魂のゆくえ。その4。

3からの続きなんだけどこないだ画家のよーこさんから「ゲームとオナニーばっかしてないで飲みにいこうぜー」ってお誘いがあって行ってきたんだけど何気に会うのが5年近くぶりなんだよね。

 

で、彼女は今は大学院で哲学やってて話した内容は多岐に渡り過ぎるんだけど、上から目線みたいになっちゃうけど、やっぱり思想ってセンスだよなって思うんだよね。感性とかね。まぁんで彼女は当然鋭いし天才肌だからね。だからまぁーなんつーか話早いんだよね。

 

あとやっぱりよーこさんが言ってた言葉のレイヤーってのがあって、こないだ俺も書いたけど同じ「神」でもどのレイヤーの話してんの?っていう話があるわけで、それは善とか悪についても同じだよね。で、普通は荒いというか逆にそればっかやってるやつは解像度が高くなるだけでそれを基準としちゃいけないんだけどただやっぱ最低限の解像度ってあるじゃん?って話がまぁ俺が言う相対主義ならそれでもいいんだけど楽な方の学生が哲学齧った程度の相対主義で終わるなよ?っつーところは文句言うよ?ってところはまぁモンクだけにいいんじゃない?みたいな話ではあったんだけど(笑)

 

んでまぁ全然飲んでないから久々の飲むと一瞬で酔っぱらうんだけど(笑)酔いもあってかこないた書いたような闘争モードなんだぜ!俺は!みたいなのを力説した気がするわ。実際はよーこさんがメインに喋って俺がたまに合間になんか言うって感じなんだけど内容は書ききれないけどなんつーかまぁその閉じちゃうようなタイプの隠者とか神秘主義者じゃなくて義の戦士として、ジーザスの徒として戦っていく!っつー昔の俺のマルクス主義モードみたいな闘争モードは間違ってねーなってのも分かったんだよね。色々と話してて。静的な霊性と悪を憎む闘争心だよね。

 

悟ればオッケーみたいな感じではなくて基本悪を憎むってやっぱ俺の軸だもんな。まぁそれは神の軸なんだけどね実際は。それってキリスト関係なく元々俺にあるじゃん?だからそれってやっぱ神からのギフトなんだよね。だからまぁ「人それぞれだからねー」で済ませる話にイラつくのはイラついてたほうが俺らしいってことなんだよね。かといってもそんぐらいで済ませているところに介入するのは疲れるしってのはよーこさんも言ってて、まぁ最近の俺のスピ系の概念で言うところの波長を合わせると嫌なのもらっちゃうって話よね。

 

あ、んでスピ系っつーけどさ、スピリチュアルって言葉も日本の場合、キラキラしたニューエイジ系を指す場合が多いと思うけど、俺が言うスピリチュアルってスピリチュアルジャズとかのスピリチュアルだよね。アイラーがユニティとかゴーストって言うところのスピリチュアルだったりコルトレーンの至上の愛だったりね。まぁジャズが近いんだよな。イメージ的に。ブラックっつーと今は差別用語になるのか分からんけど俺は差別だと思ってないんでブラック的なスピリチュアルだよねってことなんだよね。

 

あ、いいや。またちょっと続きはまた今度書くわ。んじゃあ3からの続きってことで。

 

 

隠者の場合、無視だけど俺は闘う!っていうね。まぁ俺の隠者傾向ってやっぱりここ数年の政治的なものへのあきらめが大きいんだけど、さらにまた善に関しても動員は難しいなって思うことが多いじゃん?だから隠者的神秘主義の世界に魅力を感じてたけどやっぱり闘わないといけないなって気がしたんだよね。

 

フランソワ・ジュリアンの道徳を基礎づけるって本があったけど、あくまで俺は神ありきだし神なき普遍はありえないと思うから乱暴でもある種バルトのような気にしないところは気にしないで突き詰めるところを尽きつめるってやったほうがいいのかもなって思ったね。

 

まぁそう思うとルターは嫌な奴だったかもしれないけど「信仰によって義になる」っていう認識の宗教体験をしたのはすげーなって思うし、まさに今の俺がぶつかっている理性じゃどうにもならないものがあるっつーところの一種のブレイクスルーだよね。いや、今回のことがあったからルターの信仰義認も響くところがあったというか、同じような体験をトレスできたから深みが分かったという感じで、まぁつまりは思想って体験が伴わないと分からないんだよね。観念なんだけどフィジカルな面があるんだよね。

 

ルターの神学自体がルターの実存的悩みから来ていてそれが宗教改革につながったとかヤバ過ぎるよね。実存的神学の先駆けじゃねーかルターは!って気がしてきて。あとまぁ言葉の問題で言うと「神」って相当語弊を持つっつーかシニフィアンとシニフィエの構図が異様でシニフィアンはある種、文化をまたいでも神なるものを指す言葉とか象徴ってのはあるんだけどシニフィエになると辞書で引いてきて「そういうことか」ってなるものじゃない、まぁ簡単に言うとよく言われる「100人に聞けば100通りの答えが返ってくる」っていうものなんだよね。

 

だから俺は抽象化ばかりするけど言語の分節化とかarticulationってすげー必要で一般的に意味する神はキルケゴールが言うような人間が想像しうる偶像的な神だよね。非概念的神とかってそれ自体が難解すぎてその理解の共通前提が必要になっちゃうよね。でもそこの前提は求められなくてそこはもう思想の領域になっちゃうから「そういうことですよね」って言えなくなっちゃうんだよね。言った時点で侵犯になっちゃう。

 

所謂、一般的にディスられる神ってのは偶像の神だから俺も当然ディスる側で、ただ俺が目覚めた本当に分かったっていうと問題があるけど偶像ではない神の概念というのが非概念的領域ながらも分かったんだよね。まぁ前にも書いたけどカントールが神学から無限のインスピレーションを得ていたってのに似ていて、俺もカントールの無限の概念を知った時にすぐに仏教が浮かんだんでそれがベースにあるから理解も早かったんだと思うんだけど、でも理解に導いたのが不思議な偶然なんだよね。でもまぁすさまじい苦痛とかが伴うものでもあったわけなんだけど。

 

同じ神でも指を上に指してあたかも天空にいるかのように考える神ってのは抽象度の低い偶像なんだけど指すことができない、でも便宜上シニフィアンを使わざるを得ないから安易に使ってしまうと誤配が起こってしまうっていうことだよね。だから恐らく実際は無神論だけど色々と考えている人と考えは近いんだよね。ちょっと話は違うけど三島由紀夫が全共闘だか左派に「僕は君たちの意見に天皇以外については全く賛成なんだが」って言ったのと似てるよね。

 

でもそこはこないだ書いたイデオロギーは違えど良い社会を目指しているという意味では共通しているというベクトル的なことも含むんだけど、俺はそれを考えない人を軽蔑するんだよね。もしくは昔の俺みたいに相対主義以外ありえないとかって勝手に思い込んでいる知的怠惰を軽蔑するってことだよね。つまりは知的な堕落だわ。知的に堕落している人間は善い行いをできないわけだ。

 

だからエロスという原動力を持たない人間というのは価値が無いと思うわけ。でもそんなこと言うと傲慢だから(笑)そう思うけどそう思う対象は自分に限るっていう限定にしてるんだけどね。だから先月みたいに超絶鬱になって何もできないとその原動力が失われるから成すべきことを成していないという無力感に苛まれて余計に鬱が激化するんだよね。でもそれは代償として必要でしょう。

 

あとあれ、言葉の問題で言うとあれだわ、話戻るけど魂のゆくえをDVDで見たときは倍速で見たんだけどネトフリで見たときは標準の速度で見たら翻訳不可能なさ、まるでヤコブの天使との闘いのようだったって言っているのが神との闘いだったって翻訳されてたりとか、キリスト教的な意味合いを含むものがすげーあるんだよね。

 

あとsaviorが翻訳だと救世主になってたりだとか、それじゃまるでメシアの到来を待つ黙示録的な宗教じゃねーかっていうさ、救い主っていう意味でのキリストなんだけど救世主になっちゃうと全然意味違ってくるよねっていうね。

 

あとあれだわ、旧約とかで出てくる「神を恐れよ」とかってのも天皇を「畏れる」っていうことなんだよね。日本人の場合、天皇を畏れるという感覚がまさにそれなんだよね。でも天皇を恐れるって書いちゃったら天皇が独裁者みたいな感じになっちゃうじゃん?

 

まぁだから原語で読めって話になるんだけどね。でもまぁそういう意味で英語はまだ劣化が無いなって思うのね。んであれだわ、そのニヒリズムとか虚無感を抱えながらとか相対主義的に考えながら生きるってのはつまりは邪悪なことなんだよねっていうことなんだけど、この辺は善の不在としての惨めな生きざまとか考え方っつーことになるんだけどまたバルトのロマ書の一説からだけど「空虚な思索と暗黒な心情から必然的にまた邪悪な行為が生まれる」っつーことなんだけど、これってまさに俺が精神的に暗黒的になるときにも頭は冴えていてただネガティヴな思念に犯されているときのものってつまりは邪悪なんだよね。

 

それが鬱の時の夢も希望もないニュートラルな感じで客観性があるにしてもそこに義や善が無いからそれは悪なんだよなって思うのね。悪の範囲を広げ過ぎてるけど(笑)存在自体が存在するという時点で実存ということを引き受けちゃうからその実存の責任みたいなのを負わされるんだけど、そこから逃げるのが相対主義とか思考停止とか最悪の場合悪なんだよね。

 

よく社会的責任とかいうけどあほらしいよね。仕事の責任とかさ、そういうただの経済活動における責任なんてのは中心が金の時点で大したもんじゃない。もちろんフェイスブックとかじゃないけど利益を優先し続けて毒電波オッケーみたいな垂れ流しを平気でやるとかそういう悪への責任はあるにしてもさ、なんか社会人なんだから責任を持てみたいな話ってあるじゃん?

 

でもフェイスブック並のことって個人じゃできないし(笑)大した責任ないんですよ。いやだったらやめりゃいいんです。それは昔から意見は変わらないよね。でもね、実存からは逃げられんのですよ。場所を変えたりどっか行ったり旅行したりしてもついてくるのは主観性なんだよね。

 

ずーっとそれとの付き合いだよね。あれかこれかで選択しても結局、思考停止で快楽だけ求めるような生活は続かないか、続いた場合、それは動物的人間なんであって実存とすら言えないようなレベルのものなんであってまず実存という次元の存在にならないんだよね。まぁそれはそれでいいんだよね。動物に失礼な言い方なんだけど。

 

東浩紀の動物化するポストモダンってポップなのにやっぱすげー本だよ。なんかさ、まぁ読んだのすんげー昔だけど本の中ではオタクカルチャーっていう枠組みがあったと思うけど今って電子化情報化がさらに進んだからオタクに限らずみんな動物化してるんだよね。でもそれは果たして動物化なのか?っていう話でもあるんだよね。

 

それは元々動物的な人間が与えられたものだけを享受する動物のような生活をするという本来の生活をしているだけで、ただ人間である動物は実存を持つから動物的生活をやり続けるのには限界があるんだよね。飽きるしつまらないし意味が分からなくなって頭おかしくなるよね(笑)

 

ブルトマンなんかの実存的神学ってそこの実存的契機に聖書というか福音が介在するっていう、信仰に生きるということが実存になるっつーかまぁ別にそれは信仰に限らずそれが目標とか家族とか思想とかなんでもいいんだけどね。でもそれに生きるというコミットをするかあとは勝手にしちゃっているぐらいそれが自然な人にとってはそれが実存なんだよね。

 

でも俺はあれかこれか状態が永遠に続いていてっていうかそんなキルケゴール深く読んだわけじゃないけど(笑)せっかく著作集買ったわけだしもう一回読みなおそうかっつっても量多いからなー。まぁいいや。俺の場合、そこの実存を規定する契機っていうのが常に変わっていたり飽和化したりするんだよね。もしくはサステイナブルなものじゃなくてフラジャイルなもので、かといっても代替可能なものが見つかるわけでもなく、そこで実存だけが残されるとニヒリズムに陥るんだよね。

 

ってことで続くんでんじゃまた。