魂のゆくえ。その33。

なんかまぁ原子核的な振舞いが非連続的って話なんだけどさ、そこに時間性というのが入ってくることでエネルギー化するというかエネルギー的な行き来が可能になるって意味でエーテル的な意識エネルギーも可能になるわけなんだよね。まぁなんか最近色々と読んでる中で思うのは俺が言いたいのは心霊主義じゃないってことなんだよね。

 

シュタイナーが言ってるように心霊主義ってある意味での唯物論の別の形だよね。昭和初期とかの心霊研究の文献とか読んでると念写とか物質化とか霊的なものを三次元空間に顕在化させるってことに腐心してるっていうところがあって、あれはあれで色々あるんだろうけどちょっと違うよなってのがあって、マジの高次のものって必ずしも三次元空間に顕在化したりするわけじゃないんだよね。だからある意味では永遠と形而上学にどっぷりな感じがあるんだけど、でもそこは違って高次なものを知覚している本人にはそれが臨場感のあるもので物理的ではないんだけど感覚としてあるという感じなんだよね。

 

その「ある」っていう感じが位相不変量そのものが現象っていうね、それがまぁ何秒後っていうか、何秒って区切りをつけなくても時間による未来への自分のプロジェクションをしているのが現象そのもので、それは未来にプロジェクションしているというより、「ある」という要素が時間エネルギーによってプロジェクションされているものが所謂「現象」として知覚されるものなんだってことだよね。

 

でもそれは写り方というのが完璧であるかは分からなくてそれは知覚に依存するわけなんだよね。そういうわけなので我々が見ている世界というのが人間っていう限られた知覚を持つ存在が認識している限られた世界なんであって、非連続性が時間エネルギーによって連続するという連続のスライド状のものをどれだけ知覚できているのか?とか、スライド状のもので何が起きているのか?というものを完全に知覚するということは不可能なんだけど、そのスライド状の現象の表れの一つとしてエーテル的なものってのがあって、それは知覚が限られている人間でも知覚を研ぎ澄まされば知覚可能になるものの一つなんだよね。

 

まぁ呼び方は色々あってプラーナだとか天使だとかアストラルフォースだったりとかなんだけど、呼び方はどうでもいいんだよね。でも特に普段から霊性とか考えてなくても「なんとなく」とか「直感的にそう思った」みたいなのはそういう要素が働いている可能性は大きいわけだよね。だからそれは本来人間が持っている性質の一つなわけだよね。

 

そういう不連続な点の写像が現象なわけで、ただ時間軸は絶対的なものではないから社増の遅れが生じたりっていうか遅れっつーと何か絶対的な時間軸の速さのスタンダードみたいなのがあるみたいなことになっちゃうんだけど、まぁスピードの差が色々あるってことだよね。

 

ただその点は孤立点で宇宙が離散集合なんだけど、それは常に時間エネルギーによってリアルタイムにストリーミングされているっていうことなんだけど、時間エネルギーが介在しないものもあるし速度がバラバラだから人間が思っているほど時間の絶対性ってないんだよね。

 

んでまぁその宇宙の離散集合ってのが神そのもので、それは汎神論みたいにもなるけど違うんだよね。それ自体が色んなものをひっくるめた実体なんだよね。だからそれは無とも言えるし有と言ったところでもオントロジーレベルだとリアルタイムにストリーミングされている現象そのものに存在もへったくれもないのと一緒で、それを固定的な存在として考えるってのがそもそも幻みたいなものに名前をつけてあれこれしてるみたいなのがある種仏教的な観点だと思うんだけどまさにそうよね。

 

だから唯一オントロジカルに在ると言えるのは神そのもので、それ以外はただのストリーミングなんだよね。あとはこれも仏教的になるけど存在というより意識だけが存在なんだよね。それはスピ的に言うと神に分霊された意識ってのが個々に宿ってて、それだけが確かな存在なんだよね。でも人間は肉の自分というのが自分と思い込み過ぎるんだけど、実際は神の分霊である魂が自分自身なんだよね。で、知覚できる範囲だと意識がそれそのものという感じだよね。でも「これ」って名指しできるようなものではないんだよね。リアルタイムに揺れ動いているものでとらえどころがないものだからね。

 

だからなんつーかスピリチュアリズムってのもなんでもスピリチュアルに結び付けるっていうエクストリームな形の一つだし、自分の師匠の言葉だとそういう世界は当然にあるってことだから、エクストリームなスピリチュアリズムってのはそれが全てだ!って思うような極端な世界観ってことなんだよね。全てがスピリチュアルなものの表れだ!っつってもそうかもしれないものもあるけど、ただの偶然とかただ起こったことっていうただの物理現象でしたってこともあるわけで、スピリチュアルだから唯物論的にならないか?っていうとそれは違うんだよね。

 

それはただの物質的なこともあれば物質的なことに見えて実はスピリチュアルなものもあれば、もっと研ぎ澄まされた知覚を必要とするような高次元的なものの表れでもあるかもしれないんだけど、とにかく何でも「それだ!」って思うことがアウトなんだよね。なんたらイズムっていうスピリチュアリズムとかマテリアリズムってのは「それだけ」っていう閉じている盲目的な認識の形態だし、かといって神とか高次元のものだけを求める!っていう姿勢も一種のエクストリームな形の表れで実は盲目の一つなんだよね。

 

だから師匠に言われているのはそういう世界も大事だけと同じぐらい物理世界も大事だし肉体も大事ってことなんだよね。こういうのって極端になると身体を放棄するとかってのにもなりかねんじゃん?でも面白いのが突き詰めれば突き詰めるほど中庸に行きつくんだよね。どれに偏っても霊的な修行の効率は悪くなるんだよね。

 

あとまぁこれは師匠ではないけど見える人に言われたことだし霊性上げる系の本にも書いてあったことだけど「これだ!」とか「高次元だ!」とかって思ってそれに邁進し過ぎてユーモアとか笑いとかバカバカしいものに触れたり見たりしたりして笑うっていうことを忘れても全然ダメなんだよね。その見える人とのセッションで言われたのは仮に俺が言うようにそういう世界に邁進したいと思っても笑いなしで自分ではストイックに打ち込んでるつもりでも楽しむとか楽しいって感覚とかたまにはブレイクしてゲームやるとか映画見るとか娯楽に目を向けるとか、まぁ俺はその娯楽がなくなりつつあるから問題ではあるんだけど(笑)ストイックに打ち込んでます!っつっても10年やって30パーセントぐらいの効果しか出ないっつー結果的に超非効率になっちゃうらしいんだよね。

 

でもその見える人の言っていることってどうなの?って話なんだけど色々読むと同じようなことが書いてある本っつってもそれは全然時代とかも別々で古典だったりすることもあるぐらいなんだけど、そういう記述に出くわすから普遍なんだろうなって思うんだよね。

 

あとまぁ超能力的なものは付随してもそれを楽しんではいけないって言うけど心からそれをやりたい!って思えばそれでいいんだよね。あくまで神!ってのがあるにしても付随した超能力めいたことが面白かったら別にそれへの情熱を閉じる必要はないんだよね。そこは直感と心に忠実じゃないといけないらしいんだよね。超能力めいたものはダメだ!ってのはある種、霊性修業的な方法論のドグマだからね。

 

で、まぁ結局、なんつーか言い方は色々あるけど今回書いたようなことが全てじゃないにしてもこういうようなことが悟りということだったり宇宙意識を持つということだったりキリスト意識と呼ばれるものだったりするんだけど、これも面白いことに宗派とか関係なく似てるんだよね。だからまぁ原理なんだと改めて思うんだよね。

 

でもその原理の理屈を知ったところでそれが悟りなのか?っていうと別でそれを体感しないとなんとも言えなくてそれはもう文字の世界じゃないんだよね。かといっても悟りを得たいから霊的修行をしていますっつーのも語弊があって、それともまた違うんだよね。

 

ただまぁ知れば知るほど神というかキリストへの帰依というのがどんどん深くなるんだよね。面白いのがバラバラだったりまとまってなかったのが神とかキリストっていうことに集約されていく感じがあるんだよね。つまりはそれがこないだ書いた無次元の愛っていうことだし法則っつーことなんだよね。

 

でもなんかさ、「法則」を知れば何もかもが思い通りになるじゃん!とかって思うかもしれないけど、まぁそういう面はある種あるにしても、そもそもそんな動機づけだと永遠と悟れないんだよね(笑)だからエックハルト的な離脱というかさ、仏教でも感情と自分を離すってことが重要だったりするし、西洋的な世界でも利己的な動機づけでは霊性は上がらないか頭打ちになるから早いうちから利己的な感情を抑えるということを覚えたほうがいいってのは普遍的に書いてあることなんだよね。


まぁそんな感じで今日はこの辺で。