文学三昧な日々。その16。

いやさ、後ろめたいところがあるんだけどっつーかあれじゃんね、リサーチのために有名どころの作家の本を一通り読んでみるって図書館行けばいいんじゃんね(笑)いや、今までって読んできたのが学術系ばっかで必然的に専門性が高いから横浜の図書館とかに行かないと借りたいのが無かったりして、んでも通うのめんどいじゃん?

 

で、あれなのね、小説だと地元の図書館は貧弱なんだけど思えば例えば哲学とか神学みたいなマイナー分野と比べたら小説ってメジャー分野よね。ようは学問というより娯楽だからさ、芥川賞作家の本とか大体置いてあるし。そういうのってまぁ大体アマゾンで見ると1円で送料300円とかで買えるから今まで買ってたんだけど凄まじい量になるしやっぱ音楽とかと一緒でそんなに気にいるの無いんですよね。「へぇー」ぐらいな感じで。

 

だからまぁ今は図書館で10冊借りて全部ばーっと読んで使えるところサンプリングしてって感じでやってますね。図書館がいいのは身銭を切るのにあまりにも抵抗があるような作家のやつとかを平気で借りられることだよね(笑)あと驚いたのが古市っているじゃん?社会学者の。似非社会学者だけどさ、すんげー小説書いてんのね。で、内容薄っぺらいんだろうなーって思ったらやっぱり薄っぺらいんだけど(笑)ちゃんと読まないとダメだなと思って今度借りようと思ってるんだけどね。いや、アマゾンのお試しだけでも薄っぺらさが分かるっていうね。まぁ分かるようになってきたんだよな。量読んでるから。

 

そう思うとなんかさ、あれだよね、昔の文豪とかさ、アードさんが進めてくれた金子光春とかあのぐらいの世代の人たちってなんかレベルが違い過ぎるよね。あんな人たちが文学書いてたんだっていうさ、それに比べて今はなんだ・・・っていうのは今に始まったことじゃないにしても驚いたのが本屋大賞とかで選ばれたらしいラノベっぽいロシアの美少女スナイパーが復讐する小説があるんだけど、ああいうのが選ばれるって相当狂ってんなって思うんだよね。

 

いや、ちゃんと読んでみるけどさ、あれよね、リサーチよね。ただなんつーのかな、アメリカのスナイパーものとかトムクランシーの小説とかってさ、作家が実際に戦場に行ってリサーチしたりとか、暗殺者の正義だったかな。名前忘れたけどその作家は取材のために銃器のトレーニング受けてCQBとかもトレーニング受けてるんだよね。んで戦場の取材とかもして。まぁ歴史もの書く人とかも相当取材するのは当然だと思うんだけど、ラノベから引っ張ってきたようなスナイパー描写が続いて金髪少女が出てくるとかラノベならいいと思うんだけどさ、なんであれが純文学みたいになってんのかさっぱり分からないんだよね。

 

まぁなんか俺が文学倦厭してたのも本屋に行くとくだらなそうなやつがなんたら賞とか取ってて日本の文学ってこんなレベルなのか・・・とかって思ってたってのもあるんだけどさ、また選考委員とかも酷いんだよね。全然センスないやつが選んでるからクソみたいなのが選ばれてるのね。っつってもお前に何が分かる?って言われたらそれまでだけどさ(笑)誰とは言わないけど数々のちゃんとした文学をお書きになっている先生方が口を揃えてどっかでとかどういう著書とかで言ってらっしゃるので、やっぱりちゃんとした先生方もどうしようもねぇーなって思ってるんだなって安心はするんだけどね。

 

俺も「小説書く!」って言った手前、もう後戻りはできないから殴り込みをかけるしかないわけなんだけど、やっぱりなんかさ、業界が完全に腐りきってたら終わりじゃん?でもちゃんとした良心を持った先生方っていらっしゃるんだけど、一般的にはそんなに有名じゃないんだよね。まともであればあるほどそこまで有名じゃない。文学界では著名なんだけどね。

 

で、あと口を揃えてそういう先生方が言うのが読み手のレベルが低いってことね。なんかそこが相互作用なのかなって思って。ようはリテラシーレベルの低い読み手に対応した小説が本屋大賞とかに選ばれるっていう対応関係の問題なんだよね。質がどうのじゃなくてどちらかと言えばあれは読者のレベルが軸になって選ばれてる感じがあるよね。だからあんなラノベみたいなのが選ばれんだなと思って。

 

まぁでも一般のリテラシーレベルが低いってもうアメリカ時代のもっと前からずーっと言ってた気がするわ。なんか繰り返し同じこと言ってるなーっていう。でもそれが一般ってものだからしょうがないんだけどさ、あと福嶋亮大の「らせん状の想像力」っつー本でだいぶおさらいしたんだよね。出てくる作家のやつはとりあえず大体読むみたいな感じで読んでるんだけど、やっぱまぁいろんな意味で終わってんだなぁーっていうロマンが無いなぁーって思うよね。

 

realsound.jp

 

やっぱ昭和に作品を残してきた世代の作家って圧倒的なクオリティを持ってる人たちが多くてさ、あ、まぁナラティヴだとか物語とか細かい話は別として、良いものが平成以降少ないって別に福嶋亮大がそう言ってるわけじゃないんだけど、文学の質が落ちてるっていうのはどういうことなんだろうな?と思ってね。

 

音楽ってそんなことないじゃん?どんどん良くなって頭打ちみたいなところがあるじゃん?最近の音源は好きになるやつがあんまりないにしても質が落ちたなーとは思わないよね。質はもうずーっと担保されてんのよね。でも文学は没落が酷いなって思うのはやっぱそれは相対的に昭和とかが凄すぎたのかな?って思うしかないのかなとかさ、ようはなんかすげー激動の時代を生きてきた人間だから書けたものとかってのがやっぱりあって、んで平成ぐらいの世代になると生活とか世界自体が凡庸になるからなんか迫るようなものがなくなるっていうかさ、あれなんだよね、最近、見沢知廉読み直したっつーかサンプリングできないかなーと思って読んだんだけど、見沢知廉の作品は俺が文学に目覚める前に読んでた数少ない小説なんだけど、まぁ思想書として読んでたわけじゃん?

 

だから思想ってアツいもんだからそういうアツさが当たり前だって思ってたんだけど、いざ文学という目線で見ると見沢がアツ過ぎるんだよね。所謂、現在の文壇とかでやっていける感じがしないんだよね。アツ過ぎて。見沢知廉のドキュメンタリーも見直したんだけど中島岳志が言ってたのがすげー示唆的でさ、ようは俺の解釈も混ぜると見沢が考えてた命をかけるような人生を総括するような文学ってのが結局、文学っていう形態をとらざるを得ないが故に出される場所が文学界っつー業界になっちゃうから見沢が思う文学観みたいなものと矛盾しちゃうっつーことなんだよね。

 

思想なら別に業界とか関係ないしなんつーかアカデミックな哲学としてやるわけじゃない勝手な哲学は勝手にやってりゃいいんだけど文学になると文学として出すっていう場が必要で、そこで結局、囲い込まれた文学界ってのがあって、それってのは見沢みたいな異常なまでに加熱してる人間の熱量を受けきれないんだよね。ようは文学界ってのが凡人がやってる世界だからああいう異常な感じの人がやっていけないっていうね。

 

まぁ昔から所謂、ジャーナリズム的な商業的な文学界に見切りをつけて一匹狼でやってた作家って少なくないんだろうけど、それでもなんか文学界っつってもレベルが凄い高かったイメージがあるんだよな。すげー面子だなっつーね。で、今は凡庸なやつらが選考委員とかやってたり発言権持ってるから才能を見いだせないんだよね。で、結局、文学が持っている毒みたいなのが一切ないようなさ、あってもなくてもいいようなのが選ばれたりするんだよねっつっても全員ダメなわけじゃないし良い作品もあるんだけどね。

 

あとまぁ平成とか今の世代じゃないと書けないものだよねってのは絶対あってそういうのはいいんだけどね。今の作家は全員ダメだ!なんてことはなくて(笑)ただ平均レベルがすんげー低いのとなんでこんなゴミみたいなのが選ばれたの?ってのが普通にあるのが驚きなんだよね。んでまぁ読者のレベルが低いっつってるけどでもちゃんとした人もいてさ、アマゾンのレビューが参考になるかどうかはともかくとしてもやっぱりどう考えてもジャーナリズム的な理由で選ばれただろこれっつーのには辛辣なレビューが書かれてるよね。

 

結局まぁしょうがないんだよなこれっつーのも。本がある程度売れないとそりゃ出版社赤字だから見た目が良いとかさ、イケメンとかっていう話題性があって普段は文学に手を出さない層も買うみたいなものをいかに出していくか?っていう演出じゃん?例のロシアの美女スナイパーのやつもKagerouとかと同じ感じで売り出すほうがギャーギャー騒いで無理やりプッシュしてる感じだよね。タレントとかでも番組と事務所のごり押しでテレビに出てるやつとかってすんげー批判されるけどまぁちゃんと批判されてるからいいんだけどね。

 

で、まぁなんか好みで贔屓になっちゃうけどさ、山下澄人が芥川賞を取れたのは凄いことだったんだなって思うんだけどさ、いや、ようは山下澄人って天然の前衛の人じゃん?でもやっぱ唖然としたのが選考委員の男の作家が悉くダメ出ししてんのね。あんなインパクトしかないのを全然読めてないっつーのは結構驚きなんだよな。ってことはあれなんだよね、音楽でも同じように俺ってやっぱセンスあるんだよね。だからなんでこれの良さが分からんの?ってことになるってのはそいつらのセンスがないんじゃなくて卓越してるからなんであって、普通はそんなもんだっつー認識が必要だと思ったのね。

 

散々文学音痴だって自分で言ってきたけど全然そんなことはなかったんだよね。こんだけ読んでてやっぱ自分が良いと思うのは悉く良いわけよ。あと村上春樹とか最近のお気に入りだと綿矢りさとかの凡庸さの良さね(笑)なんかそこは前も書いたけど音楽と同じでスカムの良さってあるんだよね。あとなんでこんな編成でこんなわけのわからん音楽やってんの?とか逆に超強面でデスメタルとかしかやらなそうな連中がカントリーやってるとかってまぁ珍盤とかって言われてストレンジ扱いされたりモンド扱いされたりするけど、文学のモンドって秘境だなって思ってるんだよね。これはもうセンスがないと開拓できないでしょ。

 

音楽ってよくあるのが聞き方を変えるとこれはモンドになるとかさ、スカム的なのがある種の凡庸なノイズよりよっぽど存在自体がノイズだ!みたいなことがあるんだけど、文学の場合、逆に古典にせよ昭和ぐらいまでの文豪たちの作品の場合、圧倒的なクオリティがあるからそういうのは滅多にないんだけど、平成以降の流行作家の中には香ばしいのって結構いると思うんだよね。こんなの今時やって恥ずかしくないのか?っていうクソベタなのを平気でやっちゃってるとかさ(笑)こんなのまともに読むやつ頭がお花畑だな!みたいなのが普通に出版されてるから、そういうスカムっつー観点で文学読むのは面白いなって思うんだよね。

 

だからなんか一昔前の流行作家でも現代でもいいんだけど、安易にガンガン出されたようなのって逆に音楽業界が潤ってた時に特にアメリカが戦後景気が良かったからよくこんなの出そうと思ったなっつーレコードも平気でリリースできてたのと同じ意味でよくこんなものが本として出たなってのが出版不況だからこそ出るものってのがあってさ、Kagerouとかって普通にスカム的に面白いと思うんだけどラノベとか携帯小説とかをそういうモンド感覚で読むってのが面白くもあったんだけど画一的だからフォーマットが一緒ですぐ飽きるんだよね。

 

だから変に文学扱いされて出たようなのに個人的に珍本だと思えるようなのが結構あって、そういう香ばしいやつはサンプリングしまくってるね(笑)こんなポエム擬きみたいなの黒歴史になるだろっていうのが平気で出版されてるからね。本人顔真っ赤にならなかったんだろうか?書いててとかって思うようなのがあったりしてさ、あとまぁ異様な薄っぺらさとかね。

 

古市みたいにボコボコに批判されまくったのでもタレント本と同じ原理でテレビに出てるテレビ学者だから名前だけで本が出せるっつーところでどうしようもないのが本として流通するんだけど、それを逆に楽しむことができるって感じだよね。愛すべきダメ文学みたいなそういう味があるのはなかなかできるもんじゃないんだよね。そこには本質的な人間の超絶的な薄っぺらさが無いといけなくてさ、あとまぁ本当に賞レースとか有名になりたいとかそういう承認欲求だけで書かれたようなくだらないやつとかね、面白いんだよね。

 

結局なんつーのかな、つまらなさすぎたり薄っぺらさすぎてある意味、アンチロマン的というかさ、反小説的なのがあるってことなんだよね。アンチロマンみたいに技巧と知性を凝らして意図的に作られたものじゃなくて意図せずに反小説的になっちゃったものってのが面白いってところなんだよね。特にデュラスなんかだとあのダラダラした倦怠感が分からなかったら本当にただのつまらない話じゃん?(笑)

 

でも思うに小説の良い読み手って多分、哲学とか学問やってきたやつがやっていく中で自然と身につける深い読み方を持ったやつらのことを言うんであって、それが小説だけ読んでれば育まれるか?っていうとそうじゃないだろうなって思うところがあるんだよね。ただでもそれがよく分かるのが昭和の文豪とかって大体学があるじゃん?いろんな他の分野のことをめっちゃ読んでて詳しいんだよね。でも今の薄っぺらい作家って多分、文学すらもちゃんと読んでなくてひたすら書いて世に出ることってのだけを狙ってるからあんな薄っぺらいのが書けるんだなって思うし、全く他の分野での知的トレーニングをしてこなかったんだなっていう浅さが丸見えになるじゃんね?

 

だからまぁ月並みな言い方になるけど凄い書き手ってやっぱすんげー読んでるから知識量凄いんだよね。もうそれが書いてて出ちゃうから作品として成功しているかどうかは別としても薄っぺらくなりようがないんだよね。その人の我が出ちゃうから膨大な読書量に裏付けされたその人格からは軽薄なものが出てくるわけがないっていうかね、もしくは意図的にでも書かない限り浅くならないんだよね。意図せず深くなっちゃうとでも言えばいいのか。

 

浅い小説に特徴的なのがエンジニアリング的な売れ筋の小説の構造とか枠組みとかを分析して工学的に組み立てたようなのが多いんだよね。うわべだけ掬ったような感じっつーのかな?EDMとかと似てるんだよね。今は流行ってるのか分からないけどあのダサい長いブレイクにブーンブーンって低音が来ると人は興奮するようにできてるみたいなね、まぁくだらない映画とかも大体そうだけどね。お涙頂戴型とかハリウッド量産型とかっていうまぁ型なんだよね。それの名詞とかテーマとか世界感が変わっただけで枠組みが同じだからすんげー浅く感じるんだよね。

 

まぁ代数的とでも言えばいいのかな。既存の物を換骨奪胎して色々と入れ替えてまた作り直すってまぁ死骸のコラージュみたいなもんでさ、まぁ小説って元々そういうものではあるんだけど、そのベクトルがいやらしい「こうすれば出版社も読者も喜ぶんだろ」みたいなのを研究してそれだけに力を入れて書いたような商業的なやつは本当にクソだと思うのね。まぁなんでもそうだけどね。音楽でも映画でも。

 

だからまぁ色々と小説読んでてもなんかこういう大体8割ぐらい出てるのゴミ説って表現っつー分野だったらどれも同じなんだろうなって思うんだよね。売れるのはコマーシャルな歌謡曲でさっつっても音楽はもう売れてすらいないしそれは文芸なんてもっと売れてないんだろうけど、基本的に低きに流れるんだよね。

 

あとは古典とかも怪しいもんで文豪っつーお墨付きがあるから読まれてるとか高尚なものっていうレッテルがあるからそれの属性で読まれてるようなのがあってさ、明らかに今読んだら全く面白くないやつが多いわけだよね。ただもちろんそれはあれだけどね、科学とかが無い時代に非科学的なことを著書の中で言ってて今の観点からこいつはバカだっていうのなんてまずありえないことじゃん?読み手として。

 

それはもちろん時代背景を考慮する必要があるわけでさ、これが19世紀に書かれてたなんてすげーな!っていうまぁようはクラシック的なね、まぁでもクラシックと言えばクラシックはやっぱクラシックなだけあってまぁ音楽のクラシックって意味だけどそんなに別にクラシックファンじゃないけどクラシックも名前だけで過大評価されてる作曲家って腐るほどいるけどやっぱクラシックとして残るものってやっぱそれなりのものがあるんだよね。

 

昭和の文学とかってそういうクラシックになりえるような熱量があるものが多い気がするんだけど、平成とかになってくるとまぁ凡庸な時代に突入してしまったってこともあるんだけど向いている方向が文芸とか言語表現とか芸術ってことじゃなくて文壇とかさ、文学界とか出版社とかっていうなんかごますり的な目線なんだよね。あとまぁある程度そうしないと評価されないってのもあるのか考慮しなきゃいけない点もあるんだろうけど考慮し過ぎてるのが多い結果、クソみたいなのが量産され続けてるっていうね、それでももちろん良い作家はちゃんと良い評価を得て良い読み手にちゃんと評価されてるから完全に不健全というわけではないんだけどね。

 

あとあれだ、翻訳文化ですよ。書き忘れたけど。昭和はフランスのドマイナー文学みたいな英訳すらもないようなのが邦訳されてたりして、そこは凄いんだよね。日本ってなんかそういう凄いところとどうしようもないところが混在してるんだよね。でもなんか一貫して言えるのは昭和の出版社とか作家の心意気というかさ、なんか商業とかじゃない文化にコントリビュートしようとする知的努力みたいなのを凄く感じるんだよね。だからこんなクソマイナーでしかも邦訳が無理ゲーみたいなのも邦訳を出したりとか、誰が読むの?みたいなのも頑張って出版社が出してたりしたんだよね。よくこんなの出したな!って感心するのがあってさ、すげーなーって思うんだよね。まぁそれは福嶋亮大の本でも言われてるように昔は文学にそれなりの地位があったからだと思うんだけどね。

 

でも不思議なのが音楽ってさ、誰が聞くの?とかわけわかんない!っつっても現代音楽っつー分野はあるわけじゃん?で、なんで文芸は現代文学っていうジャンルが無いのかな?って思うんだよね。なんかもう超エッジーでさ、難解過ぎて分からないとか実験的過ぎて分からないんだけどすさまじい労力で言語表現の極北みたいなのを追求した労作!みたいなのが滅多にないのかな?ってのが不思議でしょうがないんだよね。むしろ現代音楽とかの分野ではそういうのが当たり前なのに文芸だとそうでもないのは何なんだろうな?って思うんだよね。

 

大衆文学と現代文学の境界が曖昧なのかな?現代音楽なんてまず聴いてて楽しくなるみたいな聞き手のことなんてまず考えないからね(笑)まぁその一般の聞き手って意味だけどね。

 

だからなんかあれなんだよね、ちょうどその凄くレベルの差を感じるのが昭和と平成以降って書いたけど年代的に言うと今50過ぎとか60ぐらいの人とかがまぁ村上春樹ぐらいの世代っつーかさ、まぁ昭和世代って感じじゃん?そういう人たちのレベルって分厚いんだよね。で、若手になってくればくるほどレベルが下がるのね。それは年齢的なこととかじゃなくてすんげー商業的なのが多いってことなんだよね。まぁそれもあれかもしれないけどね、出版不況と関係あるのかもしれないけどね。あとまぁ純文学的なものの権威とか芸術的地位みたいなのがどんどんなくなっていくから、そういうのを志す書き手が諦めるかもっと他の表現形態を探すとかね、現実的になっちゃうってところもあると思うんだけどね。

 

まぁそんな感じで今日はこの辺で。

 

んじゃまた。