魂のゆくえ。その13。

では続きですっつーかまだ書くの終わってないんだよな。ゲームやり過ぎだわ(笑)ただゲームやってて思うのはゲームってまぁある程度がっつり時間割けば進むわけだけど勉強とか読書って時間の割に全然進まないよね(笑)特にバルトだの最近はトーランスを読み直してるっつーか3年前ぐらいに読んでたんだけど科学は聖書によって基礎づけられなければならないとか言ってるアホっつーイメージしかなくて(笑)今の割と前よりかは神学的知識がついてきた状態で読んだらどんな感じかな?と思ってかなりガッツリした研究書みたいなのを買って読んでるんだよね。

 

なんかまぁ色々面白いよね。バルトやらブルトマンやらティリッヒやらオットーやらブーバーやら個々の神学があってみんなそれが普遍だと思ってるんだけど結局まぁ個々の神学なんですよね。まぁ哲学も一緒だけどね。普遍だと思ってるけどやっぱ個人なんだよね。でもなんか「俺はバルト!」とか「俺は実存的解釈!」とかって決めないでニュートラルに全部読むってのが大事よね。バイアスをかけないで価値ありそうなのは読みまくるってのが重要だね。めっちゃ時間かかるんだけど(笑)

 

ってことで続きね。

 

あ、んでなんか仮に俺が相当近いところまで行ったりなんかして色々分かったところでネタばらしは絶対しないんであんま期待しないでね(笑)ただまぁなんかそれってミッションみたいなもんで自我を捨ててそのソースに帰することを決めてるからソースの力を通せるかソースが意識なりを持ってるものだったら許可みたいなのがあってソースの流れを通してもらえるだけでそれはあくまでソースの力なんだよね。

 

だから本当に凄い人ってソースの力を淀みなく通せる人なんであって「すげー!」って憧れられるような霊能者とか超能力者じゃないんだよね。ソースの力と世俗的に言う霊能力とか超能力って言っちゃえば武術と見世物の居合切りぐらいの差があるんだよね。知らない人は「すげー!」って喜ぶかもしれないけど食い詰めた武士の見世物の居合はただの野菜切りなんであって武術じゃないでしょ。あくまで見世物だからね。元々武術やってた人が食い詰めて見世物をやるようになることもあれば見世物自体である程度成り立つ場合、居合での野菜切りに特化した見せる居合っていう全く武術と関係ない見世物としての居合っつーものが成立するじゃん?

 

かといっても別に能力を使って対価を得たり商売をしてるのはいいのよ。使い道が善ければいいと思うんだよね。ただまぁなんとなく分かるのはガチな人はあんまり有名にならないだろうなってところだよね。世間の目に晒されるべきではない人たちってのが絶対いるんだよね。で、分かってる人たちとの間との関係で回っているものがあって、その循環がそこで回るということが重要だから外部からの激しいノイズに晒されることがリスクでしかないんだよね。

 

だからガチのイタコさんとかは信頼できる筋の紹介じゃないと見てもらえないって言うしイタコさんに限らず能力者全般そうだと思うんだよね。まぁ下手すると時代によっちゃ「魔術だ!」とか言われて処刑されてたような人たちだよね。なんか面白いのがさ、武術とかも本当にヤバいっつーかガチの世界のことって当然危なすぎるんで情報として出ないんだよね。当たり前だけど書店とかに行って読めるようなもんじゃないんだよね。

 

で、俺は今の先生につく前は「暗殺拳をマスターしてやる!」とか中二病丸出しのことを書いてたけど(笑)知れば知るほどそもそもの概念が違うことに気が付くし、いかにバカげたことを考えてたかが分かるんだよね。だから良い意味で諦められるんだよね。だから良い平和な稽古をしようという気になる(笑)まぁそのガチ武術体系ってのはそれこそどっかの国で全く報道されないような機密のミッションとかをやってるようなCIAだとかさ、特殊部隊しか知らないような機密の技術とかそういうもんなんだよね。

 

それは超絶的な身体があるからやれるものなんじゃないの?っていうと認識を変えるものだったりして下手に出回るとやれるやつとかが出てきちゃうから危険なんだよね。本当に体一つで筋トレなしで危ない力って本当に出るんだよね。だからそんなのやらないのがいいに決まってるわけだ。いや、別に俺は知ってるけど危険だからやらないし教えないとか言ってるんじゃないですよ(笑)なんかまぁそういう世界の話なんだってことでまぁなんか武術と変わった能力の共通性が似てるなと思ってね。まぁあんま表に出ないっつーところなんだけどね。

 

なんかまだ色々あるんだけど長くなったからもういいや。いや、スパロボって湯水の如く時間が削られてしかも原作のボトムズとかガンソードやらを見てちゃんと霊的成長のための訓練をしつつ太極拳の訓練もやって瞑想もやる・・・とかっつーとリアルに時間ないんだよね(笑)なんかこなしてるだけであっという間なんだよね。でもまぁゲームとかアニメは見終わるけど他は鍛錬だから終わることがないからね。ただそういうことを生活に組み込むことの重要性ってすんげーあるよね。習慣化の力だよね。

 

霊性にしても太極拳的な力の使い方にしても恐ろしいぐらいの非日常的な感覚とか力を使うから毎日やらないと身につかないんだよね。あ、んでまぁ今は色々あって棒術も習ってて我がマスターからマスターが使っていた棍をいただいたんですよね。アニメとかRPGとかで免許皆伝になった弟子がマスターからレジェンダリーの武器の「達人の棒」をもらうようなのを最初からレジェンダリーもらっちゃったみたいなね、まぁ我が師には本当に感謝なんだけど思い返せば自分の人生の風向きが変わってきて良くなってきたのも全て色んな分野における優れた師との出会いなんだよな。直接指導をしてもらってる場合もあれば師と仰いでいるだけで実際はサービスを受けているだけだったりするんだけど色々なインスピレーションを得られたりして、まぁ一人の世界でいたら絶対分からなかったことだなってのがすげーあるんだよね。

 

なんかまぁ本だけの世界に限界を感じるっつーか言語自体に限界を感じるってだいぶ前に書いたと思うけどさ、その自己意識だよね。だから体験なり言語ではない何かから学びたい!という意欲があって出会いに恵まれている感じだよね。あとこの体験っつーレベルの話だと例えばなんかがあるないって論争があったとして体験がある側とかそういうのが分かるとか見た側とただの論理だけでやってる側とでは全くかみ合わないんだよね。

 

だからあるなし論争ってすんげー不毛なんだよね。まぁそこに言葉の力を使うのもありはありなのかもしれないし、例えばキルケゴールがキリスト教の弁護なんてありえない!って言う言葉とか、それのバージョンアップだと思われるバルトの善の弁護などありえない!っていう言葉とかまぁ両者とも哲学者寄りの神学者の言葉だから言葉を尽くすのも意味なくはないんだけどね、ただまぁキルケゴールとかバルト並に言語を使えないとそれって難しくて、それに比べて体験はある種言語より開けてる感はあるよね。open you mindとか言うとニューエイジ臭いけど(笑)マインド次第でいきなりなんかが変わることもあるんだよね。ただ言葉の力ってのもあるし、何より神のロゴスが受肉化したキリストのロゴスってのは神のロゴスなわけでっつってもそこはキリストを見るべきで聖書崇拝をするべきじゃないんだよね。

 

聖書崇拝になるから排他的な思想が生まれてくるんだよね。そうじゃなくてキリストに帰依すればそんなことにはならないと思うんだよね。聖書に同性愛はソドミーとして罪として書かれているっつったところでキリストが今現在存在してたらどう考えるだろうか?っていうことを考えられるということがキリストに倣うってことだよね。

 

前にゲーデルの勉強をしていたときにいかにゲーデルのように考えるかがゲーデル研究の肝だとかって思ってたけどキリスト教はそれに尽きるよね。いかに高い精度でキリスト自体のように考えられるか?ってことなんだよね。まぁそれは脳内で召喚するみたいなのと似てるよね。神のお考えは分からんけど受肉したキリストは人間でもあったし人間というリミットがあったから同じ人間としてキリストのように考えることは可能なんだよね。神のように考えることは不可能だと思うけども。

 

まぁなんか余生はもうこれに尽きるなって感じですよね。もうなんかこれしかやりたいことはないし残ってないって感じだわ。それが見つかったのが本当に救いですよね。まさに生きる糧としてのロゴスだよね。パンだけじゃ生きていけないよね。

 

ってことで今日はそんな感じでんじゃまた。