Ardbeq10さんへの返信。その2。

 

「サンプリングソースは明かしたくないんだけども」って言いつつ、稲垣足穂だって書いてあったよ笑笑

 

完成品がどんな感じになるのか分からないんですけど、読む人が読めば分かるようなそのままの状態なんでどの道、バレるんですけどねー(笑)僕は音楽でもそうなんですがコピーライト極左なのでKLF精神が基本にあるんですよね。クリスティヴァとかバルトとかフーコーを出してくれば「オリジナルなテキストなんてない」ってことですから(笑)それと著作権は関係ないだろって話なんですけど、コピーライト極左としてそこは貫いていきたいと思ってますね。あと他のエントリーでも書いてるんですが本質的なパクりって方法論とかアイデアですよね。ただアイデアって著作権無いんですよね。

 

別に著作権が発生するべきだとは思わないんですが、アイデアのパクりこそ剽窃だろって思いますね。

 

前野健太とか豊田道倫とか加地等懐かしい名前だなあ。 やっぱりいいなあ。 特に加地等!! そして、 >その耳セミさんが書いてる「明日のことが分からない実存的な不安」というのは本というか物語というものが登場してきて生まれたのものなのかあと思いました。 この部分に関して、考える人で村上春樹本人が語っている言葉を紹介したいと思います。

 

「僕はある意味では、19世紀的な完結した小説像を求めているんだと思うんです。とにかくページを繰れば、別の場所に行かせてくれる読み物。自我がどうとか、心理描写がどうとか、社会との接点がどうとか、弁証法がどうとか、そんなこといちいち考えない。とにかく読み物として面白いかどうか、スリリングかどうか、それが第一に来ます。

 

しかし同時に、自分という存在の根幹に、その話がしっかりつながっていないと、それを書く意味はない。読み物としてのおもしろさと、いまここにある僕の意識が抗いがたく動かされていると感じるものと、その両方が同時にそこになければならない。あるいは一体になっていなければならない。 それを知的好奇心と呼ぶこともできるかもしれないけど、とにかく自我とはあまり関係がないものです。うまく言えないけど、自我というよりは、自己とかかわっているもの。では自我と自己の違いは何かというと、心理学の専門家から見ると間違っているかもしれないけど、僕の個人的な定義によれば、自己というのは、自我をすっぽり呑み込んだ存在なわけです。そこから自我だけ取り出すと、さあプレパラートに乗せてレンズで見てみましょう、という感じになってしまう。でも自己の中に埋め込まれると、自我は水槽に入れられた金魚のように、自由にひれを動かして動きまわります。僕に興味があるのは、そういう意味合いでの包括的な自己です。

 

そして自己というのは、自我と違って、いちいち細かく科学的に、ロジカルに検証しなくても、小説家にはアバウトに把握できるものなんです。面倒な手続きは不要です。顕微鏡は必要ない。だいたい丸くくりでやっていればいい。そういう意味で、僕が目指しているのは19世紀的な自己完結した物語ですね。べつの言い方をすれば「完全な物語」ということになるかもしれない。」 考える人

 

2010年 08月号 [雑誌]

 

https://www.amazon.co.jp/dp/B003T0LLEW/ref=cm_sw_r_cp_api_i_VYH05ZD3XV6YHB76CSRC 村上春樹ロングインタビューより

 

このインタビューが結構凄くて、関西弁と東京の言葉から英語という3段階のステップを踏んで重層化された言語環境があったから自分なりの文章をこしらえることができた(逆に、関西に留まっていたら小説を書いていないだろうとも)みたいなことがめっちゃ書かれています。 村上春樹の言葉を借りれば、自我を顕微鏡で観察するようになったのが20世紀なのかなあ、と。 自我を仔細に観察することで、実存的な不安が発生したんじゃないかと。 あと他のエントリーで耳蝉が言ってた「高橋源一郎や保坂和志は、小説よりも書評だったりエッセイの方がいい」というのにも激しく同意します。

 

「もっとも危険な読書 」

 

https://www.amazon.co.jp/dp/4022576308/ref=cm_sw_r_cp_api_i_ZRR2A3FEVQ8R91DJ6EQN

 

高橋源一郎 というわけで、とりあえず金子光晴の「ねむれ巴里」「どくろ杯」「にしひがし」をお勧めしておきますね。 あと、磯崎憲一郎のデビュー作「肝心の子供」がダブルミーニング的なメタファーとしてその辺りのことを念頭において書かれているんじゃないかな。 またなんか書きます!

 

僕には10代の頃から実存的不安があって、「なんで生きてるんだろう」とか思ったり言うのが口癖だったんですが、春樹さんのエッセイを読んでいて問題意識が凄く似ていて驚いたのを覚えています。春樹作品のあのがらーんとした空虚さってやっぱそういう虚しさから来てるんだなぁーっていう。処女作の風の歌を聴けはマジで好きなんですが、書き始めた動機が「何も書くことが無いな」ってところからだったというのも、それを知った時に春樹さんはポストモダン的意識とか文学はもうやり尽くされているとか、表現全般がそうなんだっていう自意識があったんだなっていう風に思ったんですよね。

 

だから見方を変えれば春樹さんの作品ってヌーヴォー・ロマン的というか、話があるようでなくて、ただそこにバーで女と喋ってるとか過剰なまでの記号的意味があるわけではない人間たちが出てきて何か話したり起こったりするんだけど、そこまでストーリーというものが意識されていないというか。いや、ストーリーはあるんですけどね。でもそこで実存主義をやってもしょうがないしアンチ小説をやってもしょうがないから、そこは論理ではない小説家が何かしらの朧げなものを掴んでいるという実感から書いてるんですよね。

 

でもこれは読者がその朧げなものというものが無いとなかなか実感できない。春樹さんの言うアバウトな把握って多分、僕はできているし、実存を論理で精密に分析するよりもアバウトに把握できている感性のほうが強いんだなって最近思うんですね。ただそれを把握できているからといって表現にすぐ繋がるかというと別で、かといっても技巧の問題でもないんですよね。上手いこと技術を身につければ上手く書ける要素もあるんだろうけど、基本感性というかセンスなんですよね。そういうのを持っている人は技術の研究なんてしなくても書けちゃうものだと思うので。

 

保坂さんや高橋さんは僕のような世代が小説を書こうとしたら参照せざるを得ない人たちですよね。一番アクチュアルにリアルタイムで現役の作家が「小説とは何か?」とか「書くには」ということを書いている作家たちなので影響を受けちゃいますよね。影響を受けすぎるとアレなので、あんまりのめりこまないようにしているぐらいです(笑)保坂さんや高橋さんの小説は絶対サンプリングしませんね。凄く強烈ですからね。

 

あと保坂さんのようなカフカをゴッドファーザーとして小島信夫を父とするような、ああいうなんとも言えない感じが永遠と続くものを書きたいって死ぬほど思うんですけど、なかなか書けないんですよね。ある意味保坂さんの後継者と言ってもいいような山下澄人の作品なんかも理想的なんですが、やはり天性のものなのか、なかなかできない。ただ読んでて茫然と「いいなぁー」って思うんですよね。ああいう感じが何千ページも続くものを書いてみたいんです。今書いてるやつにサンプリングなしで組み込めるようになりたんですけどね。ただああいうのは高度過ぎるので、やろうと思ってできるわけじゃないんで研究と精読が必要だなって思っています。

 

春樹さんが言う19世紀的な完結した小説像ってまさに僕が求めるものなんですよね。だからトルストイ並の分量での超大作にしたいという思いがある(笑)それは少ない言葉を布置してそれとなく雰囲気を匂わせるのではなくて、徹底的に書いて完結させるってことなんですよね。

 

書いていてだんだん上手くなって朧気ながら感覚で掴んでいるものが上手くできたところだけ残して後を削ってもそれって違うんであって、掴むまでの葛藤とかあーでもないこーでもないも含ませちゃうっていうか、まぁトルストイとか19世紀的な作品に無駄が多いとは言いませんが(笑)スプートニクの恋人に出てくる小説家志望のミュウが確かそういう19世紀的な包括的なものを書くことにしか興味がない人間として出てきますよね。

 

お勧め色々ありがとうございます!全部チェックしてみます!前野健太、豊田道倫、加地等は知らんかったので同じくチェックしてみます。ご教授ありがとうございます!