耳蝉文庫、ここに発足す!。

作家になるのが昔からの夢であった。何回か小説を書いてみるものの、自分の文章力の無さや、そもそもの読んでいる小説の絶対量が少ないので、それだけ引き出しも少ないということになり、結局、書けずじまいに終わることが多かった。

 

まぁ別に書ける人は小説を読んでいなくても書けるのだろうけど、俺は書けなかったというハナシ。そこで色々と考え抜いた挙句に思いついたのが、著作権が切れているパブリックドメインの古典などの作品を自分のマッシュアップの作品の如く、自分流にリミックスして発表してみるのはどうか?ということだったのだが、色々と試行錯誤してみたものの、それこそ俺が普段から「暇があれば俺は小説を書く」だとか「絵を描く」だとかって言ってるような、時間が無いからやれないだけで、時間があったら素晴らしい小説や絵を描けるんだとかって豪語してるような、エクスキューズ系ワナビーと寸分も変わらないような結果になってしまい、ただ豪語してないだけヤツらよりかは幾分マシだと思いつつも作家になることを断念せざるを得なかったのだった。

 

しかし!ある時、転機が訪れたのである!それは天啓とも言うべきものであった。それは普段、俺が元々言い続けているような、例えば音楽において「俺が俺が」というような作り手の過剰な自意識や、ただダンスフロアを盛り上げる存在であるべきDJがサラを回しながら自己陶酔しているという倒錯した状況や、あとあんま思いつかないけどまぁそんな感じの色々なことも含めて、そもそもの「俺が俺が」を無くせばいいんじゃないかと。

 

「あまちゃん」で一世を風靡したが実際は凄まじい気質の根っこからの職人気質の音楽家である大友良英はこんな風に言っていた。「音楽家はただ無力な音を出すだけの存在であるべきである」いや、まさにこれに尽きる。オレがノイズ論というほどではないが、ノイズについて色々と書いたときにもベストなノイズというのは「俺が俺が」で出しているノイズというよりも、ノイズを出している本人そのものがノイズになってしまっているようなノイズが一番いいわけで、つまりはそれは自分の作品全般にも言えることなのではないか?ということなのだよね。

 

つまりは「俺が俺が」という自意識が作家になりたい!という夢を妨げていたのである。では仮に自分が成功しているかどうかはともかくとして、自分のアウトプットとして上手くいっているものは何か?と言えばズバリこのウォール伝と自分が垂れ流す雑多な様々な音源の数々である。

 

ではなぜこれらのものがアウトプットとして成功しているかはともかくとして、アウトプットになっているのか?というと、そこに自意識が介在してないからである。ズバリそれに尽きる。何か凄いことを書いてバズってやろう!とか、音楽界に革命を起こすような音楽を作ってやろう!なんて思ったことは一度もない。ただやりたいからやっただけのものが自然にアウトプットとして出てきた結果を、ただこうやってブログという場所でテキストという形式でアップロードしたり、サウンドクラウドや音楽ディストリビューションサービスにアップロードしているだけで、ただ本当にそれだけのことなのである。

 

だからこそ自然にできるのであり全く気負いなく恥ずかしいようなことも平気で書けるし、神経をすり減らすような音の作り込みなどをしなくても、大体のニュアンスが音に出てればいいかなーぐらいのモチベーションでやっているので創作活動が捗るし続くわけなのである。

 

と、ここで俺の作家の夢について戻ってみよう。ではなぜ小説が書けないのか?それはしつこいようであるが無駄に介在してしまう「俺が」という自意識である。ということはその自意識を無くせば小説もウォール伝の文章や俺の雑多な音楽のように、当たり前に書けるようになるはずである。

 

前置きが長くなり過ぎてしまったが、その天啓の内容を説明しよう。それは素晴らしい作品なのにも関わらず、日本ではキリスト教がマイナーなせいもあってか、海外では当たり前のように翻訳本がアタリマエの値段で買えたりするものが、日本では部数が少なかったり、出版社が倒産してしまったりで、手に入りづらくなった結果、中古本が異様な値段で取引されているという、一時期のDJブームの頃のレア盤を彷彿とさせるような現象が古本市場で起こっているのである。

 

・・・・・・と言えるほど古本市場に詳しいわけではないのだが、これは由々しき自体である。ほかにも名著なのにも関わらず大正や昭和初期のような、今読むには難解な哲学書を読んでいるようにしか感じられないような訳文のままアップデートされていない古典が腐るほどある。といっても文学に詳しいわけではないので腐るほどあるかは分からないが、少なくとも自分が読もうと思ったようなキリスト教モチーフの古典などは、例えば1950年代に出版されたものぐらいしか手に入らなかったり、とにかく気楽に読めないものが多いのだ。

 

そこで俺が思いついた方法が、パブリックドメインになっている無名の修道士などの著作やキリスト教の修道士が主人公になっているような、もしくはキリスト教モチーフの著作を私訳してしまえばいいのではないかということであった。天啓というにはあまりにも烏滸がましいような、ありふれたアイデアである。

 

しかしどんな素晴らしい作品も読まれなければただのインクの染みである。とはよく言われることであるが、私訳したものを文字通りの翻訳ではなく、自分流に分かりやすく多少アレンジして小説なり手記なりを書くというのはつまりはそれは自分が小説を書いているのと同じということになる。もちろん俺の頭の中でということであるが。

 

言わばそれは自分がマッシュアップを作るときに、音源は完全なる他人のものであるにも関わらず、それを作ったのは俺なのでそれは「俺の作品だ!」と言ってしまうような開き直りである。

 

もちろん過去の敬虔な修道士達が残した貴重な書物やその他の古典の数々を私物にしようなどとは考えていないことだけは断っておきたい。ただ英語圏ではアタリマエのようにタダで読めるものを日本語でもタダでも読めるようにしたい!というのが正直な動機である。

 

ちなみに小説家になりたかったというのは嘘である。でも半分ぐらいは本当かもしれない。小説家というより作家になりたいというのはあったかもしれない。あと常に自分は何かをやっていたい人間なのであるが、色々とやりつくしてしまって、これというアウトプットが無くなってきているなんていうこともある。実現するべくして発足したのが耳蝉文庫である。

 

しかしいざ翻訳を始めてみると、翻訳者全般に敬意というよりむしろ畏敬の念しか感じられないほど、翻訳という作業は骨が折れるどころの話ではないことだということを痛感する。しかこれでは骨どころか心も折れてしまうので、部分的に翻訳できたものを、あたかも連載小説のような体を取って、Web小説の一話分いくかいかないかぐらいの分量でアップロードしていこうと思ったのである。そうすればウォール伝の更新にもなるし、アップロードできたということで何か達成感のようなものをその都度得られることから、恐らく作業が続くのではないだろうか?という漠然とした考えが浮かんでいる真っ只中にいるのが今の自分という感じである。

 

正直、結構な作業をやっていて、翻訳予定のものをちょっとずつ色々と翻訳してみたりはしているのだが、思い切って現代風にリミックスしてしまうか、ちゃんと内容が伝わるようにリテラルな翻訳にするか、ラフさとフォーマルさが同居しているようなものにするか、正直、全く方針が定まっていないのである。

 

でもこれだけは言えるのは、労働嫌いの俺だから苦労はしたくないわけである。つまりは俺にとっての最善な方法を取るのがベターだし、それが一番継続に繋がるであろうし、何より精神の健全性において一番重要なことであろう。それがあたかもウォール伝を更新しているときのように翻訳の作業が楽しくなれば、翻訳という趣味が増えたようなもので、つまりはそれは儲けものである。

 

儲けものと言えばKindleなどの電子出版で出してみるなんてのも考えたことがなくもなかったのであるが、電子出版になってしまうと一応、腐っても本という体裁になってしまうので最低限の質を保証する必要があるので、それでは翻訳のプレッシャーに耐えられなくなってしまうだろうし、翻訳が労働のようなものになってしまうであろう。ましてや無名の俺の私訳なんて誰が読むのだろうか?という話だし、それではなるべく広く読まれるようにするという目的が達成されずに本末転倒になってしまう。

 

そうではなくてあくまで自分は楽しみたいのである。ウォール伝を書いている時のように、音楽を作っている時のように、自分から自然にあふれ出るものをただ出力するかのようにいる状態で居続けたいのだ!

 

って言うアラフォーにして作家志望になった俺は耳蝉文庫マニフェストを書いてみたんだけど、最近はと言えば、真面目に中世の修道士が書いた高尚な文章を訳すのが肌に合わないというか、「合わないことをやってるな俺」感が凄くて、でも翻訳やら意訳やら既存の文章を改造するという意味ではマニフェスト通りのマッシュアップとかリミックス感覚なんだけど、だったらもう自分で書き直したほうが早いなって話なんだよね。

 

でもそこでなんかヤクザなマッシュアップとかリミックスをガンガン作っていけばいいのに根が真面目過ぎるのか、ベンヤミンの「翻訳者の使命」みたいな翻訳思想関係のものを読み漁ってたり、リミックスするにしても感覚でやればいいのにまずは理屈からってのがあってそっからまぁ理屈は分かってるけど関係ないんだけどねって感じでやりたいのもあってアダプテーション理論みたいなのを読んだりもしてるんだよね。

 

で、だんだんとやってることが翻訳というより自分が音を作るときにやってるような、いろんなのを聞いて素材を探しては使えそうなものをサンプリングしてきて再構成するみたいなことをやってて、これが本当に肌に合っているというか、やはり俺が俺たる所以がこのヤクザ加減なんだよなって感じるわけ。

 

そりゃぶっちゃけクソほどリスペクトして何らかのものをサンプリングしたり、書くにしても原作にしてるんだけど、色々と読んでて思うのは、というか改めて思うのは文学って一体何なの?って話なんだよなぁーっていうことなんだけど。

 

文学部出身ですって言うのは大学出身者からよく聞く言葉だと思うけど、文学部って一体何やってるのか?って話だよね。ダメ人間が書いた詩集みたいなのを評論したりあれこれ研究したりレポートを書いたりするというような虚学をやって単位を得て「何々大学卒業」っていう称号が得られるからそれを活かしてみんなで戦争に行くかの如くの招集みたいな就活に収束するっていうね。

 

なんで文学なんつーものを大学でやっておきながら真逆のことを社会に出てやるんだろう?とか言い出したらキリないよね。はっきり言って文学って過大評価の産物だと思うんだよね。偉大な文学者と呼ばれる人間にダメ人間が多いのは有名な話だけど、中原中也とかがNHKとかで詩が朗読されてたりするのを見たりすると反吐が出るよね。あんなごく潰しの誇大妄想ニート野郎が書いた詩が過大評価されて「国語」なる学科の素材として採用されてあたかも日本の偉人のように扱われてNHKで例の反吐が出る詩の朗読があったりするってな塩梅で。

 

太宰とかならまだマシだろう。自分は本当にダメなやつだっていう過剰な自意識からああいうのを書いてるわけなんだから。それにしても芥川にしてもこれまた文才ある自意識の塊みたいな人間で、「何々賞」ってつく芥川賞でもなんでもいいんだけど、その賞レースの冠の名前がついてるやつはダメ人間だらけというより文学者がダメ人間の掃きだめなんだよね。

 

そんなダメ人間が書いた自意識がお高くとまったインテリたちの評論の素材にされて、まぁようは文学産業みたいなのが生まれるわけだよね。それで文学部みたいな虚学科が生まれて大量の無能なやつらがそこに招聘されて卒業後にお国の為に神風を吹かすような就職活動を死んだ魚の目と虚ろな佇まいでやるわけでしょう。汚れちまった悲しみどころの話じゃないわけで、凡人の人生ほど文学を超えるものはないよね。

 

その一方で村上春樹みたいな、スノッブを喜ばせるエンターテイナータイプがいて、吐き気を催すような文章を永遠と書き続けてるわけだよね。でもエッセイとか旅日記が面白いからクソ作家じゃないことは確かなんだけど。

 

ハルキストとか呼ばれるコンドームを付けた種馬みたいな無能なやつらが村上春樹のスノッブな世界の絵面を文字通り字面通りに受け止めて村上春樹的な生活スタイルだとか、村上春樹の小説に出てくる酒のつまみを出す店があったりだとか、はっきりいってそういう輩が集まる、んでそんなスノッブな食事を出す店が爆破されても誰も文句言えないだろう。

 

文学に関わるやつらにロクなやつらがいないという構図は本当に哲学に似てると思う。哲学者もよくそこまで考えた!って言えるやつらが多いけど人間的にどうだったのか?っていうとルソーはただの露出魔の変態男だし、キルケゴールも自意識の塊みたいなやつで、永遠の女性にルサンチマンを持ってたルーザーだし、ニーチェもそういう意味で過大評価されたべらんめえおじさんでしかないわけだ。

 

そんな連中が書いたものを女王様の聖水の如くありがたがって読むやつらがいる、パゾリーニも卒倒するようなソドムな世界が繰り広げられてるわけだ。で、哲学業界があって哲学という学問があって、それについて、何世紀も前の自意識過剰な変態が書いたものについて、あたかも崇高なことをやっているかのように勘違いしたやつらがあーだこーだ言っているっていう不毛な世界があるわけで、何ら文学と変わりないじゃないか!ってのが俺の文学の印象だ。

 

いや、というのも哲学がそんなもんだってのは哲学をだいぶやってきたから一応言えるわけなんだよね。でも文学は分からん。でも最近、色々と調べたり書いたり文学って何なんだろう?って書くテンションじゃないときに3DSとかで買ってた積ゲーをただクリアするためだけにやるようなテンションで考えたりなんかしているときに思いついたのがこの構造の一致なのだよね。

 

多分、文章に関わるもの全般そうなんだろうなと思う。そういう意味で科学は偉大だよね。意味があるもんね。それに比べて文学とか哲学なんて意味ないもんな。お高くとまったやつらのスノビズム以外の何でもないわけだよね。俺は謙虚に文学音痴とかって言ってきたけど、今、凄く文学にハマっているからこそ、その愛すべき文学のクズっぷりに狂喜しているというのがマジなところなんだよね。

 

作家について調べたりして、例えば澁澤龍彦は以前に全集を買って読んでたことがあるけど、あれは確かバタイユとかを読んでる延長かなんかで読んだんだと思うんだけど、基本的にヤツもロクでもないやつで、クズエピソードに事欠かないんだよね。奥さんを奴隷みたいに扱っててコンドームつけるのが嫌だから中出しして妊娠させては堕胎を繰り返させていたっていう多目的レベルではないクズっぷりなんだよね。

 

自称グルメ、愛妻家、良いことを言うラジオコメンテーターみたいなやつが裏でやってたことが多目的トイレでの女をモノのように扱うファックだったなんてまるで文学者のそれと同じじゃないか!って感じがする。

 

もっとも文学者は良い見繕いをしていたわけじゃなくて、そのクズっぷりが前面に出ることなく、やたら肥大化した詩やら文学とやらの側面が過大評価されて偉人になっているというだけだから、アホなのは取り巻きなんであって本人じゃないからまだ取り繕ってるやつらに比べたらマシなほうだよね。

 

石川啄木なんかも「働けど働けど・・・」なんてのがこれまたNHKとかで美声のアナウンサーが朗読してたりするけど、これまたこいつもその文章だけが過大評価されてるパターンで、実際のところエゴイズムの塊以外のなんでもなくて、あと人から金を借りて変な理由で返さないとか、これまたクズエピソードに事欠かないんだよね。

 

もうこうなってくるとブンガクとやらが本当に愛おしくなってくるんだよね。村上龍が13歳からのハローワークだかなんだかで作家になるのは最後の手段だって書いてるやつがあって、ようは作家はホームレスでも政治家でも脱サラしたサラリーマンでもなろうとすればなれるけど逆は無いから最後の手段として考えておきなさいみたいな内容だったと思うんだけど言えてるよね。作家が政治家になるケースもあるんだろうけど稀でしょう。

 

ましてや中原中也みたいなごく潰しニートのクソったれは他の何にもなれなかっただろう。ただ文学とか文芸の地位が高かったりありがたいものとして扱われていたから偉人扱いされてるだけなんだよね。そういう社会のくだらなさと文学って本当に滑稽で愛らしいんだよね。

 

思えば自分が昔ハマったビートなんかもダメ人間のフリをしたボンボンが、ようは地頭も良くて良い大学出てて親からの資産を相続すれば何一つ困らないみたいなやつらがあたかも自分が追い詰められていて、書くしか救いはないんだ!みたいなスタイルで書いてたっていう、んでまぁアレン・ギンズバーグ、バロウズ、ケルアックの中ではギンズバーグが一番マシかもしれないけどあいつも素っ裸のチャールズマンソン擬きのヒッピーコミューンみたいなのを形成してLSDやらマリファナやらフリーセックスやらやりたい放題やってた輩だし、バロウズは言うまでもないし、ケルアックはオンザロードが傑作過ぎてそれが呪縛になって耐えられずにアル中になって死んだからね。

 

こう書いてると意外に俺は文学に精通してるかもしれないとかって思えてくるから不思議だよ。いや、自分が「精通している」と思う基準が高いから、このぐらいのことを知っていることで、例えば他の腐るほど読んできた本に比べたら文学なんて一割にも満たないから語る資格なんかない!って思ってたけど、まさにこれがブラインドスポットというかなんというか、語る資格なんていらないほどのクズの掃きだめの世界なんだよな。文学の世界は。

 

で、そんなものをありがたがってるイカれた凡人がいっぱいいるっていうある種、哲学より始末に負えないような世界だよね。本来、作家が一番イカれてなきゃいけないのにハルキストやら文学を崇高のもののように考えているやつらが一番のサイコ野郎だっていう事実が作家を震え上がらせる結果になってより創作に没入させるのかもしれないね。

 

だからブコウスキーなんてのは凄くいいやつでしょう。ダメ人間だけどそれを隠してないし過大評価もされてない。ちゃんと評価されてて、そうだね、ダメ人間だね、文章面白いねっていうところがいいわけでしょう。それで言えば三島由紀夫のことを思い出したけど、最近、例の翻訳プロジェクトで翻訳本が異様な高騰をしてるやつがあって、訳文も一応参考にしておこうなんて今は寸分も思わないけど一週間前ぐらいは真面目に取り組んでたから三島由紀夫が持っていた旧蔵の本を買ったんだよね。

 

当時の通貨は分からんけど1960年代に400円で売られてた本が8000円だったんだけど三島由紀夫旧蔵じゃなくても最低6000円以上するからだったら三島由紀夫が持ってた本のほうがいいやと思って買ったんだけど、なんかその本を手に入れてからより文学にハマっていった気がするな。

 

そんな三島由紀夫も俺が読む数少ない文学の一つだけど本人は少年期にルネッサンス期だかの西洋画に書かれている兄さんのマッチョな脇腹に興奮してそれ見てオナニーしたってのを仮面の告白で書いてるけど、ブコウスキーなら親父のタバコを勝手に吸いまくって酒飲みながらだらだら実家で過ごしてたら向かいに住んでいる婦人がエロくて興奮したんでマスかいた。って描写で終わる即物的なもので、本当にマス以外の何でもないマスが描かれているのに対して三島のそれは耽美的な文章で、でも結局、西洋画のマッチョな兄さんの脇腹に興奮して射精したってことを書いてるわけで、変態度で言えば三島のほうが高いし、ブコウスキーのほうがダメそうで三島のほうがよっぽどダメなところがまた文学の愛おしさなんだよな。

 

ダメ人間コンテストみたいなところがあるよね。いかにダメさを競いあうか。でもそれが一時のバッドテイスト的なサブカルチャーに終わることなくそれが文学とやらに昇華されるから面白いよね。西洋画のマッチョな兄さんの脇腹を見て射精したっていう文章をありがたがって読むのは、女王様の聖水をありがたがって飲むより倒錯してるよね。

 

それに比べたらマルキドサドなんで真面目な人間だよな。真実を書いてるだけだからね。まぁ作品の大半が獄中か精神病院で書かれたっていう生粋のサイコ野郎だからこいつも愛すべき文学者であることには違いないが、完全なサイコ野郎ということが自明じゃないまま、ただその浮ついた文章だけが過大評価されるみたいな性的倒錯ならぬ文的倒錯が起こっていないだけマシという気がする。

 

俺の真面目な面が文芸評論とか文芸理論とかを研究するべきだ!なんて言ったりするわけなんだけど、こうやって素で思ったことを書いてみると、多分、どんな本よりも俺にとって「文学とは何か?」というのが定義できてる気がする。誰だっけ?本ってそれが無いから書こうとするって言ってたのって。ベンヤミンか。それがある意味、コレクター中のコレクターだみたいなことを書いてたよね。それだよね。俺がやりたいのはそれだ。クソったれだらけの文学界でそのクソをひねり出すことに日々の大半を費やしているクソ作家どもの中で俺もそのクソ作家と同じようにクソをひねり出すということに日々の大半を費やすというそれだけのことなんだよね。クソをひねり出そうとするだけでもう有名な作家さん達と並ぶことができるわけで、文学万歳!だよな。本当に。

 

でもそれよりクソなのはマニフェストの中にも書いたように「時間があれば俺は小説を書く」とか言う、自分は凡人じゃないんだけど日々の生活に追われることで凡人のような生活をしているというクソという言葉以外が作家のクソよりも思いつかないぐらいのクソ加減を呈しているクソ野郎というのは文学者のような愛すべきクソ野郎なのではなくて、ただのスカム野郎なわけだ。使い終えたコンドームみたいな野郎だ。

 

このワナビーの使い古しコンドームの世界ってのは奥が深くて、それこそ年一回、自主製作アルバムを出してミュージシャン気取りしてるアホとか、ロッカーみたいな恰好と生きざまをしているって勝手に思ってるだけで全く音楽の才能が無いやつだとか、でもそれでもそういう生き方をしてそういうファッションをして一応下手くそな、しずかちゃんとジャイアンのリサイタルをクソで煮込んで寝かして寝かし過ぎて元が腐ってるのにさらに腐りましたみたいな無様な生き様をしているやつよりもタチが悪いのは作家ワナビーだ。これは間違いない。

 

時間があったら小説書くんだったらその惨めな言い訳をやめて時間を作ってそのお前が言う小説とやらを書いてみやがれ。ほら、何にも書けないだろうが。そういう意味で書けている作家は同じクソでも愛すべきクソなんだよな。書けないクソはただのクソだ。

 

だから俺は愛すべきクソになろうと思って小説を書き始めているわけだ。んで恥ずかしげもなく惜しげもなく野望もなくただ今勢いで書いているだけの文章と同じような感じでここにアップロードしていくわけだ。ただ小説だからこういうフリー形態の文章よりかはスピードは落ちるけども。

 

さて、そろそろテンションも上がってきて筆が止まらなくなってるから小説のほうもガンガン進みそうだなって思うんだけど、大体こういうテンションになるとムラムラしてきてしまってオナニーして結局、小説は何も書かないまま終わる日が多いということに最近気が付き始めてるんだよね。

 

しかもオナホを清潔に保っていたつもりが雑菌が繁殖していたのか、オナホでシコってからというものちんちんの皮が痒くなってしょうがないんだよね。だからその痒くなるオナホはやめて、別のオナホを殺菌してからシコったらまだマシだったけど、それでも痒くなるんだけど、でもまぁ完膚なきまでに痒くなるオナホでシコるよりかはマシだろうと思って、今日もマスかいて寝ることになるだろうなというのが今日のところだけど、それを鑑みると今の俺がいる地点ってのは「時間があったら小説書きますね」って言うタイプのクソとクソを垂れ流す作家さんとのちょうど間って感じかな。

 

でもとりあえず今日はマスかいて寝ることにするわ。

 

ってことでんじゃまた。