魂のゆくえ。その27。

ってことで続きです。

 

まぁでも別にそれをエーテル体がどうのとかアストラル世界がどうの・・・みたいな話をしなくても(笑)所謂「意」ですよね。昔の俺のタームで言うところのawarenessだよね。それを求めているとか「それだよなー」って思っているところにバチン!とハマってくる情報!とかね、でもそれって以前の気づいていない自分では素通りしてただろうなっつー情報がawarenessがあることで情報をゲットするようになるんだよね。

 


でもそれは特別なリテラシーレベルが無いとアクセスできないようなもんじゃなくて誰にでもアクセス可能なものなんだけどそこにアクセスするという意識が無いから当然情報は得られないんだよね。でもその情報へのawarenessが出てくると情報にコネクトしやすくなるっていうね。

 


まぁあれですよ、いつも書いてるあれだよね、赤ちゃんが生まれたら町中でベビーカーが目につくようになったっつーのもそれ以前は全く気にしてなかったのがベビーカーを持つ当事者になると目につくようになるってことだよね。

 


これって情報とかさ、さっき書いた音楽のレコードとかベビーカーでは当たり前の話なんだけど、それ以外だといきなり怪しくなるのはなんでなんだろうね?ってところなんだよね(笑)物質化していなかったり顕在化していないと思えるようなものに関しても本人にとってリアリティがあるものだったらそれを情報として感知するよね。

 


でもそれは客観的に見るとベビーカーとか音楽とかと違って見えないものをキャッチしている!みたいな感じだからいきなり怪しくなるんだよね(笑)でもまぁインスピレーションってそんなもんでしょって思うんだけどね。

 


イメージトレーニングとかで寝そべってリラックスして目を瞑って胸あたりに光を作り出してそれが全身をスキャンするような感じでその温かい光が体全体を覆っていきますとかってまぁその光があるかないかは別としてイメージのレベルではあるからそのイメトレはワークするわけじゃん?

 


果たしてこの光は比喩とかただのイメージなんだろうか?って思うんだよね。ただこれはまぁすげー危険な世界だけどね。イメージが具現化するって簡単に言えばそうだけどさ、それがただの妄想だったら?とかって言う場合もあるっつーかそれはやっぱイメージする人間の精神レベルに依存するわけでさ、情報の引き寄せとかもさっきの精度の話で言えば専門家とかが得る情報ってのが素人のそれと全然違って異次元っつーかなんでそれ見ただけでこれが分かるの?っていうサイキック的な感覚すら覚えるっつーのも情報の精度の差だよね。精度っつーか解像度っつーかなんつーか。

 


いや、まぁそこで信仰って話になるんですけどね(笑)神様なんつってもぼやーっっとしたイメージじゃなくて俺みたいにハマりだすと追及するタイプはまぁ追及するわけですよね。で、その結果、神の世界みたいなものに対する情報の精度が上がってくるんだよね。そうなるとますますそういった世界の存在にリアリティを感じるようになるどころか主体はそっちだろうとすら思うようになってくるわけだよね。

 


かといっても肉体とか3次元のものを軽視するってことではないんだけどね。あとまぁそういうのを高次の世界とかって言い方もするけどこれって語弊あるよね。なんか高次って言ってる時点でなんか偉い高尚な世界って感じがして現実との対比としてそういう見えない世界全般のものは高尚みたいな感じがあるけど現実と対比できるような抽象度を持ってないんだよね。

 


だから例えばキリストが言うところの原理としての愛ってのも愛っていう言語にした時点で相当な劣化があるんだよね。ただまぁ愛という言葉が一番しっくり来るけど愛の意味って多義的じゃん?抽象度が低い愛っていうもののほうがどっちかというと人間にとってはなじみがあるってのがまぁそれこそ愛着とか愛欲だとかさ、執着するような対象としての愛もまぁ愛じゃん?

 


でもキリストが原理として言う愛ってのはそういうレベルのものじゃないんだけど、でも分からない人には分からないから譬えで言うしかないよねっつってキリストが色々なたとえ話をするわけなんだけど、結局、このある種の密教的な知識ってのも精通してなおかつ色々な方法を実際にメンタルワークやらボディーワーク的なことでやってみたりなんかした中での頭の中だけではない身体的だったりメンタル的な実感としての経験から分かってくるものってのがあって、その経験と知識を元に聖典とかを読むと言葉自体が変わってくるんだよねっていうかデフォで聖書を読むとせいぜい道徳のお話程度のものなんだけど実際はすげー抽象的な現象の原理みたいなのを説明してる!ってのが分かるわけなんだよね。

 


でもそれがそういう風に理解されているのか?っていうと色んな意味で違うよね。そこがまぁキリストが弟子にはダイレクトに話すけど一般人には分からないから譬えで話すって言ってるのと同じことなんだけど、その顕教と密教の違いみたいなのが書かれているのにも関わらず聖書自体が顕教的にしか読まれてこなかったっつー事実があるんだよね。

 


まぁそれ言い出すとテキスト全般そうだと思うけどね。まぁなんかこう書くと相当怪しい感じだけど(笑)学術的にはレオシュトラウスなんかが秘教的な書き方とかって表現するようなさ、例えばスピノザとかが宗教弾圧っつーかまぁ異教徒的だ!っつー高圧的で権力的な世俗に塗れたキリスト教イデオロギーと相いれない考え方になっちゃうからっつーんで遠回しに分かる人には分かる書き方をしていた部分があるっつーことを別にスピノザに限らずEsoteric Writingってのがあるんだけど、それは当事者が秘教的に書く必要に迫られたものに限らず深遠な教え自体が文字の表現としては受け止め方によっては顕教的な道徳にしか聞こえないっつーところをようはさっきの専門家が受け止める情報量の精度とか解像度みたいな話で、そういう情報の抽出の仕方をすると書かれているものは同じなのに全く違ったものに感じられるってことになるんだよね。

 

 

 

で、ここが重要なところで宗教関係のものってのはそういった霊性によって書かれたり表されたものを受け止める霊性ってのが必要でそれは全然リテラルなものではないんだよね。文字の情報ではなく霊性という感覚から受け止められる領域の情報レベルの話だよね。まぁ秘教的というか奥義的なところってここだよね。

 


武術とかでも型とかでは動きがバレるからっつーんで本当にガチに本当のことを教える内弟子とかにしか教えないところはあえて省略してあるとかさ、あとは型としては表されているんだけど意味的なことはそれこそその意味が分からないと真意が分からない的なさ、そういうまぁ秘教的なところってのがあるわけだよね。

 


でもさっき書いたスピノザとかは必要性に迫られたところがあるわけだし武術の場合、重要な秘伝みたいなところが流出しまくると困るんで隠してあるみたいなことがあるんだけど、こういう必要に迫られなかったものに関しても教え自体が秘教的過ぎる場合、テキストがそれこそ聖書みたいに誰でもいつでも読めるみたいな状態になっていてもどう読むのか?というところが重要になってくるからそれが密教的なものではなくても結果的に密教的になっちゃうんだよね。

 


だからあれなんだよね、意外と超能力的に言われていることでもありふれたネットっつー技術から逆算っつーとおかしいけどリバースエンジニアリングとは言わないけど(笑)何らかの人力の能力の拡張だって考えると能力によっては機械に頼らなくても人力でネットに繋がれる人とかってのがいるってのも逆に顕在化してる似たような様相を呈してるネットの世界ってのがあるから逆になんか分かりやすいよね。

 


いや、まぁそのさ、降りてきたみたいな人の本も読んでるって前に書いたけど(笑)実際に降りてきたのかそういう世界があるのかは別としてパスカルの神秘体験で例のあの燃えるやつがあるわけじゃん?覚書と呼ばれるやつね。でもあの覚書の信憑性が高いのってまぁパスカルが神秘主義者だったわけでもなくて理知的な人だから変なことは言わないだろうっつーなんとなくの「理系の人だから」っつー信頼があるんだよね。

 


でもまぁ神秘家とか元々が結構イッってる系だと信用されない傾向があるんだけど現象としての差は無いと思うんだよね。そういうのも脳が作り出したものっていう説明がされがちだけど明らかに脳とか記憶以外のものが介在してるものってのがあって、それは脳以外では説明がつかないから何らかの脳が作り出した幻覚だってことになるんだけどそれってまだ分かってないからそういう言い方しかできないんだよね。

 


でも見えない世界が当たり前にあるという世界観からすると別にそんな珍しい話でもないんだよね。まぁ今年は大躍進の年でそういう見えない世界に精通する信用できる能力者の方々との出会いに恵まれて「やっぱあるんだな」という確信に至った俺としてはそういう世界は当然ある前提になってるんだよね。

 


なんかでもそういうのってひと押しなんだよね。あるんじゃねーかなー?なんて思ってるけどんなわけねぇーかーって理性が言うところを理性を一気にぶっ壊す現象に出くわすか表してくれたり見せてくれる人がいたらそこの理性として勝手にせき止めているラインがぶっ壊れるんだよね。というかそれは理性って勝手に名前をつけて「んなわけねぇーよな」ってラインを引いていたのが「どうやら違ったみたいだ」ってことが分かるんだよね。

 

ってことで続きますんでんじゃまた。