テオロギア・ゲルマニカ。その1。

経緯を書くと長くなるんだけど、最近、中世の修道士が書いた本とか小冊子みたいなのを私訳してるんだよね。ただ元が古いと言い回しが古風過ぎたり、あと日本人が読む場合、ちょっと何言ってるか分かんない状態になりがちなんで、翻訳というより「耳蝉風」みたいなね、んでまたこれも経緯が長くなるんだけど、前に躁鬱さんと文学の話が出てたけど、文学も著作権切れのやつとかは私訳した上で耳蝉風アレンジを加えてウォール伝に連載すればネタ切れにならずに済むんじゃね?とかって思って色々やってるんですよね。

 

で、色々とやっている中で翻訳学的な、翻訳自体が研究対象になってるってことを知ってっていうか、そりゃありそうだけど、翻訳文化っていう大きな文化の一つがあって、んでアレンジっつーのもアダプテーションとか翻案っつー言葉があるってのを知ってって言うか知ってたけど、ようはまぁ俺が前やってたマッシュアップみたいなもんじゃん!とかって思ってやってみたら意外といけることに気が付いて、色々書いてるんだよね。

 

ただそうなると「あれもこれも」になっちゃって色々なのを翻訳してみて、どんな感じになるか?ってのを実験的に読んでみたいってのがあって中途半端に翻訳したのが何個もあるんだけど、仮に今後、この私訳というかリミックスプロジェクトを長くやっていくなら、例えば小説にしても「書けない!」とかって思ってるより下手くそでも書いちゃって一個とりあえず書き終えろ!的な鉄則あるじゃん?あれに則って、もうウォール伝上の連載が決まっちゃってるから書かなきゃダメ!みたいな感じでエントリー代わりに乗っけていけばいいんじゃないの?とか思ってさ、ただまぁすんげー疲れるのね。翻訳もアレンジも。

 

慣れればそうでもないのかもしれないけどまぁなんか眠くなるし異様に腹減るしで。エネルギー使い過ぎるから最後までやり遂げられるモチベーションを維持できんのか?って話で、だから訳とアレンジが終わったらもうそこで短いやつをアップしちゃえば、なんか勝手に発表した気になって「よっしゃ次!」ってなるかなとかって思ったんだよね。完成させてアップロードするなんつったら心折れそうじゃん?(笑)

 

あとまぁブログ形式ならそんなに頑張らなくてもアップした上で改めて読んでみて「ここ変えたいな」って思ったら変えればいいわけだし、そういう意味でブログにアップするっていいなーと思ったんだよね。常にバージョンアップのパッチを与えられるから、あんまり最初から全体の整合性とか考えないで軽い気持ちでアップできるじゃん?

 

まぁそんなわけで耳蝉文庫シリーズを始めたいと思います。んでまぁなんで翻訳しようかと思ったのか?っつーと今回第一弾を貼る「テオロギア・ゲルマニカ」はイングという人の「キリスト教神秘主義」って本で知って、んで調べてみたら「読みたい」ってなって、んでその時に「訳せ」って勝手に来たのね。いや、マジなのよ(笑)

 

まぁ邦訳も何冊かあるんだけど手に入りづらかったり、あと今回のやつじゃないんだけど、モノによっては邦訳自体が日本がキリスト教圏じゃないってのもあって、んで出版社とかが無くなっちゃってプレ値になってたりするのとかあって、それだったらなおさら耳蝉文庫で読めるようにしたほうがいいじゃん!とかって思ったわけよ。

 

あとまぁ古い文章の直訳って呪縛みたいなのがあって、元がそもそも読みやすい感じじゃないのが直訳でさらにめちゃめちゃになったりしてて(笑)猶更耳蝉流だろう!とかって思ったんでしたわね。

 

だからまぁ今後っつーか今、私訳及びアレンジしてるのは著作権が切れているコモンズになってる英訳のPDFが所謂底本になってるのね。まぁだからコモンズなんで改変するつもりはないけど大胆な意訳はもう二次創作扱いでいいだろとかって思って(笑)最初はリテラルに翻訳作業してたんだけど苦痛でしょうがなくてさ、だったらもう思い切って分かりやすい意訳でいいや!っつーか、あと分かりづらいレトリックとかを無理やり翻訳しなくても言わんとしていることをもっと分かりやすいレトリックに置き換えたり、あとくどい場合、削除したりとか(笑)色々なエディットは加えてあるって前提な感じね。

 

まぁそれでもまだ分かりづらいとは思うけど元よりかはだいぶ分かりやすくはなってるなっつーのと語彙とかはよく俺が使う言葉を多用したほうが自然になるから俺ボキャブラリーで基本やってますんで。

 

ってことでテスト的に第一弾を載せますね。耳蝉文庫の一発目だ!あ、んで本の詳細はWikiでよろしく。

 

en.wikipedia.org

 

テオロギア・ゲルマニカ

 

第一章

 

全き者と部分的なものについて、また、全きものが顕在化するときに、部分的なものがどのように捨て去られるかについて。
 


聖パウロは、「全き者が来るとき、部分的なものはなくなる」と述べている。ところで「全き者」と「部分的なもの」とは何であろうか?つまりは「全き者」とは本質的存在であり、すべての存在を自らに包括するものである。神なしには、また神の外においては存在における真の実体はなく、全てのものは神の存在の中に、神の中においてのみ、真の存在を有する。なぜなら、神は万物の実体であり、神ご自身において一切の変化をすることなく、自己以外の万物を変化させ動かすものだからである。

 

「部分的なもの」または不完全なものとは、完全体に源を持つもの、または全き者から生じるものである。それは暗闇の中で何らかの姿かたちが太陽や蝋燭の光によって目に見えるようになるのと全く同じことである。
 

暗闇の中で光によって姿を現すものが「被造物」と呼ばれるが、その逆はありえない。つまりは、光に照らされることで現れる存在の中に存在自体を与える光源を持つものはないということである。同様に光に照らされることで現れる存在の中に「全き者」はない。

 

不完全なるもの、もしくは「部分的なもの」は認識可能で、それ自体により表出され表現され得る。しかし「全き者」は被造物としての如何なる被造物においても認識され得ることはなく、表出され得ない。または被造物は被造物同士によって表現され得るが、「全き者」には名を与えることも想像すらもできない。
 


「全き者」は「部分的なもの」の如何なるものにも属さない。「全き者が来たとき、部分的なものは消え去るであろう」 しかしそれはいつ来るのか?私はこう言いたい。それが可能な時に魂に認識され、感ぜられ、味わわれることができるときに、と。

 


不完全性は私たちの中にあるのであって、不完全性そのものにあるのではない。それは全世界を照らす太陽があっても、洞窟の影絵を実在だと思うものは太陽を見ようとせず、その過ちは太陽にあるのではなく、洞窟の影絵を実在だと思うものにある。
 


太陽がその明るさを隠すことなく大地に光を与えるのと同じように(天はその光と熱を別の源から得ている)、最高の「善」である神もまた、敬虔な魂を見つけると、誰からも御自身を隠そうとしない。


 
私たちは被造物性をどの程度まで捨て去ることができるのであろうか?私たちは被造物であるという事実から逃れることはできないが、創造主の恩寵にあずかることはできる。もし私の目が恐れ多くも創造主を見ようとするならば、被造物であるものが単一であることはできなくなり、他のいかなる物よりも清められ得ざるを得なくなる。それは熱と光が入るところに冷たさと暗さが無くなるのと同じことである。この原理以外にありえることはない。
 


しかし、人はこう言うかもしれない、「では全き者はいかなる被造物からも知ることも理解することもできないのだから、全きものを知ることはできないのではないか?魂は被造物であるから、どうやって魂がそれを知ることができるのか?」と。答えは"被造物としての魂によって "である。
 


被造物としての魂が「私」もしくは「私自身」として認識されるときに「全きもの」を見ることは不可能であるが、ここで聖パウロの言葉の意味を思い出していただきたい。それはこういうことである。「全き者」がどんな被造物であれ認識されるときには「部分的なもの」、被造物性、自我、自己であるということなどのその他諸々のものは全て消滅しなければならない。


 
その時、「部分的にあるもの」(つまり、被造物性、自我、自己)は軽んじられ、無価値にされる。仮に私たちがこれらのことに執着し、それらに固執している限りは、もしくはそれらのことを悦楽的、もしくは物質的な愛、喜び、快楽、あるいは欲望によって求められる限りは、私たちが全き者を認識しない盲目的な状況が長く続くであろう。

 

しかし、さらにこう言った反論もあるかもしれない。「あなたは、全きものの傍らには実体がないと言っておきながらまた、そこから何らかのものが流れ出て存在して実体を形成している。では今、そこから流れ出て存在しているものは一体何なのか?」と。


 
答えはこうである。「全きものの傍らに、あるいはそれなしに、真の実体は存在しない。その全きものから流れ出たものは、真の実体ではなく、それは偶然的存在であり、可視的な明るさであるような、目に見えるというだけの表層的外観であって、そこに真の実在はなく、また実体を持たない。太陽や蝋燭のような、明るさが流れ出た火の中にしか実体はないのである。

 

ってことで連載一発目はここで終わるけど、まぁ時々エントリー書いたりするだろうし、まぁ連載は連載で載せるんで長い目で見てやってください。

 

ってことで今日はこの辺で。