないぐらい世の中がヤバかったわけでしょ。

 

そのバルトの一億分の一ぐらいの危機意識を持っている俺ってのは宗教的自我とか宗教的実存っていうのはだいぶ芽生えていて、そういった中で相対的な価値観を見たり接するとある種の異様な感受性でそれに危機を感じるんだよね。その危機を感じたからこそバルトの危機感のようなものが感じられたんだと思うんだよね。原理主義と言えば原理主義だけどそうだよねっていうさ、元々勝ってるんだよねっていうね、そうだったねっていうね。俺が頑張れるわけないよねっていうね(笑)

 

あと改めて神秘主義に傾倒しているとは言え相対主義を持ち出されると「まぁそりゃそうですよね」ってなっちゃうってやっぱ弱いんだよね。理論武装してもしょうがないんだけどただ理論武装できるのは俺の強みで理屈っぽいのも俺の持ち味だから、バルトのそういった文章には凄い勇気づけられるよね。だからイエスはKing of Kingsなんじゃん!っていう自明性だよね。そこに俺は帰依しているんでしょう?というそういう理屈の部分ってやっぱ大事だなって思ったんだよね。

 

それは相対主義なんてどうでもいいんだけどそう思って納得している人が相当いるだろうという中で果たしてキリスト者としてそういったことに関して無関心であっていいものか?っていうところがあるわけよ。もちろん相対主義者を説得したり論破するということではないんだけど、相対主義的価値観を感じてしまうと凄く心の居心地の悪さを感じるっていうのはまぁ俺が元々相対主義的なニヒリストだったってのもあるんだけど、そこからのキリストへの帰依がニヒリズムを超えるようなニーチェ的であったりハイデガー的な意味での神学なんじゃなかったの?っていうところで理由のところが神秘的な要素と個人的な神秘体験になると弱いんだよね。

 

ナチスとバトッてたまに戦線にまで行ったバルトの精神性ってのがすっかり抜けて落ちていたというかさ、熱心にバルト関係のをやろう!と思っていたころはそういうアツさに魅力を感じてたんじゃないの?っていうね、で、最近の俺の神秘主義への傾倒からそういうのがすっかり抜け落ちていたというのと、内面世界にこもり過ぎていたなっていうのを改めて感じたんだよね。

 

でも改めて思ったのが宗教もそうだけど思想ってやっぱこういう実感とか同じとは言わないまでも同じような疑問とかそれこそ「なぜだろう?」というレベルではない精神を病むレベルの悩みになっているものへの先達の言葉っていうかさ、そのぐらいそれが自分にとっての大問題じゃないと心に響かないんだよね。

 

あとバルトに霊性が無いっつってるけどめっちゃ霊性あるやん!ってちょっとロマ書読んだだけで思ったのね。結局、これも霊感なんだよね。霊感的な読書で霊が響くということね。ってことは今までの俺の霊性が低かったってことだよね。逆にバルトの言葉が響いてくるぐらいのマシな霊性になってきたということでもあるよね。

 

自分の傲慢さと無知に飽きれるばかりだわ。西谷啓二だったと思うけど俺も散々書いてるけどニヒリズムは対象化した時点でニヒリズムじゃなくなって、ある種の俺の病的なまでの虚無感との闘いとかっていう、いわば当事者研究としてしか本当のニヒリズムは味わえないし分からないのと同じで、俺が相対主義的な意見に接したときに凄く自分の中で大切にしている善という感覚とか信仰という感覚を揺り動かされる感じがしたっつーのはそれだけ自分が宗教的実存を生きつつあるからだよね。

 

興味を持っているぐらいの時はあくまでone of themだけど今は良い意味で中心的になりつつある。だから神を批判とまではいかないけど仮に批判されたら自分を批判されるより例えばなんだろう、自分はいいけど家族のことを批判するな!的な怒りがこみ上げてくるのって実存化してるってことだよね。

 

それを俺は霊性と知識の高まりだと思っているけど、だからこそそこでバルトを読むとone of them感覚で読むと護教論にしか見えないけど当事者として見ると善というより義のディフェンスというか、なぜキリストが義なのか?ということを論理的に自明にしておく必要があって、あくまで俺の解釈だけどそれはキリスト崇拝なんではなくて善の崇拝なんだよね。善と義はまた違うけど俺は絶対相対主義は認めないからこそ勝ち負けではないけど負けられないわけだよね。

 

鋭い相対主義的な突込みに対して痛くも痒くもない自明性がなきゃいけない。怒りがあるってことは痛いところを突かれているってところだし、神の世界に逃げているという面はあるからね。そこにニヒリズムとか自分の人生のブレイクスルーみたいなのを見つけ出したい!っていう勝手な希望があるからそこを突かれると痛いんだけど、そこでバルトの義の話は本当に強いんだよね。勇気づけられるというかまぁ理論武装ですよね。俺の貧弱で躁鬱な頭じゃ作り出せないようなものを先達が持っているなら借りるのが一番なわけで。

 

そうなるとバルトというのはつまりはぶっちゃけシュトラウスとあまり変わらないということになるかな。もちろん政治思想とか方法は違えどシュトラウスはタカ派みたいなのと親和性が高いようなマキャベリアン的思考だし、バルトは元々引きこもって本を書き続けたかった人だけど時代がバルトを闘争の場所へと駆り立てたっていうことでまぁ闘争的だよね。

 

俺がやってきた思想は闘争的なものが多いよね。それかまぁ一気に隠居っぽい浮世離れしたやつかどっちかって感じだけど、俺なんて何かやってないと生きてる価値無いから生きてる間にやりたいことをやりたいから神秘主義もバルト的な闘争的キリスト教ってのをやっていきたいなって思ったんだよね。ようは色々と相対主義的な観点によって突っ込まれることで俺の闘争本能が刺激されたっていう感じだよね。

 

ってことで続きますんでんじゃまた。