キリスト教というよりキリストの言う原理としての愛ってのはイデア的な愛とは全く違うというより以前のキリスト教をプラトニズム的に解釈していた俺は善なるイデアが愛なんだって思ってたけど違うんだよね。
言っちゃえばもっと深遠な概念なんだけど前にも書いた気がするけど対応する言葉が愛ではあるんだけど所謂、愛とは違うというね。俺の語感で言うと愛ってやっぱ愛情とか愛着とか好き!っていう概念っていうまぁ言わば人間的な意味合いが強いっていうかまぁデフォだとそうだと思うんだけど壮大なキリスト意識的な宇宙意識的な意味での愛というのは宇宙意識というものが愛ということだからそれは愛であって愛ではないんだよね。
デフォの語感で言うと隣人愛なんて無理だろう何言ってんの?って感じだけどキリスト意識という意味ではそれは当然あって然るべきなんだけど、でもそれは必ずしも物理世界での隣人を愛するぐらいの愛を持ちなさいってことではないんだよね。隣人というのは比喩で敵を愛するみたいなのも比喩だよね。ようはキリスト意識としての愛の形容というのを色々な譬えでキリストが語っているということで、それをデフォの愛という感覚で捉えると相当無理があるんだよね。
仮に隣人がすげー嫌なやつでなおかつ敵対してた場合でも愛さなきゃいけないのか?っつってキリスト教なら愛しなさいって言うんだったらそれは絵空事ですよ。ただの理想論で人間には実行不可能な意味のないものになってしまうよね。でも敵も隣人も愛するってのは愛するというよりも行動の動機づけが全て愛から来るぐらいの感じで生きなさいっていうことなんだよね。
それがまぁこないだ書いたエゴを捨てるというよりエゴはエゴであっても神的な愛を原理としてそれに従って行動せよってことになるんだよね。面白いのが言い方は違えど古神道でもほぼ同じような随神の道という概念があって、人為の加わらない神の御心って言う意味なんだけどヤバいよね。これじゃん!っていう(笑)
宗派の違いで色々な言い方の差みたいなのはあるんだけど根本原理ってやっぱ一緒なんだよね。でもやっぱり感動するのが似てるなーっていうのが仏教とキリスト教とかの比較もできるしまぁ比較してる研究なんていくらでもあるんだけど、所謂、神秘主義寄りのっていうかエックハルト的な流れの俺的に言うところの正統なキリストの道で言うと結局はそれは神の御心に尽きるんだよね。
だからそれって教義とか守らなきゃいけない戒律とか全然無くてっつっても結果的に逆算で神の御心に生きるということだったらやっちゃいけないことは増えるよなとか避けるべきことは増えるよなってことになるんだけど、でもそれは個々によって違うわけでガイドライン的なルールはないんだよね。
かといっても古い儀式っぽい感じのとかもそれなりの意味があるから否定はしないけど、まぁああいうのって形骸化するじゃん?それやってればよくてただ全然心がこもってないっていうような形式だけが残るみたいなもんだよね。あとは修道とか行者とか呼ばれるスタイルで生きてはいるけど全然心が神に向かってないとかね、だからまぁ形じゃないんだよね。
で、なんとなく言霊の本とかを読んでて思うのは言霊って言霊に対応するエネルギー体みたいなのがあって言葉に発することでそのエネルギー体が振動を起こすなり反応するという形で発した人間に影響を及ぼすみたいな感じがあると思うんだよね。だからまぁよく言われるようにネガティヴなことばっか言ってると実際にそうなっちゃうしネガティヴスパイラルに陥るっつーのもそういう波動を引き寄せてるからだよね。
ニューソートとかでそういうのは散々書かれてるけど、でもそれが果たしてニューソートとかニューエイジ的な考え方なのか?っていうと元ネタは聖書だったり仏教の教典だったりするわけで、まぁそれを現代的な解釈でアップデートされたものがそういうもんなんであって原理がキリスト的であるならそれは結局はキリスト意識に至る道の一種ということになるよね。
ただそこでニューソートとかニューエイジは古代と違って資本主義が入ってきてる金ぴか時代に起こったムーヴメントだからそういうのが商業に繋がって本来尊いはずの教えが流用されて「このシールを部屋に貼っていると良い波動を引き寄せることができますよ」とかっていうまぁコモディティ化するっていうのかな?
でもまぁガチのキリスト思想で言えば部屋に貼るというより一番良いのは神に帰依して念ずるのが一番の神の波動との同調なんであって外部のツールを利用してどうのじゃないよね。何より心が神に向けばそれが最強で代替のものはないてことだよね。
念ずるとか瞑想するのはどこでもできるし金かからないし本来あんま金と関係ないはずなんだけどまぁニューソート系とかは自己啓発セミナー的な使われ方をして金儲けの道具みたいになりがちだしニューエイジも同じだよね。
でも実際の肝心なところってそういう商売が成立しないぐらい自分でできることで、それ以外のことなんてやらなくてもいいというぐらい重要なことが神と共にあるという意識とかキリスト意識を持って生活をするっていうことなんだよね。
でもそれはイコールボランティア活動をするということでもないしホームレスにお金を恵むということでもないんだよね。与えるということは黄金律だけどホームレスにお金を恵むことが黄金律かは分からないよね。何しろホームレスと言っても素性が分からないじゃん?本当にめぐり合わせが悪くてホームレスになっちゃった人もいれば、自業自得っていうぐらい酷いことをしてきてホームレスになった人とかもいるわけで、そこってまぁ個人の信条によるよね。
いかなる人間も救われるべきであるって思うならいいけど俺はそうは思わないからね、例えば凄まじいDVをやってきてあらゆる周りを傷つけることをやってきた人間がホームレス的世渡りみたいなのをしてて不幸なことにこんなことになっちゃって・・・って嘘をついてる場合もあるわけで、そんなのまぁどんな人間にも言えるけどね。
それでも無条件の愛を!っつってもそれはキリスト的愛ではないと思うんだよね。本当に助けが必要な人を助けられればいいなと思うでしょ。でもそれに値しない人ってやっぱいるよね。ホームレスというと虐げられた人たちみたいな感じがある同情の対象みたいなところがあると思うんだけど凄まじい悪人かもしれないわけで、悪とは関わるべきではないし闘うべきでもないってのはキリストが言ってるじゃん?
でもその救いってのがさ、金を恵む恵まないじゃなくて本人が回心して神に帰依してるか?っていうところなんだよね。そのキリスト的愛が分かるようになればもう救われてるんだよね。かといっても物理空間の衣食住が保証されるわけではないけど福音書によれば神に帰依していれば衣食住を求めるために神に帰依したわけではないんだけど結果的に帰依してたら必要なものが与えられたってことになるんだよね。まぁ俗に言う運気ですよね。
運気アップ!とか願掛けとか色々あるけどそれって心を芯から神に向ければもうそうなってるはずなんだよね。でもそれには心の浄化とか日々の生活の穢れみたいなのを意識してそれを清めるということを習慣にするだとかっていうことが必要になってくるんだけど、でも俺は別にリッチになりたいから神に帰依してるわけじゃなくてそれが魂が求めていることだって分かったから帰依してるんであってね、それでまぁ体調が良くなったとか色々と物事がスムーズにいくようになったとかセレンディピティ的なことが起こりやすくなったとかってのはまぁある種の表れなんだと思うんだよね。
運気アップ!とか開運法!とかって金になるからそういう商売の人が金のかかる特別な儀式みたいにしている感じがあるけどまぁ効果があるものもあるんだろうけど基本ビジネスですよね。本当にここが重要ね。結局ビジネスなんすねってことになるとそれは相当疑わしいし神聖なものを取り入れて運気を高めますなんつってもビジネスマインドでやってる場合、そんなのは低級霊とかがやっているものかもしれないわけで逆に変な拝み屋とかに通うと変なのが憑くって言われるようにそういうのってやめたほうがいいんだよね。
無我になって神様に祈って自分というより神の御国が来るように人類が幸せになるように願うってのがそれが目的ではないにしても結局はそれが運気上げになるってことなんだよね。そういう利己的ではない人間に神は味方してくれるし原理としての愛を持って何かを成そうとするものを邪魔できるものなんてのはこの世に存在しないんだよね。だからその原理としての愛というのを日々観想してプラクティスする必要があるんだよね。
ってことで今日はそんな感じでんじゃまた。