魂のゆくえ。その36。

あからさまにモンハンライズにハマっている感じだよね。発売日からの更新が一切ない(笑)いや、前にも書いたけどスイッチってメガテンだけやりたい感じでそれで買うほどじゃないからモンハンライズはPC版を待っておったんだけどもまぁ発売されましたよねっていうかある程度のポータブル版ぐらいの規模なんだろうとは覚悟してたけどボリュームはワールドほどじゃないけど画質とかプレイ感とかはワールドより洗練されてる感じで、モンハンの難点ってまぁ例えば無駄に敵が硬くてダラダラ長い戦闘が続くとかさ、んでさらにモンスターが逃げるんで追いかけるのに時間がかかるとかさ、俺ってワールドからハマって過去作にも手を出して挫折した感じなんでワールドのプレイ感がデフォなんだけどまぁーなんかとにかく死ぬほど面白いよね。

 

ワールドではっていうかワールドにハマってたときに散々色々書いたと思うけど基本ヘヴィでやっててんでPC版出てアイスボーンってPS版で最後までやったっけ?とかってなってPC版やり直してアイスボーン最後までやってPS版で最後までやったのを思い出したっつー何週してるんだ?って感じだけど(笑)PS版でヘヴィやっててPC版では大剣やっててっつーかあとまぁランスとかたまにハンマー使うとかって感じなんだけどさ、ライズだったらなんかせっかくだから他の武器でやろうと思って弓始めたんですよね。

 

まぁぶっちゃけ一通りやってはいるんだけど一つの武器やるってストーリーを全部その武器でクリアして始めてその武器使ったって言えるみたいな感じだと思うから弓はそこまで使ってなかったんだけどまぁライズだと強いんだよね。まぁ元々強いのか。あのライズ仕様が好きなんだよね。連射で溜め段階が上がるっていう。

 

んでまぁ弓でラスボスまでクリアしてそっからハンターレベル上げって感じになって近接やりたくなってっつってもハンターレベル上がってから近接使うのと新キャラで一からやるのとでは多い違いなんで新キャラ作って今作で強くなったって言われてる笛始めたんですよね。そしたらまぁ面白いんだよなっていうかバフがあるハンマーみたいな使用感でんで種類によってバフも違うしどのモーションでどのバフがかかるかとかでもだいぶ違ってくるんで色々やってたらまぁモンハンしかやってないみたいな生活がここ一週間ぐらい続いてあっという間にトータルのプレイ時間が40時間ぐらいになりましたね。

 

あとまぁあれだね、ライトボウガン強くなったよね。火力がぶっちゃけヘヴィとあんま変わらん感じでさ、動きやすいしあのナルガの貫通連射のやつがすんげー強くてヘヴィで苦労して火力を上げるっつーよりライトがお手軽でいいよね。俺は貫通一筋なんでっつーかあの貫通弾の「カリカリカリ」って言う音がたまらなくてやってる感じなんだけど弓の貫通でもそれが味わえるのとカリカリ感で言うとライトの貫通速射がロマンじゃなく強武器になってるからそんなに頑張らなくても火力でるのがいいなとか思いつつガンナーばっかやってるからまぁそりゃ近接やりたくなるよね。

 

モンスターにしても近接で戦うのとガンナーで戦うのとでは全く印象が変わるからね。だからまぁ近接とガンナーともっと言えば各武器種分の周回が可能だよね。まぁでもなんかワールドでえげつない時間ハマってたからあれなんだよな、さっきも書いたけど一通りやってるんだよね。

 

あと一気に話が飛ぶけど街録ちゃんねるっつーのを知ってさ、まぁもはや有名チャンネルなんだろうけどこれにもハマっちゃってモンハンの作業っぽい素材集めの時とかは音声オフにして街録ちゃんねる聞きながら永遠とモンハンやってるみたいな感じでこの世にいる感じがしない感が凄いですな(笑)ただまぁ街録チャンネルを集中して聞いてるとまぁすんげー濃い人の人生を聞いてる感じだからなんか頭が凄いことになるよね。何本分の映画見てるんだ?って感じだよね。

 

それとまぁ読書がまぁすんげー捗ってましてね、まぁもちろんモンハンやってばっかじゃなくて本も読んでるんだけどより先鋭化されててようは霊的じゃないものを読まないようにしてるっつーか読書も体力だから学問的なキリスト教とか神学じゃなくて霊的なもののみを読むようにしてたらまたそこから色々と広がるんだよね。

 

ただなんつーかな、ここ数か月ぐらいそんな感じなんだけどなんかね、学問と違って凄く魂のこととか人生とか生き方のことだから「これを読んでいてこう思ったんだけど」っていう感じにならんのよね。時間をかけて咀嚼していってそのうち自然な言葉として俺の中からなんか出てくるんだろうけど今はなんかすごく貴重なインプットをしてる時期だからあんま色々書きたくないんだよね。

 

なんつーか面白いんだよな。学問とか神学とかって客観性があるからある意味、題材として書ける感じがあるんだけど霊的なものってすんげープライベートな話になるんだよね。ようはなんつーかな、プライベートなことで書くことなんて逆にないんだけど(笑)父とお墓詣りに行って車内でこんな話をして・・・みたいな意味でのプライベートなことだよね(笑)

 

霊的な読書とかインプットってそういう感じだから学問みたいにすぐ読んで吸収して色々思ったことを書くんじゃなくて読んだことを吸収して実践してどう思うか?っていう形態が違うんだよね。本来まぁ思想とかもそうなはずなんだけど多分、リアルな宗教ってこれなんだなって思ったのね。ようは世俗的ではないガチ宗教はむしろ一般的に言われるスピリチュアリズムに近いものだなって思ってるのね。

 

スピ系とかではないガチのスピリチュアリズムだよね。だからまぁ霊性にガン振りっていうかさ、スピ系ってまぁライトスピリチュアリズムみたいなもんなんだけどガチ系って行者よね。ようは。求道者よね。それが本来宗教的なもんなんだろうけど宗教は世俗化されてるから宗教的というよりかはガチに魂に関わることにコミットするってスピリチュアリズムなんだなって思ったんだよね。まぁ言葉の弊害があるんだけどさ、それこそ昔、バカにしまくってたような江原さんとかってまぁある意味で著書読めば分かるけどオーソドックスなイギリスとかのスピリチュアリズムの系統なんだよね。

 

かといっても心霊主義とかって訳すとだいぶニュアンスが変わっちゃうんだけど、まぁなんかようは魂が軸って話なんすよね。でもそれ言い出すと宗教そうなんだけど宗教って世俗化されたものは教義とか神学にしても何々派の聖書の解釈とかさ、そういう話になるじゃん?でもスピリチュアリズムの場合、神を直に考えるとか感じようとするとか知ろうとするっていうことなんだよね。別にそれは神に限らないんだけど。

 

ただそれは無宗教だった俺からすると異様過ぎることなんだけどキリスト教に開眼してからもやっぱりまぁ学問的にやってたっつーのがまぁ昔からの普通の自分の癖ですよね。で、去年の7月のスピリチュアル的な開眼から流れが変わってきてある種キリスト教に限る必要はないのでは?って思ったりしたこともあったけど逆にそういうスピリチュアル的なことを深めていったら深い意味でキリスト教というよりキリストにより帰依することになったっていう感じだよね。

 

これがまぁ前に診てもらった占い師さんの話によるとっていうか時差で色々分かるようになるんだけど俺は勝手に「神様に導かれている」って思ってたけど実際は違って魂がただ思い出してるだけなんだっていうことになるんだよね。まぁ前にも書いたけど前世ってリアルな感覚になればなるほどパーソナルなことになるからあんま言いたくなくなるんだよね。でもまぁ色々と神に関わることをずーっとやってきた魂なんだよね。それは確定しててだからまぁ単純に思い出したんだよね。

 

で、それが本当に良かったことなんだよね。なんかまぁその思い出してからまた色々と段階もあるんだけど何事もスムーズになるんだよね。迷いがなくなるというか、あとまぁメンタルの調子が心療内科の先生も20年近く見てもらってるけどこんなに調子が良いという状態が続いたことはなかったんじゃないですか?ってこないだ言われたんだけどマジでそうなんだよね。でも先生に「魂が目覚めまして」とは言えないんで(笑)勝手に俺が師匠だと思ってる先生との出会いが大きいんだけどまぁ時期がさ、コロナワクチン打った後に死にかけたじゃん?別にワクチン陰謀論を唱えるつもりはなくて(笑)普通に俺はヤバかったってだけでまぁそっから10月に先生との出会いがあってまぁあともう一人の占い師さんに診てもらったりなんかして、まぁそこから流れがまた変わったんだよね。

 

これは後で知ったことだけどなんか開眼する前ってなんか死にかけるらしいんだよね(笑)それが俺の場合、あのワクチン後の凄まじい体調不良と精神不良だったのか・・・っていうね、マジであの症状が永遠に続いてたら自殺してたと思うんだよね。最近全然そんなことを考えなくなってきてたのに9月はヤバかったからな。

 

まぁあれを勝手に霊的目覚めのための死とかって思えばいいんですよ(笑)まぁでも実際時期がぴったりだからね。んでそこから10月に開眼してから体調不良が一切ないというね、俺ほどの難治性の慢性的な気分障害の症状が出ないって医学的に相当ヤバいことだと思うんだよね。でもどうやったのか?っつったら魂が目覚めたからっつってもそれじゃ理由にならんよっていうね(笑)でもそうなんだからしょうがない。

 

あとまぁなんかこの霊的ステージっつーとうさん臭いけど(笑)段階が変わるときって性欲がすんげー強まるんだけど体が全くついてこないみたいなね、あとは逆に全く性欲が無くなるとかね、なんかとにかく変になるんだよね。でもエロって男にとってのエンタメなんだけどさ、これも闇断ちと一緒でポルノ断ちってのをするとっつーか禁欲じゃなくて性欲が無くなるからそういうの見なくなるじゃん?

 

なんかそうするとより浄化される感じがあるんだよね。通りが良くなるのね。でも我慢はしなくていいんだよね。それでもムラムラきたら別にそれでいいんだけど今は逆であまりに抜いてないから抜いたほうがいいだろうって思っても全然立たないんだよね(笑)

 

あとなんかエロいのに物凄く意図的に没入しないと興奮できないのね。ただそれだけを見てもただそれだなっていう感じで興奮しないのね。そこで思ったのが性的リビドーってそこで爆発させるだけですんげー精神エネルギーを使ってるなって思うとそのエネルギーを別のところに昇華することができると凄いエネルギー運用ができるようになるなとかって思ったらフロイトだったか忘れたけど性的エネルギーを他の部分で昇華させた人間が成功者になるんだとかって話があったけどそういうことだったのかってなんとなくわかった気がするんだよね。

 

別に成功者ってビジネス的にとかインスタ映えして誰もが憧れるっていう像が何も成功とは限らないからね。何をアチーヴするか?っていうところで誰から評価されなくてもっていうか評価されるような類のものじゃなくてもそれが自分の中で成功してたらもうそれは成功なんだよねっつってもそりゃ簡単なことじゃないけどね。

 

ただ成功ってイコール他者の承認とかさ、評価されるとかインスタ映えするとかさ、あとまぁ経済的に潤うってことだけどそういうものばかりが成功の一つの指標みたいになってるけど全くそれが評価やお金とは関係ないところで、んでもすんげー達成したいものってのがあってそれが出来たらもうそれは成功と言えるわけだよね。

 

ただ俺はその道を歩んでるだけで目標をありえないぐらい高いところに定めてるから(笑)「よっしゃ!成功したぜ!今世でのミッションは完了!」ってことにはならんのだよね。前にも書いたけど霊性を高めるって高めているという状態が霊的であるという高めているという状態のことを指すんであって静的なものではないからね。ある意味では静的だけどダイナミックという意味でまぁトートロジーになっちゃうけど動的なんだよね。

 

前に書いた非連続的なものの連続性みたいな西田哲学みたいになるけどまぁそれと似てるよね。まぁそれは成功というより成就という感じかな。でもそれは何かが叶うというみたいな、例えば彼女できた!とか欲しかった車ゲット!とかっていう「これ」っていうポイントで指せるようなものではなくてある状態を言うんだよね。心で願っていることが叶い続けるという状態に居続けてなおかつ願い続けるというのがつまりは祈りだよね。

 

でもそれは利己的なものではないので一般的な成功とは全く違うものだからなんでそれが成功とか成就って言えるんだ?っていうようなものなんだけどそれがまぁそもそもの概念の違いだよね。そこが前に書いた魂と肉体を同一化しちゃいけないのと一緒で人間は社会的動物だけど社会そのものと魂を一緒にしちゃいけないんだよね。

 

だから魂が求めているものは何なんだ?ってことになるわけでしょ。それにコミットすることがスピリチュアリズムなんじゃないか?って思ってるんだよね。まぁようは能動的在り方の主体が魂にあって霊性にあるっていうところだよね。外部の社会とか自然界にはないってことだよね。

 

結局、本当の成功って何なのか?っていうと魂の成就なんだよね。っつっても物質界とか自然界のことがどうでもいいわけじゃなくて、霊的生活を送るためにも金が必要で金とかに振り回されたくないからある程度裕福で居たいってことになるよね。まぁそれは体が衣食住を必要とするのと同じで金に振り回されない在り方っていうのも三次元では身体で生きているわけだから身体における物質界での煩雑なことに魂が捕らわれないようにするって意味での自由が必要だよね。

 

もちろん物質的な自由もそうだし精神的な自由もそうだよね。それは色んな刷り込みとかイデオロギーから自由になって神の御心によって生きるということだよね。それはあたかも求道的な修行僧のような苦しい生活のように思えるかもしれないけどこれこそが本当の精神と魂の解放なんであって真の自由ってようはこれなんだよね。神にそれが与えられているんだけど気が付かないんだよね。

 

だからそう思うと長年俺が実存的に悩んでいて実存について掘り下げれば掘り下げるほどvoidっていう空とは違う空虚って意味での虚しさに捕らわれるのも神=愛という概念がないところに自分のことを考えてもそれは自我が与えられたロボットがロボットである自分ということに葛藤するようなのと同じようなことなわけで、でも実際、人間であるってこと自体がすでに救いの契機になってるんだよね。

 

でもこれってのがまぁこうやって文字にすれば簡単だけど実感するのは本当に難しいというか俺みたいに魂の葛藤が長年あってそれで疲弊してすり減って悩んで・・・っていうプロセスが無いと分からないことなのかもしれないし、俺みたいにある種闇の世界に完全に振り切れるぐらいまで行くと一気にそこに光が降り注ぐみたいなことなのかもしれないし、ただそれは俺の体験なんであって他がどうかは全く分からないからね。

 

ただまぁここが難しいところで聖書の奥義みたいなのも気付きがないとキリストが何を言ってるのかイマイチ分からないんだよね。実感があってキリスト凄い!ってことになるんだよね。そりゃ聖書が黄金律だらけの原理の書だからバイブルなんだなっていうのにも納得ができるようになるんだよね。でもだからあなたも読みなさいっつって読んだところで分かるようなものじゃないところが難しいよね。

 

そこがやっぱり霊性が伴わないと文字だけのある種の道徳律みたいな一般概念をあたかも凄いことのように言っているだけの過大評価されている基本的なモラルの本みたいになっちゃうし、実際に俺が真面目に聖書を読んだときもそんな感じだったからねっつっても適当に読むのが嫌なんで通読は一回もしてないんだけどね(笑)

 

そもそもあれは読書というより霊的な啓示なんであって通読するという感じで読めるようなものじゃないんだよね。まぁそれは仏教の教典とかもそうなんだけどでも俺はなぜかそれが聖書だったってだけでまぁ人によっては俺にとっての聖書に値するようなものが色々あってもいいんだよね。だからまぁ自分の人生のバイブルは?とかっていう言葉があるでしょ。座右の書的なね。でも俺にとってはそれが新約聖書だってある程度段階を経てまぁ俺の人生にとってのバイブルは文字通りのバイブルですっつっても新約なんですけどって感じだったんだけど理解が深まるにつれて旧約も含めたバイブルがバイブルなんだよね。

 

あ、んでまぁ前に書いたと思うけどユダヤ的な見方ってのも知ってて損はないんでタルムードとかあとまぁすげーインスピレーショナルなものだな!ってゾーハルの一巻を読んでみて思ったんで全巻注文したってのは前に書いたよね。

 

あ、んでこないだ思ったのがさ、俺の長年の人間嫌いの原因が分かったんだよね。それは人間の自分の含めたエゴが嫌いなんだよね。だから神が好きなんだなと思ったのね。まぁようは昔からそれは形は哲学とか学問全般っつーものだったけど真理に帰依したいみたいなのがようはキリストのおかげで人間が真理に帰依することが可能になっているっていう構造が分かったわけだよね。構造というより真理は我じゃないだろって思うんだけど我を捨てるというより真理に帰依するっていうことなんだよね。まぁそれが俗っぽい言い方をすれば黄金律の元で生きるってことなんだよね。

 

言わば法則よね。まぁ法則って安っぽい言葉だけど(笑)まぁある種、それも我は現象なんだって言葉レベルではない実感が湧かないと自我を捨てて真理に生きるっていう感覚も分からないんだよね。そもそも分かる分からないの二元論じゃないってのもあるし。あと別に自我を捨てるってことでもないんだよな。軸を神にするっていうところなんだよね。ただ今から帰依しました。軸は神ですってことにもならなくてそれは普段からの今まで長年我のみで生きてきたっていう悪癖を変えていかないといけないわけで、それがまぁトランスフォーメーションっつーかスピ用語で言うとアセンションとかってことになるんだけど、アセンションのイメージって一気に登る感じがあるけど全然違うんだよね。

 

アッシジのフランチェスコみたいに人力で教会を修復するようなコツコツ積み重ねるような作業なんだよね。まぁそれがさっき書いた霊性を上げるということ自体が霊的であるというbeingに繋がるってことなんだけどでもそれは教会を修復するなり一から石を積み上げて教会を立てているっていうwork in progress状態が現象としての霊性ってことになるんだよね。だからある意味終わりはないんだよね。魂が続く限りそれは続くわけで、んで仮に魂が不滅なんだとすれば魂がある限り魂はそれをやり続けるんだよね。

 

だからなんかそれって悟りとか諦観みたいなのとは程遠い精神労働の日々なんだよね。完成形がない精神労働の日々だよね。でもそれによって魂は生きる糧を得られるんだよね。それがまぁようはキリストが断食していたときに現れた悪魔に言った言葉だよね。「人はパンのみにて生きるにあらず」ってことだよね。つまりは今回俺が書いたことで言うと自然界や物質界のみにて生きるにあらずってことなんだよね。

 

で、キリストは自分がパンであり命であるって言ってるよね。つまりはそれが主軸なんだってことだよね。身体はあくまでサブだよねっつっても身体の健全さとか生活の仕方とか細かい闇断ちとかやらないほうがいいこととかってのはすげー色々あるわけで身体レベルでやることってのは精神レベルでやることと同じかそれ以上に多いように感じられるかもしれないよね。

 

でもそれが究極の精神解放なんであり究極の自由なんだってのはさっき書いたけど、そもそもこういう霊的生活があるとイデオロギーが入る余地がないからね。あと世俗的宗教のドグマとか世論とかにも惑わされないでしょ。それは色んな意味でのカウンターというより何かを跳ね返すというような何かが飛んでくるような次元にはもういない精神状態だからなんだよね。でもそれはゴールが見えるような道ではなくてぶっちゃけ五里霧中状態なんだけど恩寵は常に感じるようになるから精神的糧を常に得ている状態で自由に生きられるという最高の状態で生きられるということになるんだよね。

 

だからまぁ総括みたいになるけど俺がメンタル的に元気になるのもそういうことなんだよね。あれだけしつこかった気分障害とか鬱が出ないって凄いよね。奇跡だよね。マジで。でももちろんそれはその精神状態を維持できているからなんであって、いらない無駄な要素とか無駄なストレスがかかることでそれが壊れるということは起こりうるからこそ常に最高の自分であるということが常に霊性を高めて生きられる自分とその環境ということに落ち着くんだよね。教会を人力で石を積み上げて建てるっていう途方もない作業なんだけどね。でもそれは教会の設立というゴールにあるわけでもなく近代テクノロジーを使って簡単に教会を立てればいいじゃないかってことでもなくあくまで人力で積み上げるということ自体が重要なんであってゴールはそこにはないしゴール自体がないんだよね。

 

色々やることはあるけど神について正しく考えて行うっていうことに尽きるよね。それは余裕があるからできるんだって言われてもそれはそれをやるために全力でそれをやるために余裕を生み出すんだよね。だから煩雑になりそうなことは避けるし無駄なことはしないし極めてミニマルに霊性を上げるための修行をする生活ということになるんだよね。かといってもこれってよく間違えられるのがずーっと一人で瞑想してるとかってのが一番いいみたいに考えられがちだけど、そういう精神のもとで生活の中でその精神を実践していきながら生活するというのが最大の修行なんだよね。瞑想なんて瞑想しようって思わなくたって頭が常にそうなってるぐらいじゃないとダメだよね。まぁダメってことはないんだけど(笑)

 

まぁこれもキリストの言葉だけど「明日のことまで思い悩むな。 明日のことは明日自らが思い悩む。 その日の苦労はその日だけで十分である」ってことなんだよね。その日の教会の石の積み上げという苦労はその日だけで十分なんだよね。でも嫌々やっているわけじゃなくてそれは魂が望んでやっていることだからね。

 

で、明日には明日の積み上げがあるんだけど今は今日の積み上げにフォーカスするべきで先の積み上げとか教会の完成形みたいなのを積み上げている最中に考える必要はないんだよね。なんつーかそこはインプロヴァイズするってことなんだよね。そりゃ日々の事柄に台本なんてないでしょ。毎日みんな即興して生きてるわけだよね。まぁそれが苦しいから「これだ!」っていう構想なりゴールを思い描いて律法的に生きるというルールの下で生きるっていう方法もあるんだけど、究極系は即興にあるよね。それは音楽も同じだよね。そういった意味で日々を生きるってことは魂の即興っつー表現の形態なんだと思うよね。でもそれはSNSとかで「即興です!」とかって見せるようなものではなくて自分のためにやる即興だよね。即興のための即興だよね。でもそれが究極にフリーってことでしょ。まぁ音楽となるとそれは難しいんだけどデレク・ベイリーが追及してた即興はまさに魂の即興だと思うんだよね。

 

まぁそんな感じで今日はこの辺で。

 

んじゃまた。