魂のゆくえ。その16。

新しいの出たんでよろしく。

Numinose

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最近思うのは知に偏り過ぎた神学とか宗教哲学は別として神秘主義だったり神秘的なものってのはある程度の霊性なり霊感みたいなのが無いと分からないものが多いなってところなんだよね。ただ特定の宗教に対する信仰心がある=神秘的なものを信じるとか、一般的にスピ的と言われる見えない世界のことを信じてるとは限らないどころか、偏屈な原理主義の場合、それは全部オカルトでサタン的なものだ!なんて言いきっちゃうわけで、スピリチュアルに傾きすぎるのもあれだけど、そんなのあるわけない!って考えるのはむしろ危険ですらあるなと思うんだよね。

 

俺ってなんつーか理知的だけど常にそういう神秘的なものはあると思ってきたし、それは昔はスピリチュアルモードと哲学モードで色んな世界があるなんて書いてたけど、今はそれが統合されてる感じなんだよね。ただ世界ってのがあってそれを認識するのは人間でその認識した世界があたかも世界なんだって錯覚するのが人間じゃないですか?

 

これっておかしくて自分の環世界っていう限られた世界と知覚の中だけで認識できるものが全てだ!って考えるのってプラトンの洞窟の比喩そのものだよね。まぁ俺も元マルクス主義者で唯物論者だったので(笑)そういう世界がダサいのは分かるのと、あとスピ系に傾倒し過ぎている人の独特の雰囲気ってのがダサいってのもよく分かるのよ(笑)知的世界とは程遠い感じがするんだけど、結局、それってそういう世界を否定するのはある種のナルシズムなんだよね。理知的で科学的でクールで居たいという自分のあるべき姿っていうものの投影がそのまま世界観になっちゃってる。

 

でも世界そのものと自己愛って関係ないわけで、言わば物理現象と自己愛が関係しないのと同じわけなんだけど認知的整合性とか「こうありたい」と思い過ぎるある種のリミテーションというのが世界認識の歪みを生み出すんだよね。正しい世界認識なんてない!って相対主義的だとまぁそれは言えるわけなんだけど、まぁそれってあるんですよ。

 

で、やっぱそれが古今東西、悟りと言われるものとかとにかく色々な霊的認知的修行をした後で超苦労して認識できた世界ってのが完璧かどうかは分からないけど、恐らくそれが正しい世界認識なんだよね。ただ今の世の中だと「正しい」という言葉が憚れるよね。じゃあ他の世界観は間違いなのか?とか他の世界観で生きている人を下に見るのか!みたいなね、でもそれ言い出すと真理の追究できなくなりますよね。

 

各々の世界がある!はい終了!で終わったら逆に今までの人類の英知とか知的財産はどうなるの?ってことでしょう。そこは認めづらくてもヒエラルキーがあるとしか言いようがない。もっと言うならその認識のステージによって卑近なレベルでの人生のQLも変わってくるので精神世界云々というより世界認識がそのままその人の人生観になっちゃうんだよね。

 

だからまぁ瞑想とかって精神にも健康にもいいからって勧められるんだけど、深呼吸によるリラクゼーション効果という物理現象的な世界じゃなくて、やっぱり精神とか霊性の世界をそれで磨いていくと少なくとも悪い方向には向かないんだよね。良いことしかない。あと自分のダメなところが内観で分かるようになるっつーか内観はダメなところを見るものではないんだけど結果的に体とか精神の虐待を自分でやってたんだなってのが分かったりするんだよね。

 

自分の魂が宿る体とか魂そのものを労わるということが凄く大事で、ソクラテスが言っていた魂の配慮ってそういう面もあるというよりスピリチュアルメッセージなんですよね。でも哲学界隈とか学問界隈はスピリチュアルだったり精神世界のことを扱わないから無理やり解釈を哲学っつー狭い世界の中に閉じ込めちゃってなおかつそれが定説だと流布するもんだから本来の古代の思想家とかが言っていた精神性や魂の話とかが歪められちゃうんだよね。

 

でも実際に理知的な世界の究極みたいなニーチェとかは実際はキリスト者だったわけだし、ハイデガーなんかもすんげーエックハルトの影響を受けてたりして、そういう精神世界の影響がない哲学ってないんだよね。だから哲学の弊害って哲学者というより哲学学者が脱神秘化をする結果、気の抜けたコーラみたいなものを哲学だって言うもんだから心に響かないただの理屈の世界になっちゃうんだよね。

 

何しろ西洋哲学だけ見てもキリスト教がデフォだった時代が大半なんでキリスト教とか神という概念に影響されてないものなんてないわけなんだよね。でも現代思想とかになってきたりそっちよりの解釈になるとそれは古い迷信を信じてるもので特に気にしなくていいっつーかオミットしていいみたいなね、あとまぁユングにしても神秘的なものに傾倒し始めた後期のユングをオカルト傾倒とか言ってオミットしちゃう感じとかもすげーダメなんだよね。

 

神秘性がない悟りとか宗教なんてないわけですよ。そもそも知的活動が精神活動でそれを精神世界というかはともかくとしてただの言語ゲームならそれは言語の世界だけの話だけど精神が介在する限りそこは人間の霊が介在するものなわけでね、まぁ攻殻機動隊で言うところのゴーストですよね。

 

AIに哲学はできるのか?っていうと言葉の世界だけを処理する情報として哲学を考えるならそれはできるでしょう。でもそんなAIがやれる哲学なんて哲学じゃないしはっきり言って価値無いですよね。ましてやただの書斎のアームチェア的な哲学なんて実際の現実に対するパワーとか影響力ないからね。

 

じゃあなんで人間に哲学が可能なのか?とか思考することが可能なのか?っていうとそれは脳があるからなんじゃなくて魂があるからなんだよね。霊的活動なんだよね。それは。だから理知的だと思われている哲学者の言葉も実際は個人の経験とかそれこそアウシュヴィッツとかの経験がある人の場合、そういった体験が色濃く残るわけでしょう。

 

芸術なんてそれが顕著だよね。むしろ精神性が介在しない芸術なんて芸術と言えるのか?っつーところでしょう。まぁ現代アート的な完全なアルゴリズムの世界とかってのをアートとして提示するっていう方法論の世界はあるけどね。でもまぁ結局表現ってそうでしょう。その人の精神性とか主題に対する取り組み方や思想というのが色濃く出るわけでしょう。映画とかもそうだよね。

 

で、我々はそういうものに日々当たり前のように接しているのにも関わらず、精神性というのを何かオカルトめいたものとしてオミットするっていう傾向があるんだよね。あとまぁ偏見で新興宗教とか霊感商法とかのうさん臭い危ない世界っていうイメージがあったり、あとまぁ本屋のスピリチュアルコーナーのキラキラ感(笑)みたいなイメージの刷り込みがあるんだよね。

 

でも密教にしても古神道にしても初期キリスト教にしてもスピリチュアルというと安っぽいんだけど軸は精神とか魂なんですよね。「なんですよね」って言いきれるほど勉強したわけじゃないけどまぁそれは読んでれば分かるじゃん?よく譬えで子供の出産と同時に水と一緒に子供も流しちゃうみたいな言い方があるけど、精神性をオミットするってそういうことなんだよね。

 

あとまぁ科学至上主義っていう一種のイデオロギーだよね。それがクールでデフォルト!っていうね、宗教も科学的整合性がある!みたいに考えちゃう感じとかね、仮に二つの独立したヘゲモニー的な力があったとして、その片方が片方に影響を受けてその片方との整合性を!って言い出したらそれってヘゲモニーじゃないわけですよ。その片方のヘゲモニーに従属してるサバルタンですよね。

 

二つの独立した軸があるんだとしたら科学に摺り寄せる必要なんてないわけで、それにはそこだけで独立している世界があるはずなのに科学に引っ張られ過ぎなんだよね。でもそれってさっき書いた物理現象とナルシズムが関係ないのと一緒で、精神と物理現象って関係ないんだよね。まぁただ精神性を追求していくと物理現象も包括するようなものになるんだけど、とにかくまぁ人間は過度な分別をしたがるからね。

 

そのほうが楽だし認知的整合性が保たれるからね。でもそれはプライオリティがおかしくて認知的整合性を優位にしたら真理が置き去りになっちゃうよね。面倒で考えたくもないかもしれないけど真理というものをある種の最高善として措定しないと、そこから導き出されるのは個々が心地よいと思えるコンフォートゾーンに安住するような生ぬるい世界でしかないんだよね。

 

で、あいつは違うこいつは違うっていう些細な揚げ足取りに終始することになったりもするわけでしょ。まぁただ精神世界のうさん臭さってやっぱりまぁうさん臭くした人たちが大勢いるから(笑)しょうがないんだけどね。禅僧の南さんなんかも本の中でオウム事件があった後に新幹線で法衣というか禅僧の恰好をしていたらすげー目で見られたとか「浮いたりできるんですか?」って言われたりだとか、所謂、宗教に対する認識がそのぐらい歪められちゃってるとデフォのオミットする対象になるのもある種の知的誠実さから言えば正しいことのように思えるんだけど、ここが落とし穴で実はその精神性に対する考え方や見方が間違っていたり偏見だらけっていうことなんだよね。

 

あとまぁそこまで科学万能だと信じてるなら怖いもの見たさでもいいから別に精神世界の本とかも読んでみればいいんだよね。科学的に考えられてたら少なくとも洗脳されることはないからね。まぁでもこの辺はどうなんだろうな。うさん臭い本の隣にガチの精神世界の本とかが置かれたりもしてるからあんま客観的に分からないみたいなこともあるよね。

 

まぁそういう意味で危うい世界ではあるんだよね。科学だっつって科学を基準にし過ぎてると肝心なところを「迷信だ」とか全てのものを脳科学とか機能主義的な、メカニカルな世界観で解釈しようとするから本意が伝わらないか歪められた状態で伝達されちゃうっていうね。

 

でもその割に元旦には神社に行くしクリスマスは祝うしハロウィンでバカ騒ぎするんだよね(笑)完全な唯物論者オンリーの世界だったらまずそれはありえないわけで、やっぱ心のどこかで信じてるんだよね。あと信じてなくてもどっかの輩みたいに神社を破壊したりいたずらしようとは思わない。

 

人通りが少ない道とかに落書きするのは犯罪にしても敷居が低いけど神社に落書きってそういうの信じてなくても心が引けるでしょう。だからそれはやっぱり神仏に対する畏敬の念がどっかにあるんだよね。「それはさすがにまずいだろう」というところがある。

 

でもやっぱり難しいのは頑なにそういう世界を認めようとしない人と、完全にそういうのが見えてる人とか感じている人との埋められない隙間だよね。そもそも住んでいる世界がどっちが優れているという意味ではなくて、違うわけだから同じ言葉を使っても意味合いが違っちゃうんだよね。そういうのが分かる人の言葉を分からない人が聞いても「なんだそりゃ?迷信でしょ」ってことになっちゃうし、でも「迷信だ」って思ってた人もなんらかの知る体験があると違ったんだ!って気が付くこともある。

 

ただ最近よく書くように風の時代だなんて言われて今後は見えない世界を大事にする人たちがやっていけるようになる世界が来たんだ!なんて言われているけど、それをイデオロギー化して、風の時代の皮を纏った土の時代の権化みたいなやつが無垢な人から金を吸い取るみたいなことは起こるかもしれないし、それはまぁ聖書にも書かれてるように偽預言者っていつの時代も現れるからね。

 

でも恐らく判断基準としてはすんげービジネス臭とか懐かしい感じさえするようなアムウェイっぽい雰囲気とかっていう、まぁそういうのやってる人とか「じゃあ場所を移動しましょう」なんつって連れていかれる場所とか独特の雰囲気でしょ恐らく(笑)でもちゃんとそういう世界が見えててガイドするとか手助けをするという動機づけでやっている人ってのは結構な金を取るにしても金にがめついような「こんな道具がありまして・・・」とかっていうセールスモードとかにならないはずなんだよね。

 

なんか金でやってるわけじゃないジャズのセッションを終えてプレイヤー同士が「良いセッションでしたね!」って笑顔を交わすみたいなものなんだよね。もちろん金儲けが悪いということではないんだけど、いつの時代も悪用する人がいるから、風の時代とか言われているときは土の時代の産物みたいなのが駆逐されるように見えて土の時代の権化の連中が風の時代の皮を纏って振舞うことがあるわけなんだよね。

 

そういうのはマジで気をつけなきゃいけないのと、あと色々読んでる限りその風の時代の皮を纏ってる金の権化みたいなやつが霊視的なことの真似事をしたりしたとして、そこに本当の能力なんてないんだけどとにかく良くない拝み屋みたいな後に霊障が出ちゃうような、変なものを持ち帰る可能性があって、なおかつそれって「あそこ行ってからなんか変なんだよね」っていうような、分かりやすい形で出るとも限らないんで本当に気を付けないといけないんだよね。金を根こそぎ持っていかれるところだった!っつーよりかは霊的な意味でも接するだけでそういうのはヤバい。

 

だから今後の時代って霊的メンターみたいなのが凄く必要とされる時代だと思うんだよね。でもそこで霊的メンターにビジネスチャンスあり!っつって飛びつくような輩じゃなくて(笑)メンターになるかはともかくとしてなるべく悪いものとの接点を無くすようにするような簡単なガイドみたいな人だよね。

 

アビラのテレサが霊的エクスタシーを感じた後に世の中に出て行って人に役に立つような霊的ガイドをしたように、そういう聖人や聖女に近いような人のガイドというのが非常に重要になってくると思うんだよね。そこで霊性ということが見直される時期に来ていると思うんだよね。

 

俺がいつも言うなんでもイニシアチヴが金とか金に生殺与奪の権利を握られちゃってると本来全ての人間が帰依できるはずの大いなる善とか、とにかく落としどころの良い共通したものっていうのに行きづらくなっちゃうんだよね。でも金で人間が支配される時代は実質終わりを迎えているわけだから、気が付いた人はとっくに行動をしているだろうし、規範みたいな人もいっぱい出てくると思うんだよね。

 

でもその特徴は実際はすんげー精神的なこととか魂の落としどころっていう生き方の話をしてるんだけど本人はスピリチュアルとか精神世界とか全然信じないみたいな人ね(笑)でもそれでいいんだよね。天然で「いや、このほうが生きやすいしやっていきやすいんですよ」って明らかだから無駄な苦労するのやめてそうやって生きれば?っていうことを体現する人が増えると思うし、そういう人たちが良い意味でのカリスマになったりするんだよね。

 

またそれの是非とかもあると思うし、それが一概に良いとは言えないけど、ただ少なくとも金に全てが支配されてた時代って最悪の時代だから(笑)それよりかは相当マシなんでそれで救われる人はいっぱいいると思うし、あとまぁ色々と分かる人の話を聞いてると新世代みたいな面白い感覚を持った子供たちが生まれてきたり成長してるらしいんだよね。ニュータイプ的な?(笑)

 

俺は多分、激情型でカミーユみたいなタイプなんだけど(笑)そういうダークではない良い意味でのニュータイプだよね。世の中アムロだらけになったらすげーよな。人間Wi-Fiみたいなファンネル飛ばしまくりでしょ(笑)でもまぁ元がカミーユみたいなタイプでも廃人になるかどうか?なんてその人の生き方と選択次第なんだよね。ニュータイプ的なものって危うい面があるけど、その危うさを乗り越えて地に足がつくようになるとこれほど強いものはないんだよ。

 

あ、んで今回はあれだ、続きじゃなくて書きたいことがあったんで書いたら長くなったんで続きはまた今度にするけどタイトル決めるの面倒なんで相変わらず魂のゆくえシリーズということで。

 

んじゃまた。