魂のゆくえ。その15。

ある意味での霊的指導みたいなのを受けることができて凄く啓発されたと同時に霊的生活をするにはやっちゃいけないことってのが多くて、なんか宗教でこれやっちゃダメ!っていうようなのが多いのもなんとなく理解できた気がするんだよね。

 

前にも書いたけど大好きだった怪談とかホラーとかやたら無意味におぞましいものってのを徹底的に取り除かないといけないのと、光とか美しいものに満たされる生活をするってのもやろうとすると大変なんだよね。例えばあれだわ、CODとかキャンペーンがなぜかできなかったりあんまやる気しなくてやってないんだけど、ああいうなんか攻撃性を喚起するようなものとかね、バトルフィールドも結局買っちゃったけどああいうのもダメなんだよね。

 

これは潜在意識云々ではなくてっていうか潜在意識に介在させることをカットすることなんてできると思うけど違うらしいんだよね。もうそれ自体がアウトということなんだよね。まぁ度を超すとってことだけどFPSなんてやり込まないとうまくならないしまたエイムがばがばになってるから戻そうと思ってもやっぱり霊性のほうが大事だなと思うわけでなんかシフトしていかないといけないんだよね。ホントに。

 

日常で考えることも何気に考えちゃうことが凄くダメだったりして、まぁ否定はしなくて認識はするんだけど改めたりそういうものが湧いてこないようにするっていう抑圧ではなくて自然に無くすとかってのも瞑想法とか仙術的なのとか古神道の本とか色々読んでてまぁ研究中なんだけど元の生活に戻れないなって感じですよね。

 

所謂、世俗的な生活をしてると本当に無理で、逆に昔は色んな誘惑が無かったりそれこそ一瞬で戦場にワープして凄い臨場感で戦えるとかってなかったわけで、色々なものがある現代で所謂在家で修行っぽいことをするのって本当に大変だなって思うんだよね。だからまぁ泊まり込みで禅寺とかに行ったりする必要があるんだろうなと。

 

ただ俺の場合、これにガン振りするわけだから家を寺というか修道院というかなんというか家で自然にそれができないといけないんだよね。で、ストレスがかかることなく無理なく楽しくやれるようにする工夫が必要で、んでしかも短期間に集中的にやればいいっつーより生活自体がそれになるっていうことが必要で、そのスタイルの構築中って感じだよね。今は。

 

でもそう思うとやっぱあれだよ、また京都学派の話になっちゃうけど哲学やりながらもずーっと結構長い間座禅してたとかってすげー話なんだよな。座禅をマインドフル的に考えると脳機能と健康みたいな話になって卑近なものになってしまうけど本当の座禅なりキリスト教的観想であったり祈りってのは霊性を高めるものなんだよね。

 

でも今の世の中って霊性を高めることを拒むようなものだらけで、逆に戦前の何もない田舎とかだったら実践可能だったことが今は在家でやるのが難しいってことがあったりなんかして、でもまぁ特別難しさは感じないんだけどね。そもそも読書と思索中心の生活っつースタイルがニューヨーク時代から変わってないから仙人的というか坊主的というか、まぁそういう生活をしてるからね。

 

あと娯楽にしても久々に見てゾクゾクきたパラジャーノフのざくろの色とかさ、あとタルコフスキーとか霊性が高いものを見るようにするとかね、逆にただの娯楽作品って時間の無駄だとは思わないけどなんだろうな、食事を漢方的なエイドにするみたいな発想かな。

 

ヒルデガルドとかアビラのテレサみたいな経験をするには相当な修行が必要なんだろうなと思うけど、ぶっちゃけもう余生をそれに全部費やすぐらいの覚悟でいるんだよね。自分の魂ってのが前世とかもあるとすればずーっとそれをやってきたんだけど、前世の魂っつってもまぁ俺の魂だけどその魂がやってたことプラス永遠と霊的生活だっつって瞑想とか読書をしてるのは俺は楽なんだけどそれは魂が過去に散々やってきてるからお手の物ってことなわけで、あと魂の霊性を高めるのに必要なのが世の中に出るっつーとあれだけど煩雑であんま好きじゃないって思うような人間関係をやっていくってことなんだよね。

 

っつっても今の霊的生活に導いてくれたのは人のおかげで自分だけでやってたら絶対今みたいにはなってなかったからやっぱり人なんだろうなとは思うんだよね。ただ面白いことに無関係だと思ってた太極拳が実は霊性の高まりの修行のメソッドに凄く似ていたり、どっかの道場に定着したのって今の師父のところが初めてでまぁかれこれ一年になるんだけど太極拳の気功的な気の鍛錬の部分って何気にヤバいんだよね。

 

あれって色々と本読んでるとヨガとか道教の導引とかっつーかまぁそりゃ中国だから方法論は似てるのかと思いつつ、これを一年やってるからなんか最近またちょっと違ってきてるっていうか霊性が高まった結果、ちょっと不思議なことが起こったり感覚が変わってきてるってのがあるんだよね。

 

ただなんか前に所謂、分かる人に手相見てもらったことがあったんだけど40歳以降の生命線がないんだって。俺(笑)だから死ぬか完全な霊的な生活になるかのどっちかなんだろうなって思うけど死ぬっつっても俺が死ぬとしたら自殺が一番の原因だと思うからそれ以外だと病気とかはありえないから多分霊的生活になるんだと思うんだよね。

 

でもこの霊性を高めるための生活ってのを意識し始めてから一瞬でも気が抜けないっていうか、張りつめているわけではないんだけどある種自由がないんだよね。まぁそれが行だから楽しいんだけどね。あと矯正しなきゃいけないのが知に偏り過ぎてる俺の傾向ね。もっと感じるとか感覚ってことを研ぎ澄まさなきゃいけない。

 

なんでも理知的に考えることが良いとは言い切れないからね。そういう意味で理知的に考え過ぎないでやる感じるボディーワークとしての太極拳って凄くて、凄い俺の霊性の育成に役に立っているんだなって思うと、最近はベクトルが武術というより気功とか導引術になってるんだけど我が師父は制定太極拳みたいな型だけのやつじゃなくてガチのやつなんでまぁ半端ないんだよね。でも別に気という言葉は使わないし導引術なんてのも恐らくわけじゃないんだけど、結局は応用編だから俺が本で知った導引術的な呼吸法とか仙術的なフォーカスの方法とかを色々試してみてるんだよね。

 

あ、っつーかそろそろ寝るわ。もう朝だわ(笑)続きちょっと貼るわ。

 

で、感化された後に日々の行いが変わって人生も変わったってことがあったとしても、それは俺の宗教体験と一緒で仮に文字で書いたらすんげーそれって伝わりづらいし陳腐な言い方になっちゃうんだよね。だから宗教体験って主観的でしかありえないから、そういうものありきなものをある種の普遍にするのも難しい話だし、ただ出会う人は出会うし、聖書とか関係なくなぜか超自然的なものが見えてしまうとかそういう能力があるとかって人はいるじゃん?

 

だから仮に霊的な意味でも理知的な意味でも聖書が分かったところでそれは不立文字だよね。安易に禅とかと比べるべきではないかもしれないけど実際のキリスト教って俺の仏教とか禅っつー元々好きで学んでたもののバイアスがあるにしてもあまりにも似てるんだよね。特にまぁいつも書くように初期キリスト教はね。ローマとかが大虐殺をする国家イデオロギーとしてのキリスト教じゃなくて修道的で観想的なキリスト教ね。

 

まぁなんか基本黙ってて祈りに励むとかさ、キリスト教ではあんまり瞑想って言葉は使わないんだけど基本的にイエスの祈りなんかもマントラを唱えながら瞑想をするという行為に凄く似ているし、なんだろう、あとなんか悪魔祓い的なさ、なんかお経って悪魔祓いみたいな悪霊退散みたいな効果があるっつってもあれってブッダが語ってる言葉でなんで悪霊と関係あるの?っつってもそれって福音も一緒なんだよね。悪魔祓いで聖書が読まれるわけだからね。

 

いつもグレゴリオ聖歌とかECMのPerotinとかを聞いて寝てるんだけどあれってようはお経を聞きながら寝てるようなもんじゃん?なんつーか聖なるものなんだよね。いや、何が言いたいのか?っていうと宗教の構造ってやっぱ根本似てるんだよね。なにしろ人間が考えたものだし扱うものだから扱い方が似るのは当たり前っつっちゃー当たり前だよね。そこでまぁキリスト教的バイアスがありながらもやっぱオットーとかすげーよなって思うんだよね。あんまディグられない聖なるものとは?ってのを考察して研究したっつーさ、あとリクールなんかもそういう仕事があって今読んでるんだけど、結局聖なるものなんだよね。

 

で、そこには必ず原理的な神によるものなのか覚者によるものなのかは別として絶対の教えがあるんだよね。まぁ義だよね。で、それは人間の生と当然矛盾しないようにできていてっつってもEsotericなところだとやっぱり世俗化が無理なぐらい仏教でもキリスト教でもイスラムの特にスーフィズムなんかも深淵で難しいんだけどまぁ根本原理は善ですよね。で、なんかそれをもたらすソースってのがあってそれに色んな呼び名があるんだけど結局はみんなそこに行く的な存在なんだよね。

 

だからなんか宗教同士で「あれは違う」とかって言ってるのって相当アホらしくてさ、キリスト教の三位一体理論は便利で好きだけどあれはまぁキリストが奇跡によって受肉したからあの理論が成立するんであってそれが無かったら父しかいないわけでまぁ神だけってことになるよね。でもキリスト教は父か神的なるものが人間に受肉したっつー凄まじい契機があって神がロゴス化したとも言えるわけなんだけど、だからまぁ神の言葉は尊いでしょ。仏陀のお経が尊くて聖なるものなのと一緒だよね。まぁ厳密に言えば仏教は神とか聖なるものとか否定すると思うんだけどね。

 

まぁでも人間が畏怖するものですよ。英語だとFearになっちゃうけど神への畏れなんであって恐れじゃないんだよね。畏敬なんだよね。でもなんか日本的な山の神とか八百万の神とかってポップで分かりやすいし想像しやすいから信じることができる感じがするし(笑)仏教に至っては実際にいた覚者の教えだから仏陀を神とするかは別として帰依しやすいですよね。

 

でも神そのものはどうなのか?っつーと分からないわけですよ。で、唯一神が受肉して実際に宣教活動をして反逆者扱いされて処刑されたって人がいたっつー記録があるわけでさ、それが実際の受肉だったのか神に近い覚者だったのかはともかくイエスがいたこと自体が人間の救いなんですよね。

 

それが神の言葉じゃなかったら聖書はただの本になるとか書いてるやついるけど何なの?って感じだよね。じゃあドラゴンボールの作者が神だったらドラゴンボールの内容が福音になるのか?ってそりゃ違うでしょっていう(笑)

 

ってことで続きますんでんじゃまた。