攻殻機動隊sac_2045シーズン2は最高でした。

攻殻機動隊やっと見たんですよね。2年ぐらい続き待った気がするわ。もう続き出ないのかな?とか思ってたんだけどあまりに嬉しすぎてあれですよ、終わるのが嫌だから見ない系ね。で、見たんだけどネタばれになるからあれだけどまぁ簡潔に書くとあれだわ、まぁしょうがないよねっていうことだよね(笑)

 

まぁあのあれね、サステイナブルウォーとか世界同時デフォルトとか言及されるだけのものが描かれていないのはしょうがなくて、それはそんなの細かくやってたら13話ぐらいで終わらないから描写を九課にだけフォーカスするってのはしょうがないよね。あとまぁああいう世界が絡むと何でアメリカと日本だけなの?ってことになるんだけどこの辺もようは最近フィクション論みたいな本を読んでても思うんだけど、実際にこうなったらどうなのよ?っていうリアリズムを作品に求めるのは無理なんだよね。

 

もうあんなことになったら世界情勢を描く必要があって各国の動きと混乱と・・・みたいなのを描いてたらキリがないのと、そんなのを描ける人がいないだろうってことだよね。いや、現実ってのを考えたときに何をリアルか?って考えるとさ、所詮は主観が切り取った世界の一部分を認知的整合性に合わせて「現実だ」と錯覚しているのが現実という切り抜き方なわけで、どこまで行ってもそれは虚構なんだよね。いや、最近さ、音楽評論に関しては昔からぼろ糞書いてきた佐々木敦が文芸評論にシフトしてからの本を一気に読んでるんだけどめっちゃ良いんですよ(笑)

 

文芸だとやっぱあずまんとかになるんだろうけど、俺的な印象だとやっぱりまぁあれよね、まだ全然分からんけどさ、あんま正直、文壇とかにも興味無くなって来たんだけど、高橋源一郎と保坂和志みたいな人とあとまぁ数人の評論家ってぐらいで言い方悪いけど文学プロパーか作家が主に文芸評論をやってるんだとすると佐々木敦って外様ってわけじゃないんだけどいろんな評論やってる人じゃん?だからすげーアクチュアルなんだよね。ちゃんと論理と文献でがっつり固めてるから文芸評論が情緒とか書いてるやつの主観とか意見になりがちなところの客観性が凄いっつーかね。

 

まぁこの辺があれだよね、なんたら賞とかの審査員たちの見る目が無さすぎて酷いってのは前にも散々書いたけど、佐々木敦のパラフィクションの本でも書いてあるんだけどさ、円城塔の道化師の蝶が言わば超理系な純文学っつーかさ、いや、世代が違い過ぎるから評者たちが理解できてないんだよね(笑)言い方悪いけど老人に攻殻機動隊見せても分かる人あんまいないだろってのは馬鹿にしてるっつーよりジェネレーションギャップなんだよね。

 

それこそ80近い老人がパリピの話とか読んでもそれこそ情緒が分からんだろうっていうさ、ただの快楽主義の若者の話とかにしか見えないってのも若者の中にあるリアルってあるわけでさ、そういう感覚から隔絶されてるわけじゃない?世代で。まぁ80ぐらいでガンガン麻薬やってパーティーやってたら逆に面白いんだけどね(笑)

 

やっぱそう思うと筒井康隆ってすげーんだなって思ったわ。佐々木敦の本でも扱われてる虚人たちとかやっぱ凄いよね。モロに色々コピーしたりパクってるんだけど(笑)世界基準だよね。日本文学ってガラパゴスなのが多いわけじゃん?内向きでようはなんだろう、日本特有の感覚とか環境を生きてないと分からないっていうところでの言語ゲームに終始してるようなさ、あとまぁ日本に今の現状を描きましたみたいなジャーナリスティックと言えば聞こえはいいけど、まぁ大衆に迎合したようなやつだよね。

 

今を生きる日本人の自意識とかって本当にどうでもよくてさ、まぁそういうのを切り出すのもありだけどやっぱ芸術って普遍に向かうべきで、筒井康隆のやつはそういう意味で普遍性があるよね。まぁドメスティックな表現だからこそ良いものもあるからガラパゴス的なものが一概に悪いとは言えないんだけどさ、あとまぁ実際に海外で受けてるやつもあったりするからそれはそれでいいんだけど、あれだ、まぁそのあれだね、フィクションに話を戻すとまぁ佐々木敦の本を今読んでるからってのもあって攻殻機動隊の話にもモロに影響するんだけど描写の限界ってあるわけですよ。

 

あ、んで何を現実とするか?ってのはさ、ラプラスの悪魔ぐらいしか現実は認識できないよね。宇宙の果てまでの全ての細かいパラメーターを認識してるってまぁ人間の脳でやったら一気にカロリー消費してぶっ倒れるとか脳がダメになるからそんな神的な情報量の認識って無理なんだよね。だから今回の攻殻機動隊で描かれていない部分が多すぎてあんまりアクチュアルに感じられないってところがあるとすればっつーかまぁそれが目立つのは分かるんだけど、良い意味での世界系になるしかないのは当然だよね。

 

世界系の定義にもよるけど矮小化され過ぎているのがまぁ世界系だよね。世界の破滅が僕と君の運命に委ねられているとかそれがあほらしいんだけど、でもフィクションだと少なからず世界の破滅的なものとかそういうクライシス系を描くとしたらもうそれは不可避なことなんだよね。攻殻機動隊の場合、それが日本とアメリカぐらいになってるっていうだけで、ただ重要なのはそこじゃないからね。

 

あれはまぁ問いですよね。あとまぁキチガイプーチンのおかげで世界滅亡ってのが結構リアルに感じられる中でプーチンが核を発射した世界とそうじゃない世界ってのを選べるとしたらどっちを選びますか?ってまぁ超シンプルに言えばそういうことだよね。で、どっちを現実とするか?というより現実が枝分かれしているところがもう個々が選ぶ世界に委ねられているっていうね。

 

まぁマトリックス問題だよね。今回の攻殻機動隊はそこまでシンプルな話じゃないにしても最終的にはやっぱ攻殻っぽい哲学的なテーマじゃん?夢と現実とかって一概に言えない感じがあってさ、まぁ俺が昔から書いてるメガテンのギメル問題よね。

 

宮台さんとかもよく言ってるけど辛い現実に目を背けてVR的な世界に没入してそれで終わってくのが終わっている人間みたいなのも最近の俺は歳のせいもあってか(笑)現実って歳を取ればとるほどどんどんつまらなくなっていくなってのを感じているわけで、ましてや毎日やりたくない労働とストレスの日々しかない人たちにとってはそういうので誤魔化さないと生きていけないっていう辛さがあるわけじゃん?

 

そういう現実を生きるしかない人たちが多いっていうディストピア状態が問題なんであって、それはVR世界を選ぶ人間たちが悪いとか弱いとは思わなくなったんだよね。昔の俺は超人思想一色でやってきたけど(笑)人間の弱さというのに自分と向き合ってもそれを感じずにはいられないから、やっぱりそういうところに自分へのシンパシーの結果、他者へのシンパシーにもなるんだよね。だからなんかアルコールで全て忘れよう!とかってのも昔はバカにしてたけど分からなくもないよねっていうね。

 

そのぐらい辛い現実を生きるってことなんだけど、そこでまぁ強い人はさ、発展途上国とかロシアに攻め込まれている国の人たちのことを考えたら日本は平和じゃないかっていうんだけどそういうんじゃないんだよね。日本の今を生きているということの現実的な辛さってのはあるわけで、それは現実的というより佐々木敦の本とかからとってくるとっていうかこの本の話なんだけどって読んでないんだけどね、絶版で高すぎて久々に英語で読むしかないなとか思ってるんだけど。

 

 

いや、あれだわ、この本っつってもこの本に準じて話すとかってのもあれなんで俺が勝手に定義しちゃうけどまず認識不可能な現実ってのがありますわな。そのさっき書いた実際にやったら脳がぶっ壊れる情報量が多すぎる現実ね。で、それは不可知論というよりも人間がそういう現実を認識できるように作られていないっていう生態的な限界なんであって、だから人間が現実だと錯覚している主観的に作られらた虚構ってのが言わばアクチュアルな現実ってことになるんだよね。ring the bell的な現実っつーのかな?

 

感覚的現実とかピンと来る現実ね。それは個々の環境とか文化によってシェイプされるもんでもっと言えば経験とかによっても全く同じ環境にいても世界認識が違ってくるように、例えばめちゃめちゃ人に騙されてきた人間ってのは性悪説になりがちだし、そういうのに縁が無かった人は性善説でもやってこれてる人ってのはいて、それはどっちが正しいってことじゃないんだよね。俺はたまたま性悪説に行き着いちゃったってのも(笑)神が与えてくださった試練だと思ってて全然今は苦に思ってないんだけど、結局は接してきた人間とか明らかになった現実の平均でしかないんだよね。

 

そんなサンプリング数が圧倒的に少ない中で自分の中で「人間ってのはこうだ」って勝手に決めてそれでやっていってるってのが現実で全く客観性ないよね。でもまぁその主観性こそが人間なわけじゃん?人によって全然見方は違いますっていうね。

 

まぁだから現実はアクチュアルなものでしかありえないわけでさ、そうなると虚構を選ぶのがリアルを選ぶのか?っていう選択基準みたいなのが危うくなるんだよね。そんなに知覚している現実というのは確固たるもんじゃないらしいよって分かるとさ、だいぶ飛躍はあるにしても極論を言えばフィクションとあんま変わらないんだよね。この考えてってブランショの影響早速受けまくったのもあるんだけど(笑)まぁオワコンシリーズとかで俺が話してきたやつと土台は一緒よね。

 

まずあれじゃんね、俺と言う主観が経験してきた物事を書き出しただけでそれは俺が紡ぎ出した私小説というノンフィクションにもなるんだけど他人にとってはそれは他人の物語というフィクションとして読めるという意味で人の固有の物語ってのはフィクションでしかないんだよね。本人にとっての現実はその主観の中でのアクチュアルな現実でしかありえないから、それが現実に起こったか起こらなかったか?というところに現実性を求めるんじゃなくて、認知がそこまで行きうるか?ってところなんだよね。

 

地球のどっかで戦争が起こっていてロシアが戦争を起こしていなくてもどっかでまぁ戦争のようなものは起こってるんだけどそりゃ分からないしさ、分かろうとすればまぁ調べれば出てくるんだけどそれを考えながら生活するって無理だしさ、あとまぁ人によっては自分にとっての闘争が環境破壊との闘争だ!って人は常に環境破壊と戦ってるわけでしょ?それもその人のアクチュアルな現実で起こっている闘争で関心が無い人にとっては勝手にやってる闘争なんだよね。心底関心が無い場合、ヴァーチャルな世界のことで真剣になっている人たちっていうぐらいの無関心もありえるよね。

 

でもまぁヴァーチャルな世界の物事に真剣になるって別にアクチュアルな現実という意味だとこれもまぁ佐々木敦の本にも出てくるけど例えば攻殻機動隊を見ているとかフィクションの世界に没頭しているって時間はそれが主観的には現実じゃん?で、現実に戻るといってもそれはちょっと現実の認識と世界が自分の環世界に広がっただけで、それもある種の主観が切り抜いたヴァーチャルなもんなんであってさ、まぁもっと言っちゃえば言語とかすらも虚構とすると世界は言語でできているから虚構とも言えなくもないわけでね、それがいかに虚構であるか?ということを指示できる証拠は色々あるんだけどそれが現実だ!と言えるものって相当少ないってのは人間の限界だからしょうがないんだよね。

 

そんな中でfeel goodなほうを選ぶか、例えば現実では雨が降っているとか、今そこの道路で車が通ったっていうレベルの知覚できる現実の範囲内でのその現実の延長としてのあんまり選びたくない世界を「辛くでもそれが現実だから」という理由で選ぶのか?ってことだよね。

 

でもこれって「辛くてもそれが現実だから」を選んでも常に主観に介在する問題でさ、だからその辛くてもそれが現実だからという道を選んでもその中での入れ子になってるVR世界とか頭を混乱させたり酩酊させるアルコールだとかドラッグっつー世界があってさ、フレーム問題とかとも似てるんだけど、まぁ形而上学になっちゃうからあんま突き詰める意味ないなと思って面白いとは思うんだけどあんまり関心がないんだよね。

 

まぁなんか普遍というか真理を求めたいじゃん?でもそれも虚構なんだよね。「こうなると予想される」みたいに今言われてても実際にテクノロジーやらAIやらがもっと進歩しないと分からないことって色々あるからなんか待つしかないっつーかさ、そこで言葉を尽くして色々言ってもしょうがなくね?ってことになるんだよね。だから多分人間が扱える問題って変な言い方になるけど意味論的な「いかに生きるか?」とか「生きることとは?」とか「存在とは?」とかってことになるんだよね。人間的な、あまりに人間的なってことですよ。

 

でもそこを突き詰めると素子になるんだよね。島村が言う素子は凄まじくロマンチストであるが故に現実と夢の境が無い。これが核心だわ。いや、鳥肌立ったね。ここだったか!っていうさ、やっぱゴーストの話なんだよね。そこでやっぱりロマンとかヒューマニズムってのが至上の価値として提示されるんだよね。まぁただ押し付けがましい感じではなくて示唆されるんだよね。

 

もちろん鑑賞者が九課に感情移入できるのはそれがあまりに人間臭い集団だからだよね。ポストヒューマン的な考えは正しいのかもしれないけど人間的にring the bellしないというね、認知的整合性と共振しないどころか違和感があるんだよね。その違和感を感じられるのがゴーストなわけでさ、だから同スペックを持つプリンと素子が対比されてて、プリンは素子並のスペックを持っているけどゴーストがないから島村の道を選んでしまったんだよね。でも素子は実際にプラグを抜くシーンが描かれているわけじゃないけどプラグを抜いたのだろうなと人間だったらそう考えるっていう見方になってるじゃん?

 

だからなんかあれって九課がポストヒューマンに負けたかのように見えてむしろ買ったか負けたかってのは鑑賞者に委ねられてるんだよね。そこで見ている人間のゴーストが響くのか?っていうところが帰結になってるわけね。だから俺も当然プラグを抜くし素子のようにハイスペックで現実と夢の境がない究極のロマンチストでありリアリストでありたいと思っているわけだ。人間が到達しえる人間尺度で見たところの高い認識よね。つまりはまぁ哲学ってことだわな。ニヒリズムに陥らないで切磋琢磨して自分を高める!ということが決して無駄なことではないというのがよく分かるでしょ。逆に切磋琢磨してないと素子のような究極のロマンチストにはなれないわけだからね。

 

だからあれは最終的に人間的なあまりに人間的な素子が島村に選択の余地を与えられたことで素子は認識のレベルではプラグを抜いたという行為において勝ってるんだよね。だからそれは「俺もプラグを抜くよ」と思えたときにあたかも勧善懲悪で九課が勝ち目がないポストヒューマンに勝ったかのようなカタルシスを感じることができるんだよね。その感じ方が極めて内面的で絵だけ見たらあたかも負けたかのようになってるのがさらにカタルシスを高めてる要素になってるんだよね。

 

だからなんかもう最高過ぎるでしょ!って感じなんだよね。ただそのカタルシスを得られるレベルが鑑賞者の認識レベルに委ねられているってのがそれこそ物語自体が鑑賞者を巻き込んでいるものになっているっていうメタフィクションなのかパラフィクションなのか、とにかくまぁ常にある攻殻機動隊のメタ的な部分ってのをガッチリ押さえてるんだよね。ただまぁ分かりづらいのはしょうがないわ(笑)

 

教育にいいからもっと予算あげて昔のロボアニメ並の何百話とかいくぐらいのディティールで描いてもいいぐらいなんだけど(笑)13話で完結しなきゃいけなかったらまぁそりゃ難しいよね。でもまぁ分かりやすさが良いとは言えないからね。仲正昌樹がなんかの著書で多分、ソーカル問題の話をしてるコンテキストだったと思うんだけど、まぁソーカル問題はいいとしてただ何もかもが分かりやすいということが必ずしも良いということではないんだよね。

 

ポストモダン哲学も晦渋すぎるけど難しいからこそ良い部分もあるわけだ。それを必要以上にやり過ぎる必要はないんだけどなんでもかんでも超訳すればいいってわけじゃないんだよね。だからやっぱ教養って大事なんですよね。なんかもう攻殻機動隊の帰結自体がさ、鑑賞者のリテラシーレベルに訴えてるものがあるってこと自体が挑戦的だよね。そこが毎回いいわけじゃん?クローズドな「分かる人には分かる」ではなくて、素子のようになれたらポストヒューマン以上の何かが人間にあるのかもしれないっていうロマンを抱くことができるじゃん?俺はあらゆる面においてリアリストだけど究極のロマンティストだからね(笑)ロマンを追い求めて今は文学勉強してますって感じだわな。

 

今研究してるブランショとかマラルメとかもニヒリスティックに見えて根底的に神への憧憬があるんだよね。究極的な聖別された外のものとかへの強烈な憧れがある。だからこそ人間自体のそこに近づき得ない限界というのを意識せざるを得なくなってニヒリスティックになるんだけど、でもマラルメもそこで詩作なり芸術の輝きとか偶然性とかっていうところに神が宿るかもしれないとかちょっとでも神に近づけるものがあるかもしれないっていうのを根本的には凄く神に憧れるものとして無神論的に追及してたんだよね。マラルメヤバ過ぎなんだよな。

 

下手な神学者とかよりよっぽど神学的だわ。で、それを受け継いだブランショも明らかにめっちゃこの人宗教的じゃん!って思えるところが腐るほどあって、まぁ若い時にフランスのカトリック系の極右だった時期があったらしいからなんかやっぱカトリックなんだろうなとは思うんだけど、カトリック的な普遍性への憧憬がすげーあるんだよね。じゃないとあそこまでのエクリチュールへのオブセッションと不可能性の自覚を突き詰めようと思わないはずだからね。まぁそれ言い出すと西洋自体が無神論的であっても根底に神的なものへの憧憬があるからエクリチュールに走らせるものがあるっていうところなんだよね。ドゥルーズ然りデリダ然り。

 

ブランショは言い回しが意味不明なところとかも含めて、ただ言葉にできない神的な完全に外のものへの憧憬を隠さないところがバルトとすげー重なるんだよね。カール・バルトのほうね(笑)ブランショだとむしろロラン・バルトのほうになるからなバルトって書くと。あとまぁ生きていた時代が同じなのと弁証法的な考え方だったりヘーゲル的なものを完全にではないにしても受け継いでいたりとか、あとまぁ文学で言えばカフカ的で哲学的に言えばキルケゴール的な問題意識をブランショなら主にカフカだろうけどキルケゴールも踏まえてるだろうしバルトに至ってはキルケゴールに触発されてるところがすんげー大きいわけでさ、そういうところの問題意識ってのがバルトとブランショっつーあんま関係なさそうな二人に共通してるのが面白いんだよね。

 

そこはなんかやっぱ徹底して人間を諦めないっていうロマン主義的な、ニヒリズムに抗う思想だと思うんだよね。バルトは危機神学的に急ぐ必要があったからそういったものに抗うというパフォーマンスも大いに必要な時代の要求があったんだけど、そういう意味だとブランショも政治的な面はあんままだ読んでないけど文学の死とかエクリチュール自体がもう死ぬ運命に抗えないものだっていう意識がすんげーあったからこそ、あそこまで熱烈なまでに文学を追求しようとしたんでしょ。それはパッと見では文学オワコン論を言っているようで、実は死というのを当然の前提として文学は可能か?というのを問い続けているっていうね、それはバルトの神は可能か?とか人間は可能か?っていう問題意識に俺的にすげー重なるんだよね。

 

特にローマ書とかのバルトの問題意識のさ、人間にとって神は認識可能なものなのだろうか?っていうのがまぁさっき書いたところで言えばフレーム問題ともいえるんだけど、でももっと違う霊感的な意味でもそういうことじゃん?で、ブランショもそうなんだよね。文学とかエクリチュールは可能か?っていうところを死っていう概念とかと照らし合わせてすげー真摯に考えてるんだよね。

 

エクリチュールと人間は断絶しているっていうほどシンプルじゃないけどそのエクリチュールの部分を神に置き換えるとバルトの問題意識にそのまま繋がるってのがやっぱりそこは根本的にブランショが神への憧憬があるから問題意識が神学的になるってことだと思うんだよね。ブランショが言う語りえないものってまぁ端的に言えば聖なるものとか完全に人間と断絶した聖別されたものとか神とかってことじゃん?まぁそこに還元できるほどのシンプルさはないんだけどね。

 

結局まぁなんか話を攻殻機動隊に戻すと信仰なんだよね。素子の場合、ゴーストを信じることができるのか?っていう信仰そのものになる。だから乱暴に言えばこれも神学的だよね。被造物としての人間に宿る魂の響きを信じることができるのか?ってことでしょ。それはどんな超絶AIとかが導き出す選択や世界のシナリオとは関係ないゴーストが囁く選択とか世界でしょ。まぁ本当にスケールの大きい話だよね。人生通して考えるべき話だよね。だからやっぱ信仰って大事。これがないと本当にポストヒューマン的なニヒリズムにならざるを得なくなるからね。そんな感じで俺のゴーストはそう囁き続けるんでした。

 

ってことで今日はこの辺で。

 

んじゃまた。

 

今読んでる佐々木敦の本とあと小説も良かったんで貼っときます。

 

半睡

半睡

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