魂のゆくえ。その14。

最近色々と読んでて思うのはっつーかまぁトーランスの本読んでるっつったけどまぁ結局、護教ありきで物理とかいろんなの持ってきてるだけでしょ?感は否めなくてっていうかそもそもが超自然的でスピリチュアルな聖書っつー世界観を超自然的世界観を抜いて考えるってのは不可能かもしくは肝心なところが抜け落ちた説教臭いものになっちゃうよね。

 

ヒルデガルドみたいにリアルにビジョンとかを見てなおかつ神学もやってそれをベースに組み立てた独特の神学とかがアクィナスとかエックハルトに影響を与えたのを考えるとやっぱ霊感ありきだよね。トーランスの言う初期教父達のキリスト教が科学だった世界観に戻るって分からなくもないんだけどまぁそれ言い出したらただの知的後退じゃん?

 

まぁ相当無理があるよね。なんか宗教と学問ってすんげー相性悪いなって思ってて(笑)例えば禅を研究することはできるけど色んな本にも書いてあるけど座禅している人の脳波の状態とかどんな感じなのか?ってのを聞いたところで座禅の状態が分からないのと一緒で、宗教も結局はそういうところだよね。まず理屈じゃない人情ってのがある。人間を現象として見るみたいな現代的なドライな考え方に反する凄く生命に対するリスペクトがあるもので、でも現代的な科学的な見方をすると人間とロボットの差があんまりないように感じたりネットと人間ってのを見てもどっちが機械なの?っていう感じもあるぐらいじゃん?

 

でもなんだろうな、そういうところに還元されないアツさなんだよね。スパロボやってて思うのがまぁロボアニメのむさ苦しいまでの熱さと正義に燃える感じってあるじゃん?あれがまさにキリスト教だと思うんだよね。その正義って何なの?って現代的な視点では問うし敵は敵なりの論理があるのでは?とかさ、正義っつって戦争していいのか?とかさ、なんかただロボアニメのアツさってそういうの超越してるじゃん?

 

アプリオリな満場一致な正義で「ブレストファイヤー!!!!」って叫ぶみたいなさ、んで前に散々書いたけどナデシコなんかが典型的だけど過去のロボアニメが相対化されててメタ的にそれがイデオロギーになってたり過去の産物なんだけど憧れの対象になってたりスパロボ30とかだとエルなんかがまさにそんな感じだよね。

 

んで聖書とか過去の有無を言わさない正義が書かれたものってこれだと思うんだよね。現代では相対化されるしそんな無邪気に正義を語ってるなんて稚拙で思想的にダサいからポストモダンとかはもう古いにしてもまぁ今の現代思想って何なんだろう?ってところだけどまぁ現代思想とかがクールになるわけじゃん?

 

でも聖書的世界観って原理を与えるからね。ただそのまま読んでもよく分からないから色々と勉強しないと良さが分からないんだけど、結局は全てを超越した善のことを言ってるんだよねってまぁそんな単純なもんじゃないんだけど(笑)

 

でもそれを学問的に詰めすぎるとスピリチュアルだったり超自然的だったり神秘主義的なところが抜け落ちちゃってつまらないものになっちゃうんだよね。まぁそもそもイエスが光ったりだとか(笑)天からパウロに呼びかけるとか現実にそんなことはありえないからっつって現実っつー枠組みの中で無理やり展開するから無駄に神学って長くなったり、そういう超自然的な現象の正当化と妥当性とかを永遠と書いてたりするんだけど、別になんつーかそういうのを認めちゃうとそれでいいんだよね。

 

天からの声を聞いたなんて話はいくらでもあるし天じゃなくてもなんか声がして「え?」と思ったおかげで事故にあわなくて済んだとかまぁ超自然的なものの介在ってあるじゃないですか?ただ学問ってそこ認められないからね。だからなんかそういうところを除いたものを読んだところでどうなるんだろうか?ってのがあるよね。まぁそれはそれで面白いんだけどやっぱ本当に面白いのは現代ほど非科学的なものが否定されてない時代に神秘体験とかも当然あるっつー前提で書かれてる初期の教父の文章とか神秘主義者達の文章だったりして、まぁそこですげーやっぱ霊性ってのが大事にされるんだよね。

 

基本的に修道思想とか神秘思想ってその霊性をめっちゃ高める!みたいなベクトルが半端なくてまぁそれって日本で言えば仏教の密教系の厳しい修行とか修験道とかそんな感じじゃん?なんかまぁやっぱ霊性だよね。それを取り除いた宗教ってあんま意味ないっつーかありえないかあとは現代的な人工物になっちゃうよね。なんつーかある意味で聖書に書かれていることを事実だとするなら超自然的なことをアクセプトしなきゃいけないはずなのに学問的にやろうとするもんだからそういうものを科学的に無理やり説明しようとするじゃん?でもそれってすげー余計な仕事だよね。

 

あとまぁ成立するわけないよね(笑)お盆で家族と親族と集まって亡くなったおじいちゃんの話をしていたらおじいちゃんの笑い声が聞こえたとかまぁ素敵な話じゃん?まぁそういう話あるよね。でもそれを科学的に無理やり説明しようとしたらそのおじいちゃんの笑い声がしたということ自体そのもののかけがえのない価値がなくなる感じがするじゃん?

 

まぐれで凄く良いことがあったりさ、困ってる人を助けようとする人を助けようとした人がまた助けられて・・・みたいな偶然の連鎖で奇跡的なことが起こった!とかさ、まぁなんかそれって人の善意の連鎖が良い結果を生んだ!とかさ、なんか過度な分析いらないじゃん?野暮になるよね。でもそこをロジカルに分析するってその偶然性の産物の素敵さみたいなのをぶち壊すことになるよね。

 

恋愛とかもそうだよね。なんか素敵な出会いで劇的な結婚をしたんですっつー話があったら素敵な話でいいのに脳科学的に説明するとこの時にこういう脳内物質が出ていて・・・とかさ、これってまぁ機能的な還元なんだよね。全てをメカニズムとして分析するってことなんだけど、でも出会いとか偶然に何か超自然的なものが介在していたり運命的なこととか宿命的なことがあるとか、まぁあるかもしれないよね。でもそれは科学は扱わないよね。でもそこにはそれがあるかもしれない。

 

少なくとも聖書っつーか俺の言う聖書は主に新約聖書のことだけど聖書ってまぁそんなことだらけよね。理知的というよりかはスピリチュアルな面がすんげー多いわけでさ、イエスの存在自体が奇跡なんだったらまぁそれって現代で実際に起こっている奇跡っつーか宗教的という意味ではなくて映画とか漫画みたいな命の助かり方をしたとかさ、偶然なんだろうけどありえない偶然とかってあるじゃん?それを奇跡とかって呼んだりするんだけどイエス自体が奇跡なんだよね。だからまぁそれをロジカルに分析するって結構不毛なことなのと分析しなくていいという思考停止じゃなくて何を感じるか?とか自分の霊性がそこに感化されるか?とかそういうところだよね。

 

ってことで続きますんでんじゃまた。