文学三昧な日々。その2。

こないだ病院の帰りに本屋に行って小説のネタというか色んなものを吸収してパクったほうがいいだろうってことで闇断ちしてるのにも関わらず角川ホラー文庫とかから出てるようなさすがに霊が出てくるのはアレなんで猟奇臭いやつとか買ってみて色々と読んだんだけどそれと関係あるかはともかくとしてあれだわ、超絶的に嫌なことがあってそっから去年の10月以来一切なかったメンタルの不調が結構エグいわ。

 

スピ的に言えばあれなんだと思うわ、あ、あのオミクロンでさ、太極拳ずーっと休んでて、んでまぁ最近の文学ブームで神学とかお祈りだとか瞑想だとかってことについても相当雑になってたんだよね。太極拳はあれなんだ、俺的に言うと気を巡らせて膜を作るみたいなのがスピで言うところの光のバリアみたいな効果と同じような効能を持ってて、ようはそれやってなくてんで文学三昧で全くそういう方向に気が行かなくなってたからボディががら空きみたいなところにすんげーボディーブローきたみたいなね、ただそれが客観的にすげーボディーブローだったか?っつーと微妙でやたら感性が鋭くなってる中でそういうことがあってなおかつバリアとか張ってない状態で来たもんだからすんげーヘヴィーなダメージ受けちゃったみたいなそんな感じだよね。

 

キリストについて一切考えなくなったとかそんなことはありえないんだけど、文学にハマりだす前に逆にやり過ぎじゃね?っていうぐらいの霊性に関することやり過ぎって時期はある意味無双してたんだなと思うわ。毎日そんなことやってるから悪いのが寄り付かないんだよね。で、やらなくなってから油断したら今みたいな感じになっちゃってるっつーね。

 

んでまぁ小説ハイ状態みたいになってたのがメンタルが落ち込むと例のあれよ、当初はさ、俺のノイズギターとかと一緒であんな感じで演奏して歪ませたらいいんじゃね?っつってそれすぐ録音しちゃって適当に編集してアップロード的なさ、野心も何もない感じでただやるっつーので小説も書けばいいのにメンタルが停滞してくると変に「小説の才能とは?」とか考えだしちゃうのね。楽しめばいいのに鬱状態になると来るメタ的目線ね。

 

んで「一体、なんて意味のないことをやってるんだろう」とか考えだしちゃってさ、もうそっからループよね。せっかくの無双状態が台無しなんだけどさ、まぁちょっとそれで色々と気が付いてお浄め的なこととか瞑想とかちゃんとやるようにしてからちょっとマシになったんだけど、でもあれなんだよな、小説の才能とかってちょっとマシになって考えるとこれもセンスなんだよね。

 

例えば10代でとんでもない文体でデビューして新人賞取った!とかってまぁ天才小説家とかって言われるんだろうけど、全部を音楽に置き換えると分かりやすいんだわ。10代で色んな楽器演奏できてバンドもやってて打ち込みもやるっつってまぁすげー才能だっつってもやってるのがただ早熟というだけで評価されるようなバンドだったり音楽もEDMだったりすれば令和のモーツァルトとか言われてもセンスが全然無かったらそれは多産なだけで意味ないよね。

 

小説の世界も所謂文学賞だとかなんだとかって俗っぽい世界だから音楽における常田大希が天才とかって言われるのと同じで「なんじゃこりゃ」ってのが評価されるわけよね。モノよりかは属性とか「あの人は天才だ」とかいうことで評価されるっていうね。まぁこれってどんなジャンルでも同じですよね。

 

だから結局、今俺が書いてて思うのもどっからパクってくるか?ってようはセンスだよね。DJと同じ。そのパクりのセンスが絶望的だったらマジで絶望的なんだけどやってる俺は小説とか小説っぽい文章の技巧が不足してるだけでアイデアはあるし取ってくるネタとか膨大な全集を読んでて「いいな」と思う作家が現代古典関係なくすんげーセンスいいんだわ。ようは鏡よね。良い作品を良い!と思える自分がいて「俺ってセンスあるわ」ってなるわけよ。

 

こうなるとあとはもう技術論だよね。今更だけどフーコーとかバルトっつってもロラン・バルトのほうだけどまぁオリジナルなんてないわけよね。俺のマッシュアップの考えと同じよ。だったら密かにパクるより完全にパクったほうがいさぎいいでしょ。そこでいかにパクって自分の物語に落とし込めるか?とか繋げるか?ってのはマジで技術論でしかない。DAWで言えばいかにそのソフトを効率よく使えるか?とか感覚だけでやってても理論的なこうすると音がぶつかりやすくなるからこういうエフェクトをかけると音が分離して聞こえるようになるみたいなテクニックだよね。

 

逆にアイデアが溢れるほどあって読めば読むほどモチーフにしたいものが腐るほどあったらあとは技巧と根性の話なんだよね。音楽だと俺はかれこれ何十年もやってるから具現化させるのが早いけど全く書いたことがない小説なんてもんは全てが1からだからそりゃ大変なんだけどさ、でも楽しいしあとまぁ諦めないで書くってことだよね。

 

毎日最低1000文字書いてれば10日で一万文字じゃん!とかまぁ文字数じゃないんだけど、全然進まないってのを悩む必要はないんだよね。蓄積だからね。それに比べると音楽は作業量に応じて曲も進んでいくっていう効率が良い気がするわ。まぁDAWとかテクノロジーのおかげもあるんだけど文章ってアナログだからね。

 

だからまぁセンスなんだよね。あとまぁ年齢とかその人の経験とか思想もあるわけだから10代で小説書けるのは凄いけど人生経験って意味だとまぁその良い意味で色々なことを経験して考えてきた50歳のおっさんにはかなわないわけだよね。アウトプットとか文体って意味だと天才的なものがあったとしても結局、中身だし、あとまぁいつも書くけど10代でニーチェ読んで理解したとか嘘つけって話なわけじゃん?

 

あんなの酸いも甘いも経験した人じゃないと理解できないし本だけで得られる情報は論理なんであって情緒じゃないよね。例えばルサンチマンっつー概念にしてもそういうのを抱いたことがあるのか?とかルサンチマンだらけの人間の坩堝に放り投げられた経験があるか?とかってことなわけでさ、俺が15ぐらいでマルクスに開眼したのも底辺のブラックなバイトをしてたから資本論の論理がグサッと刺さったわけだよね。

 

仮に登校拒否とかにならなくてすんげー良い家の出で全く将来のこと気にしなくてもいいみたいな身分だったら色んな意味で今の自分はないわけでね。そういうところって救いよね。逆に才能が全てを言わすのはやっぱり身体とかなんじゃねーかなって思うわ。あと絵とかね。

 

知り合いの天才肌の画家もなんでその絵を書こうか?って思ったかっつーとまぁ色々と壮絶なメンタルの起伏があって薬飲んで酒飲んで泥酔して寝たときに見た悪夢だかビジョンだか分からないのがきてそっからもう起床後ずーっとそれを描いてるとかまぁこういうことですよね。もちろん絵画にも人生経験とか本人の哲学とかが出るとかにしても音楽とか絵画ってのはやっぱまぁセンスだけで勝負できるところも多分にあるけど天才っているからね。

 

あ、でも当然、そういう永遠に書き続けられるとかネタ探さなくても降ってくるっていう天才肌っつってもクソみたいなネタが降ってくるセンスのないやつは全然意味ないよね。多産ですげーなとは思っても全然センスねーなっつーんじゃダメ。クラシック畑がやる人のジャズのグルーヴ感の無さみたいなもんだわ。完璧で上手いし綺麗だし文句はないんだけどジャズってそうじゃないよねってところが分かるかどうかって話。

 

まぁんで俺の文学に戻るけどさ、まぁ今後のディレクションですよね。表現方法が無くなっちまった!って中で小説って形体に出会ってこれで表現欲を満たせる!っつーところだよね。なんかあれとは違うのよ、色々と読んで実践してとかね、瞑想をしてとか何かやってないとダメなんだけど表現に関しても何らかのことを常にやってないとダメなんだよね。やってないということがありえない。思えば途絶えたことないからね。一切音楽作ってなかった時もミックスとかは作ってたし何らかのもんは作ってたんだよね。

 

で、小説はやりがいがあるというか1からだから湯水の如く時間を使うしすぐ完成しないしっつーんでまぁ音楽作ってるときってさ、Elden Ringやってるけどやり過ぎるとクリアが見えてきちゃうじゃん?だからメインっぽいところはいかずにフィールドの隅から隅まで探索してやる!みたいなね、やってるときが一番面白いしロスが怖くて終わらせなくないってのは音楽も同じで出来ちゃうと寂しくなるんだよね。

 

創作っつー行為が生活の中から消えちゃうからあの楽しさを求めて何かまた作ろうとするんだけどあんだけ作ってると似通ってくるっつーか同じようなもんができるしまぁそれでも作りたければそれでいいんだけどいよいよネタもなくなってきたなっつーところで小説じゃないですか?

 

で、それが表現欲を満たしてくれるものだって分かった瞬間に小説との接し方が変わるんだよね。前にも散々書いたけど俺は読書と言えば知識についてのものばっかで物語とかはほとんど読まないから全然読んでも場面が浮かばないとかってのがあったんだけど、これもあれなんですね、脳の可塑性なんですね。「これだ!」と思って必死に取り組むと小説脳みたいなのが出来てくるんだよね。

 

文字から情報を得るという意味では同じなんだけど今までの俺がやってこなかった情景とか心理なんですよーっつーところを脳が理解してそういう風に理解する回路が出来上がってくると一気にコントラストが上がるんだよね。だからさっきの闇断ちに戻るけどノーガードで猟奇モノとかを読むとましてや文字の感性とかがすんげー上がってる中で強烈なビジョンがそこで来るともらっちゃうものが大きいんだよね。だったらまだホラー映画見てた方がいいんだけど小説の場合、夢っつー主観で体験する悪夢みたいなもんで情緒やられるよね。逆にそこまで読めてれば大したもんでしょ。

 

っつーか今までの俺からしたらありえねー進歩だよ。小説なんて数行読んだだけで頭の中で別のこと考えてたりしてさっぱり読み進められないってのが今はこれが俺の表現欲を満たしてくれる形体なのだ!とか、あと昔俺が学問でやってた「これで食えるようになるぞ!」って勝手に思い込むことで洗脳してすんげーイニシアチブを作るってことだよね。

 

そうなると脳が必死になるんだよね。まぁすんげー疲れるし頭痛くなったりするしやったことないことを一気にやり過ぎて情緒不安定になってるってのもあるかもしんない。いろんな物語が頭の中に映画とかとは違うレベルで入ってくるってのとかさ、ノーガードだったとか色々と理由はあるんだけど感受性よね。全然文学音痴だと思ってたんだけどヤバいよ。俺。ただ物語を読むという習慣と脳が形成されてなかっただけでちょっと鍛えれば情緒不安定レベルまで文字が入ってくるんだもんね。で、主人公と同化しちゃって同じような苦しみを感じるから鬱ももらっちゃったりね。

 

だから猟奇モンなんてありえないわけですよ。ただ買ってすぐのを捨てるのはあれだからなんかの箱に封印しておこうとは思うんだけどね。いや、闇断ちは徹底しなきゃダメだわ。

 

まぁだからなんつーのかな、楽観的に考えてるわけですよ。技巧とか文章がぎこちないのは最初だからしょうがないわけでさ、ただ色々読んできたり考えてきたってところと生まれつきのセンスもあって「好きだわ」って思うやつがやっぱ良いのよね。こればかりは磨けない人は磨けないからね。技巧に関して言えば超音楽のセンスがない人でもギターを毎日向き不向き関係なくSteeve Vai並に練習してたら弾けるようになるわけですよ。それはなんでもそう。体が動くかどうかとか「ここでどうしよう」ってなったら「こうすればいいんだ」というのはもう練習の賜物としかいいようがない。

 

まぁそれ以上のレベルになると才能ってなってくるんだけどギターにしたって超絶技巧の世界に行かなくたって独特の味のある演奏をするとかさ、技巧が全てじゃないじゃん?スポーツとかになるとまぁもっとシビアになるけどね。太極拳の先生も言ってるけどやっぱ武道もあるレベル以上になるともうそいつが持ってるものとしかいいようがないもんを使って圧倒的な差を感じるんだそうでね、それに比べるとアレですよ、音楽とか文学はセンスのごり押しと最小限の技巧だけでやってけるところが大きいんですよね。

 

スポーツとか武道とか絵画とかの場合、絶望しかないかもしれん。でも俺がやろうとしてるのはセンスごり押しできるもんばっかだからやれてきたし今後もやれるわけなんだよね。

 

んでまぁ吾輩は作家である。作品はまだないって書いたけど短編はだいぶ前に書き終えたんだよねっつってもパクッた古典があってそれをアレンジしたやつなんだけど、今取り組んでる習作をやりつつっつーか今の習作に取り組みながら色々な本を読んだり技巧とかを覚えていくわけじゃん?ただ小説の書き方みたいな本とかつまらないからひたすら小説を読むというのが最良の勉強になるわけでさ、まぁ全身全霊で取り組んでますけどね、あ、んでその短編なんだけど今の習作に取り掛かりはじめぐらいのときにまず小説を書きたいんだったら短編でもいいから書き終えるってのが重用とかって言うじゃない?っすか?

 

だからまぁ一つ書き上げようと思って書き上げてそれっぽく最後に(了)とかって入れたりして(笑)悦に浸ったりとかね。んでまぁあれなんだわ、色々と取り組んでまた戻ってくると相当ぎこちないところとかのブラッシュアップを稚拙ながらもできると思うからどっちかと言えば今のやつをある程度完成させて連載形式でアップしながら書き途中のやつが5個ぐらいあるんだけど、それを完成させていくって感じになると思うんだわ。ただもう気が付けば3月ですよ。ただ幸せだわ。メンタルやられてるし熱中のし過ぎによる情緒不安定があるにしても時間があっという間に過ぎるって退屈を感じる暇がないぐらいの強度に満たされた生活を送ってるってことじゃん?

 

あと情緒不安定になるぐらい熱中しちゃうってのも気分は良くないけどなんかまぁ結果的に良いのかなとも思うよね。「ああ小説書かなきゃ」じゃなくてもうなんか強迫観念のようになってるからね。「書かなきゃ」になったら終わりだよね。まぁゲームやり過ぎて単純に時間の配分間違ってるなっつー意味で「書かなきゃ」はあるにしてもね。

 

あーでもまぁウォール伝書くの楽だわ。もう6000文字だもんな(笑)小説も質を担保したままこんぐらいのペースで書けたら最高だわ。まぁただペースより質というか、一般的な質じゃなくて俺が読んだ時の質だよね。まぁだから濃いものを遅いペースで書いていってもすんげー濃度のもんが出来上がればまぁそれでいいわけでね。

 

あとなんか最近開眼したのがっつーか小説のおかげなんだけど文字のフェティシズムみたいな感覚ね。サンプリング素材として適当に切り貼りしてるやつっつーよりかは素材選びの中で出会った「いいなー」って思う作家の文章の一節とかをなんか自分のものにしたいとかさ、なんかそこが好きでしょうがないとか、その文字の並びとか表し方とかタイミングがたまらない!みたいなフェティシズムがあるんだよね。哲学でもたまにあるにはあるけど小説はその頻度が高い気がするわ。まぁ滅多にそういうのないんだけど。

 

あとなんかそれってさ、良いものに限るんじゃなくてモンドとかB級志向みたいなさ、シャッグスとかスカム系のバンドの演奏に味があるのと同じで、村上春樹の常軌を逸したような歯の浮くようなセリフとかもネタとして読むとすげー愛らしいんだよね。すんげー下手くそな演奏聞いてるみたいな良さがある。C級の良さだよね。それで言うとスカム文学というのもジャンルとしてありえるなと思ってて水島ヒロのKagerouとかもそういう観点で読むと面白いかもなとか思って買ったんだよね。まだ読んでないんだけど(笑)

 

なんだろうね、音楽においてはスカムとかB級っつー感覚にテイストがあったり映画もB級ホラーとかロジャーコーマンの低予算映画とかエドウッドとかハーシェル・ゴードン・ルイスとかの拷問みたいなグダグダ加減とかってテイストになるんだけど文芸においてはどうなんだろうな?ってところがあるよね。Kagerouとかはそういう意味でエド・ウッド的な鑑賞ってできるはずだと思うんだよね。逆に文芸ってイメージ的に凡庸なのが8割で1割ぐらいに本当のクズがあって1割ぐらいにマジで良いやつがあるっつーイメージなんだよね。

 

だから2割ぐらいは楽しめるものがあるってことになるよね。でもマジで文学って聖域でもなんでもねーよってのはマジで思うわ。守られ過ぎてるわ。音楽の場合、下手くそな音痴なやつがとんでもない演奏をしたのを平気でYoutubeとかで流したりってのがあるんだけど文芸とかだとイマイチそういうのが音楽ほどない気がするな。まぁ小説投稿サイトとかに色々あるのかもしれないけど、なんかもっと身近なもんだよね。バンド組んじゃいました感覚でやれるのが小説だと思うわ。

 

まぁそんな感じで今日はこの辺で。