文学三昧な日々。その7。

これは中編ぐらいのやつのアイデアだから別に取っておこうだとかね、文学的な引き出しがゼロのやつが出し惜しみをするなんてとんでもないことで、全身全霊を持って、言わば命をかけて書かないといけないことに気がついて、んでまぁ全力投球しておるわけですよ。そうしたら当初のボリュームを相当オーバーしそうになったから、だいぶボリュームを増やさないといけないと思って、だからまぁ基本、もう書けなくなるぐらいのリミット無しでもいいんだけど、無駄に長い村上春樹のIQ84とかが1100ページぐらいでしょ。小説じゃないけどサルトルの存在と無が70万字ぐらいだから、大体このくらいかなと思うんだよね。

 

自分に唯一必要なのってスケール感なんだよね。なんでもありにしちゃうとエンドレスになっちゃうからある程度の制約を作ってその中で書いていくということをしなきゃいけないんだけど、初心者がそんな高等なことをする必要はなくて、書きたいことは全部書いちゃえばいいし、リミットなんていらないんだって分かった時にまぁーそりゃー出力量増えますよね。

 

意外に制約って作ってるんだよね。俺が書いてるわけだから荒唐無稽で支離滅裂なのなんて目に見えてるのに変に整合性を保とうとしたりとかさ、話の繋がりとかなんとか、まぁそういうのをある程度気にして書いてた時期があったから逆にそんなのいらねーんだなってのが分かったから良い収穫ではあったんだけどね。

 

そう考えるとあれなんだよな、音楽とかと一緒でさ、いや、なんでもサンプリングしようと思ってたけど、結構見る目が養われると結構少ないんだよな。いや、なんつーのかな、すんげー複雑で変なやつとか超下手くそなやつとかを見つけるのってモンド的な感覚だと思うんだけど、村上春樹があらゆる意味でキング過ぎて、村上春樹ほどの香ばしさを発している文章って滅多にないんだよね。当たり前だけど大体上手くてよく書けているというだけのが多くて、つまらないことを何千ページも書くという狂気の沙汰を実行してるのが村上春樹で、俺は完全にハルキストになっちまったなって感じなんだよね(笑)

 

ミイラ取りがミイラになるってやつか。村上春樹に接し過ぎて好きになってしまったというね。あれだけどうでもいいことを同じような言い回しで似たモチーフで毎回飽きずにやれるってのは相当バカなのと天然なのとある種の才能が無いとできないわけで、頭が良い作家が書いたあえてバカをやってるのとか前衛っぽいやつってまぁ音楽も同じだけどインテリ臭さが凄いんだよね。バカが集まってめちゃめちゃな演奏をしていますっつーコンセプトでやってるのかもしれないんだけどインテリが狙ってやってる感が半端なくて全然面白くないっていうね。

 

だからその意図しないところに行っちゃってるっていうのがあんまりないんだよね。当然ながらプロの作家は意図したものを書いているはずだし、意図しないところに行っちゃったようなものは前衛的ではあるかもしれないけど売れないから出せないだろうし、出版社も渋るだろうから、そういうのを出せないというのもあって妥当な理解しやすいものばかりが世に出ることになってるんだと思うんだけど、村上春樹は凄くて、言うならばコントとかですんげー臭いネタをやってそれをメタ的に突っ込んで笑いにするとかね、スピードワゴンの小沢の甘い言葉をベタでやっちゃってて、それをベタに受け止めるやつもいれば、ネタとして「またあいつが書いた駄文が出たぜ。楽しみだ」っていう愛すべきダメ小説家としての村上春樹を愛している人が結構いるんだなっていうのも分かったんだよね。

 

だってなかなか書けないぜあんなの。ちょっと頭を整理しようとして伸びをして体の隅から隅までを揉み解して観察してからビール飲んでとか頭おかしいよね。なんかそのサスペンスとかサイコ系のホラーとかを超えちゃってるサイコっぷりなんだよね。しかもそれがドストエフスキー的な感じで著者の投影とかではなくて、そういう登場人物を作り上げてそういう変な動作とか変な癖をさせようとしているのではなくて、明らかに著者のどっかの一部の実存の投影なんだよね。それが体をくねらせた後にビールを飲んでみたいなのが永遠と続いてるとか前衛的過ぎてヤバいよね。

 

ただ正直、村上春樹の受容って一般的にどうなのかがさっぱり分からないんだよね。ネタとして受け止めている人たちも大勢いるんだろうけど、マジな純文学だと勘違いしている層も確実にいて、んでそれを批判したり、あんなものが売れているなんておかしい!って真面目に思う人とかもいるんだけど、村上春樹を現象として考えると、あれ自体が作品だし、売れるとか話題になるとかノーベル賞を取る取らないだのとか気持ちの悪いハルキストが集まってノーベル賞受賞を見守るとかっていう現象そのものが村上春樹なんだよね。

 

だからアウトサイダーアートなんだよね。アールブリュ的な、意図しないところですんげー香ばしくなっちゃってるっていうようなね、山下清の文章とかが結構凄いっていうのと同じな感じがするんだよね。まぁ分からん、世間的にそんなの常識なのかもしれんけど、そういう意味だと村上春樹を正面から批判するとかバカバカしすぎるよね。モンドとかスカムのレコードに対して「音楽がなっとらんのだ!」みたいに批判するぐらい馬鹿げてるわ。

 

でも小説ってそういう香ばしさがないものってクソつまらなくてさ、結構ネタとして買ってきて期待してたやつが意外につまらなかったりとかさ、全く面白くないやつが実は大半なんだよね。まぁまさに俺が文学に興味を持たなかった理由がそこにあるんだけど、でもそこでレアグルーヴみたいなものがたまにあるんだよね。

 

お笑いとかでもそうなんだと思うけど実際にバカやるって相当に高等な技術なんだよね。でも村上春樹ってジミー大西的な感じで、狙わなくても天然でそれが出来ちゃうっていう凄い人なんだなって思ったんだよね。あとまぁ当然、文学自体がオワコンというかポストモダン的な意味で出尽くしてるから最先端では逆にパッと見じゃ分からないようなカフカ的なものだったりとか不条理なものだったりとかってのをやるとか、あとはまぁ今の俺がやってるようなコラージュとかアダプテーションとか、まぁそういうのも散々やりつくされてるんだけど、やっぱりリアルにキテるやつが真剣に書いちゃったやつほど香ばしいものはないんだよね。

 

ただこれは狂人が書いた小説なんだっていう狂人認定されていないというのが必須条件でさ、だからそういう意味で前衛小説とかね、ポストモダン小説とかって呼ばれるようなものを結構買って読んでるんだけど大体つまらないんだよね。もうなんか何をやろうとしているかが見え見えだったり分かりやす過ぎてまぁそういうのって音楽でもあるじゃん?実験音楽とかいってもうやりつくされたことをやってるとかね、まぁそういう類のが大半の中で、香ばしさって手法とか方法論に落とし込めないんだよね。

 

どうでもいい話を永遠に書くということがどれだけ大変か?ってことだよね。要約すれば100ページぐらいで終わることを1100ページ書いちゃう狂気ってなかなか真似できないですよ。だから書いてて思うのは俺は全然狂いきってないなってことだし、知的に狂いを狙ったような感じの寒さとかって尋常じゃないなって思ってて、だから結局、色々と小説の書き方だの日本文学全集を読んで文学を学ぼうとか思ってたんだけど、結局、一番いいのが素の自分が浮かんだことを書くということに行きついたんだよね。だからまぁウォール伝の小説バージョンみたいなもんだよね。

 

まぁそこはウォール伝っつー俺の長年のスタイルでもう培われてきたものがあって、それを鋳型として小説の中に溶け込ませるという作業が必要なだけで、あとはぶっちゃけ何もいらないのと、あと下手に上手く書こうとするとクソつまんなくなるからそれだけは絶対避けないとダメだなって思うとさ、いかにこの素の俺の計算高さが全くない天然でおバカなところとかさ、頭は良いんだけど知的に書けないっつーのかな?あとそういうのが無理っていうね、なんか書いてるとバカバカしくなるし笑えてきちゃうってのもあって、ウォール伝スタイルでしか書けないんだけど、でも一か月以上今書いてるやつに取り組んでて分かったのはウォール伝スタイルを小説で見出したってところだよね。

 

だからそうなるとアウトプットって無限なんだよね。ウォール伝は書きすぎてネタが尽きてるけど(笑)小説の分野って全くやってないから言っちゃえば俺がウォール伝を1998年とかのホームページの頃からやってたっつーのが今でも続いてるってのを考えると最低でもその分のアウトプットが小説としてあるってことだから膨大だよね。文字数にしたら何千万字とかでしょ(笑)

 

なんだそうだったのか・・・って思うと何も悩まなくなるよね。なんかただそこに書く俺がいるだけというウォール伝と変わらない営みがそこにあるんだけど、ただそこでは創作が許されているからウォール伝以上に何を書いてもいいという自由が担保されてるんだよね。

 

ウォール伝でも色んなナンセンスとか思いつきとかを書いてきたけど、結局、色々と書いてきた中でもうネタ尽きるじゃん?同じことやってもしょうがねーよなっていうのがあってさ、でも仮に似たようなことでも小説に落とし込めて反復する分には自分が読んでて飽きて無ければそれってアリだよね。まずは書くことが重要だからネタの厳選なんてのは上級者になってからやればいい話で、今はまず書くことじゃん?

 

そうなるとリミットをいかに解除していくか?っていうことだよね。あとウォール伝では絶対やらないけど頭良さそうに見えるような手垢に塗れたような書き方とか言い方をしないとかさ、とにかくダサいことをやらなければなんでもオッケーってことだよね。

 

それが俺の言葉になってればいいんだよね。いろんなところからコピーしたものであったとしても最終的に俺の言葉になってればそれはそれでいいんだよね。ただ自分の言葉ではないものを書いたりすると一気に不和がそこに発生するんだよね。で、文書って地続きじゃん?まぁ地続きである必要はないんだけど、ただ同じ文章上に不和が発生してるとそっからまた悪い循環が生まれてクソみたいなことを永遠と書いちゃうっていうことになって飽きちゃうんだよね。

 

だから飽きないということで重要なのは自分の言葉で書いてそれを読み返してみたときに飽きてないなって思うことだよね。そう思うとここ数か月で相当そういうところのスキルが上がったから、まだなんか変に小説を書くんだ!みたいに気負いしてたところのダサさみたいなのが残ってる場所があって、そういうところを直すべきなのかどうか迷ってるってのはあるんだけど、まず書かなきゃいけないことが多すぎて手直しなんていつのことになるのやらって感じなんだけどね。

 

そこもまぁなんか自分が変容していく感じが文章の中で出てるってのも面白いかなと思うんだけどね。普通なんだろう、数年っつースパンで変わっていくのが数週間っつースパンで変わるからなんか全然読む場所によって雰囲気違うみたいなね、それは狙ってるわけじゃないんだけど意図しない面白いところでいいかなとかって思ってるんだよね。まぁ基本、ウォール伝で守ってることってバロウズが言ってたなんか書いちゃったらそれを消すべきではないっつーところなんだよね。書いちゃったら別にそれは消す必要はなくてかっこいい言いなおしとかを書く必要もないし、文章を先鋭化させていくみたいな作家のオナニーみたいなことなんて特にやらなくていいんだよね。そんなところ誰も見てないからっていう(笑)村上春樹が凄いのはそういう作業を永遠と何年もやっちゃうっつーところなんだよな。マジでヤバいよあの人。

 

エドウッドとかに似てるのかもな。ただ世間の結構多くの人はあのネタをベタとして受け止めて真剣に評論したり批判したり読んだりしているっつーのが本当にシュールで凄いと思うんだよね。それって小説が生み出す現象じゃん?それ自体が小説の一部になってるってのがすげーメタ構造だと思うんだよね。でもそれは他者の誤った解釈が必要でっつーかまぁ村上春樹をまともに読める感性ってすげーって思うんだけど、そういう色んな人たちに支えられて村上現象ってのが起きて、それ自体がよりネタを面白いものにするっていうことは狙ってできることじゃないからね。

 

小説が現実に影響を及ぼしてるってまさに村上春樹でしょう。思想的にとかそういう高尚なもんじゃなくて、世の中のバカバカしさって意味でそれを浮き上がらせてるのが凄いよね。あとまぁ実際、人生ってどうでもいいことの連続じゃん?文字にしたら絶対つまんねーっつーことを強制的にやらされるわけじゃん?永遠と退屈な小説を読まされるってことが人生だよね。

 

それよりもさらに退屈で無駄に長いものを何千ページも60万字とか書けるというのはやっぱり凄いよね。逆によくこんなシナリオ書いたなーとかさ、よくできたストーリーだなーっつー大部のやつあるけどああいうのはどうでもいいよね。別にそんなの誰かが書くでしょいつかっていうね。でも村上春樹ってワンアンドオンリーだからね。あれでなのも起こらなかったらまさにカフカなんだけど、すんげーチープなストーリーとかメッセージ性とかくだらない話っていう落ちまでついてるのが凄いんだよな。計算してできることじゃなくてやっぱ天然の笑いに近いものがある。

 

インテリが狙ってやろうとしても滑るっつーか二番煎じになるなってのを書いててすげーそれを実感するんだよね。あとまぁまだ色々あるんだろうけどスティーヴン・キングの「書くことについて」っつー本をさ、ネタじゃなくてベタで買っちゃったんだけどっつーかタイトルが書くことについてだったか忘れたけど英語の題はon writingとかだったと思うんだけどこれがまたすんげー香ばしいんだよね。もうどうでもいい話のオンパレード(笑)

 

つまらない話を永遠とするって本人が飽きちゃってできないじゃん?聞くほうも苦痛だし話す方もつまらないのが分かるからディティールを端折って大枠だけ話すじゃん?ようはエコノマイズするよね。聞き手の負担と話しての負担を両方軽くするというウィンウィン構造にするはずなのに、スティーヴン・キングは無駄な話を永遠と書いて、んでたまに話が動いたかと思うと丸々一章をどうでもいいことに費やして結果的に本の分量が大部になっちゃってるっていうね。あれも天然だよな。アメリカの独特のつまらなさってあるじゃん?グレート・ギャツビーなんて最たるものだけど、あれを村上春樹が人生の一冊としているのはネタなのかベタなのか分からんけど、つまらないことを永遠と語るという一種の芸みたいな世界の話なのかなと思うとイリュージョン的というか異次元的だよね。

 

ただつまらない音楽とかつまらない映画とかってつまらないだけだけど度を越してつまらないってなかなかできないんだよね。これもまたインテリが意図的にやってもつまらないか、あとはタルベーラみたいにアート系にガン振りみたいな感じですんげー長回しで撮るという方法は映像では比較的やりやすい気がするけど、文章になるとなかなか難しいよね。永遠と知りたくもない従妹の生い立ちの細かい部分とかを病的なディティールで書くとかもう狂気だよね。

 

で、思ったのは俺みたいに文学音痴だって思って文学を避ける人間のほうが逆にセンスがあるってことなんだよね。それは大体の本がどうでもいいことが書かれててつまらないものが大半だから時間の無駄ということが分かってるからだよね。で、じゃあ誰が村上春樹とかスティーヴン・キングを読むのか?っていうとセンスのない凡人が読むんだよね。だからあれだけ売れるんだよね。でもなぜかそういうものが売れるから小説って本当につまらない世界だなって勘違いしちゃうんだけど違うんだよね。そこに今回書いたような重層的な構造があって、それが分かると文学ほど面白いもんはないんだよね。

 

それも含めて日本の古典とかも名高いだけでやたら退屈な話が続くのとかもただの過大評価でそう思うとクソみたいな話が永遠に書いてあるものがなぜかありがたいものとして評価されてきたりもしたっつー歴史があるんだよね。

 

今見たら寝ちゃいそうなポチョムキンとかを歴史的な名作だから見ろ!って意味で映画クラスとかを取った学校の生徒がそれを見たときにクソつまらなくて眠くもないのに眠くなったとかっていうような感想を持つのは自然なことよね。だって明らかに今の面白い映画から比べたらつまらないからね(笑)文学ってそういうポチョムキン的なつまらなさがあるものがすんげー多いよね。

 

逆にまぁサービス精神の塊みたいなエンタメの最高峰ともいえるようなラノベとかさ、俺が最近絶賛してる東野圭吾とかは文字で本当に引き込まれる物語を書いてて面白いわけじゃん?だからもうああいう面白いのがあったらもうそれはそれでいいんだよね。それは俺がよく音楽で言うようにめっちゃかっこいいハウスとかのトラックメーカーなんて腐るほどいるから別に自分がそれをやろうとしなくても勝手にそういうのはリリースされるから自分がやりたいものをやったほうがいいっつーのと同じよね。

 

それはもうある種、あらゆる表現形態で同じことが言えるのかもしれないね。でもまぁ俺的に文学の世界である種モンドとかさ、スカム映画みたいな、ハーシェル・ゴードン・ルイスみたいなさ、どうしようもなさを楽しめる味な世界があるって全然分からなかったんだよね。それを知らしてくれた村上春樹は偉大だと思うわ。村上春樹がグレートギャツビーをたまに手にとっては適当なページを開いてもつまらないページが一冊もないって言ってるのとある種同じ意味で、村上春樹の本をパラパラとランダムにページを開いて読んでみたところで面白いと思うページは一か所もないって凄いことだよね。

 

でもそれは書店で「なんか香ばしいネタねーかなー?」ってディグってるときにさ、結構高名な作家とかの本をパラパラ読んでみたときにただ上手く書けてるだけで全然面白くねーじゃんって思うつまらなさとは全然異質のつまらなさなんだよね。緻密なつまらなさっていうのかな、引き込まれるつまらなさだよね。「あーこれは違うわ」とかさ、なんかやり尽くされた所謂文学的なフレーズばっかりが並んでるようなさ、んでまぁ期待の新人だかなんだか知らないけど毎年「天才が出た!」とか言われては消えていくっていう一発屋みたいなのが多い世界で、異質なつまらなさを永遠と追及できている作家ってほとんどいないんじゃないかと思うんだよね。何しろ同じテーマで同じような文体でチープな展開でそれを反復してなおかつ上下巻で分けなきゃいけないぐらいの大部のものを書くなんて苦痛でしかないでしょ。それをなんか毎回忘れて書いちゃってるのが凄いんだよね。いやいや、同じじゃね?っていうね(笑)でも本人気がついてないんだなって思うとすげーなって思っちゃうんだよね。

 

ただ残念ながら意識的にそういうつまらなさをインテリがやってるやつって大体つまらないからやっぱり村上春樹がすげーってことになっちゃうんだよね。オリジナルに敵わないって凄いことだよね。

 

例えば今さ、俺がネタ用として膨大にある本に囲まれてこれを書いているわけだけど、つまらないのが大半といってもそんな中で面白そうでなおかつ使えそうなやつを買ってきてるわけだから、例えば何かの本を手に取ってさっき書いたみたいにランダムにページ開いて読んでみるとやっぱ読んじゃうんだよね。普通に面白いから。フムフムってなっちゃう。そのぐらい異質なつまらなさが永遠と続くというのは凄いことなんだって思うのね。

 

なんか爺さんとかの老人が読みそうなつまらない小説とかって笑いで言えば笑点みたいなもんじゃん?別にあれはもう世代の話の問題だから逆に老人から見たら若いやつがこれの何が面白いんだ?っつーのにハマってたりするわけでしょ?そこは相対的ですよね。でも村上春樹のつまらなさは絶対的なんだよね。世代とか一切関係ない無駄のまた無駄が永遠と続くというのがそこに詰まってるわけで、これはすげーアートフォームだなって思うんだよね。

 

なんかそんな感じでさ、文字の世界と文字による表現の世界観ってのにどっぷり浸かってて毎日楽しいんですよね。なんだろうね、すんげー面白いゲームをやっているとかってまぁ誰かが作ったものを与えられて消費者としてそれを消費する感じだけど、文字の世界にどっぷり浸かるって自分の知覚の中に面白いコンテンツがあるみたいな話だよね。それを取り出して遊んでると永遠に楽しめるっていうような、永久機関的なゲームよね。ましてやそれを書くなんてもう楽しくてしょうがないわけよ。これ以上の快楽はないんじゃないか?ってぐらい楽しいよね。楽しみながら書いてるやつってやっぱ楽しいんだよね。ただ義務的に埋めなきゃいけない感じで書いてる部分は大体つまらなくなるんでさっき書いたのは消さないって書いたけどあまりにつまらないのはさすがに消すんだけどね(笑)あとまぁ当初に文字数稼ぎたくてかさ増ししてたようなところとかも大幅削除なんだけどね。まぁ今はそんなことやる必要なくなったのでね。

 

ってことでまぁ今日はこの辺で。

 

んじゃまた。