魂のゆくえ。その11。

教会教義学を読破しようと思いつつ、やっぱまず手始めにロマ書とか著作集を読もうかなと思ってまぁロマ書の冒頭のあたりに衝撃を受けたってのは書いたけど、ロマ書を結構精読してるんですよ。で、何か既視感がある。言葉の重みと使命感のようなものと怒りのような祈りみたいなのがある・・・っつってこれニーチェやん!って思ったんだよね(笑)

 

思想感半端ないんだよね。「何々によれば」的な学術論文とは程遠いキリスト教思想だよね。この辺はシュトラウスとかと一緒で素材がプラトンだろうがそれこそセノフォンの小冊子レベルの分量の文章について大著を書いてしまうシュトラウスのような気合があって、基本的に俺が好きな超人系の人なんだよね。

 

でも共通しているのが学問的な客観性とか哲学的議論に持っていくとイデオロギー的過ぎて批判の余地があり過ぎるってことなんだけど関係ないよね。俺は過激派なんでバルトを自分なりに時間をかけて咀嚼して過激な部分をより先鋭化させてプラグマティックなものにしたいと思ったんだよね。中立性とか学術性とか関係なくRPGで言えば脳筋ガン振りみたいなバランスを欠いた一極集中のキャラ育成をするみたいな感じだよね。

 

いや、何よりロマ書は闘争の書だよね。バルトがキルケゴールに影響を受けたというのも分かるぐらい人間への凄まじい絶望がある。いや、そうじゃないのかもしれないけど今のところ俺が感じたところだとそれを感じるんだよね。部分的に引用してもしょうがないんだけど「人間は全て虚言者である」とすら言ってるからね(笑)

 

そのぐらい取るに足らないものが思考をしたところで出てくるものはたかが知れているし、つまりは倫理とか善や義のようなものは不可知のブルトマン的に言えば完全な他者としての神にしか規定できないというようなレイヤーのものってことなんだよね。

 

キルケゴールの絶望は個人的葛藤とか実存が多い気がするけどバルトはあの時代だから戦争やらなにやら非人道的なことが世界中で起こっててキリスト教もクソもないよなっつーときにロマ書はまだそこまでじゃないけど教会闘争とかになっていくのもほぼスタンドアローンみたいな状況におけるキリスト教の護教なんだよね。それを俺は時代的背景も知ってたはずなのに護教論だとかって言ってたけどそこには理由があるし、理由があるからこそそれを普通の哲学的俎上に乗せて一般倫理と比べて妥当性がないとかイデオロギー的と言うのはフェアじゃないってことなんだよね。

 

まぁそこがようは相対主義的価値観にそれこそ「お前なんて生きる価値がない」と言われたぐらいの衝撃をなぜか受けたっていう、相対主義者だったのに宗教的実存を生きている自分にとってはそれが自分をディスるどんな言葉よりも刺さることになっちゃって、そのショックと危機感の中でバルトのロマ書を読もうと思ったときに冒頭に衝撃を受けたってことなんだけど、まぁシンクロですよね。

 

だからある種バルトはハイデガー的な世界内存在的実存主義者なんだよね。そういった存在の自明性をもとにして、ようはただ世界に放り出された人間に義もクソもないだろうっていう、まぁホッブズ的な自然状態というかさ、性悪説よね。シュトラウスもそうじゃん?放っておくとバカとか分からないやつが多いから超危険だっていう危機意識からタカ派的な思想が出てくるわけで、バルトもめっちゃタカ派だよね。福音的タカ派っつーとアメリカの福音主義者か?と思われるけど違って、なんかどちらかというとミュンツァー的な闘争的キリスト教を想起させるようなものがあるよね。

 

これは瞑想の話だけど「分かっちゃった」とか「悟っちゃった」みたいなのは大体幻想だし傲慢だっつー戒めがあるように、エゴから発するある種の優越的な考え方とか人とは違うステージに行っちゃった的な、そこに自己っつーものが介在するものに関しては基本的に人間的なものだから不完全だしそんなもんが悟りなはずがないっていうね、で、バルトは悟りの話はしないけどあえて悟りの話で例えるならそんなもん人間に分かるわけがないし分かった気になっているのは分かった気になってキリスト者のつもりでいるパリサイ人みたいなもんだって言ってるわけだよね。分かっているつもりということで神の律法を犯していると。

 

だからこれって人間の思い上がり全般に関しての戒めでもあるからエクストリームだけど危険じゃないんだよね。パワーは核並に凄いけど使い方間違えると世界が滅ぶっていうようなパワーだよね。でも使い方とかどうあるべきか?というのは神に規定されているしそれは啓示によって示されるわけだから無我で神のエージェントであるぐらいのつもりでなおかつ神のエージェントなんだ俺は!みたいな優越感ではなく、ただのロボットに過ぎないぐらい我を捨てるということで全面的にキリスト者でいるということだよね。

 

そういったことによってのみ帰依できるものなんであって、バルトがあんだけ色々書くのもその条件付けは簡単なもんじゃないんだぜっつーところにあると思うんだよね。教会行って洗礼受ければいいというような話ではなくて完全に神に放下するような、つまりは全面的な降伏だよね。

 

「でもどうやって?」っていうようなことが「霊感」として語られてるけど超自然的だったり神秘主義的過ぎると学問にならないからっつーかバルトとかの学問系は「そりゃ分かる」っつー超感覚的なものを言語化しようとするし学問的な体系として提示しようとするからだからまぁあんな長くなるんだけど昔の神秘主義とかのそんなに長くないエッセンスだけ書かれたようなのと実際はあんまり変わらないんだよね。

 

どうそれが可能なのか?というのをオカルト抜きに整合性を保とうとしてるから結構無理があるところが出てきちゃうんだけど、実際はマジで神秘主義者が言うところの所謂「降りてくる」みたいな感じとか啓示とかも言わば聖霊が降りてくるみたいな感じなわけでマジでこれは超感覚的としか言いようがないし、いろんな映画とかアニメでもヒーローものでもなんでもいいんだけど悪が勝つものってないでしょ?基本的に。

 

んで悪を切り裂くのは光の戦士たちみたいな光と闇っつー単純な二項対立の中での光の勝利ってのがキリストの勝利ってことで、言わば聖書的内容と啓示ってのは色んな類型がある物語で語られるっていうかモダンなやつとかも含めて言いきっちゃえば聖書の色んなオルタナバージョンだよね。

 

ある種ごじつければ全て福音的とも言えなくもないっていうか今スパロボ30やっててなおさら思うんだけどヒーローもののヒーローとか正義ってキリストだよね。ホント、それの反復とメタ化って感じだよね。宗教出してこなくても至る所に福音のオルタナ系があると考えると福音の普遍性というか、原理は神というのも納得がいくよね。なぜかそれがアプリオリだしアプリオリで良かったな!っていうまぁそれ自体が奇跡みたいなことだよね。

 

ただバルトが言うような聖書によってのみとかっていう限定的過ぎるものは違うかなーって思うよね。あとまぁ理解不能なのも含めて急に来る人は来るからね(笑)宗教って学問の俎上に置けないことが内在されてるから言語化が凄く難しいか、意図的に超自然的なものを避けるしかなくなるからこじつけ臭くなっちゃうんだよね。

 

前にも書いたけど聖書の内容自体に超自然的内容のものが含まれまくってるからある意味、それをそのまま理解すればいいんだよね。でも分からない人には分からないし来ない人には来ないんだと思うんだよね。それがなんで人によって違いがあるのかは分からないけど、でもマジで来る人にとっては凄まじい啓示の体験なんだよね。神の概念を言葉で表せなかったり非思量的なものだとすると啓示もそうだよね。言葉にした途端、陳腐になるか理解不能になる主観的なものなんだよね。

 

ってことで続きますんでんじゃまた。