文学三昧な日々。その10。

こんなに創作が楽しいんだったらもっと早くやってればよかった。でもあれなんだよな、小説家になるのはアラフォーぐらいが良いと言われているのはあれじゃんね、それまでに色々なものに接したり経験をしたり読んだりっていうのがある中で、最終的なアウトプットとして小説があるってことだから、適齢なんだと思うんですよ。

 

でも、どうなんだろうな。生娘をシャブ漬けにするって表現としてはありなんだよね?なんかそういうのがダメになってるとかさ、そういうのはアウトですとかって言われたら俺のやつってアウトなもんだらけで、そういうのを狙っているのではなくて自然にそういうのが出てくる人の表現形態を奪うってことになるよね。「生娘をシャブ漬けにする」ってバロウズっぽいよな。

 

あとまぁなんつーのかな、既存の形にはとらわれてないっつっても、結局、素でやるとすんげー俺のポストモダン気質が出てくるんだよね。意識してないのにポストモダン文学の幻想を追ってるようなものになったりするからね、だからあれなんだよな、色々ともっと要素をごった煮にする必要があると思ってっつっても大体前にも書いたけど、小説のジャンルとして浮かびそうなやつのひな型みたいなのってもう手元にあるんだよね。

 

なんかんで書きすぎて指の先がギター弾いた後みたいに硬くなったりしてるんだけど、あんまり食べなかったりして不摂生になってるんでしょうな。没頭すると大体そうなるよね。体調崩しましてね。ただまぁ体調崩しましてっつってもメンタルだとヤバいけどフィジカルは本当に良いよね。治るからね。いくらでも。

 

んであれなんだよね、なんか文学的価値とかってバカバカしくなるじゃん?っつーかそういう世界がすげー嫌なわけじゃん?文学的表現とかね、すべてもうクリシェだよね。んでそういうのをリセットして考えるとさ、高尚なものをトレスしてみるとかってのもバッハをサンプリングしてみるみたいなことと同じことなのかもしれないんだけど、高尚なものっていう文学の名作って言われてるのってアカデミズムとかで囲われてる感じがするから、そういうのからフリーにしなきゃいけないんだよね。

 

まぁそういう話はいいか。んであれなんだよね、そういえば俺としたことがこういうのがまだあったんだって思ったのがBL小説とか携帯小説が紙媒体になったやつとかさ、あと学園もので女子が先輩に恋するやつとか、なんか数か月前の俺だったら「偉大な小説家の卵である俺にとってはあんなものはゴミだ」とかって思ってたんだけど、今は認識的に極北だよね。もうそういうのを買い込んでは読んでますよ。

 

で、なんか素で読んだら痛いポエムみたいなやつもさ、ポストモダン的感覚を肌で超越しちゃっている時代に生きている人たちにとっては「あえて」のものである場合もあるわけで、俺が村上春樹をありえないぐらいベタだったり、まず人間が言わない言葉とかジェスチャーを介在させてなんか言ったりやったりするっていうハイパーリアルな世界って認識してからはあれじゃんね、読み方が変わるからめっちゃ面白くなるわけじゃんんね。

 

俺が大量に買って読んでるBL小説とか先輩に恋する私みたいなのを書いてるのってまぁ当たり前だけど女性作家が大半なんだけどさ、少なくとも手元にあるのは女性作家のものしかないんだけど、凄く豊かな世界だよね。女性作家とか腐女子の幻想ってもう一個のジャンルなわけでさ、食い尽くさない理由がないんだよね。名作とか小説家になるなら読んどけ!みたいなやつなんていつでも読めるわけで、大切にしたいのはこういう気づきですよね。BL最高じゃん!とかね、先輩に恋する乙女の物語最高!っていう認識はいわば俺の文学的なセンスなわけでさ、そこを磨いていけばいいんだなって思ったんですよね。

 

なんか俺ってやっぱ真面目だから真面目な本読んじゃうんだけど、ああいうのって本当に思考を硬直化させるよね。今はなんか組んだばっかのパンクバンド擬きみたいなのをやってると思うんだけど、このRawさを大切にして変にパスティーシュとかそのまんまコピーとかをやってるうちに下手に書くのが上手くなっちゃってってなるとまぁあれですよね、パンクバンド擬きのクソアマチュアなインディーズ時代のデモ音源がよかったりするのと一緒でさ、んでそのバンドが練習して上手くなっちゃって、音もちゃんとスタジオでとるほうがいいんだとかって思っちゃってさ、いや、何もできないやつらが集まってガーガーやったのをカセットでエア録音したからいいんであってね、その良さってのを洗練させるってことはRawさ加減を無くすってことじゃん?

 

まぁこうやって書いてて俺の文章が技巧に落ちることはまずないだろうなとは思うんだけど(笑)かといっても文学音痴キャラってのを確立するのは嫌だしね、実際に今めっちゃ読んでるから音痴どころか俺のことだから一瞬で文学博士みたいになっちゃうわけでさ、そこでより小説の空虚さとかくだらなさを今より分かってればいいなと思うんだよね。良さとか素晴らしさを発見したらもうダメだろうなーって思うんだよね。

 

小説はダメだからいいんであってWell-Madeなやつほどつまらんものはないからね。それは古典も同じなんだよね。ちなみにBLとか先輩に恋する小説がダメ小説なんじゃないんですよ。当然出版されてるレベルだからうまいんだけどジャンル的に純文学と比べてどうか?って言われると現代音楽とスカム系のノイズバンドを比べるようなもんでさ、同じ文学なのにそういう偏見があるよね。

 

それは同じ音なんだったら音楽なのにコンテキストって意味でそれがハイカルチャーなものでさ、先生方とかインテリが読むようなもんでさ、まぁそういうのって大体スノッブなやつが多いんだけど、実はキラッと光ってるのはインテリが見向きもしないようなエンタメ小説とかBL小説とかにあるんだろうなってすげー思うわけね。実際にそうだったからね。なんで小説がこんなにつまらないんだろう?っていうとそれはハイカルチャーなコンテキストで語られる小説の大半がつまらないものばっかだからなんだよね。でも文字の世界って音の世界と同じでフリーなのにさ、でも小説=ハイカルチャーなものっていうか、まぁ文学=ハイカルチャーなものってことか。まぁつまらんのだよね。

 

でもそれは自称ハイカルチャーに切り取られた小説の一部なんであってさ、世の中にはBLも携帯小説もあるわけで、それが平等に並んでないとつまらないんだよね。だってすげーよ、ドラッグやりながら乱交に耽ってるBL小説の表現力ってその辺のつまらない小説に比べてすげー威力あるからね。でも結局、文学でマジで凄い人たちって人一倍一般的に崇高とされる文学の世界をつまらないものだと感じていたからすんげーエッジが利いた文字の表現とかを模索する結果になったわけでさ、例えばあれなんだよね、BL小説とかって最初からなんたら賞みたいなのを狙ってないから媚びてないんだよね。腐女子の欲求とか幻想を満たすことに全パワーが集中してるような感じだから、結果的に表現として凄くピュアなものになるんだよね。商業を意識しないガチのブラックメタルとかノイズとかが純粋なのってそこじゃん?

 

ひたすら欲求に忠実であることが文学ではこんな素晴らしい純粋さに結び付くんだ!って思うと俺的にすんげー感動なんだよね。あとBLの奥の深さはそれが女子による幻想だからなんだよね。仮に男が抜ける官能小説を書こうと思って己の欲求のままエロい描写を書き続けてもそこは著者の実存が出ちゃうじゃん?著者の性欲が文字になったようなやつはつまらんのだよね。なんでBLが良いのか?っていうと女性による男性のBLの世界っていう架空の世界観で「アツい!キャー!」ってなるようなものをひたすら追求するっていうさ、かといっても自分が男性として男性を求めているということでもなくて、あくまで女性の、セクシャリティは関係ないにしても、ヘテロセクシャルで旦那さんとか彼氏とかが普通にいる女性が書く幻想の欲望の世界ってことだよね。

 

なんかでもこれって文学の公式なんじゃね?って思うんだよね。著者の実存丸出しのやつがオナニーに終始しててつまんねーってのはみんな国語の時間とかで分かってるわけでさ、本当に面白いのってそういうある種、異様な欲望の対象とか、実際にはありえない欲望の対象を欲求するみたいな力学があるものなんだよね。

 

でもそれがラカンがどうのフロイトがどうのみたいな理論に還元できるようなもんじゃなくて、なんだか分からんけどそれが面白いという不条理だよね。描かれている世界が不条理なんじゃなくて面白いと感じる構造が不条理なんだよね。観念的な面白さってことなんだけどそれってやっぱ文字ならではって気がするんだよね。

 

あとまぁプルーストの失われた時を求めてを凌駕する分量のものを書きたいとかって思ってたらプルースト自体にハマった俺なんだけど、本屋でプルーストについて書かれたやつとかをパラパラ読んでみても全然的外れっつーか俺が的外れなんだろうけどさ(笑)プルーストの白眉は狂気とバロウズが意図的にやろうとしていたようなカオスを素でやっちゃったっつーサイコっぷりなわけでさ、ようは失われた時を求めてが精神病院の壁に書いてあったら「サイコ野郎が永遠に書いた妄想の連想」なんだなって思うわけでしょ?と言うかそれでいいはずなんだよな。俺はそういうイメージで読んでるんだけどね。

 

健常者の様で健常者じゃないからな。完全なるサイコだよ。でも良いサイコね。サイコだったらなんでも良いみたいな倫理的なアナーキズムは絶対ダメだからさ、良い狂気ってやっぱり良いんだよね。だとすれば俺が書く上で何が必要か?っていうと変にうまく書こうとしないということだったりね、ウォール伝を書くようにして書けないようなものだったら大体ダメっていうかさ、実際にウォール伝っぽくないところって大体つまらないから消すことになるんだけど、やっぱり本質はここにあるんだなって思ったんだよね。

 

プルーストの失われた時を求めてってのはサイコ野郎が精神病院の壁に書いた長文なんだけどさ、でもあれって禅の公案が永遠と続いてるような話なんだよね。そうなると「失われた時」が悟りになっちゃうから、それは何か概念に還元されるものになっちゃうから違うにしても、イメージ的にはそれなんだよね。本人もそういう風に書いてるし。いや、禅という話は出てこないけど、マドレーヌの話なんか完全に悟りの話だからな。

 

そういう世界とは無縁なつまらないリアルに早くから愛想をつかせて、永遠と観念と悟りの世界を追い求めたっつー結果が失われた時を求めてなんだよね。だからあれを変に優れた文芸作品!とかって読んじゃうとクソつまらないわけでさ、読破できる人が少ないのも読み方が分からなくて、普通の小説のように読んじゃうからつまらなくて途中で挫折しちゃうわけでさ、それは俺が村上春樹の読み方を変えることで村上春樹が超絶面白くなるのと一緒で、プルーストもそうなんだよね。ただ小説をつまらなくしてるのって「これ」っていうような読み方の囲い込みの押し付けなんであって、でも文字はフリーだからね。

 

音楽だとそれが顕著なんだよね。そういう意図で作られたものじゃないのにすんげー狂気を感じる!とかさ、モンドとかストレンジの世界とかってそうじゃん?でもそれは音が文章に比べてフリーな形で聴かれることが多いからなんだよね。でも文章となると「どう読むか?」っていうフレーム問題が介在しちゃって、そこで変な教育を受けるからどの小説も大体つまらなくなるんだよね。フレーム問題って別にAIの話じゃなくてね。

 

どう読むか?というよりエクリチュールは自由に読まれることを欲望してるのに、変な教育とか文学論とか先生方のゴタクが文学をつまらなくしてるんだよね。文芸評論とかが大体つまらないのもそれなんだよね。本当にありきたりなフレームでしか読んでないから全然小説のダイナミズムが理解されないばかりか、それがあたかもちゃんとした評論のように読めちゃうからそれに沿った読み方をすると評論をしたそいつのフレームで小説を読むことになっちゃってクソつまらない現象が加速するんだよね。

 

だから評論とかいらないんだわ。評論で納得してもそれが良い評論でもそいつのフレームで読むことになるから、なんかそれはもう違うでしょう。能書きを聞きながら食べる料理みたいなもんで。

 

なんかあんま色々と書きすぎると本編に支障をきたすらしいので、ちょっと控えめにしようかな。それにしてもさ、スケール感ね、120万字は簡単だな。色々と詰め込めば力業でなんとかなっちゃう。でもプルーストサイズになると力業だけではどうにもならないんで、どっかで俺が狂って、元々ねじが外れている頭のねじをもっと外していかないとあのスケール感は出ないから、やっぱりスケール感はプルーストサイズがいいかなと思ってるんだよね。明らかに達成可能なスケール感は先が分かっちゃうからつまらない。途方もない分量で、なおかつ繰り返しとか似たようなモチーフが無くて、プルーストみたいに永遠に書き続けられるってのは、俺がもともと色々と書き続けられるのとはレベルが違い過ぎるからね。

 

ユリシーズとかフィネガンズ・ウェイクも達成可能な分量だよね。分量で言うとそんなに大部でもないのか。まぁプルースト尺にすると全部大部じゃなくなっちゃうよね。力業ってのはいきなり宇宙人を登場させたりSFみたいな展開にして、結局はケチなやり方で文字数を稼ぐというくだらないことになってしまうんであって、俺が目指しているのはプルーストの不断の連続性なんだよな。ましてや本の中にエイリアンやら意味不明の登場人物が出てくるということもなく、リアルな世界での無意識的記憶によって永遠に綴られているというところに、他のジャンルの様々な狂気が表現されたものって色々あると思うけど、キングオブ狂気なんだよね。どうやったらプルーストみたいに書けるようになるんだろう。

 

ポストモダン的手法だとかね、コラージュとかパスティーシュなんて誰でもできますよ。でもプルーストのように書くってやろうと思ってできるもんじゃないし、文章の模倣をしたところで、プルーストの書いてる時の精神状態をトレスしないといけないから、もう俺の頭の中はプルーストのことだらけでいっぱいでさ、ジョイスの作品の場合、言葉に酔うことができるっていう酔いやすい言わばダンスミュージックのようなリズム感があったりするからそういう意味でポップなんだけど、プルーストの場合、永遠とクラシックがかかってるんだけど、クラシックのかかり方が異常っていうとんでもないことになってるんだよね。あれのヤバさは今後もことあるごとに書いちゃいそうだわ。

 

あんなヤバいのを前衛文学とかポストモダン文学とかが出る前にやってたのがヤバ過ぎるんだよね。

 

まぁそんな感じで今日はこの辺で。

 

んじゃまたね。