躁鬱奇想天外さんへの返信。

躁鬱さんから書き込みがあったので返信を貼るんだけど、新しいのが出たのとサンクラにアップしたのもあるんで貼っとくわ。

 

Empress Komyo

Empress Komyo

  • Sacra Mental Klinik
Amazon

soundcloud.com

 

soundcloud.com

 

soundcloud.com

 

躁鬱奇想天外 2022-01-30 02:41:43


お久しぶりです。 最近、電車とか試験会場で人を刺したりとかガソリンまいたりとかやたらと凶悪な事件が目につくようになりました。耳セミさんが現実オワコン論を書いてたときより目に見えて現実がオワコン化してきているような気がします。

 

特にコロナになってから人間の嫌な部分が出すぎていますよね。まあみんな家でやることがネットしかないんで昔はネットが非現実感がまだありましたけど今ではネットが現実の延長線上にあるように感じられてあんまり見なくなりました。

 

なんというか日本人て貧乏になったんだなあと感じます。最近まで知らなかったんで驚いたんですが、実際先進国でこの30年で経済成長してないのて日本くらいらしいですね。一人当たりGDPは東欧の国と同じくらいになってますし、某小室さんでおなじみのニューヨークは年収1000万でも生活できないとかインフレしすぎだろ、て思いました。

 

こっちに来てるアメリカ人に聞くと日本はいろいろ安すぎて心配になるそうです。それでアメリカはアメリカでカリフォルニアでもテント住まいのホームレスの人が数十万もいるみたいですし、耳セミさんがいたときのアメリカより格差が酷くなっている気がします。

 

世界一の経済大国なのに「成長」てなんなのかなと思います。そういえば最近「人新世の資本論」を出した脱成長とか言ってた斎藤公平さんて人をNHKで知ったんですが、耳セミさんはこの人の本を読まれましたか? 耳セミさんが今までになかったような目覚めを経験されたのは現実がさらにオワコンになってきてるのとやっぱりなにか関係はあるのですか?

 

 

躁鬱さんお久しぶりです。

 

おっしゃるように現実はオワコンですが、オワコンだなーと感じられるようになってから徐々にそれが肌で感じられるレベルでオワコンになりつつあるということですよね。コロナ禍においても助け合いというよりかは人間の醜悪さが露呈するようなことになったりして、オワコンに磨きがかかっている感じがしますが、それは潜在的に存在していたものが露呈したか、現実のオワコン化にしても時代の流れの必然という感じがしています。

 

貧乏になったというのもおっしゃる通りですが、別な言い方をすればバブル期とかの景気が異常だっただけで、本来の日本の国力なんてこんなものだったという見方をすれば特に貧しくなったという感じはしないですよね。あくまでそれは相対的であるのと、確かに使えるお金は少ないのですがインフラの設備などはやはりトップレベルだと思うし、あとこれはよくアメリカと比較して書くことですが、サービス業関係の質が高かったりアマゾンの商品が当たり前のように届くとか(笑)

 

お金という形で富を得ている感じはしないのですが、こういった社会のサービス関係の質というのを見れば高いと思いますし、日本の当り前さを海外に持ち込むとギャップに苦しむことになるなんていうのもよく言われることですよね。

 

あとニューヨークは年収1000万でも生活できないというのは某小室さんの金銭感覚の異常さが露呈しているだけで(笑)年収1000万以下どころじゃない人間が大半ですよ。小室さんは所謂、マンハッタンのアパートなどに住んでいる高収入の人間を基準にモノを言っているのでしょう。でもあれがアメリカのスタンダードではありません。

 

僕はそこまでアメリカに詳しいわけではありませんが、コミカレにいたこともあって庶民的な感覚を肌で味わったというのがありまして(笑)ぶっちゃけ普通の人は今の日本人かそれ以上にカツカツです。まず異常な家賃ですよね。ありえない家賃なのでシェアが当たり前になっています。それと学費ですね。アメリカは学歴社会なので学資ローンを組んで大学に行くわけですが、大学に行ったところで就職が約束されているわけでもなく、仮に就職できずにマクドナルドのバイトとかをやっている結構な高学歴の人間もいたりするわけなんですが、苦しむのは生活費や賃金の低さもさることながら、自己投資ような形で組んだ学資ローンの返済に迫られるということですよね。

 

アメリカの英語学校の先生で40代半ばぐらいの先生は学資ローンの請求が来ても無視して払わなかったりしているそうで(笑)あとコミカレの社会学の先生が「野球みたいなゲームで何億って稼ぐ人がいるのに学校の先生っていう必要とされる人間の賃金が低いっておかしいと思わない?」みたいなことを言っていて、その時に生徒の一人が「でも先生結構もらっているんでしょう?」なんて突っ込んだら先生は「いや、他のところでも教えたりはしているけどこの大学だけの年収で言えば300万いかないよ」なんて言ってました。

 

だから凄まじい狭いアパートの共同トイレのところに住んでいるそうで、イメージ的に売れない若手芸人が住んでいるようなアパートに住んでいるという感じでしょうかね。ただテニュアと言う終身在職権があるので職に困るということはないとは思いますが。

 

他にも南米から偽のビザで入国して南米系とか不法移民系のコネクションを利用して工場で働いているアメリカ国民なのか不法移民なのかよく分からない人間なんかも大量にいます。あ、ちなみにそれは英語学校の同級生でした。でもアメリカで家庭を築いてるんですよね。綺麗な奥さんがいて奥さんも不法移民で仕事もしているんですが、カツカツながらも本国がコロンビアだったと思うんですが、コロンビアよりはマシな生活ができるみたいな理由だったと思います。メキシカンなんかもそういう人が多いですね。

 

まぁアメリカ話をするとキリがないんですが、1000万ないと生活がキツいなんて馬鹿げた話です。アメリカには大卒でバイトしてる人間はたくさんいますし年収も日本のバイトよりかはちょっと高いだけで、何よりまともなバイトがある都市部の家賃はエゲつないので全く将来の見通しが見えないまま生活している人間がゴロゴロいます。

 

雇用の問題や格差の問題は日本だけではないというか、逆に日本は貧しくはなりましたけど上下の差がアメリカなどに比べたらマシなほうなので、リアルなホームレスだらけのアメリカなどを見てしまうとそれでも日本はマシだなって思えてしまいますね。

 

斎藤幸平氏については前に長く書いたエントリーがあるので読んでみてください。もちろんあれだけの優秀な若手なのでチェックはしていますよ!

 

mimisemi.hatenablog.com

 

ところで僕の目覚めなんですが、躁鬱さんに言われて「そういう現代の流れと目覚めが関係しているのかな?」って初めて思いました。あまり社会的な流れと関係させて考えたりはしていなかったのですが、ただ実際にかなりスピ的な話にはなってしまいますが、そういった見えないものに目覚める人やそういったものに敏感な子供が増えたり生まれてくる子供なんかも増えているなんていう話はありますね。

 

それは現実がオワコンになっているからこその世界を変える使命を持った人間が増えてきているということなのかもしれません。僕はそんな大層なことを考えたりはしませんが(笑)まぁ相変わらず革命家になりたい!という昔からの夢はありますが、オワコンシリーズで書いていた重要なことはまず現実はオワコンという認識から初めて、さてではどうしよう?というところなんですよね。

 

当時は全然スピリチュアルなことに目覚めていなかったのでスピ的要素などは入れてないつもりでしたが面白いことに現在考えていることとさほど変わりがないんですよね。つまりはそれは何を「現実」とするか?ということなんですよね。オワコンシリーズではヴァーチャルの世界もその人間が現実だと思えばそれは現実であるというようなことを書いていたと思いますが、そこから敷衍して自分の世界を構築するというような落としどころになっていたと思います。

 

で、今の僕のスピ的にアップデートされた考えだと(笑)まぁこれもオワコンシリーズのベースとコアは変わらないんですが、現実があってそれを認識しているということがその人間にとっての現実を形成していると思います。ただそこで「現実はクソだな」という感情のフィードバックが出来てしまうとその感情によりまたクソみたいな現実を認識する結果になってしまい負のループに陥ってしまいます。

 

ではどうやったらその負のループから脱却するのか?というのが真我に目覚めるということなんですよね。ただこれは宗教的過ぎるので(笑)とりあえずクソなのはわかったんだけど自分がどんな生活をしたいのか?とか何をやりたいのか?という構想を練ってそれを実現するためにはどうしたらいいのか?ということに目を向けて毎日それをマントラの如く唱えるわけではないのですが、心に思い描いて心の中でのその思い描いていることの臨場感を高めるということが重要で、それが自分の現実を作り出すということになるんですよね。

 

錬金術みたいな話ですが、最近スピ界隈の本を偏見なく読むようになってニューソートと呼ばれるようなものも読んでいるんですが、今ほどこれはスピリチュアルでこれは実学的だなんていう区切りが無かった時代は例えばヘンリーフォードのような人物が今で言えばスピリチュアルとしかいいようがない成功の法則みたいな本を座右の書にしていて普通にそれがベストセラーになっていたりしたんですよね。まぁ現在も読まれていたりもっと現代風にアレンジされた類書は大量に出ていると思いますが、基本は同じですね。思い描いたことは実現する!という例のアレです(笑)

 

ただこれには尋常じゃない精神力と実現させようとする信念が必要なので大半の人には実現不可能になってしまうというジレンマがあったり、そんなことが可能だったら苦労しないよ・・・っていうようなぼやきと共にオワコンの現実と負のフィードバックループ合戦を続けてしまう人が大半なんですよね。

 

自己啓発系の本の内容をあくまで内容半分にして読むしても成功した人の実例ではまぁほんの一握りの人ではありますが、オワコンどころではないもう死ぬしかないぐらい追い詰められた人がある意味、追い詰められ過ぎて頭が飛んでしまってその成功させるという信念に取りつかれたようにマインドセットを変えていった結果、成功したとか地獄から這い上がったという話があります。

 

治癒系の本でも信念が病気を治す!という本は昔からあるんですが、西洋医学を否定するわけではないんですが、西洋医学ではもう死ぬと言われた人が「でも治る!治してやる!」という凄まじい信念の元に瞑想やヨガやその他のオルタナティブと呼ばれるような療法を実行して治したという話があるんですよね。

 

まぁつまりは信念には現実を変える力があるということですね。僕は自己啓発的にそれを追及していたわけではないのですが、キリストへの帰依と信仰というテーマに取り組んでいて、そしてスピ系の本やニューソートの本などを読んでいて思ったのが、ようはこの信念が現実を変えるというのはキリストが言っていたことや聖書全般に書かれていることのバリエーションの一つなんであって元ネタって全部聖書じゃね?っていう感じがしたんですよね。実際にニューソート系は聖書などの引用が含まれていることが多いし、逆に聖書やその他の聖典からの引用やインスピレーションがないものというのはほとんどない気がします。

 

でもそれって所謂スピリチュアルでしょ?って言われても自己啓発の元となったものがそういったもので、自己啓発本は所謂、ビジネスマンが読んだりするわけで、それって間接的に聖書のめっちゃ使えるアファーメーションなどの技術を間接的に宗教的なものを介さずに読んでいるってことなんじゃん!って思ってキリストの偉大さを感じずにはいられないという感じがしているんですよね。

 

ただ人間って「そんなことできれば苦労しないよ」っていう負の現実ループから抜け出すのって大変ですよね。僕みたいにイッちゃっている人間にとっては楽なんですが(笑)それだけ現実ループの無間地獄から抜け出すのは難しいということですね。でもそれは最初から「無理だろう」と決めつけている信念が実際に無理という現実を作り出しているだけで無間地獄から抜け出そうと必死に取り組むのであれば、そしてそれが卑しい類の利己的なものではなく最終的に社会貢献できるような善なるものであれば、聖書にもあるように心から善を行おうとするものはいかなるものもそれを止めることはできないということなんですよね。それだけ善の力は強いんです。まぁ言わば神の力ですからね。

 

時代の節目節目にスピ的なムーヴメントや急に目覚める人がやけに多くなる時代というのはあったみたいで、昔で言えば神智学などができた時代がまさにそうですね。で、現在もヒッピー時代などの安易なニューエイジ思想ではなく自己改革としてのスピリチュアリズムみたいなのが盛り上がっている時代だと思います。それが時代の要諦と言われればそうなのかもしれません。ただそれと僕のキリストへの帰依は関係ないと思っていたんですが、今では関係あるんだろうなって勝手に思っていますね。

 

考え方によっては長引くコロナ禍もオワコンの現実の構造を変える時代に来ているという見方もできますよね。311にもっと変わるんじゃないか?って期待があったのに以外に変わらなかったということがあっても、コロナ禍は世界的な現象で人間の行動やお金の回り方が根本から変わらざるを得ないという状況になっていますよね。あまりに期待してはいけませんが、コロナ前とコロナ後は全く世界が違うのかもしれませんしコロナ前に戻ることはできないのかもしれません。

 

でもそれはポジティヴな考え方をすれば変わらざるを得ないという分岐点に来ているということですよね。もちろん注意するべきところはあってコロナ禍における陰謀論とその流布というのは深刻な問題ですし、スピリチュアルにしてもコロナ禍という不安から、言わばネガティヴな理由から見えないものにすがりたいというような理由からスピリチュアルに傾倒するのは凄く危険ですしコロナ禍を利用したスピリチュアル系の詐欺なんかも結構あるみたいですね。

 

ただそれって同じスピリチュアルや変革ということでも安易なスピリチュアルにハマるということと覚醒するということでは全く次元が違うんですよね。何かのムーヴメントがあるということは副産物があるのはしょうがないことですよね。でも僕が思うのはスピリチュアルというより日本本来の神道的な見えないものを物質主義的・唯物論的に否定するのではなく生活の中に当たり前にあるもののように過ごすということが重要なんだと思うんですよね。

 

パワースポットとかって流行ってますけど、あれもモロ宗教的なんですが、でもムーヴメント時代は抹香臭さがないですよね。あと待ち受け画面をなんたらにすると運気が上がるらしい!とかああいうのでもいいんですよね。まさにあれも見えない世界があると認めていることですからね。

 

現実がオワコンというのも物理的に見えるもの=現実としてしまうことから来る絶望感なんだと思います。でもそれは錯覚でスピリチュアル的な意味ではない見えないものやまだ顕在化してないものを見たり思い浮かべるということは可能なわけですよね。端的に言えば想像力ですよね。でもそういったことは日々のサバイバルに身を置いてるとどうしてもそういう感性が鈍化してしまうということがあるので、日々のサバイバルから離れた内省的な個人的リトリートというのが必要とされていると思います。

 

何しろ個人が変わっていけば社会が変わるのは当たり前ですからね。それは歴史が証明しています。だから僕はだいぶ前から必要なのは社会改革というより個人の自己改革なんだって思うようになったんですよね。これはだいぶ前から書いていますがモナド的遊軍という感じですね。ドゥルーズ・ガタリやネグリによるスピノザの個人的革命性みたいな話ですね。

 

かといっても社会改革が必要ではないということではないんです。ただ僕の関心はそちらよりも個人が「自分は変われない」とする厄介で頑固な信念をぶち壊す方法はないものか?というところにシフトしていったという感じですね。でもそれは処世術を必要とするもので観察が必要なんですよね。ようは仮に凄く良い人でも変わろうとする人間を親の仇のように否定する人がなぜか多いので(笑)例えば人間関係においてもラディカル過ぎる話はしないとか、相手のドリームキラー細胞が活性化してしまうようなことは言わないようにするとか、これは良い人悪い人関係ないんですよね。

 

そこがまた怖いところなんですよね。良い人だからそういうもっとラディカルな話もできるだろうって思うと遠回しに全力で否定してくるとか(笑)だからある種の沈黙が必要なんですよね。鈴木邦男さんの本に書いてあったことなんですけど、真の革命家というのはようはあいつはラディカルな革命を志してるなんていうのが周りにバレると公安に捕まったりしてしまうので(笑)見た目や生活は人畜無害な何が楽しくて生きているんだろう?ぐらいの目立たない生活をすることが必要で、ただ有事の時は即、動いて肉体言語を行使するということなんですよね。

 

まぁただ今の時代は暴力やテロの時代ではないので、この「肉体言語」というのを僕は勝手にロゴスに置き換えているんですよね。ロゴスが肉となったのがキリストです。そのロゴスが肉となったものが行動するということが肉体言語の行使ということになるんですよね。まぁ昔から言われるキリストに倣いて的なことですね。

 

でも宗教は形骸化していますし真の教えを実行している人なんてあんまりいないわけですよね。たまに聖人みたいな人がいますがあれは敷居が高すぎるので、あんなレベルじゃなくてもいいので善において、善くあるということにおいて行動して生活ができないものだろうか?って日々思うわけです。これはキリストに目覚める前からずーっと考えてきたことなので、自分の中では長いテーマなんですよね。

 

でもそれって理想論じゃん?って話がよくありますけど理想論が無い現実志向なんて劣化していく人間と社会と現実のオワコン感をさらに助長させるだけなので、利己的なサバイバルという感覚から抜け出した善に生きるという理想論が必要なんですよね。そもそもそれは理想だって言われる時点でそれを否定しながらも善いことだけども現実的ではないという意味合いが含まれていますよね。でもここがまさに個人の意思の信念の厄介な壁なんですよね。「現実的ではない」という勝手な思い込みがこのクソみたいな現実を生み出しているということに気が付いていないわけですよね。

 

なんで現実的であるということがイコール大人であるということなんでしょうかね?前にも書きましたけど僕はある人から僕の能力をより発揮するためには子供以上に子供のように振舞うことが必要だって言われたんですよね。まさにこれが大人になる=現実的になるということのカウンターの一種なんだなとかって勝手に思っているんです。

 

つまりは無邪気であるということですよね。無邪気って大いに結構だと思いませんか?キリストが言うように邪なものは全て内なるものから来るわけですよね。でも子供はまだ自我が形成されていないので、ある特定の年齢までは神様の時期なんて言われたりもするわけなんですが、そこで自我が出てくると共に邪なものも自我から湧いてきてしまうんですよね。だから方法論的に魂を良い意味で若返らせてその神様の時期の魂のまま生きるということが無邪気に生きるということなんだと思っているんですね。

 

無邪気なので清められているし祓われているわけです。でもノーガードではいられないので邪なものが入る余地を作らない生活をする必要があるし、そういったものに誘いが来てしまった場合、どれだけ楽しそうでも断らなきゃいけないんですよね。でもその楽しさというのは刹那的な軽蔑すべきような個人的な快楽なのであって、善と共にある喜びに比べたらカスにもならないようなものなんですよね。

 

相変わらず長くなってしまいましたがこんな感じです。小さい意味ではこのタイミングでこれが来たのは何か意味があるに違いない!って思いますけど時代の要諦みたいな大きなことに関しては全く判断していません。それは誇大妄想にもなりかねないしエゴの肥大や選民的な思想にも繋がりかねませんからね。

 

使命とか時代を変える人間!みたいなことに関してもそうですね。そこは遜るというよりただ自分はキリストの徒であるというアイデンティティがそこにあるだけで他はどうでもいいという話なんです。結果的に時代の要諦だったというのは後で勝手に意味付けされるものなので、自分に意味があることというのは自分がキリストの徒でキリストと共に生きるということ以外にありません。以外なのが突き詰めていくと意味に生きるとか意味を求めるみたいなこととどんどん遠くなるということですね。ただキリストと共にあるというそれだけでいいということになるんですよね。それが唯一の意味で最高の意味なんですよね。

 

そんな感じで失礼いたします。