躁鬱奇想天外さんへの返信。その3。

躁鬱奇想天外!

 

なるほど、なんかそれで思ったのですが耳セミさんて在野の人て印象が強まりました。哲学、数学も在野でできるてのは以前耳セミさんが書いてましたけど、ましてや信仰までも教団とかに依存しないで、ってのは私にはなかった視点です。

 

そこで疑問があります。かなり根本的なことなんですが、「ブッダとかキリストて本当に存在していたのかな?」とふと頭をよぎる瞬間はありませんか?死んでから数日後に復活した、て現代で考えると普通にありえないですよね?聖書てもしかして大昔のヘンリーダーガーみたいな人が作ったただの「フィクション」だったら?と考えたりはしませんか?

 

スターウォーズとかエヴァとかもフィクションであってある意味宗教じみたファンを形成したりはしてますが、あれをキリスト教みたいに生活圏までに及んで「信仰」までしてる人はいないと思うんですよね。なぜほんとうにあったかどうかの確証がないものが世界にここまで影響するようになったと思いますか?

 

言われてみれば確かに僕は在野の人ですね。基本独学ですが、「宗教も教団に依存せず」というのは言われてみると確かにそうだなって思いました。でも3年前ぐらいに神学やろうと思った頃は神学校に行くことを考えたり地元に教会が多いのでプロテスタントの教会で洗礼を受けようか?とかってのは思ったことはあったんですけど、勉強していくうちに、そして色々な体験が重なって今みたいな在野になったという経緯はありますね。

 

そもそも学問も大学でやろうとしていたし、ただまぁ経済的な理由から無理で独学でやらざるを得なくて独学になったわけですが、結果的に大学でやらなくて良かったなって後から思えるんですよね。

 

ところでブッダやキリストが実在していたか?ということなんですが、一般的には恐らくブッダのほうが存在していた可能性は高くて、キリストは存在を確認できるのが福音書のみであったり墓とされるところにも人骨は見つかっていなかったりで、実際に居たのか?というのはキリスト教を勉強している立場からブッダよりキリストについて述べることにしますが、これは史的イエスという歴史学の一つのジャンルで、文字通りキリストの実在を検証するっていう一種の学問なんですが、19世紀の後半か20世紀の初頭ぐらいに決着がついていて、つまりは史的イエスを科学的に検証することは不可能であるっていう帰結になっています。

 

ようは存在を検証できるぐらいの歴史的な根拠が乏しいということですね。それは古代のエジプトの王たちと比べると明らかですが、古代のエジプトの王達は墓も残っているし何よりミイラという決定的証拠があるし大量のヒエログリフなどの歴史的証拠がありますよね。そういったものに比べてキリストはそういう歴史的証拠に乏しいという感じでしょうかね。


まぁそれで言うとソクラテスなんかと似ていますよね。ソクラテス自身が書き残したものはないんだけどプラトンの文章によって存在が残っているっていう、ただまぁソクラテスの場合、キリストのような超常現象を起こしたりはしていないので、恐らくマジでいたんだろうなって感じになりますけど、キリストはやはり福音書に残っている話からただの創作なのでは?っていう線は常に拭いきれないですよね。イエス・キリストは実在したのか?的な本は一般書では常になんらかのものが出ているっていう印象ですね。

 

ではなんでそんな存在すらも疑われるような人間の思想が世界に影響を及ぼしたのか?と言えば、ブッダの場合、それは理由は簡単で弟子たちによる大量のブッダの言葉が残されていたりブッダの言葉を研究してさらにそれがまたアップデートされたり独自の解釈をされて色々な分派が出来たりインド哲学を形成したりだとかっていうことだと思いますが、キリストはブッダに比べると弟子たちやキリストの徒達などの研究によってメジャーになったという感じはそこまでなくて、といっても原始キリスト教時代の教父などの研究や宣教や活動などはあったのですが、当初は弾圧の対象だったんですよね。

 

で、決定的なのがローマ帝国のテオドシウス帝によるキリスト教の国教化です。やはりこれに尽きるのではないかと思います。ズバリ権力ですね(笑)信仰というより国教になったのでそれを信じることが当たり前になってしまったし、そこで異を唱えるものがいると冒涜だ!なんつって火あぶりにされるみたいなめちゃめちゃなことがずーっと続いたわけですよね。

 

ルターなどによる宗教改革が1500年代なので、めちゃめちゃなキリスト教支配がいかに長く続いたかが分かりますよね。もちろんプロテスタントが出来てからもカトリックは依然として存在するし、プロテスタントなどの分派ができたことでカトリック的なものに懐疑的だった人もプロテスタントになる!みたいな流れもあったと思うので、より影響力が高まったという感じはしますよね。

 

あと東方ではギリシャ正教やロシア正教やエチオピア正教やコプト教などのカルケドン公会議や11世紀の東西教会の分裂などによる分派などもあったので、ローマ帝国一辺倒ではない広がりがあったということですね。あとローマ帝国から国教を拝借したビザンツ帝国などもあったので、広がりが権力と共にっていう感じが如実ですね。

 

仏教はインドでは大昔にほぼ滅亡してたんですが、アジア諸国への教典の流出があってそれが中国に行ってそれがまた日本にも来て・・・って感じで国教というわけではないのですが、所謂、寺院とか僧侶的な宗教カテゴリーを仏教が占めることになった国々がアジア諸国っていう感じですよね。

 

あと話は前後しますが仏教なんかも本来のブッダの言葉とは関係ないところで色々と勝手に発展して神通力を得たブッダが座禅のポーズのまま山に飛んで行ったとかビームを出したとか(笑)なんじゃそりゃ?っていう記述には事欠かないのですが(笑)キリストの奇跡などもそうですが、こういったものは歴史的背景を考えて理解する必要があって、それは当時の人は今の我々のようなネットが無線でAIが喋るみたいな、一昔前のSFが描いていたようなものがリアルになっている科学文明に生きていたわけではないので、復活したとか飛んで行ったレベルのことは今の我々が考えるほどトンデモではなかったわけですよね。

 

日本でも源頼光みたいな妖怪バスター伝説が残っている実在の武将がいますし、ただ当時の人にとっては何しろ人気のない山とかって秘境とまではいかないにしても恐ろしい場所だったわけですよね。で、そのなんとなくの「恐ろしい」という感覚が妖怪を生み出しても全然おかしくないですよね。

 

で、武将の名声を高めるために流布された妖怪バスター伝説なんかがあってもおかしくないし信じる人もいるのも全然不思議ではないですよね。あとまぁ「あの妖怪はとある武将が成敗した」と言うことで人々の恐怖が和らぐというような政治の統治的な効果もあったんだと思います。

 

でも今の僕らの文化ですらも怪異みたいなのが起きたり霊的なものがいたりすると般若心経を唱えるみたいな迷信があるわけなので、そんなに不自然じゃないですよね。般若心経って仏陀の色即是空が説かれているありがたい空の思想のお話なので、それと悪魔祓いとどういう関係があるんだ?って感じですが、民間でそれが霊験あらたかなお経という信仰があったので、今でも般若心経を唱えるみたいなのがあるわけですよね。

 

神道なんかにしても旧約聖書みたいな荒唐無稽の国造りの話がベースになった神話ですが、普通にその神々を祀っているし人々もパワースポットだの運気アップだのっていって参拝しますよね。逆にこれは科学がほぼ無い時代に神様を信じるよりある意味変な神様の信じ方かもしれないですよね(笑)まさにそんなことあるわけないし起こったわけじゃないし世界はビッグバンでできたって言われてるじゃないか!っていう通念があるのに神話は神話で別枠で信仰するっていうような認識があるわけですよね。

 

でもまぁ実際のところ神様っているんですよね。それが唯一神なのか八百万の神なのかは分かりませんが、まぁこれについては結構普段も書いていることなので割愛しますね。まぁ神様っていう言葉に語弊があるんですよね。ユダヤ教やイスラム教なんかでは唯一神を意味する言葉になってしまうのですが、日本の場合、そういう創造神とは別に竜神様とか弁天様とか山の精霊が神格化されたアニミズム的な神様とか色々いるわけですよね。アニミズム的だったり多神教だったりする世界観は古代ではよく見られる宗教や神様の形態で、唯一神という概念も色々と説はありますが、古代のアニミズム的宗教観から進化した説とかまぁ色々ありますね。

 

まぁそんな感じでご質問の回答になったら幸いです。まぁでもおっしゃるように「なんでだろうな?」って思うとキリがない世界なので、そこまで気合入れなくても読めるようなキリスト教の歴史の概論とか仏教とかもそうですが、コンパクトにまとまっている本とかはあるので理解を深めるために読んでみては如何でしょうか?西洋の歴史を知るにはキリスト教を知らなければいけないなんて言葉がありますが、そのぐらいキリスト教ってヨーロッパの歴史と共にあるものなので、キリスト教の歴史の理解が深まると世界の文化の理解も深まるんですよね。そういう意味でニッチな潰しのきかないマニアックな話題について調べるというより知っておいたほうが絶対面白い類の知識なので、色々と読んでみることをお勧めします。マジで面白いですよ!