魂のゆくえ。その32。

新しいの貼るの忘れてたんで。

Word Spirit

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年末セールでゲームやり始めてからまたゲーム熱みたいなのが出てきちゃって結構やったんだけど(笑)改めてなんつーか基本「たたかう」で済むRPGほど面白いもんはないよなって思ったんだよね。なんつーか究極の二択だよね。ソウルシリーズ的なすんげーガチでやらないといけないのと、ヌルいってわけじゃないんだけどレベル上げのごり押しが効くようなRPGよね。

 

そういう意味でもドラクエってやべーなって思ったんだよな改めて。昔はFF派だったんだけどFFって途中からムービーゲーになっちゃったから、そういう意味でオーソドックスなRPGの王道ってまさにドラクエよね。あとまぁあれだわ、メガテンの新作やりたいんだけどスイッチでやりたいソフトが全然ないし、せいぜいモンハンライズぐらいかと思ったらPCで出るしメガテンやるのは相当先になりそうだわ。

 

ってことでまぁ魂のゆくえシリーズもそろそろネタが尽きてきたんだけどまぁタイトルつけんの面倒だから魂のゆくえのままでいいかなとか思いつつ最近思ったことなんだけどあれなんだよね、基本的に魂を磨くことと霊性ってことにフォーカスしてからはそれ以外のことに関心が無くなっちゃって、例えば積読になってた学問的な神学の本とか全く興味なくなっちゃったんだよね。

 

ようはやりたいのはキリスト教研究なんじゃなくてキリスト教に限らない精神性の実践なんでまぁようは宗教よね。宗教っつーか行者か。で、色々と分かってくると霊性を見越して言ってるのと全然そうじゃないのとですんげー違いがあってまぁようは学問的なものに興味が無くなってるってことだわな。

 

だからなんつーか「これだ!」と思うものがあったらそれにフォーカスして学問的なやつはパラパラ読んでそれでいいんじゃねーか?って感じになってるよね。パネンベルクの組織神学のやつとか積読になってるんだけどどうしようかなって感じ。

 

あとまぁあれなんだよね、シェロモー・サンドという人の「ユダヤ人の起源」って本とかヤコブ・ラブキンの「トーラーの名において」ってのを割と真面目に読んでてまぁなんつーかユダヤ=イスラエルだからありえねーってまぁ俺ってシオニズムが大嫌いだからそれでなんかユダヤ的なものがなんか嫌な感じになってたんだけど、むしろ超正統派からすると宗教的なロジックは通ってて救世主が現れたときにイスラエルが建国されるんだけど救世主が現れてもいないのにイスラエルを勝手に建国したりなによりまぁ戦争しまくって人を殺してるっつーんでトーラーのモーゼの十戒のいくつかに反してるっつー考えだったりするんだよね。


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っつっても別にすんげー律法的な超正統派のユダヤにシンパは覚えないけどまぁユダヤ=イスラエルってイスラム=イスラム原理主義とかタリバンみたいな偏見と同じなんだよなって思って結構ユダヤ関係のものもディグってたりして、んで前に書いたか分からんけど今は色々と並行読みしてるけどタルムードとゾーハルを読んでるんだよね。

 

ゾーハルはエゲつない分量なんだけど学問的な神学とか聖書学とかの本を適当に読んじゃって霊性高める系とかゾーハルみたいな気合入れないと読めない系みたいなのにフォーカスしようと思ってるのね。あとまぁその他オカルト臭いのとか大量に実は読んでるんだけどあんまそれは書きたくないんで(笑)

 

あ、あとカタカムナとかね。面白いんだよね。言霊系の本は読んでるって前に書いたけどカタカムナが儀典かどうか関係なくなんかあれ自体が一種のカルチャーっつーかジャンルになってるのが面白いなって思ってさ、なんつーかヘブライ的な世界観と神道の世界観って似てて基本言葉とか文字に深遠な意味合いがあるんだよね。それが神に近づくのか知るのか分からないけどそういうのを知るのが近道だみたいなね、まぁ学問的にやっててもそれは思弁的になるだけで不毛だからね。

 

ただまぁ神智学とかニューソート系とかも俺的に言うとって前にも書いたけど色んな宗教の良いとこどりをしているコピペの現代宗教思想みたいなもんで結局、基本は愛だっつーところがやっぱ普遍なんだよね。インド哲学とかでも神とは言わないけど崇高な存在ってのをとりあえず神と措定して救済に向かうっつーベクトルはつまりは愛だろうって解釈すれば無次元の愛への道こそが神への道ってことになって、真理を表す言葉のバリエーションがあるだけで全部は行きつくところは同じっつー感じがしてるんだよね。

 

でもここで神って言っちゃうと世俗的な意味での神とそれがヒンドゥーなのか神道なのかキリスト教なのかとか言葉自体に語弊があるんだけど、つまりは原理としての愛だよね。法則としての愛っていう名前の神ね。そう考えるとよりキリスト教というよりキリストそのものに近づくから面白いんだよね。まぁキリスト教メインで他の宗教は表面的にしか知らないけどあそこまで愛が法則なんだっつってる人もいないんだよね。

 

ただ愛という言葉も神という言葉と同じぐらい語弊があってっつーか原理としての愛って言葉で表される愛とは全然違う愛だから、それはなんつーかさっき書いたように世俗的な意味での神と愛と超越的で無次元的な意味での神とか愛って全然概念が違うんだよね。

 

結局だから何なの?ってことなんだけど、それを頭ではなくDNAレベルで信じるっつーのかな?まぁ信仰よね。そこで自分の世界が変わってくるんだよね。かといっても博愛主義者なわけじゃないし、全ての人に愛を持って接するなんて無理ゲー過ぎるから(笑)その辺は「サイコパス 秘められた能力」っつー本があるけど、神の道に邁進するサイコパスでいいんじゃないかと思ってるんだよね。

 

もちろんポジティヴもネガティヴも存在する必然性があって光の道を歩むのに弊害になるものってのも光の道を歩むための試練として考えればいいんだけど、あまりにその試練に気負い過ぎるとカルマになっちゃうし、何よりそれは本来の自分と違うんだよね。いや、なんかね、キリスト教のある種洗脳されてると思うんだけど(笑)なんか博愛主義的じゃなきゃいけない!って思い込みがあるんだけど俺って元々サイコ野郎だからどうでもいいやつとかクズだとマジで思うし万人が救済されるべきなんて死んでも思わないわけなんだよね(笑)

 

でも救われるべき人ってのは絶対いてそういう意味で表立って戦うわけではないけどこの生まれつきのサイコなんだけど悪は死ぬほど憎むっつー気質は凄く自分の好きな才能でもあるからこれってまぁミッションだと思うんだよね。

 

無限の愛ってのは無次元の愛で愛と憎しみみたいな対概念にならない愛なんだけど世界はそうなってないから高次元のレベルではそう考えていても三次元はそうではないというのを自覚しないといけないんだよね。でもそこで高次元を介在させることができれば考え方も変わってくるんだろうけど、キリスト教にどっぷりハマったおかげで自分のサイコ性が失われてるっていうか今でも十分狂ってはいるんだけど(笑)人に対して全く期待しないしむしろ敵以外いない!ぐらいに思ってたほうが楽じゃないですか?

 

でもまぁ隣人愛だとかアガペーという概念に反するなとかって思って葛藤するんだけどでも俺としてはそういう建前的な博愛主義よりも神の道にイッちゃい過ぎるぐらいガン振りしたいからサイコパスモードで邪魔するもんは許さん!っつーか危害を加えるとかじゃなくて光の道を歩む上での敵だから残念だけど切るしかねーなっていう決断をしないといけないんだよね。

 

まぁぶっちゃけその判断ができると付き合うべき人とそうじゃない人ってのは明確に分かるようになるしダメだなーって思う人とはなるべく接点を少なくするとかっていうことをすれば純度が高まると思うんだよね。ただその反面、修行だけやってても意味なくて世俗的な気苦労とかも成長の要因になるから切り過ぎてもいけないんだけど、でも気苦労がカルマになるぐらいだったらそんなの無いほうがいいと思うわけで、やっぱりまぁ神の道を歩むサイコ野郎でいいんじゃないかな?って思うんだよね。まぁすんげー原寸大ですよね。聖人になろう!とかじゃないじゃん?(笑)凄く俺らしいし地に足がついてるよね。自分をよく知ってるから自分ならこれだなと思えるという感じだよね。

 

でもこれも段階的に変わっていくんだとは思うんだよね。今はある意味、修行だ!って思っててこれってすんげー神経研ぎ澄ませてるから些細なことでも気になるような過敏になり過ぎちゃうんだよね。でもまぁそういう時期を乗り越えたら完全に愛に包まれるようになると考えも変わるんだとは思うけど中途半端な博愛主義って一番偽善的で自分が嫌うものだから究極の善に向かうために逆説的にサイコ野郎でいいなっていうね、まぁそのあれだわ、俗説とかで言われる会社の社長とかにサイコパス気質が多いとかって言われるようなタイプのサイコ野郎だよね。目的のために邁進するというね。

 

まぁでもこれって一番怖いよね。マジで触らぬ神に祟りなしっていう触らぬ神そのものに近づくっていうね(笑)思想的に危ないやつって一番危ないと思うけど本来俺ってそうじゃん?でも俗っぽいキリスト教的な博愛主義って大嫌いな偽善的な感じだからある種悟りを得るために無に近づくような仏教僧の無の瞑想みたいなさ、そういう感じよね。

 

別にイリーガルなこととか反社会的なことはしないけど目的のためなら絶対妥協しない!っつー強い心だよね。まぁそれは十字架のヨハネとかに言わせれば霊的貪りで良くないって言うんだけど俺みたいにどっかに振れてないとやってけない人間にとっては中庸ってのは無理だし極振りしてるのが性に合ってるんだよね。だからまぁ学問的なもんは適当に読んで本しまっちゃおうってことになるしリアルに霊的なものしか読みたくない!ってことにもなるわけね。まぁ結果的にミニマリズムに繋がるんだよね。余計なものを排除するという。

 

あと一時期修道思想とか好きだったけどただ神は素晴らしいのに自分はなんて惨めなんだ!みたいなことを永遠に書いてるやつとかもう全然ダメだなこりゃって思ってて(笑)やっぱイッてるやつって少ないよね。でもいなくはないからありがたいんだよね。だからなんか俺的にゾーハルとかね、ドープな古神道とかって相当イッてると思うんだよね。ゾーハルはある程度の霊的修行をした認識で読まないとさっぱり分からないとか言われるけど要約すればイッてないと分からないってことだよね。

 

だから学問的なものは理性的だから真逆なんだよね。そういう狂った世界を排除するでしょ。あ、あとイッちゃってて聖人扱いされてる人とかだとラーマクリシュナだよね(笑)場所が場所だったら精神病院に隔離されてるような人がインド人だったから聖人扱いされたっていうね。沖縄で言うところのカミダーリみたいな状態になってた時とかヤバいよね。不滅の言葉ってのも並行読みしてるんだけど並行して読むものがどれも肯定的に狂ってるものであれば霊的に最高だと思うんだよね。逆に理性を捨てるのが大変なんだよね。

 

特に寝起きとかは長年の人間の癖っていうか脳がまだそんなに起きてないときって素なんだよね。だからすんげー昔の自分が出てくるんだけど、潜在意識から変わっていけば寝起きからもうカミダーリというか、デフォで神に狂ってるっつーか、そういうベクトルになればいいなと思うんだよね。

 

なんかだからバランスとかクソくらえ!って感じだよね(笑)ラーマクリシュナレベルでギンギンに感じられなくても少しでも余生の中でそれに近づければもうそれで最高!って感じよね。あとマジでなんもいらねーっすって感じだよね。まぁ色々とやりつくしてあんま世間的なことに執着が無くなったからこその今だからやれるようになったんだと思うんだけどね。あとまぁ色々なことに飽きまくってるから執着の世界に引き戻されることもないからね。逆に執着できるようなものを探してたぐらいだから(笑)ただ神に執着はダメなんだよね。そこは清い道なんですよ。だから結果的に世捨て人になるというわけではないんだよね。むしろ真面目に日々を生きるということになる。ただ内面は相当狂っているというだけでね。

 

まぁそんな感じで今日はこの辺で。

 

んじゃまた。