あけおめ!ってことでの魂のゆくえ。その31。

年末はドラクエ11Sをやってたんだけどオリジナルって2017年か!って思うと時間が流れるのは早いよなーとか思ったりして、まぁそんな感じであけおめ。

 

いや、Sいいっすね。RPGの難点ってまぁ戦闘シーンがだるいことじゃないですか?まぁゲームのほとんどの時間が戦闘でこれがなかったらRPGじゃないんだけどでも繰り返しになるからダルいっていうね、そこでまぁ最近のリメイクとかはデフォでついてる感あるけど倍速モードって神機能ですよね。

 

昔の戦闘がダルいRPGでもエミュなんかで倍速かそれ以上にすると意外と遊べるってやつ多いからね。それにしてもまぁ5年も前だからなのかクリア後の世界あんま覚えてなくて新鮮だったんだよね。部分的に覚えてるんだけど結構適当にやってた気がするわ(笑)

 

まぁんで話は一気に宗教になるけどまぁなんか日本は無宗教だっつってまぁドラクエとかFFとかモノにもよるけど基本的に宗教的だよね。イデオロギー的な感じじゃなくてまぁ話として使いやすいから旧約とか新約がモチーフになりやすいってのはあるにしても、2017年のオリジナルやってた頃はまだキリスト教に目覚めてなかったから、だからまぁ今の俺モードでやるとすんげー宗教的に思えるのな。

 

まぁFFとかも光の戦士たちとかドラクエも分かりやすい悪の勢力っつー闇があってそれを打ち払う導かれし光の戦士たちっていうまぁ神的な概念において特に光が重要性を持ってるのってやっぱキリスト教だと思うんだけど結局なんかドラクエやってて思ったのが結局、宗教云々とは別に光を信じられるかどうか?っていうそこなんだよね。

 

そういう意味でまぁ俺はキリストに目覚めたけどキリスト教信者になったわけじゃないのと同じで光を信じてる人とか相対主義的な暗い感じとかこの世の悲劇とか災害とか事故を見て神はいないって安易に判断しちゃうとか、まぁなんかそういうところではないところの光だよね。

 

年末年始だとあけましておめでとうございます!とかさ、よいお年を!とかまぁこれって宗教的概念よね。日本人が完全に唯物論的だったら昔の俺みたいに「年末年始なんてただの人間の概念だ」とか言って終わりでしょ(笑)でもまぁすげー年末年始って験担ぎするじゃん?っつーか年末年始の祝いの時に験が悪いことを言うやつとかありえないじゃん?

 

まぁ日本の自然な言霊信仰なのか分からんけど基本的に自分が無事一年生きられたっていう感謝と来年も良い年になりますようにっていう願いと同じくお世話になった人たちへの感謝と良いお年をお迎えくださいっていう祈りだよね。これって唯物論的概念から全く出てこないもんですよね。一年無事にやってこれたことを感謝するっていうところにそれ自体を感謝するってのが結果的に神への感謝っていうのが内包されてるんだよね。対象が無ければ感謝できんでしょう。出会いに感謝!出世に感謝!とかいろんな感謝があるけどそれは支えてくれた人たちへの感謝もあると思うけどめぐり合わせへの感謝ってのが込められているはずで「神」と明言しなくても神的なものへの感謝があるんだよね。「とにかく感謝しかないですね」とかってよく言うけどこれって何気にアメリカとかでよく言う「Thanks God」とかと同じだよね。ただGodって言わないだけっつーかなんつーか。

 

いや、そういう文化だからって言えばそうなんだけど文化というレベルなぐらいこういう宗教感覚が根付いてるってことだよね。で、初もうでとかさ、年末年始にお笑いの番組があるっつーのもまぁ笑う門には福来る的な験担ぎよね。いや、スピ的に言っても笑うことってすんげー厄払いの効果があるんだよね。何しろまぁ魔のものって愉快なものが苦手なのよね。ようは錦鯉みたいな完全なバカに徹してるような漫才を心から笑うみたいなことがすんげー霊的な祓う力があるってことなんだよね。

 

まぁ陰気の対概念よね。笑う門には福来るってのも実際に福が来るのもあるし邪気を祓うって意味もあるよね。所謂、運気上げ的なのって運を上げよう!というよりも邪悪なものを祓おう!っていうほうにフォーカスしたほうがいいんだよね。清い心であれば福が来るに決まってるのでね。

 

まぁでもこの新年のあいさつとかにしても心からそれを相手に対して願うっていう心からの祈りが無いと意味ないんだよね。社交辞令じゃ全然意味ない。そこに尋常じゃないパワーを注ぐとしたらそれはもう宗教的行為ですよね。

 

あとなんか知らんけど祈りって他者のために祈るのが一番効果あるんだよね。よくできてるよね。だけどまぁ日本は福とか縁起が良いみたいな運とかパワーみたいなものに信仰があると思うんだけど天照大神ってそもそも光ですよね。神道とか仏教とかキリストとかがごった煮になってる本とか読むと天照はキリストだなんて書いてあったりするけど間違いでもないよなって思うんだよね。あとまぁ阿弥陀仏の光とかね、端的に言えばブリンブリンってことだわな。

 

同じ概念かはともかくとして類似するものであることは確かだよね。そもそも誰が闇を望むのか?って話でしょう。まぁそういう輩もいるけど闇を崇拝するってのもまぁ一種の宗教だからね。ただまぁ悪魔ってすげー力があるから信仰の対象になりえるんだよね。昔俺自身がサタニストだったころに(笑)すげーそういう本読んだけどとにかくまぁあれなんだよな、個人の欲望とかエゴイスティックな欲求を叶えるんだよね。

 

それに対して光系の宗教は万人救済的な、自分だけではない人々が救われるとか幸せになるということを願うある種の利他的なものだからだからまぁ信仰が難しいってのはあるよねっつーのはまぁ人間ってエゴイスティックだからね。

 

でもまぁキリスト教での「主の御国が来ますように」ってのは世の中が光で照らされますようにっていう自分だけではない世界平和的なものを望むっつー祈りだよね。よくこういうものに対してナイーヴだっていう意見があったりするけど、俺の経験上からもそういうことを言うやつの心って退廃してるんだよね。賢く振舞っているようですんげー荒んでる。

 

でも心に光を持ってる人ってのはなんかまぁキラキラしてんのよね。んでそれが無い人から見るとキラキラし過ぎてるから妬みの対象になったりするんだけど、これもそもそも面白くて無関心であれば「勝手にキラキラしてろ」って感じだと思うんだけど「なんであんなに輝いてるの!」っていう悔しさがあるっつーのはやっぱり心の奥底で光への信仰があるからなんだよね。だからそれを信じたりコミットできない自分が情けなくなってくる。でもそう思いたくないんで輝いてるやつを妬むことで認知的整合性を保つんだよね。

 

初日の出が縁起がいいとかってのもまぁ太陽っつー光だよね。太陽信仰とまではいかないけど基本的に光属性のものに信仰心があるんだよね。まぁでもキリスト教はかなり初期から思想が歪められて政治的な統治の道具になっちゃったから本来の原始的な光の信仰っていうことを考えるとキリストの道を歩むってのが神道的な言い方をすると惟神道ってことになるわけだしあとまぁヨハネの福音書の引用になるけど

 

第1章

1:1
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

 

1:2
この言は初めに神と共にあった。

 

1:3
すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。

 

1:4
この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。

 

1:5
光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

 

まぁこれって神道的な観点から言うと言霊信仰そのものだよね。そのロゴスが命でこの命は人の光でその光がある限り闇が勝つことはないっていうね、凄まじい新約聖書の超絶要約をしちゃえばここに尽きるよね(笑)

 

で、神道と同じように別に日々の決まりとか戒律とかはないんだけど、でも光の道を歩むってことはある意味常に正月みたいなもんで(笑)日々穢れを祓ったり触れるようなことをしなかったり心が穢れるようなことをしないっていう、日々自分のお清めをしつつ神と共に歩むっていうことだよね。神道の鎮魂法なんてのはまさにそれなんだけどやらなきゃいけないことが戒律のようにあるわけじゃないんだけどやろうとすると色々とやらなきゃいけないことがあるって意味で神道ってナチュラルな宗教よね。

 

なんかやっぱそこにハマるもんがあるんだよね。俺のキリスト観もそういう感じだからね。あとまぁ闇断ちの話で色々書いたけど見える人からの色々なアドバイスがあって、んで後に鎮魂法の本なんかを読んでると似たような話がいっぱいあって、基本的に霊性を高めるっていうことが信仰とセットなんだよね。

 

でもまぁキリスト教に限らず世俗化した宗教って異教化しちゃうからうさん臭かったり組織的な都合の話みたいな感じになっちゃうんだけど本来の宗教性ってトートロジーみたいになるけど崇高なものなんだよね。まぁそりゃそうだよね。神様に帰依するわけなんだから。

 

ただ俺に関して言えばなんでこんなにキリストとキリスト関係のものに惹かれるのかは正直、論理とか理由らしき理由がないんで、なんかまぁ相性というかしっくりくるものがそれだったっていうことでっつっても個人的にはもっと深いレベルのことがあるんだけどまぁそれは置いておいてまぁその神様への帰依の仕方って人によって違うんだけど、基本的に光に帰依するようなもんだと思うんだよね。

 

日本にはお天道様は見てるって言葉があるように基本的に宗教臭くないナチュラルな神の存在があるんだよね。でも改まるようなものじゃなくて身近にある感じね。だからある意味日本ほど宗教的な国もないだろうってぐらい宗教を意識しないぐらい宗教が当たり前になってるんだよね。

 

まぁあとなんだろうな、お祝い事の時とかに縁起悪いことを言わないとか(笑)そういう場での喧嘩とかはご法度とかさ、まぁそれは宗教的理由というよりマナー違反とされるけどここが凄いんだよな。実は宗教的な理由でのタブーがマナーのレベルでの違反とされるっていうぐらいある種普遍なんだよね。

 

あとまぁあれだわ、普遍と言えば笑いってことなんだけど例えば今の俺みたいに霊性をめっちゃ上げたい!って思っててもそれを貪っちゃいけないんだよね。あとそれに真剣になり過ぎてバランスを欠くようなことがあってもいけなくて、それに真剣になるがあまりユーモアのセンスが欠落するとか笑いが無くなるとかってのが何気にすんげー霊性の高まりを足を引っ張るんだよね。これが色んな霊性上げる系の古典とかに宗派関係なく書いてあったりするから面白いんだよね。

 

ただまぁ光に帰依するってのはポジティヴシンキングとは違って如何なるときも光への信仰を絶やさないということなんだよね。まぁ言うのは簡単だけど行うのは難しいわな。でも神学やら古典の聖典とかを読んでると神の概念ってより抽象化されて深まっていくから短絡的な理由で「神も仏もあったもんじゃない」なんて思えなくなるんだよね。助けてください!ってお祈りするのもあるっつっちゃーあるけどそれはちょっとおかしくて光という現象に助けを求めてもしょうがないし、光という現象はあるけど同時に闇という現象もあるので闇しか感じないような事柄が起こってもそれは別に光の不在を意味しないんだよね。

 

神様がいるんだったら悲劇は起こらないはずだっつー考えもまぁよくある考えだけどまぁすんげー短絡的なんだよね。神の理解というのが浅すぎるんだよねってまぁ俺も前はそう思ってたから人のこと言えないんだけど(笑)

 

まぁ言わば光って黄金律なんだよね。だから法則に近いもんがある。神とは法則のことであるって言えるほど理解してないし色んな神秘体験の本とかを読んでると実際にマジでいるってのが分かるから法則とも言い切れないんだけどとにかくまぁいるんだよね。

 

でもまぁこれって当たり前で人間が見えるものだけですべてを判断するってのが凄まじい概念エラーなわけでさ、まぁあと昔の俺みたいになんでも脳に還元するとかってのも逆になんでも脳に還元できちゃったら脳凄すぎるわけですよ(笑)脳死状態になっても医学的には意識がないはずなのに意識があっただとかさ、前世の記憶があるとかまぁそんな話は結構あるけど、それも全部脳の錯覚だって言い切ったとして、んだとしてもだったら逆に脳って何なの?ってことになるよね(笑)

 

記憶の合成だとかなんだとかって話がよくあるけどその記憶のソース自体が無いものも合成できんのか!って話で、俺は見えないものとか現象とかがあると考えるっつーのも脳はそんなもん作り出せんだろうってただ思うからなんだよね。なんとなくの直感が正しかったとかさ、直感を信じろって別にスピリチュアルじゃなくてもこういう場合は直感が正しいことが多いっつーのもだったらその直感を作り出す脳って何なのよ?って話なんだよね。

 

なんでも脳に還元する人の話って逆説的に人間は超能力者であるって言ってるようなもんで、俺はそうじゃないと思うから、だからまぁなんかしらの見えてない世界での現象が起こってたり脳だけではなくて脳の使い方でそういうもんにアクセスできるようになったり生まれつきそういう能力を持ってる人がいるっつーことで、どっちかというとこっちのほうが科学的に妥当なんじゃないの?って思うんだよね。

 

何しろ否定派の論理って「そんなもんあるわけない」っていう確固たるイデオロギーありきのものだから知的誠実性に欠けるんだよね。でも実際に前世の記憶を持ってるとしか言えないようなケースがあるからそれを学術研究してる大学とかもあるわけじゃん?だからそういう否定派の「絶対ない!」って言い切るのって人間の能力を過大評価してるんだよね。

 

例えば霊視できる人がいてこういう霊が出てきてこういう現象に悩まされてるっつーんで霊視したらこういう内容が出てきたっつーんでファクトをチェックするっつーんで何があったのか?って調べたらその霊視の内容と合致していたとかさ、これが全部脳だけで行われてたらそれこそ恐ろしいですよ(笑)でもまぁそういうのが見える人がいるから見えたことを伝えただけっつーほうがまだ納得できるよね。全部脳が作り出した説ってヤバ過ぎるんだよね。

 

逆に見えてない世界でのことが全くなかったら何気に成立しない日常のことって腐るほどあると思うんだよね。まぁ現代が未発達な科学を崇拝し過ぎてるからそういうのは全部無い!って言い切るような過激派がいるわけなんだけど、でも真実ってさっき書いたあけましておめでとうございます!ってただ年が明けたということだけでもそれを祝うということの理由の背後に深遠なものがあるように、そういう古代からの風習とかそれがまぁ宗教的であれなんであれ、まぁある種の人間の知恵の集大成じゃないですか?

 

で、昔の人はそういうもんがあって当たり前とかあり過ぎてそれを恐れすぎてるってことがあったりとかもするんだけど、基本的に祝いってイコール生存だと思うんだよね。それが祓いの意味があるように邪なものを祓ったほうがちゃんと生きられるっていうサヴァイブ術なんだよね。

 

だからそれは確実に見えてない世界を見ていたり見えていなくても当然あるものとして考えていた時代の風習とかの背後ってやっぱナメちゃいけないんだよね。だからまぁとにかく正月は祝いましょうっていうかまぁ年中お祝いでいいと思うんだけどね(笑)

 

いや、なんでそんなに思うのか?っていうと闇断ちってまぁお清めでお祝いの中に祓いって概念がすんげーあるなってのを実践してるから思うわけなんだよね。だからホント、バカにできないどころかちゃんとやったほうがいいよって話だわな。ただやらないとバチが当たるとかそういうのはないらしいんでやらないならやらないで別にいいんだけどやっといたほうがメリットあるからやっといたほうがいいよって話なんだよね。

 

門出を祝うとかさ、祝うって概念を色々と考えるとまぁすんげースピリチュアルよ(笑)まぁんでまとめみたいになるけど神道ってまぁ日本の土着の宗教だって言うけど宗教の普遍性の良いとこどりをしてるサンプリング的な感じがあって、だから俺も日本人だから俺のキリスト観が神道っぽくなるっつーのもそういう土壌で生きてきたからっていう文化だとは思うんだけど、でもまぁ広く読むと形骸化したり世俗化しているものを除けば本質的なものってそこにあるんだよね。

 

ドラクエが国民的RPGとかすげーことだなって思ったんだよね。ある種、光が闇を祓うのは当たり前のお決まりのモチーフだっつー子供のころからドラクエやってる身としては何も感じないんだけど実は宗教のコアの部分があったりするんだよね。で、FFとかドラクエみたいなのが当たり前に享受されるのも文化レベルでの光信仰があるからそれを特に宗教的とも感じずにプレイできるんだと思うんだよね。逆にあまりに宗教臭すぎるとそういうの毛嫌いするじゃん?(笑)

 

でも本来の宗教って抹香臭くないんだよね。すげーナチュラルなはずだし新約聖書なんてすんげーナチュラルじゃん?キリストの道を歩むっていうある意味それだけだからね。パゾリーニの奇跡の丘とかいいよね。あとまぁ日本映画の禅僧を取り扱ったやつとか、俺はすげーナチュラルだと思うんだけどまぁそれをナチュラルだと思う時点で宗教的なのかもしれんけどね(笑)とにかく子供のころから神秘的なものとか古代遺跡とか神社とか大好きだったからな。まぁそこはもう感覚としかいいようがないんだけど。

 

なんかもっと分ければよかったんだけどっつーか長く書くつもりなかったんだけどまぁ今日はこんな感じでってことでことよろです。

 

んじゃまた。