文学三昧な日々。その12。

結局、こないだ書いたことってさんざん俺がサンプリングの話で繰り返し書いてたことと同じよね。メロディが出尽くしてるとか展開が決まってるとかってまぁどんなジャンルでも逃れられないお決まりのストーリーとかさ、変わったストーリーでもそれは元に何かがあるやつをアレンジしたってやつでまたこれもすでにありますよねって話でさ、知れば知るほど書くことができなくなる地獄になるよね(笑)

 

だからやっぱ読むことって大事なんだよね。例の各ジャンル1000冊読めって言ってた作家はそれで頭の中に表現のバリエーションとか場の描き方とかのライブラリを作って、それで自分のを書くときに所与のパーツを使って再構築しろって言ってるんだよね。作家ってバカじゃないから音楽やるやつよりよっぽどそういうの分かってるよね。スプートニクの恋人をコピーしながら読んでたんだけど、小説ってのは長々と今まで表現をしてきた人たちの骨を集めて組み立てるみたいな話で、ただまぁ組み立てるだけじゃダメで、そこに魂を吹き込む必要があるみたいなことを言っててさ、まぁなんかこれに意識的だったらいいと思うんだよね。

 

出尽くしてるから書けないし村上春樹も書くことがないってところから始めようっつってバー経営の傍らで処女作書いたわけでしょ?だからまぁ音楽とかよりいいよね。作家が自覚的にならざるを得ないからね。出尽くしてるしオリジナリティなんてないってことを痛感させられるわけじゃん?もしくは日本の若手の文学だと80年代ぐらいから飛び道具みたいな感じの、今までにはなかった表現みたいなのが生まれたんだけど、結局なんかアクロバットでしかなかったなっていうね。

 

大量の屍の山だよね。文学って。音楽より酷いわ。俺も文学的才能とかそんなのないしあっても勘違いしてるだけだって思ってるから最初っからコピペ以外やる気ないし、それは音楽でも同じように俺が仮に凡庸な何かをなぞったところでなぞったものしか出ないからね。だからだったら「これいいな」ってやつを持ってきてそのまま使った方が早い。マッシュアップなんかはその典型だよね。もう曲ごと持ってきちゃう。それって俺が昔から書いてる作家性みたいなのの否定なんだよね。

 

自分はただのフィルターでさ、誰々のトラックとこのラップのアカペラでこういうのができましたっていうフォーミュラを発見するということでしかないっていうね。でもそれはなんでも同じだよね。でも文学に関して表現欲があるのは使い捨てみたいな音楽の終焉の自明性とは裏腹に変なロマン抱いてるやつらがいるし、なんかそういうくだらないロマンをぶち壊したいってのがあるんだよね(笑)それは野心ですよね。

 

まぁ別にそれは冷静に考えればぶち壊れてるし、オリジナルなんてありゃしないってピカソぐらいの時代から言われてたことでさ、あえて壊さなくてもわかり切ってることなんだけど、でもまぁなんかいや、自由にやっていいよっていうのを提示するって重要だしやっぱりそれは俺の表現欲なんだろうなって思うんだよね。だから色々な断片のコラージュとかエフェクトをかけて分からなくなってるような素材の集積のようなものでもリリースしたくなるわけだよね。まぁリリースっつーか発表か。誰も聞かないけどね。アクセス数3桁いったらヤバいっつーレベルなんで(笑)

 

でもなんかさ、文芸ってそういう意味で音楽よりもっと自由なんだよね。変なオリジナリティとか才能とかに悩む前に俺みたいに「んなもんねーんだよクソが」っつってやっちゃうっつーことが誰にでもできるからね。んでプルースト以上の尺のものを書く!なんて豪語してやっちゃうっていうね。

 

小説の世界ってのに気づき始めてから、そういうものがモチーフになってる映画とかあるけどああいうのがすげー悪影響をもたらすんだなと思ってさ、なんか君しか紡げない言葉を紡げとかさ、何百年前の文芸の話をしてるんだ?みたいな、極度に小説家ってのかロマン化されてるのが多いよね。特に日本ってなぜか文豪とかが好きだからアイドル化されちゃってるんだけど日本の文豪だってコピペ名人だらけだからね。海外小説を読んでそれに影響受けて書いてるわけでさ、まぁだからあれなんだよね、純文学でもミステリでもなんでもいいんだけどポーとかアガサ・クリスティーとかあんま詳しくないけど(笑)やっぱオリジネーターっているんだよね。でも無から作ったわけじゃないんだけどね。

 

近代だとジョイスとかプルーストとかウルフとかがいて、んで実験系とかポストモダン系だとバロウズとかピンチョンとかベケットとかギャディスがいたりなんかして、音楽と同じよね。指で数えられるぐらいのオリジネーターレベルの人たちがいて、他はそういうのに影響受けて劣化コピーしてるやつらが大半っていうね。劣化コピーでも面白いのを作るやつもいるし、オリジネーターが型みたいなのは作ったけど、その型を使ってオリジネーターより良いのを作る作家ってのはいるわけでさ、俺が言いたいのはオリジネーター以外いらねーってことではないんだよね。

 

ただまぁ知っとけよっつーかさ、俺が文学部の先生だったら「小説を書こうと思うなら諦めてください」って言うよね(笑)数学とかと同じで君らみたいな凡人が考え付くようなことなんてとっくに証明されてます。それでもやろうと足掻くなら幸せを捨てて数学に殉ずるなり、文学なら某作家先生が言っていたように、各ジャンル最低1000冊読んでから書きましょうっていうね。お前が書けないのはインプットが足りないからだってことなんですってはっきりと言うよね。でもインプットしてアウトプットがあるってことは無からは何も生まれないってことだから、だから各ジャンル1000冊読むぐらいの努力をしないと何も生まれないんですっていうね。

 

で、俺はそこにあれだな、SFとかロマンスとか以外に官能とかBLとか携帯小説とかゲテモノジャンルみたいなのも入れるかな(笑)だからそもそも小説ってそう思うと数学と同じで仕事の片手間でできるようなもんじゃないんだよね。なんか変に夢を持たせるのは罪だなって思うんだよね。紙とペンがあればだれでもできます!って罪過ぎる言葉だよね。結局詰むからなそれって。

 

書き始めて小説とはなんぞや?とか考えるようになって色々分かったのはある程度予想していた以上の10倍ぐらいは書くのが大変ってことでしたね。いや、書くことは俺にとっては楽よ。ただ作品として仕上げるとか書き続けるということは尋常なことじゃないってことなんだよね。あとテクニックとか「書き出しはどうすればいいのか?」みたいなハウトゥーを受講して書けるようになるようなものなんかチンカスがついたティッシュみたいなものなんで誰も読みませんってことだよね。すんげー考える人が各ジャンル1000冊読みながら考えて考えて、んでそれを努力と言うかはともかくとして、そういうすんげー無銭の下積みがあってようやく書けるわけでさ、だからそういう人が書いたものは常人が書いたものよりおのずと凄くなるんだよね。何しろインプット量と小説家として考えている時間が半端じゃないからね。

 

あと紙とペンでできます!みたいなのに乗っちゃうのってリテラシーの無さだよね。実際に文芸っつー修羅の国では凄まじいシノギの削り合いの歴史なんであってさ、いろんな超絶的に頭が良くて本を読んでる作家が色々と葛藤してきたっつー歴史なんだよね。それを「なんか興味ある」ぐらいの頭ぽわーんとしたやつが100ページぐらいの「書き方」みたいなのを書いて面白いのが書けるわけないだろうっていう、その見通しの甘さが本当にアホだなって思うんだよね。ああいう本ってコンスタントに出るんだろうけど、小説家、なれませんからマジで(笑)

 

だから気を付けないといけないのはそういうワナビーが増えてるからワナビーを釣る小説家になりましょうっつービジネスが成立するってことなんだよね。セミナーとかそうじゃん?ブルーオーシャンです!なんつってレッドオーシャンだからそれで食えなくなってブルーオーシャン時代に金が入ったころの話をします。今通用するかどうかは分かりませんってことを秘伝のような飾りつけをして情報を売りつけるわけでしょ?ああいうのに引っかかっちゃうのはカモなんだよね。

 

ギターやってもそういうのすぐ分かるじゃん?ノイズギターじゃなくてめっちゃ上手くなろうと思うと数学と同じで頭がおかしい天才みたいなのがゴロゴロいる世界じゃん?小説家もそうだよね。まぁオリジナリティって意味じゃなくて読んだのをすぐ自家薬籠中のものとしてスラスラと自分のバージョンを書けちゃうみたいなのは天才肌で、あとはまぁ苦労人っつーか各ジャンル1000冊読んで頑張るような努力の人だよね。でもまぁ努力じゃ続かないよな。1ジャンル1000冊読むだけでも大変なのに既成のジャンルと言われているものの区分けされているタイプ別に1000冊ずつ読めって尋常じゃないよね。

 

もうその時点でフルタイムで働いてる人とか無理だし(笑)まぁあとは働いてても10年とかかけて小説を読むことと書くことを研究して大成するような人だよね。だから死ぬほど時間が必要なんだよね。

 

いろんな映画見ててもさ、「何々になりたかった」ってなんかつまらない日常を生きながら夢があるみたいなものの「何々」に入るのって小説家がダントツ多いんだよね。ミュージシャンとかはリアリティがなくなってるからなんだろうな。芸人とかでも体感で素人がM1とか見てて修羅の国のシノギの削り合いだと分かるから夢と言うのがバカバカしくなるわけでしょ。で、小説家は?っていうとデビューまでがよく分からないから、「何々になりたかった」という夢追い人の夢として使いやすいんだよね。

 

その結果、妙に小説家というのが美化されてみんななりたがっちゃうんだよね。でもそれは無理だってことを言わないといけないと思うんだよな。もしくは某作家先生が言っているように各ジャンル1000冊読んで、映画とかシナリオを見てこれはこうでこうしてるんだってことを丸裸にできるぐらいになったらなれるかもしれません。でもそれは運要素もあるんで分かりませんってことを教えなきゃいけないよね。

 

声優学校とかファッション学校とかと同じぐらいの罪作りな感じだよね。声優とかファッションデザイナーとかなれませんから!っていうね、まぁただファッションの学校の場合、一時期資料集めしてた時期があったから色々知ってるけど、ファッション業界で働くって意味でプランナーとかテキスタイル・デザイナーとか高度な分業があって、その中でもまぁファッションって斜陽だからきついにしても、まぁ少なくとも特集が組まれるようなファッションデザイナーになることはまずありえないってことを分かってやらないとダメだよね。

 

小説家になりたいと思う人間が増えてるのはやっぱり出版業界が斜陽で知名度とかで売ろうとしてタレントのゴーストに書かせたような小説とか小説擬きみたいなのが腐るほどあって、んでそういうのを読むと質が低いから「これなら俺にでもできそうだ」って思っちゃうんだよね。そこが勘違いなんだよな。あと視野が狭い。もっとグローバルに見ればさ、世界文学のレベルってヤバいわけじゃん?とんでもないのがあるわけだよね。そこなんかさ、小説家になりたいんですけど何を読めばいいですか?って言ってるレベルのやつが話題になってる芸能人の小説を読んで「これならいける!」と思って書き出すと悲劇が始まるんだよね。

 

でも表現とかに携わってたり自分で何かやって人だったら先行者の作品とかさ、歴史とか方法とか何がなされてきたのか?を知るのってやっぱ基本だしさ、そこで大体今の時代だと絶望するはずなんだよね。もう何にもやれる余地ねーじゃん!っていうね、その何もないから始められるかどうかなんだよね。文学擬きを書いてる芸能人が本を出せるなら自分にもできる!ってそれは大きな勘違いでさ、なんでその芸能人の本が売れてるのか?ってその人が有名だからっていう当たり前のことが分かってないっつーね。

 

だから中身っつーよりもネームバリューで売れるわけだから、そりゃ出版社だって食いつくに決まってるんだよね。いや、そういう輩が多いと思うのは芸能人が書いた小説をぼろくそ言う人がいるってところなんだよね。いや、あれはああいう色物っつー商品の売り方なんであってさ、それを文芸作品だと勘違いして真剣にレビューするとか愚の骨頂ですよね。で、挙句の果てに芸能人だから出せたんだろうけどとか言うやつがいるんだけど、そんなのあたりまえってことがなんで分からないのか?ってことなんだよね。

 

村上龍だったかがさ、作家ってのは犯罪者になる手前ぐらいしか他にやることがなくなった人がやることですって前にもその話したけどマジでそうだよね。仮に他にやりたいことがあったり家庭を持ったり旅行したりだとかやりたいことが多い人は絶対やらないほうがいいんだよね。圧倒的な時間の暴力が必要となるジャンルだから、楽しむだけにしておけば人生を棒に振ることもないから、手前でやめとけって話なんだよね。

 

だから夢を立てるにしても現実的に夢を見てないといけないよね。中身を見れば各ジャンル1000冊を小説家になるという前提で熟読して、んで毎月訓練のために短編を書いて、書くということだけに一万時間の法則を適用して、読むことに関しては時間というより各ジャンル1000冊ということを目安にしましょうってことだよね。当然、パラパラっと読めないクソ長い読みづらい古典も入るから相当好きじゃない限りただの苦行ですよ(笑)

 

プロ目指すかどうかはともかくとして趣味で書くならいくらでも書くべきだと思うけどね。あとまぁ音楽のほうが楽だからもっと他の小説みたいにクソ時間がかかるんじゃなくてセンスだけでごり押しできて何万時間の法則みたいなのをやらなくてもそこそこのレベルにまで行ける可能性が少しでもあるものをやったほうがいいよね。それでも食うとなったらプロが食えない時代だから食うなんつー幻想は捨ててっていう前提でね。

 

小説って昔に東大だかの数学科の入学する人に向けた面白い文章を思い出すんだけど、それはまぁ数学は不毛な世界で幾多の地方では神童とかって言われてきた人たちが集まってシノギを削り合って玉砕していく死者のたまり場のような場所です。その後には何も残りません。それでもいいなら入学してくださいみたいなやつでさ、んで結果的にそういうWarningがあるのに数学科入っちゃってつぶし利かなくなって自殺しちゃうとかさ、文学も数学と同じぐらいのヤバさがあるから、そういう危険って警鐘を鳴らしたほうがいいんだよね。

 

あと「これなら俺にもできそうだ」なんだけどさ、又吉とかにしたってすんげー頑張ってあれだけの芸人になってるわけじゃん?それありきなのよ。どこの馬の骨とも知らないやつの原稿なんて誰も読まないわけですよ。逆に又吉ぐらい有名ならがっつり編集して校正すれば売れるものになるって確信が持てるじゃん?実際に又吉はカラオケで数えきれないぐらい編集者の人と打ち合わせして書いたって言ってたから、実際そうなんだよね。そういうものを「芸能人が趣味で書いた」みたいな言い方をするのはどうかと思うんだよね。それはお前の観点が間違ってるよってことなんだよね。

 

んで文学的に何か物申したいんだったらアマゾンとかのレビュー欄で批評家擬きみたいなことをやってないで自分でなんか書いてどっかの出版社に送ったら?って思うんだよね。なんでそれをやらないのか。中途半端な奴が多いんだよね。一番なっちゃいけないと言われる、やたら色々と作品とかについて述べる割に全く生産性が無いっつー、クリエイティヴィティに何も貢献しない、ただ文句をつけるやつ消費者って一番厄介だからね。

 

崩れとか元ワナビーとかが足を引っ張る世界って腐るほどあるけど、文学はそれが酷いね。音楽もそうだけど文学はもっと闇が深い。なんたら賞とかの闇の深さはある程度暴露されてる感があるんだけど、なんつーか集まる人間の幻想を捨てきれない怨念みたいなのが渦巻いてる世界だよね。あとその本が出せるってことにルサンチマンを持つならさ、それが名の知れた学者だったり評論家が小説書きましたっつって出せる率が高いのは当たり前なんですよ。そりゃ彼らがもともと物書きなわけだし、そこら辺のやつらと違って膨大な量の本を読んでるわけですよね。

 

で、表現形態として小説ってのを選んだ時にそりゃある程度上手くいく可能性は高いし、売れる見込みもそもそもすでに何か出版しててその人の本の部数が結構あるからそういう実績で出せるんであってさ、そこに僻み入れてもしょうがないよね。そんなもん自分の無名性を恨めって話だよね。向ける場所が間違ってる。自己嫌悪に陥るべきなんであってさ、それを何かに転化してぶつけるってのは八つ当たりという言葉がありますでしょう?

 

俺が上手くいかないのはお前のせいなんだ!なんつって意味不明の理由でDVする男とかいるけど、そういう理不尽な転化なんですよ。それって。で、言葉もフィジカルと同じバイオレンスですからね。フィジカルが介在しないし犯罪にはならないからっつってやっていい道理なんてないわけですよ。僻んで八つ当たりしてる時点でもうお前は死んでいるオワコンだってことなんですよね。出版社とか音楽業界とか芸能業界の人たち以前に誰からも相手にされないですよ。そんな人。だから少し黙ってろって思うよね。少なくとも足引っ張るなって思うよね。

 

芸能人が小説出して何が悪い?ってことなのよ。あと美人小説家の小説が売れて何が悪い?ってのも音楽と一緒で音楽性っつーよりか美人だからっつーのはさ、別に歌謡曲に限らずジャズピアニストでもヴォーカルでもジャケになるぐらい面構えがいいから売れるわけでさ、まぁ顔以前にも音楽性も高い場合もあるけど、やっぱり僻んだら終わりよ。「あいつイケメン、俺ぶさいく」っつって僻んだら完全なる終わりですよ。ニーチェを読みなさいな。

 

僻みってのは自分への暴力なんだよね。でもそれを他者に向けることで解消しているように見えてどんどんその僻み値みたいなのは蓄積していくわけですよ。で、結果的に何かを言えば文句しか言わないクソみたいな人間に成り下がるわけよね。意思の力が無くなった人間なんてガラクタ同然だろう。それだけならまだ人畜無害だからいいんですよ。僻みを他人に向けるなんてのは最高に卑しいことだよね。他人にとっても自分にとっても。そういう人間がなんと多いことか!ってニーチェは書いてた気がするけど、まぁ俺もなんと多いことか!って思うからね。他人にどう思われようが意思は高いほうがいい。結局それは徳の高さを必要とするからね。逆もまた然り。

 

ってことで今日はこの辺で。

 

んじゃまた。