魂のゆくえ。その30。

ってことで続きです。

 

で、俺的な今の考えだと信仰というのはその原理を真理として信じることができるか?っていうところなんだよね。いや、それが無いとただのグダグダな相対主義になるし、そういう意味での対象ではないただ至高の存在ってのを神と呼ぶならそれが神である的なインド哲学的な考えというのが一番しっくりくる神学的な神の解釈と言えると思うのね。

 


そういうところの思考の抽象度とか高度な感じがインドは紀元前の古典からヤバかったって話なんだよな。密教的キリスト教においてはそういう考えが先鋭化されてて、それこそマイスター・エックハルトに結実するような、偽ディオニュシオスの神秘神学とかってのがキリスト教文脈でもあったんだけど、凄くまぁヨーガ的なのよね。キリスト教っつーとさっき書いたような権力機構による統治のための装置としてのイデオロギーというアルチュセール的なイデオロギー装置としての役割というより乱用ばかりが目立っていたけど思想的には宣教とか教会がどうのとか政治とかを抜いたひたすらキリスト原理とかキリスト意識に至るプロセスを求道的に研究した思想家ってのがいたわけで、ただいつの時代もメインストリームの権力側が頭悪すぎなんで異端扱いしたりまともに扱ってこなかったんだけどまぁ今でもそうですよね(笑)

 


まぁだからキリスト教にそういう原理への道としてのヨーガ的な思想が無かったのか?っていうとあったんだけど弾圧されがちっていうまぁ時代背景があったわけだよね。あとは修道的な生き方にしてもある種の聖書原理主義的な、キリストがボロを纏っていたから清貧が美徳だっていう一元的過ぎる考えが一極化した結果っつーところは否めないわけで、エッセンスとしては本来のキリスト教って超がつくほど東洋的なんだよね。

 


やたら派手に儀式をやったり権力が絡んでくるっていう抽象度が低いイデオロギー装置だったのがカトリックみたいな世俗的なキリスト教ねっつってもカトリックの思想家は素晴らしい人もいるんでカトリック=頭悪いってことでもないんだけどね。

 


でも原理に東洋も西洋もないじゃん?でもそこで東洋的と形容されるのはある意味での二項対立的な西洋的・東洋的っつー軸があるからだよね。で、西洋的なものは散々キリストが派手な儀式とか見せびらかすような祈り方とかじゃなくてもっとディープにドープに自分自身と神と向き合って観想するのだって散々言ってたのにも関わらずそれと正反対なことをしてたのが西洋のキリスト教で、だからキリスト教の東洋的解釈なんてのが成り立っちゃうんだけど、でもそれは原理のどれぐらい近いのか?っていう考えや普段の行や精神の在り方っつーまぁヨーガですよね。その近似値だよね。approximateね。円周率の近似値の出し方の命中率みたいなもんだわ。完全な「これです」という値を出せないものに関するディスクールなので。

 


それが言葉の限界ですよね。まぁだから究極的に言えば体験になるわけだ。それの形容が神との合一なのか無なのか悟りなのかなんなのか、とにかくそれはそれなんだよね。東洋にだけあって西洋には一切ないというものではなく、神的体験というのはどこにでもあるでしょ。変な話、近年で文献で残っているレベルだと信仰とかキリスト教的信仰すらなかったのに天使が現れたとかマリア様が現れたっていうこともあるわけで、ここが面白いんだよな。信じていようがいまいがなんかたまたま見える人とかお告げを聞く人はいるんだよね。

 


でもそれは敬虔な求道者にとっては都合の悪い話なんだよね。カルヴィニズムに対する直感的な不都合な感じと似ててそれが予定説をとるかはともかくとしてなんか最初から選ばれてるらしいよっていうね、で、そのエビデンスが無くもないって話なんだよね。なんで無欲に神の道を歩み続けているものが虐げられて、全く不真面目に好き勝手に生きていた人にいきなり天使が現れるのか?とかっていう不条理がまさにそれを不条理だと感じてしまうのが人間の次元の思考なんであって、神の考えはよう分からんのよね。

 


ただとりあえずありがたい原理ってのはあるからそれに帰依しましょうっていうそれに尽きるって話で、それが宗教だろうがスピ系だろうがニューエイジだろうが大体どこも同じように言っている「行きつく先は同じ」というところだよね。だから宗派とか宗教の違いは流派とか作法の違いなんであって原理の違いなはずはないんだよね。

 


文化的な土壌ありきなのは人間社会がベースにあるから当然なわけで、そこで神道なりインド哲学なり仏教なりキリスト教なりイスラム教なりユダヤ教なりってのがあるんだけど、帰依している原理は全部一緒なんだよね。でも武術の流派で「うちの流派のほうが優れている!」とかって優越を決めたがるように、流派ごとで争うというような不毛なことが起こるんだよね。

 


だから極論を言うと宗教なんてないほうがいいっつーのはある意味正しいんだよね。どの道、他の宗教を邪教と罵ったり自分の宗派のみが正しいみたいな独断主義に陥ったり、独断主義って英語だとdogmatismだからね。決して良い言葉ではないよね。

 


むしろ神みたいな至高の存在が細かい人間の神に至る道とか神に帰依しようとする作法について日本の形骸化した武道みたいに細かく口を挟みますか?ってことだよね(笑)神が「いや、その祈りの手の角度が違う」とか「そこ噛んだらダメ。最初から祈祷やり直し」とか言わないでしょ(笑)

 


まぁもちろんそれは現代的な神の解釈なのは分かるよ。昔は色々と未知なことがあって神を畏れるんじゃなくて実際に恐れるという思想もあっただろうから粗相があってはイカン!っつー考えが極限化するのも分かるけど、その辺が凄いのがインド哲学なんだよな。具体的にあんま神様とかって言わないで象徴的に至高の存在とかって呼んでてっつってもまぁ神がいるかいないかってまた学派によって違うんだけどぶっちゃけ些細なことなんだよね。どうそこに至れるのか?という方法論と具体的な日々の行が重要視されるんでまぁこれって西洋で言うところの修道ですよね。まぁ東洋でも修道なのか。

 

神の概念はエックハルト系の抽象度が高い神秘主義かインド哲学の至上の存在的な概念とか、あとまぁ意外にもニューソートとか神智学とかも結構ちゃんとしてる神の在り方で考えてて、まぁ究極はイスラムだよね。全く考えが及ばないのが神で形すらもないっていうような、まぁそれこそが神でしょうっていう。

 

あとまぁ古神道でも色んな神がいるところの創造神に近い感じのトップの神ってまぁそんな感じよね。だから具体的というより神楽やら祝詞やら言霊っつー媒介を通して顕在化する的なね、イスラムのアザーンとかもそんな感じよね。

 

ただまぁさ、いや、まだ続き書いてないんだけど俺がこういう感じになると逆になるんだよね。いや、見えている世界だけで物事を判断するなんてなんて短絡的なんだ!ってのがまぁようはそんなのあるに決まってるしエビデンスもある!っつったところで埋められない溝ってのがあって、なんか前にも書いた気がするけどこの辺の話はアメリカで言うところのなんだっけ、デリケートな話だから宗教の話はしないってのに似てるんだよね。

 

まぁ日本人ってめっちゃ宗教的なんだけど枢軸的な感じの宗教は無いから宗教観についてのデリカシーが無いんだよね。でもまぁ宗教の違いとか考え方の違いはともかく、最近の俺が書いてるような世界観って体験したり分かったりしないと一切了解できないような内容なんだけど前にも書いたかもしれんけどそういうのが日常の論理にも影響してくるし分からない人に分からそうとしようとは思わないしそんなの徒労に終わるし下手に喋るとただの言語の認知の違いとかでズレが生まれてイライラするからスルーするのが一番なんだけど、まぁ最近になって太極拳ではない師匠に「上がっているときは他とぶつかるからスルー力を身につけて」って言われてたのがすんげー突き刺さるんだよね。まぁ予言的な感じでアドバイスをくださったんだと思うんだけどこういう感じだったのかっていうね。

 

いや、上がっててどういう衝突が生まれるのか?と思ったら分かってない人が分かったようなことを言うことに対してスルーするってこととか、そういう話をしないっていうスルーだったんだなとかっていうね、ただまぁあれなんだよね、俺が勝手に独走し続けてぶっ飛び過ぎたらアレだからママンとは情報を共有してるんだよね。いきなりまた分けの分からないことを言いだしてるっつーことがややこしいことになるのがアレだから、こういう世界での些細なことも割と話すようにしてるんだよね。

 

んでなぜか面白いのが俺が好き勝手にやるのは妹とかママンは「放蕩息子だなー」とかって思ってると思うんだけど、こういう世界に関してはなぜか異様に理解があるっつーかここまで俺がやろうとすることで理解を得られたのって初めてかも!ってぐらいなぜか理解が凄いんだよね。全く反発が無いどころか「それでいいかもね」っつー相当ぶっ飛んだこと言ってるはずなんだけど理解してくれるんだよね。

 

まぁただ異様なまでに正義とか善に飢えている結果、物騒なこととかを平気で言ってたりしていた時期もあるからそのベクトルが神に向かったんだなっつー理解をされてるのかな?っていうまぁなんつーか正義とか善への飢えに関してはすさまじいものがあるってのは昔から分かってたんでだからまぁ「なるほどね」ってところでもあるのかもね。

 

ただまぁこれって難しいよね。絶対的なものなんてあるわけないってのが人間の限られた知性と論理の限界で、でもまぁ見えない世界で絶対的なものってのがあるってのを体感したり分かったりすると分からない人との溝は深まるよね。根本で分かり合えるわけがないからそういう話をしないってことになるっつーかまぁ普通そんな話しないか(笑)

 

ただまぁなんかあれだね、相対主義がいかに愚かなのか?って怒ってもしょうがなくてかつての俺がそうだったように人間の次元だけで考えるとそうなりますわなっていうまぁ残念なレベルだなっつってスルーするしかないんだよね。まぁ分かってる人なんてあんまいないだろうからな。でもこれって勉強したからとか修行したからじゃないんだよね。全くそういうの勉強してなくても感覚で分かってる人もいるから、そういう人とはある種のテレパシー的な感じで言語を介在させなくても分かり合える感じがあるよね。

 

なんかこのテレパシー感ってすんげー重要なんだよね。だからまぁそういう感性を磨いて話しても無駄そうだなーって思う人とは角が立たない程度に適当に話すっつー術を身につけないといけないんだよね。コミュニケーションするなら全力で!っていう俺のポリシーに反するけど全力でやると神の世界になるから(笑)人間の世界に留めておく論理とか話ってことばっかになるね。

 

まぁだから余計に秘教的というか密教的になるんだろうな。話しても分かるわけないし「俺知ってるぜ!」なんてドヤれるようなもんでもないから多分分かってても喋らない人が大半なんだろうなって思うよね。逆を言えばドヤりまくってるやつは相当怪しいってことだ(笑)ただまぁそこに絶望はないんだけどね。ただ危険なのが優越感ね。「俺分かってるんだ」とかってちょっとでも驕ると一気にダメになるんだよね。

 

せっかく日々、穢れから離れて浄化をし続ける生活をしてるのにエゴから出てくるもんで内面から穢れるとどうしようもないからね。だからまぁ瞑想とか神に対する観想ってのがすげー重要になるんだよね。この辺はなんか十字架のヨハネとかマジで分かってた人なんだなーってある程度分かるようになるから分かることがあるんだよね。

 

この辺って自分の霊性がある程度高まらないとキャッチできない情報なんだよね。あとまぁ全く霊性を感じないものはつまらないし読もうと思わないからんでもまぁ買ったら読む!ポリシーがあったら速読で読んじゃうとかね、こういうところの時間の配分とかも重要になってくるんだよね。

 

結局、高めるために霊性が必要で、でもそれは色んな霊性を高めるような本にも書いてあるように高める生活ってのは高める生活の中にある霊性なんであってゴールじゃないんだよね。ゴールなんてないんだよね。ただ高める生活があるだけなんだよね。そういう状態を霊性って言うんだよね。

 

ってことで続きますんでんじゃまた。