文学三昧な日々。その9。

初期衝動みたいな勢いで書き続けて疲れたらやめるってのを繰り返してると、どんだけ書くことがあっても燃え尽きるのが目に見えてるなと思ったんですよね。それは今書いてるやつを書いたらあとはどうでもいいのか、書いてるやつができたらまた次のやつを書くのか、今書いてるやつをライフワークみたいにして、永遠と書き続けるのか、ただどの道、何十時間書き続けてます!なんてのは続くわけがないし、それをスタンダードにしたらあんまり書けない日とかにやたら落ち込むわけで、上限は決めなくてもいいけど、とりあえずこんだけ書けばいいやっつー最低限の量を決めておかないと長期戦になると絶対に体力続かないなって思ったのね。

 

あとまぁいろんなところからコピペしたりパクるにしても即物的に良いからっつってそのままサンプリングするっつー俺がサンプリングでやってたようなことを文学でも応用するっつっても、結局、サンプリング元のコンテキストとかどういう作品なのか?ってのを分かってないとサンプリングに深みが出てこなくて、だから結果的にいろんな作品を読むというインプットが凄く重要になってくるよね。

 

いつも音楽の話で書いてるように、オリジナルなんてありえなくてなんかで聞いたものを自分の中で再構築して、例えばクラウトロックマニアですんげーそういうのを聴いてた人がダンスミュージックやり始めたらクラウトロックの影響って出てくるわけじゃないですか?フォーマットがダンスミュージックっつー既存の型で、音色とか雰囲気ってのがクラウトロックっつーのはまぁ全てインプットだよね。あとは型。

 

クソみたいな文学者とか学者が書いた小説の書き方とかじゃなくて良心的な作家が書いた小説の書き方ってのを結局、なんかアナーキーに今のスタイルで始めちゃえばいいのにやっぱりお勉強したくなる俺は読んじゃうんだけど、やっぱり高橋源一郎とか保坂和志の小説の書き方というより小説にまつわるエッセイってのがすげー参考になるっていうか、なんつーのかな、これは文学特有なのか分からんけど、全然才能ないやつが構造だけ説明して「さぁ今から書き始めましょう!」みたいなことが書いてあるクソみたいな本と違って、作品を書いてきた人間が書く小説論ってのはガチだよなって思うんだよね。色々と限界とかもうある意味で極北に来ているという問題意識が当然前提としてあって、そこから何を書くか?という話になってるから、おのずとそれは晦渋じゃないにしても、言語論とか小説論っていうディスクールになるんだよね。

 

それに比べて批評家とかが評論家が小説について書いてるやつって徹底的に感性が欠けてるっていうか、やっぱり小説の書き手じゃないから、どうしても表層をなぞるだけみたいな話になって薄っぺらくなるんだよね。まぁよく書けてるけどこのぐらいのことを言うのが限界なんだろうなってのがすぐ分かる。でも作品を書いている現役の人の小説論ってのは常に言語とか小説という形態においての限界と隣り合わせでやっているという意識が凄く強くて、それは何気にもう19世紀から小説家が書いた小説に関する話とか、日本でも戦前から戦後ぐらいの頃からもうそういう意識ってのは常にあってさ、有名どころだとクンデラとかになるんだろうけど、現在形で小説は可能か?ということを問い続けて表現し続けて考えている人たちって凄いなって単純にリスペクトするんですよね。

 

まぁ音楽もそうよね。現代音楽の作り手が書いた音楽についての小論みたいなのは、ようはシェフェールとかケージみたいな作り手が考える音楽は可能か?っていう話で、評論家のそれとは全然違ってくるんだよね。ただ小説もすげーなって思うのがさ、音楽とか他の芸術以上に前衛とか変なことをしてた人たちってのがすんげー昔からいて、めちゃめちゃじゃん!これ。音楽じゃないじゃん!みたいなのが表れてきたのがフルクサスぐらいだと仮に過程すると、前衛の極北みたいなのって出尽くしてからまだ半世紀ぐらいしか経ってないんだよね。

 

でも文学だと19世紀ぐらいからそういうのがあるから、おのずと限界が見えてきちゃってさ、あとストーリーとか構成とかもフォーマリズムというか、よくある構成っていうことで出尽くしちゃって、あとはいろんな文化とか人種とかコンテキストが違うっていうバージョンしかありえないっていうね。もちろんそれをぶっ壊すポストモダン文学っていう解体と無意味さへ向かい続けるっつーベクトルのものがあるんだけど、それももはやポストモダン哲学と一緒で古いっつーか古いのが悪いわけじゃないんだけど、一つのスタイルになっちゃってるんだよね。

 

だから仮にめちゃめちゃなのを書いてやろうとか音楽でもめちゃめちゃなのを作ってやろうって思ってもそういうのすらもやらされつくしててさ、めちゃくちゃすらもやりつくされてるってヤバいよねって思うんだよね。保坂和志なんかはそういう意識が前提にないとどうしようもないし、自分はそういう前提が共有されているということで話を進めます・・・みたいなことを書いてるんだけど、基本頭良くないと無理みたいなところがあるよね。かといっても頭でっかちでもダメで、インテリが面白いのを書けるか?っていうとまた全然違うんだけどね。

 

本当に構造が音楽と似ててさ、最前線を突き詰めると前に書いたようにそれは現代音楽になっちゃって大衆には意味不明で、分かりやすい調性音楽ってなると恋愛小説だのファンタジーものだのサスペンスだのっていう型だから、何々風って言われればすぐ何々風の音楽を作れるプロの作曲家と作家って同じで、スクエアなものなんていくらでも量産できるんだよね。

 

それでも小説は勘違いされてて、誰でも書けるって思われがちだし、音楽に比べて機材とかDAWとかある意味で知識もそんなにいらないから書けるっつーっちゃー書けるけど、その人のリテラシーレベルが高くないと話にならないんだよね。俺がこういう問題意識にすぐにたどり着けるのもようは音楽とかでそういうのを考えてきたり作ってきたり聴いてきたりさ、それこそ極北みたいなのを聴きつくしてそう思うっていう意識がある中で、それって文学も同じなんだなって思うと前提とされるべき意識にすぐにたどり着くことができるんだよね。

 

それは俺がめちゃめちゃ頭いいとか勘がいいとかじゃなくて、まぁそれが無くはないけど(笑)結局、別ジャンルでそういうリテラシーレベルを積んできたからそういう共有されるべき前提ってのをすぐつかめるんだよね。あとあれだ、上手い文章を書ければ小説を書くのが上手くなるみたいな概念エラーも著しいよね。ずーっと詩みたいな文章が続いて上手いなーとか美文だなーと思っても話がつまらなかったらどうしようもないからね。それは音楽で言えば永遠とうまい演奏を聴かされるだけでそんなのほかにいっぱいあるしあえて時間やお金を使ってそれを聴こうとも思わないってことになるじゃん?

 

まぁネタ的にいかにも文学臭い紋切をバカにしたような感じで使うっていう方法はなくはないんだけど、まぁそんなのもやりつくされてるしね。文学離れと言われているのかどうなのか分からないけど、それは必然的に文学が現代音楽みたいな道をたどらざるを得なくなった結果、大衆に理解ができるようなものじゃなくなって、読まなくなる人が増えたり、あとはもう分からん!って人が増えたり、ミニマリズム的な手法で描かれたものにベタに「同じフレーズの繰り返しでつまらない」みたいな感想が出てきちゃったりとか、そこはなんか音楽と違って、音楽ってまぁ前にも書いたけど現代音楽のコーナーなら「はぁーゲンオンっすかー」みたいな感じでさ、好事家しか近寄らないコーナーじゃん?でも文芸って芸能人が書いたようなやつの横に文芸の極北みたいなのが置いてある異様さがあるから、だから普段芸能人が書いたような小説を読んで文学を読んだ気になってるやつが試しに極北系を偶然手に取ってなんかの文芸誌でレビューされてたから読んでみるかとかっつってそいつのリテラシーレベルだとさっき書いたようにミニマリズムをミニマリズムだと分からずに「ただの繰り返し」だと思ったり、カフカ的な妙な何も起こらないんだけど先が分からない感じとかが分からなくて「意味不明な日常の情景の描写が永遠に続く」とかさ、これって映画とかでも起こらないよね。

 

開始からもう派手なカーチェイスが始まってるようなハリウッド映画を見る人が間違えてタルコフスキーとかハネケとかを見る可能性は相当低いわけですよね。ましてやネトフリとかだとプレビューでどんな感じか分かるから、何も起こってなさそうな不条理劇なんて難解そうだから爆破とカーチェイスとアクションが入ってるやつしかみない!みたいな人がそういうのを見るという可能性は凄く低い。

 

でも文芸だとプレビューっつってもグラフィカルなものではなくて文字だからパッと見分からなかったり表紙を有名な絵師さんが書いているとかで読んでみたらクソだったっつってもそれはクソなんじゃなくて全くリテラシーレベルがあっていないということなんだけど、文芸はそういうことが起こるんだよね。

 

でもガチな表現形式で文芸をやっている人間が、例えばそれがミステリの大御所だったとして、大衆娯楽系の人が書いたミステリを「軽薄だ」とかって言っちゃったりとかってのは相当アホだなと思うのはさ、アートシネマみたいなのが一番偉いとかって思いこんでいる人がアート的な雰囲気があるハリウッド映画を見て軽薄だって言うようなもんで、いや、同じミステリとかアート系にしても畑が違うんですけど・・・っていうね、そういう住み分けが曖昧なジャンルなんだよね。

 

まぁ逆に今は文芸誌は売れないとかって言われて文芸誌がもう腹くくっちゃってポピュリズムに走っちゃって表紙とかもすんげーポップな感じになってさ、んで難解なものとかは一切載せないでテレビタレントとか芸人とか芸能人の短編とかエッセイを載せるっていうね、まぁしょうがないんだけどね。それは音楽が音楽の内容で売れるというよりかは歌手の見た目とか誰がやっているかっていう話題性とかで売れる売れないが決まるのと一緒でさ、文芸にそういうピュアなものを求めてもしょうがないっていうね。

 

まぁどのジャンルでもそれは同じですよね。だってそれは文芸誌とかを出している出版社の苦肉の策なわけだから批判できないよね。安易なポピュリズムだっつって純粋芸術みたいなのばっかり載せてたら、ようは今の音楽表現の最前線を特集してみましたみたいなコンピがあって、内容が全部難解な現代音楽か電子音楽でもほとんど音がしないやつばっかり入ってたりとか(笑)そうなったら誰も聞かないわけですよね。だから芸能人が参加してるバンドの音源入れたり話題性があるものを入れるしかなくなるっていうポピュリズムになるのはしょうがないよね。

 

又吉で味をしめたのか分からないけどやっぱりまぁ有名人が何かを書くと単純に売れるからっつーんでポピュリズムが加速するってのはしょうがないよね。そういうのを文芸の没落と言うのは簡単だし、又吉を批判するのも簡単だよね。でもあれはあれでああいう表現形式なわけで、あれを面白いと思う人がいるわけだし、読む読まないは別として話題だからノリで買って読んでない人がいっぱいいても売れたのは事実なんだからそれは事実として捉えないといけないよね。

 

いや、書店に行くとくだらない本ばかりが並んでいて気が滅入るって話はショーペンハウエルが同じことを言ってたし、カネッティの眩暈のキーンもそんなことを言ってるじゃん?そんなのぶっちゃけ時代関係ないんだよね。いつでもそうなんだよね。でも文芸って音楽より全然マシで前になんたら賞を取るやつは大体くだらないって書いたけど、ちょっと訂正しなきゃいけなくて(笑)なんたら賞受賞みたいな人たちの若手の書き手の本とかをまとめて読んでるんだけどまぁふつーに面白いっすねっていう(笑)

 

通俗性はあるんだけど文学性がちゃんとあって、音楽性ゼロなものが話題とかアイドル的な人気で売れている音楽に比べると作家がイケメンとか美人だから売れるってのがあんまりないから(笑)全然文芸死んでねーじゃんと思うんだけどね。

 

俺が現在、なんか色々と書いている「自称作家」で、じゃあお前はどんなの書いてるんだ?っつって内容がヘンリー・フールみたいだったら最高に笑えるんだけど、別にまぁ音楽にせよ文芸にせよそれ自体を語るラインセンスみたいなのに自分も何かを作っているということは必須ではないからね。映画を語るのに自作の映画なけりゃ語れないってことじゃないわけでね。

 

ただ俺が美学校に通っていた頃に、同じクラスを受講していた女の子から「耳蝉さん、ヘンリー・フールって知ってる?きっと気に入ると思うんだ。是非、見てみて」なんて言われたことがあって、見たらまぁ案の定面白かったんだけど、今思えば俺がヘンリー・フール臭いんだろうなって思うんだよね(笑)天才オーラ凄いんだけど何やってるか分からないし実力ゼロかもしれないっていう(笑)

 

俺みたいに全く社会に順応せずにっつってもとある人からはちゃんと順応してますよって言われたんだけど(笑)やっぱまぁサラリーマン感ゼロだから、良い意味では外に出て何かの会話が発生したときに「何かやられてるんですか?」っていう、家庭とか勤め先とかが全く読めないような雰囲気とかファッションをしているもんだから、昔はよくいたであろう謎のプー太郎に見えるんだろうなって思うんだよね。でもそういうのってマネしてできるもんじゃなくて、長い間そういう生活を続けてきたからもうそういうのが全身に染み付いちゃってそこから抜け出せないっつーずっぽりだから出るオーラってのがあって、よく言えば「何かをやっていそうな人」なんだけど、悪く言えば「プー太郎か親のすねかじりかヒモ」っつーところですよね。

 

でもそれ言い出したら作家なんて大体そんな落伍者の集まりなんじゃねーの?って思うし、歴史的に見たら前に書いたけど古今東西ほぼ例外なくろくでなしか変人じゃん?そういうタイプなんだろうなと思って、美学校の子も俺にヘンリー・フールをお勧めしてくれたんだろうし、昔に横浜で手相を見てもらった時に「あなたは芽が出にくいんだけど、周りからはお前がそのままでいいんだよとかって肯定されて自然体でやっていけるっていう人なのね」とかって言われて「当たってんな」とかって思ったんだけど(笑)何をやってるか分からないやつってやっぱ絶対社会に必要なんだよね。

 

俺も何をやってるか分からないからね。実際。色々やってるかもしれないし、実は何もモノになってないかもしれないんだけど、でも俯瞰的に見ればどれもジョブズ的な点と点で繋がっているんだけど、やっているときは点としてしか感じられないっていうね。人間がまともであればそれだけ点同士の整合性というのを点の時点で見てしまって、飛躍するものをブロックしちゃうんだけど、なんでもやってみればいいんだよね。大局的に見ればそれは凄く整合性がとれたものになるはずだし、どうやって整合性ができるのか?っていうと各点の強度の強さだよね。今はそれやってなくてもやっていたときは全身全霊でそれに打ち込んでいたっていうことが重要なわけで。

 

周りからはそりゃ何をやっても中途半端とか何をやってもモノにならないとか、あとはまぁ俺はそんなに知り合いいないけど、幸いなことにドリーム・キラーみたいなやつがいなくて「まぁあなたらしくていいんじゃないですか」っていう「またあいつなんかはじまったよ」って思われてるっていうね、でもそういうやつが結局、何事をなさなくてもそういうやつを白い目で見ない寛容さって絶対必要なんだよね。

 

こういうのって勝てば官軍みたいなところがあって、狙ってなくて色々やっててたまたま評価されるのがあったりすると一気に偉い人になったりっていうか承認されると一気に見られ方が変わるんだけど、本人はいろんなその時の気分による点に集中しているだけっていうね、ただそれって難しくて、やることに承認欲求とか狙いみたいなのがあると変な自意識が入るから濁るんだよね。すげーやるモノに対してそれが邪魔になっちゃうっていう。

 

だから書くにしても音楽やるにしてもやることが楽しいからやってるんだっていうそれだけでいいんだよね。売れようとしても無理だし(笑)狙って売れるものでもなければ、音楽も文芸も斜陽産業で不況って言われて何十年も経ってる産業だから、そこに変な狙いなんて必要ないんだよね。だからこそ余計に勝手にやったほうがいいんだよね。でもそれが本当の内発性からきてたら普通続くはずだよね。書かずにはいられないはずだから。でもやめるってことはなんかを狙ってたってことだよね。どっかの出版社から出そうとかなんたら賞を取ろうとかって思ってやってたってことだから、まぁそういう時点でもうそれって表現として終わってるんだよね。

 

誰にも読まれないだろう小説を書き続けるって異常なことかもしれないけど、アマチュアで音楽やるのも一緒なんだよね。試しにネットにアップしたってエグいぐらい誰も聞かないからね。そりゃそうだよね。ネットってプロもアマも関係なく無料かサブスクで聞けるから、限られた時間の中でアマチュアの音楽を聴く層がどれだけいるのか?っていうのを考えたときに聞かれないのは当たり前だよね。

 

小説も同じだよね。過去の名作から古典から現代のなんたら賞を取るようなエンタメ系から純文学から色々ある中で、誰がアマチュアの小説を時間をかけて読もうと思うか?っつー話だよね。同じ芸術でもプロの芸術とアマの芸術があったら限られた時間をどれに使うか?ってプライオリティはプロの芸術になるのに決まってるんだよね。

 

結局、いつもの音楽の話とかと似てきちゃうんだけど、芸術とエンタメは違うってことだよね。タルコフスキーを100人が見て100人が面白いと思うわけがないわけで、でもまぁ鬼滅の刃だったら100人のうち80人ぐらいは面白いとか、少なくともタルコフスキーよりかは面白いって思うはずなんだけど、それはもうすでに比較するのが間違ってて、どちらが文化的に崇高かどうかではなくて、芸術とエンタメを比べてもしょうがないってことなんだよね。

 

多分、そこで多くのアマの致命的な面って、どこかで自分の作品で承認欲求を満たそうとしていたり、どっかから作品が出て「先生」とかって呼ばれるのを夢みてたりとか、その結果、本人の中で芸術とエンタメの境界線があいまいになって、最初は好きで書き始めていたのに承認欲求っていうエゴが出てきて、それが結局、多くの人に認められるような作品=エンタメになっちゃって、中途半端な芸術性とエンタメ性が同居したクソつまらないものになっちゃうっつーところなんだよね。

 

分かる人だけが「こいつホントにアホやな。こんなことに人生費やしてこんな労力費やして。でもおもろいやんけ」って思われればいいものを大衆に届けようなんて無理だし自惚れるなって話なんだよね。売れるものが書きたいんだったら売れている小説を買えるだけ買ってきて金が無くてもペイできると思い込んで借金してでも買って、んでネットとかアマゾンのレビューを読んで何が世間に受けているのか?というのを分析して、工学的に色々な面白さを詰め込んだ面白さの科学みたいな小説を書いて出せばいいんじゃないですか?って話なんだけど、そういう工学に興味があればいいと思うけど、おそらく小説を書きたい!と思って書き始めた人はそういうことに興味がないか、あとは下手にそういう要素を入れることで自爆するかっつーことになるんだよね。

 

ネットフリックスが見ている人間の顔をスキャンしてこの人がどういう風な結末になれば一番満足するだろうか?という風な映画になるっつーマルチエンディングの映画とかドラマのシステムを作っているらしくて、まぁ工学ってこういうことですよね。何を作りたいかとか表現したいか?ではなくニーズにこたえるってことでしょ。でもそれってAIの仕事なんですよ。面白いだけならAIで絶対可能になるんだよね。それってAVとかだって一緒でしょ?視聴者が求める抜きどころってのがあって、それはもう理系的なアルゴリズムの世界だよね。

 

でも表現ってAIに還元できない本質的に意味不明なものというか、ある意味で意味に生きる人間にしか根差さない、意味を求める人間だからこそ、意味不明であったり意味があっても言葉に還元できない何かがあるからそれに感動したり言葉で説明するのは無粋だから面白いから見てみて!とか読んでみて!とか聞いてみて!ってことになるわけじゃん?

 

言わばそれは工学的に記述できるような面白さの集積なんではなくて、主観的な体験なんだよね。それは人生をかけてそれをやって小説でも音楽でも一作そういうのができれば御の字というぐらい難しいものだと思うんだけど、なんかどうせやるならそういうのやったほうがいいし、AIとか他のもっと面白いものを書けるエンタメ作家が死ぬほど量産できるようなものを、ようは誰かで代替可能なものを自分がやる価値ってないんですよ。楽器でもうまい人は腐るほどいるしライターでも小説家でも面白い文章とかストーリーを書ける人は腐るほどいる。それを認識するっつー前提が必要なんだよね。

 

で、そんな中で自分は何をやりたいか?っていうことなわけじゃん?それは世間に問うものなんじゃなくて自分のためにやるものだよね。だからまぁオナニーと一緒なんだけどね。でもそれはパースペクティヴの差なんであって、DJとは客を盛り上げてハコのアルコール消費量を上げるサービス業と考える人もいれば、選曲の妙というDJの表現の場だと考える人もいれば、色々なわけだよね。まぁただやっぱ単純に盛り上がるDJに人気がいくのは当然だし、ハコが「次もお願いします」って頼むのは盛り上がるDJだよね。経済的なものがイニシアチヴを取る世界ってのはそれが当たり前だから、そんな中で芸術性とエンタメ性を混同して悩んだりするのは相当馬鹿らしいんだよね。

 

だから良い意味であきらめが必要だしバカにならないといけないんだよね。凄く不毛で意味がないことなんだけど、自分にとっては意味があって面白いからやり続けられるっていうところだよね。もしくはなんかそれをやっちゃうしやらざるにはいられなくなるものだよね。だからそれってどうエネルギーを配分するか?というより人生の全てをそこに捧げてもやりたいと思うかどうか?っつーところだよね。あとは俺みたいに色々とやってきてやることがなくなって、消費者としても消費するものがなくなって、なんかもうマジでやることないって追い詰められた道楽者がギリギリのところで見つけることができた続くか続かないかは別として余生の全てをそれに捧げてもいいと思えるような何かだよね。そういうのが見つかる人ってそれだけで幸福なんだよね。俺で言うと小説が書けているという時点でもう幸福なわけ。で、どんどんハードル上げて120万文字ぐらいまでいかないとこれは完成とは言えないってなると永遠に終わらないから永久機関じゃん?(笑)

 

やっぱりプルースト並の分量がいいんだけどね。紫式部にしてもプルーストにしても、書いてる間の生活はそれしか考えていなかっただろうから、その間のその人間の強度といったらないですよ。それは文学的に評価されて偉人になったというより、ほとんどそんな経験ができない人が大多数の中で、何年間も永遠とそれのことばかりを考えてそれに打ち込むことができたなんていう人生経験を持っているという人生の豊富さと強度だよね。それが何よりの本人にとっての財産なんじゃないか?って思うよね。どっちを押しますか?出した音源とか小説とか論考的な本がバカ売れしてそれで一生食っていけるボタンと何十年近くも誰にも邪魔されないで毎日ゾーンに入っては創作活動に打ち込めるボタンがあったら。

 

所詮前者は金ですよ。金は他でも得ることができますよね。それでも金持ちにはなりたいし金があるに越したことはないけど、後者はある意味で金がどれだけあるかは謎だけど、少なくとも外的要因に邪魔されることなくゾーンに入って創作を永遠に続けられるボタンなわけで、それって金で買えないですよね。

 

すげー金が入ってきて世間にも認められて、んでじゃあ次は?ってことになるわけですよ。「先生!」とかって呼ばれて、良い洋服を着て上手い寿司屋でお任せ握りとプラスアルファ大将のお勧め握りをいただいて、最高の一日だったなぁー。あーそういえば明日、予約会で予約していたジャケットが来るってラインが入ってたから取りに行こうとかね、そういうのって飽きるんですよ(笑)あと大して金が無くてもそれに全額つぎ込めば庶民でもできなくないことなんだよね。

 

でも後者はできないっすよ。どんだけ金積んでも永遠にゾーンに入って創作を続けられるボタンって前者を選んだらできなくなるわけだからっていうか、この思考ゲーム中は便宜上そうしてください(笑)まぁ後者の価値と言えば計り知れないわけですよ。言わば永遠に無害の麻薬でぶっ飛んでるような生活を身体を壊さずに何十年やり続けることができるっていう夢のニルバーナボタンですよね。俺は迷わず後者を押すよね。

 

偶然にもタイトルが面倒で「文学三昧な日々」ってなってるけど、三昧ってまぁ知ってる人も多いと思うけどサンスクリット語のサマーディを音写したものなんだよね。仏教的な交渉な話は置いておいて、軽い意味で使われる三昧はまぁめっちゃそれに集中してるってことだよね。仏教では三昧の後、入滅ってことが理想なのか分からんけど、別に死ぬ必要はないわけでね(笑)

 

すんげーラフな解釈をしてしまえば何かに没入して一点集中しているときの状態というのは何にも代えがたい尊いものがあるっつーところだよね。でもそれがネトゲーだったり金のかかるソシャゲーだったりパチンコだったりすると時間とお金の浪費で終わっちゃうんだけど、仮にそれが何らかの表現だったら形が残りますよね。それが文章なのか音楽なのか絵なのか分からないけど、ゾーンに入り切ったものが放つオーラって独特のものがあるんだよね。

 

プルーストは読んでるとラリってくるって前に書いたけど、あれはまさに読むことでプルーストがゾーンに入りながら書いていたのいうのを追体験できる麻薬みたいな本だから、だから俺もプルーストみたいなゾーンに入りたい!っていうことになるわけじゃん?別にゾーンに入って書いたものがプルーストのような評価を得るか得ないかなんてどうでもいい話なんだよね。あとプルーストの文学的評価というのも相当怪しいもんだと思う。あんな個人の永遠と続く回想に文学的価値があるとは思えなくて、あれはストーリーがどうのじゃなくてラリってくる話を聞くというのを体験することでプルースト的体験をするという追体験のアトラクションのようなものなんだよね。

 

だからストーリーを追うと全然面白くないわけ。どうでもいい話が永遠と続くわけだからね。何かが起こるわけでもないしただ個人の思い出なんだから。そうじゃなくてそういう個人の思い出が永遠に連鎖して異常な量続いて実質それが終わらないっていう連続性がそのままそこで維持されているっていう、連続性が動的なままそこに現前しているというダイナミズムの凄さにあるわけで、それが文学作品というような静的なものに収まりきらずに動き続けているというところにヤバさがあるんだよね。

 

それは連想の連続体がそこに現前しているだけだから構造的な分析とか精神分析的なよくある文芸評論とかの一切が全く無化されるものでさ、言わばディズニーランドのアトラクションに評論が通用しないのと一緒で(笑)評論というより並んで乗れば分かるよっていうそれでしかないっていう究極の現前性に文学的価値があると思うんだよね。

 

あとは完全に引きこもって世間とか関係ないっつー徹底したその引きこもり性だよね。引きこもり文学ってのは色々あるけど、プルーストは常軌を逸してるよね(笑)んで完全に主観の脳内ストリーミングの写経だから映像化が不可能だから、不可避的に鑑賞の仕方が読むしかないということになる点も文学的価値が大きいと思う。ようは文字でしかそれを体験することができないという形式の価値だよね。

 

もちろん出てくるストーリーの断片をフラグメント化してショートストーリー化することは可能だけど、プルーストの本質はそんなところにあるのではなくて、永遠に病的に続くあの無限の連想じゃん?「豊かな連想」っていうメインストリームの評価が高いからそれが「豊か」とされているだけであって、俺としてはメインストリームでまっとうに評価されているアウトサイダーアートだと思ってるんだよね。しかもあんな形式はやはり文字でしかできないだろうってところがあるのが凄くポイントが高いんだよね。何にも置き換えられないからね。

 

映像化できるものとか要約とか評論できるものが芸術的にレベルが低いとは言わないけど、俺的に最近色々読んでてやっぱり文学の神髄は読んで字のごとく、文字という形態じゃないと成されない表現とか芸術っていうところなんだよね。だからそれは別にストーリーが凄いとか伏線を一杯張っておいて回収するのが凄いっていう知的で構造的なところだとか、そんなものは表面的でしかも他に何かでもそれは表現できるわけで、文字じゃないと不可能なことってのが俺的に今の俺の中の文学の価値とか面白さってことなんだよね。

 

プルーストは意図的ではないにしても超アナーキーなわけで、何を書いても成立するってことを証明したと思うんだよね。シュールレアリズムが知的にそれを追求したんだけど、プルーストはそういう概念無しに天然にそれをやっちゃって、結果的にナンセンスではないんだけど、どうなるのか何なのかが分からない話っつっても具体性が無い話とかではなくて、具体的な話が永遠と続くっていうスタイルを確立しちゃったわけで、例えばフリージャズとかフリーのノイズインプロヴィゼーションでも結局はそれは楽器とか使っているものに音が還元されてしまって、真の意味ではフリーじゃなくなってしまうという意味で即興は不可能だとか、まぁそれはベイリーとかの話にも繋がると思うんだけど、プルーストは永遠に即興をやっててしかもその演奏を何十年も続けているっていうね、しかもそれは音楽じゃないんでその場で人に聞かせる必要がないから、部屋に引きこもってそれをずーっとやってたとか狂人中の狂人だと思うんだよね。

 

ヘンリー・ダーガーみたいにリアルに頭に何かしらの問題を抱えていたということではなくて、単純にブルジョワ出身で大学出た後は定職につかないプー太郎生活をしてて思い付きで30ぐらいから「失われた時」を死ぬまで書き続けたとか、ヤバ過ぎだよね(笑)さっき俺が書いたどっちを押しますかボタンを両方押しちまったやつってことになる。生活に困らないブルジョワでなおかつゾーンに入り続けることができたって人類を見てもなかなかいないでしょう。まぁカントとかショーペンハウエルみたいな、どちらかというと思想家はそういうのが多い気がするけど、ゾーンに入ってるやつらのポテンシャルって凄いんだよね。それは複合的な要素でカントが仮に超貧しかったらあんな緻密な哲学書とか思索はできなかったと思うし、それはショーペンハウエル然だよね。まぁショーペンハウエルは名前を出した連中の中では世俗のことで苦労をした方だと思うけど、それでも隠遁できたというのはやっぱり本人のポテンシャルを発揮できる場に恵まれていたということになるよね。理解はされなかったにしても。

 

ウェーバーとかの仕事がはかどったのもメンタルやられて精神病院だか療養施設に入った後っつー話も有名で、偉人に引きこもりが多いのは、偉人に引きこもりが多いというよりかは引きこもって何かに没頭するっていうゾーンのパワーが人間のポテンシャルを引き出すっていうことだと思うんだよね。そこに人間の天性とか才能が加わると鬼に金棒になるっていうね。

 

それは環境的要素と才能的な要素が複合的に作用してアウトプットに繋がっているっていうことで、環境的要素が整っていなかったら才能を発揮できなかった人たちっていっぱいいると思うんだよね。もしくは環境的要素が整っててもあんまり才能が無くて大したアウトプットができなくても、そういう存在って無用者っていう豊かな存在なわけで、それはディレッタントとかプー太郎とか道楽者もそういう系譜に入るんだけど、無気力なニートとは違うんだよね。ゴンチャノフのオブロモフもいざ読んでみると全然引きこもりじゃないし(笑)すんげー会話してるんだけどやっぱ無用者なんだよね。でもそういう人間がいるということが豊かなんだよね。

 

ってことで唐突だけど終わるわ。ウェルニッケ野とブローカー野がビンビンなのが伝わればいいかなと思いまするね。こういう感じで毎日書いてるんだよね。ウォール伝は出尽くしてるけど題材が小説の場合、ゼロからなんで何を書いてもいけるから書きまくれるのね。それがもう楽しくてしょうがないという。

 

ではまた。