文学三昧な日々。その8。

毎日今まで使ってこなかったような脳の領域を使ってるからなのか、そういう領域のニューロンみたいなのが頑張って発達してるからなのか、毎日異様に眠いんだよね。で、夜中ぐらいになると色々と書き出して「いかんいかん。やり過ぎだ」っていうぐらい書いちゃってっつーのも書きすぎるとまた次の日眠くなったりするわけで、重要なのは毎日無理なくコンスタントに書くことなんですよね。

 

すげー書いちゃって次の日眠くて何も書く気が起こらないってことになると書くことのパフォーマンスが悪いわけですよ。調子が良いときに書いて悪い時には書かないとかじゃなくてコンスタントに書きたいんだよね。でも眠いけどね。んでカフェインで眠気を飛ばそうとすると胃壁がやられるっつーかさ、胃っていうより口内炎とか口の中が爛れてくるからやっぱり人間って筒なんだなって思うんだよね。

 

胃が荒れてても繋がってるから口が荒れるわけでしょ。ちくわだよね。それにしてもまぁハマると凄いじゃないですか?俺。で、学びのペースも早いから先月ぐらいに思ってたこととか書いてたことが陳腐化しちゃって、そんな頑張らなくても自然体でいいのになーとかって思って削除っつーか書き直ししようとかって思うとまた次の月に成長した俺が「陳腐化してるなーっつーか頑張り過ぎでしょ。書こうと必死じゃん」とかって思ってその部分を書き直したりしてたら永遠と作業が終わらない気がするんだよね。

 

その作業の終わらなさがいいんだけど、サルトルの存在と無とか春樹先生のIQ84ぐらいの無駄に長い分量がいいかなって思ってたんだけど、意外に達成できそうになっちゃったから、もっとスケールを大きくする必要があって、それで今のところ目標にしようと思ってるのがユリシーズとかなんだけど、実はあれも千ページぐらいだから、もうちょっと長いやつってことになると一気にプルーストになっちゃって3200ページとかになっちゃうから、そうなるとさすがの俺でも何年かかかるだろうってことになるとさ、時間をかけるって意味じゃなくてさ、やりたいことを最初から全部やっちゃってあんま後のことを考えなくてもいいんだろうなとかって思うんだよね。

 

いや、前にも書いたけど初心者が後に書こうと思ってるネタとかさ、寝かしておくネタとかさ、そんなもん沸き上がった瞬間に形にするべきだし、どの道、人間が思いつくことなんて大したことないよなって本当に思うんですよね。

 

なんかもうネタって時点で既製品だもんね。なんかの思いつきっていつも書くけどなんかで接したゲームなり映画なり本なりのものの別バージョンっていうかさ、それを思いついたから自分のアイデアだとかって勘違いするんだけど、それは音楽なんかと同じでさ、既製品を混ぜてるだけなんだよね。でもその既製品をなぞっているという自覚がないから自分でボケてるっていうかね、それをオリジナルだと勘違いするんだけど、つくづくオリジナルってないよなって思うのと、文芸関係の理論とか小説じゃなくてそういうものについて述べてるやつなんかを読んだりすると文学ってそれが一番酷いジャンルだなって思うんだよね。

 

酷すぎて音楽とかの出尽くした感がまだマシというね。だから近年になると大体小説家がエッセイで「小説は可能だろうか」っていうのを書いてたりして、やっぱりこれって普遍的な問題なんだなってすげー思うのね。書き始めの俺ですらそう思うんだから。

 

演劇とか身体表現とかしても大変だよね。これ。もちろん今だから可能になっていてやりやすくなっているということもあるんだけど、色々と表現されてきた歴史が長ければ長いほど色んなネタが陳腐化したりクリシェになるんだよね。一か月前に「へぇー良く書けてるなー」って思ってた本とかが「すんげーありふれた表現とストーリーで良く書けてるなんて思ってたのは俺の無知のせいだったんだな」とかって思うわけなのね。

 

よくあるでしょあの。例えば理論系の政治学にしても数学にしても先行者の研究なんてのを踏まえているのが当たり前で、んでぺんぺん草も生えない現代で何をやるか?っていうと研究の場合、重箱の隅を突くか、表現の場合、ニッチのまたニッチみたいなことをやるか、あとはベタかっていうぐらいしかないっていうね。

 

音楽にしても文芸にしても素面じゃ無理だからっつってドラッグやりながら書いたやつとかさ、グデングデンになって書いたやつとかもすでにあるからね。だから知らないうちが幸せで知っちゃうとやべーもう何もねーじゃん!ってことになるんだけど、俺の場合、なにもねー意識ってのが他の表現なり媒体で凄くあったからね、だからそこにたどり着くのが早いっていうかさ、いや、あれですよ、あのガッキーいるじゃん?新垣さんね。現代音楽家の。

 

あんな調性音楽なんていくらでも書けますよって本当に端的に現代の音楽家を表してるよね。そんなもん出尽くしてるからなぞればいくらでも書けるから、だからまぁ現代音楽ってことになるとダダとかフルクサスみたいな変なのを真面目になるみたいなことになるんだけど、現代詩とかにしても難解を極めてるみたいなのがすでに半世紀以上前で、そっからどうなってるのか分からないけど、文学もそうなんだなーって知るとなんかやべー世界だなって思うのね。

 

アメリカ文学とかは全然好きじゃないとかって書いたけど、すげーそれって初心者的な見方でさ、今はのめり込んで色々読んでるから現代作家のやつとかを読むようになってるんだけどまぁ書いてるやつの元ネタとかになるから音楽と一緒であんまり参照してるのを書きたくないんだけど(笑)すげー人いるのね。でもまぁそれは所謂、海外文学なんて言われて出版的にはもう完全に終わってるっていうかほとんど売れないんだけど、でもそれってそれこそ村上春樹みたいな大衆的なものとはかけ離れたものでさ、村上春樹が歌謡曲だとしたら、現代の小説ってやっぱ現代音楽なんだよね。現代音楽が売れるか?って売れないし聞く人もいないでしょ。

 

でも最前線ってことになるとその読む人がほとんどいないようなのが実際はマジで凄いんだよね。それは前にディスったようなインテリがわざとバカっぽく書いたみたいな稚拙なやつとかでもなくね、時代的なコンテキストとか文学が辿ってきた歴史とか先行者の表現も踏まえつつ、そこで色んなものを解体して限界に挑んでる感じなんだよね。まぁ結果的に前衛的になり過ぎるのは不可避なんだけど、そりゃ現代音楽と一緒だよね。

 

だから文学って娯楽と文芸っつー芸術で全然違うわけでさ、芸術の領域だと現代音楽なんだよね。で、大衆の娯楽って意味だとエンタメ小説とかラノベとか一万年遅れてるんじゃないか?ってぐらい時代錯誤ななんたら賞とかを取るような一発屋の小説とかね。

 

でもこれってattitudeなんだよね。くだらない賞狙いなのか、文字で出来うることの限界を目指すのかっていうところでさ、くだらない賞を取るやつってまぁ大衆に迎合したちゃんとしたストーリーがあるやつを書くわけだよね。いや、批判ばっかしてないでって言われるかもしれなけどちゃんと結構そういうのを書店で立ち読みしてるんですよ。勉強ですよね。なんかニュースとかで名前だけは聞いたことがあるけどどういうのを書いてるんだろう?って読むとまぁつまらないんだわな。

 

でもそれはあれなんだよね、つまらないって思っちゃいけなくてさ、それって歌謡曲じゃん?現代音楽を求めている俺がK-POPとかのコーナーでディグって試聴して「なんじゃこりゃ」って言ってるようなもんで、全然ジャンル違いますよっていうね。でもまぁ文芸の場合、K-POPのコーナーと現代音楽のコーナーみたいに分かりやすく分けられないからね。クソみたいな小説の横にエピックな時代を切り開いた革命的な小説が並んでたりするのが文芸のコーナーだもんね。だからあんなに文芸コーナーってカオスなんだなと思って。慣れないものを色々と探すから疲れるってのもあるんだけどさ、現代音楽と歌謡曲が同じ棚に置いてあるのが文芸コーナーなんだよね。

 

だからこっちの知識を入れておかないとわけがわからなくなるし、あとまぁ一通り俗っぽい世俗で評価されているものとかも偏見なしに読んだりネタにすりゃいいんだから買ったりして読むっていうね、んでまぁしつこいようだけど東野圭吾みたいにふつーにめちゃ面白い小説もあるんで、一概に売れてる小説全部クソ!とかね、文学賞取るようなやつ全部クソ!ってわけではないのは確かなんだよね。

 

でもなんかさ、ジョイスのユリシーズにしてもプルーストにしても最近知ったんだけど、ああいうのって意識の流れ文体とかっていうらしいじゃん?いや、ウォール伝だよね(笑)あれと似てるわ。具体音を色々とミックスしてきて音響作品みたいなのを作っているのが俺の発明だって思ってたらシェフェールとかが半世紀前にやってたとかってのと似てるわ。まぁ別にウォール伝って方法論的にやってるわけじゃなくて、こういう書き方しかできないからこうやって書くんだけどまぁユリシーズの支離滅裂感っつーかさ、なんか他人事とは思えないなっていうシンパを感じちゃうんだよね(笑)

 

ユリシーズは英語で読まないと言葉遊びの翻訳に限界があるからアレなんだけど、プルーストの失われた時を求めてはすんげートリップ感あるね。読んでてラリってくる感じがある。こういうのを書きたかったんだな俺はって思ってももう超名作としてあるのかっていうもう終わった感ね(笑)

 

まぁそんな無理ですよ。発明をしようと思っても。でもまぁ書きたいんだから書けばいいんじゃないですか?ってまぁハマってるわけでしょ?っていうさ、そんなに気負うことないんですよね。ただまぁなんだろうね、志向が同じなんだよね。音楽でもやっぱり現代音楽が好きで、文学でも前衛が好きなのね。フェルドマンがベケットの為にって曲書いてるけど、ベケットもフェルドマンも大好きじゃん俺。

 

思えばさ、長年文学音痴だと思ってきてたけど、そもそもアート映画とかにかぶれてた青年期に最も好きで今もオールタイムフェイバリットなのがマリエンバードじゃないですか?だからまぁ俺はフランスのアート映画が好きなんだって思ってたんだけど、あれって原作がロブ・グリエで、いわばヌーヴォー・ロマンを映像化されたものが物凄く好きだったってことになるとさ、最初から文学的なものが好きだったってことになるよね。

 

でもこれってあれなんだよな、文学苦手意識ってあれと一緒なのとね。数学。学校で教えられる拷問的な数学が大嫌いで俺は数学が苦手だって思ってたけど実はすごく抽象的な概念をさらに抽象化するような作業が数学で実際の数学は数値なんかを使わわないで記号しか出てこないっつー世界ってのが集合論の基礎をやって現代数学を理解した時に一気に覚醒して数学大好きになったし独学でガンガンやってったじゃないですか?

 

で、今はそれの文学バージョンが訪れてるんだなって思ったんだよね。文学と言えばやっぱり芥川とかそういうのを読んで勉強して・・・って思ってたんだけど、芥川はつまらないとは思わないけど表現形式として相当古いじゃん?あれ。でも文学と言えばそれだろうという思い込みって学校の国語で読まされる文学ってのがさ、何かに書いてあったけど文学のリアルな面白さにハマったら世捨て人みたいになっちゃうから、ハマらないような拷問的なつまらないものを国語の教科書に載せないと文学青年だらけになっちゃってニートとか世捨て人みたいなのが増えちゃうからってことなんだけど、散々数学で学校の授業で受けたインプレッションで決めつけてた数学が苦手だと思ってただけでリアルな数学は超楽しいってのを経験したのにさ、なんか文学だ!とかって思ったときにやっぱり学校から出られてないんだよね。

 

で、思い返してみれば映画を通してロブグリエだのタルコフスキーだのセルゲイ・パラジャーノフだのマルグリット・デュラスだのって好きなのはことごとく文学的なのばっかりでさ、だったら最初から好きだったんじゃん!っていうところにここ数日で気がついた感じなのね。ロブグリエってそういえば映画監督っつーより作家なんだよなって思ってさ、ロブグリエの本とかを読んで「あーそういうことか」って思ったわけなんですよね。

 

目覚めたんじゃなくて好きだったんだけど変なものに色々と覆われてたり勘違いしてたのが氷解したって感じだよね。昔に何度が文学ってなんだか分からないんで世間的に評価されてる若い作家とかの本を買ってきて読んだりしたんだけど全然良さが分からないから俺は文学音痴だって思ってたんだけど、実は違ったっていうね、感受性がビンビンだった頃にっていうか、今もビンビンだけど、そういうときに極めて文学的なものに映像を通して接してたっていうね、で、まぁあと文学系の理論とかを勉強してて例の意識の流れとかってのを知って「これウォール伝じゃん」とかって思ったのもここ数日で(笑)俺が書くことに向いている向いてないっつーより最初からやってたんじゃん!って感じなんだよね。

 

それを今はウォール伝に書くんじゃなくて小説っていう体裁をとってWordに毎日書き続けているっていうだけで、実質的にやってることはあんまり変わらないっていうね、ただやっぱり文学っていうコンテキストという意識ってのは大事でさ、それがあるのとないのとではえらい違いで、そんな中で大衆小説から娯楽小説からSFから推理モノとかサスペンスとかラノベとかジャンルを問わず浴びるように読むってのも文学っていうコンテキストの中で読んでるからクリティーク的な目線が常に入ることになるよね。

 

文学部一年生だから頑張ってお勉強しよう!とかって思ってたけど、実は違って違う形体だったけど大好き歴は長いものだから一年生ではないよねっつーところなんだけどね。かといってもまぁ書いててすんげー稚拙だなって思うしそれはしょうがないんだけどかといって「感情の無い悲痛が空間の闇を切り裂くように私の前に現れた」みたいなどうでもいいアクセサリー的な表現とかってまぁようはあれだよね、そういうくだらない比喩とか悪い意味での言葉遊びだよね。

 

そっからそういう表現を抜いたら何も残らないっていうね、ポストモダン系の書き方の無駄に晦渋に書くっつーようなところを無くしたら話を要約すれば100ページぐらいで済むところを感情の無い悲痛がとかって言ってるから1000ページ超すんだよっていうようなね、実際に文芸の最前線で表現とは何か?みたいなところで戦ってる人たちってそんな古臭い装飾的な言葉使わないからね。ああいうのは本当にダサいよね。

 

そういうのを取り除いたら粕すらも残らないものなんて何の価値もないですよね。だから本屋に行ってもパラパラといろんな本をめくっては「あー作家のオナニーだー」と思ってすぐ棚に戻すのが多いんだけど、オナニーが行き過ぎてアートになってる村上春樹みたいな天然系の作家ってのは村上春樹以外知らないけど、ああいう人もいるからオナニーが悪いわけじゃないんだけどね。

 

でも文芸のコーナーってそういう意味で異様で8割ぐらいが作家のオナニーなんだよね。音楽もオナニー多いけどあんだけ多いってのは滅多にないんじゃないかな?って思うよね。オナニーが受け入れられてたり賞を取ったりするのが文芸なんだなって思うんだよね。まぁ世俗的な意味でのね。多分、世界基準だとやっぱさっき現代音楽的だと書いた陳腐になっちゃうけど前衛的とされるようなものとかね、文字による表現の限界に迫ったようなものとかってのが評価されてるとは思うんだけど、でも実際はエンタメ的な文芸がデフォでもそんなに多くない文芸ジャンルの読者の大半を占めていて、コア層はっていうと恐らく現代音楽のコアなリスナーと同じぐらいの人数だと思うんだよね。数千か数万いけばいいぐらいの数。

 

でも終わってるか?っていうと商業的に成立しないだけで終わってないよね。売れない=終わってるじゃないからね。この辺を結構なんか平気で終わりって商業的に成立してないから終わりって言っちゃうことが多くてすげー概念エラー起こしてるなって思うんだけどね。そもそも表現と資本主義っていう経済の仕組みってお互いが独立した全く関係ないもの同士なわけでさ、その表現が資本主義との折り合いが悪いから終わりになってるっていうのはすんげー概念エラーですよね。

 

それでもなんか作家っつーとかっこよかったり作家生活みたいなのに幻想があるのってやっぱ映画とかメディアの影響が強いんだろうなっていうのと、一昔前に作家っていうのがかっこいいステータスだったり文豪とかって呼ばれる人たちがかっこいい!みたいなイメージがあったからっていうところが大きいよね。でも文学性なんて書かれてないところで発生してるんだよね。

 

でもその人に書くスキルが無かったり書くという自意識が無かったりしてその発生した文学性を書き留めるっていう契機が得られないまま流れちゃうっていうね、でもそれって例えばブルースとかさ、ブルージーな生活ってまぁようは別にその人がブルースっつー音楽をやっていなくてもその人が自伝とかを書いてなくても誰かがすんげーブルージーな人だなと思って自伝を書いたらやっぱブルージーだったってのが文字になって分かるわけじゃん?でも本人はそれを表現としてやっているわけではないし、「俺ってブルースなんだよね」みたいな自意識があるわけでもなくてさ、ようは生活だよね。

 

音楽も稀にだけどシェルシみたいに全然世に出すとか考えてないで異様なのを作ってたのがちょっと世の中で聴かれる機会があってすんげー評価されたりとかさ、でもそれって別にシェルシは評価を気にしてやってたわけじゃないじゃん?それと同じだよね。

 

小説って承認欲求とかなんかの賞を取りたいとかちやほやされたいみたいな自意識が投影されると一番醜くなる表現形態だよね。それってお前の実存だろっつーところでさ、んでしかも評価されたいとかっていう俗っぽい自意識があると超絶的に痛くなるっていうね、それは別にプロアマ関係ないんだよね。まぁでも小説の書き方みたいな文章を書いている人にも責任はあるんだろうな。読者は誰なのかを気にするとかさ、もうそれやった時点でアウトじゃんって思うんだけど結構そういうことが平気で書いてあるよね。

 

そういう勘違いの連鎖が自滅を生んでるのが文芸っつー世界なんだろうなって思うね。文字だから自意識を投影しやすいからそれをやっちゃう人がプロアマ問わずゴロゴロいるっつーところが滅亡のきっかけを作ってるよね。もちろんそうじゃないのもあるし、そういう意味でエンタメ小説とかラノベとかのサービス精神しかないようなものに関してはひたすら称賛するけどね。まぁサービス精神だらけの派手なハリウッド映画みたいなもんだからね。そういう意味で「誰に向かって書いているのか」を意識する必要があるっつーならそりゃそうだろって思うんだけど、そういうところを分けて考えてないと、小説=誰に書いているのか意識しなくてはいけないになっちゃうと途端にアウトだよなって思うんだけどね。

 

まぁそんな意味であれだわ、小説とか文学って哲学と一緒だわ。学問とか学芸とか研究対象として成り立っているし知的領域のことだから高尚なものだと思われてるけど全然そんなことないんだよっつーところですね。俺が哲学色々と読んでてそういう認識に至ったのって結構時間がかかったけど、文学に関しては哲学でそう思ったっつー経緯があるからほとんど哲学みたいなもんだなっていうね、あとまぁ一応凄いこととかさ、高尚なものだとされてるけど全然実際に読んでる人がいないって意味でも哲学と似てるよね。でも文学の名作とされるやつだってさ、著者の実存丸出しでずーっと愚痴だけ書いてるようなやつが名作とされたりさ、まぁそんな愚痴ばっか書くようなスタイルで小説書いちゃうっつーのがすげーって評価なんだろうけど、まぁ文芸とか文学っていうジャンル自体が過大評価され過ぎてるんだよね。

 

あとまぁ知らないけど文壇みたいな狭い世界での権力の話か。大したことない先生方みたいなのが和服とか着ちゃってさ、そういうのに媚を売るようなものしか書かない腐ったような精神の持ち主が書いた小説が先生方に高評価を受けて賞を取るみたいな、最悪の下水道サイクルだよね。あ、下水道は濾過されるからいいのか。まぁなんかクソまみれの水が永遠と流れ続けてるみたいな世界だよね。うすら寒いわ。

 

でも全く国内では売れない海外文学とかでは全然文学は生きているし常に限界に挑戦し続けてる人たちがいるわけで、日本の文学ってようは視野が狭いんだなって思ったんだよね。文学っつったときに日本文学なんだよね。あと日本の文学の文壇みたいなのとかね。そういう意味だと作家としては村上春樹ってやっぱ尊敬するんだよね。そんなのと縁もないしリアルにどうでもいいって考えてるでしょ。で、好きなのはアメリカ文学だし、日本で賞を取るような小説なんて全然読まなそうだし。健全な人だよね。めっちゃ作品はバカにするけど作家としては凄く尊敬するんだよね。それは全然ネタとかじゃなくてリアルで。だからやっぱ村上春樹のエッセイとか小説についての話とかは面白いんだなって思うんだよね。すんげー愚直なまでに小説っていうものに真摯だからね。

 

ってことで今日はこの辺で。

 

んじゃまた。