物語の消費。

小説聴きながらモンハンとかゲームってのをだいぶやっとるけどね、一体、文学ってなんだ?って感じになるね。ほとんどサウンドノベル的な前に書いたような読み手の演技とか登場人物ごとに声優とか別のナレーターが振り分けられてるのとかって古い言い方すればラジオドラマだし、いや、何が言いたいのか?っていうと文字だけを読んでフィクションを楽しむってことのアナクロさなんだよね。

 

それこそゲームだったらモンハンやらっていうか初期のモンハンなんてワールドから入った俺みたいな人間には地獄みたいな環境なわけでさ、快適になっとるんよね。で、あれなのね、あの、小説でベストセラーになってから映画化されるってパターン多いと思うんだけど、オーディオブックで聴いた後、映画を観るってのをいくつかやってみたんだけど、やっぱ映画のコスパ半端じゃないよね。

 

コスパって金じゃなくて時間と労力って意味ね。「ちょっと今から会社やめてくる」って映画自体をリアルタイムで見た気がするんだけど結構前だから忘れてて、んでまぁAudibleで聴いたら面白いんだよね。理想的な、全部の小説がこのぐらい頭に入って来て楽しめたらなぁーってぐらい楽しめた。

 

んで映画を観るとオーディブルだったら数分かかることが何しろ映像だから一瞬だったりするんだよね。物語に沿って例を出すとあやふやになりそうだからなんか適当に言うけどさ、謎の友人ができましたと。で、そいつは小学校の頃の同級生だって言うんだけどあんま覚えてなくて小学校の頃の別の同級生に調べてもらったら目の前にいる「お前の同級生だ」と言っているやつはっていうかリアルにいた同級生のそいつはアメリカで演劇関係の仕事をしてて、じゃあ目の前にいるやつは誰なんだ?ってのをさ、小説書いてる割に文章下手糞でごめんな(笑)

 

小説のディスじゃないのよ。文章量凄くなるんだよね。でも映像だと数秒。プルルって電話あって「お、あ、んで?」「え?そうなの」「Facebook見てみよ」「あ、マジだ。アメリカにいる」ってのが映像だと一瞬なのよ。まぁ情報量だよね。いや、あれなのよ、凄く哲学化してるんだわ。フィロソファイズ。柄谷行人が言ってたような、モノによっては映画とかアニメでやったほうが伝わりやすいし効果的だっていうのがまぁようは情報の伝達のインターフェースとかレベルの違いってことじゃん?

 

それでもAudibleで聴く分には楽なんだけど映画だともっと楽で、それに比べると原作本は読んでないけど(笑)読んだらえらいこっちゃだよね。カフカの城とかも朗読だと20時間あるんだとか思ったりさ、いや、この辺だと前にも書いたけど実用書を聴くのか読むのか?ってまぁ読むことが脳に及ぼす影響ってのは大きいからさ、読むということが重要なんだけど、ひとまずその脳とかの話は置いておいて、効果的に情報を得るっていう意味だとAudibleの二倍速をながら聴きとかが一番いいよね。他のことをやりながら本を読めるわけでしょ。本を読みながら何かってできないわけだから。

 

視覚と手が占領されるから無理なんだよね。でも聴覚なら何かやりながらとか、例えば料理しながらとか庭の手入れでも片付けでもなんでもいいんだけど、なんかやりながら聴けるよね。

 

じゃあフィクションは?っていうとさ、俺も昔はそうだったけどただですら苦痛というか頭を使う文字を読むっていうことでしかも意味ないフィクションを読む理由が分からん!ってことになるんだけど、散々文学だ!とか言っておいて、今更気がついたんだけど相当つまらないですよねやっぱ(笑)

 

RPGで言うところのウィザードリーとかに似てるわ。頭でキャラクターの動きとかを想像するって意味で文字から「Aはスケルトンに飛び掛かった」とかってところからさ、忍者っぽい動きだなとかさ、「おお!」とかって思うわけじゃん?まぁ80年代とか90年代初期のゲームとかってそうだよね。

 

でも今は忍者が飛び掛かるどころか、アクションゲームとかだったらガチで忍術やってる人のモーションキャプチャーで作られた言わばガチ忍者が画面を動くわけだから、ある意味、想像の余地がないよね。もうそれが完全でそれ以上ないってぐらいのもんでしょ。この現代の忍者モーションが今のマルチメディアとかさ、映画だとかなんだとかっていうアクセスしやすいフィクションのインターフェースだとすると文字ってウィザードリーの「飛び掛かった」ってことなんだよね。

 

でも昔の人にとっては忍者が飛び掛かったってことが映画でもアニメでもなかったわけでさ、あ、そういうのが無かった時代ね。そういう時代に飛び掛かった!はさぞかし痛快に違いないと思うわけよ。でも今はどうなの?ってところだよね。

 

会社辞めてくるでも目の前の謎の自称同級生が実は同級生じゃないらしいということを知るまでのプロセスをどう知るか?ってのが小説の場合、情報が多いというより煩雑になっちゃうんだよね。いや、原作に煩雑さはないんだよ。簡潔に書かれてるから。ようは何が言いたいのか?っつーと文章と映像を比べたときってことね。

 

もちろん映画は尺の問題もあるからディティールとかが省かれてる部分もあるんだけど小説だったら30分以上かかってるところが一瞬で展開するのかって思うとなんつーかね、ただやっぱ小説の方が密度があるのよ。例えば人物の描写でさ、こんなシャツを着てて笑い方が独特で歩き方がこんな感じで・・・ってのが小説だとまぁこれぞ小説!っていう人物描写になるじゃん?でも映像だと一発なんだよね。役者が出てきたらもうそれが全部説明されてる。でも小説にあるような、独特の笑い方とか癖のある話し方とかが再現できているのか?っていうとそれは監督とか俳優の力量もあるんだけど、会社やめてくるだとさ、その出てくる自称同級生がコテコテの関西弁喋るんだけど、まぁ声優さんっつーかナレーターが鬼上手いわけよ。

 

もうその音声っていう意味での表現力が凄まじいわけ。俺みたいな関東人が関西弁のセリフの文字を読んだところで脳内再生される関西弁なんてたかが知れてるけど、Audibleとなるとエグイわけよ。全部が全部そうか分からないけどさ、いや、だから逆に映画版はキャラが薄いなって感じがするのね。でもコスパは良いというか、視覚という情報量で得られるものが多いから物語を消費するって意味だと映画もなかなかエグい。

 

だから残るのは文字だけという小説になるんだよね。はっきりいってこりゃ不便だなと(笑)例えば別の小説だけど場末のラブホの風景の描写とかも文字だけでやるわけじゃん?だから文字での情報量が多くなるんだよね。でも映画の場合、場末のラブホらしい美術というか映画のセットでやると見たらもうそこで伝わるじゃん?伝達が速いし文字を読む必要がないんだよね。

 

んでも文字だけでもAudibleの場合、ナレーターが上手いと場末のラブホの風景がすんごく浮かぶわけ。それに比べて元々小説読みじゃない俺が同じものを読んだときにあんなフレッシュな感じで風景が浮かぶだろうか?ってことなんだよね。

 

ただでも小説の強みってのはあってまぁやっぱモノローグよね。心情とか。映画でやり過ぎるとモノローグだらけで落ち着いて見られないとかってマイナスポイントになったりするから長いモノローグが削除されたりするけど小説は基本的にフルだから場景ならぬ情景という意味ではピカイチだよね。

 

でもモノローグっている?ってことになるとさ、まぁ小説をパラパラ読む方法としてはなんたらのシャツになんたらのスニーカー、紺色のシャツは裾の部分が云々で、ジーンズはダメージジーンズ加工なのか、それしかないから毎日履いてる結果、くたびれているのか見分けがつかないだのなんだのっていう長いところは描写のブロックとして飛ばしちゃうとかね、んでセリフと重要なところだけ読んでれば大体の大意は掴めちゃうっていうね。

 

映画の二倍速鑑賞とかと似てるよね。作り手としてはたまったもんじゃないけど、見る側としては時間が無いのに見たいのがいっぱいある!ってことになると二倍速鑑賞とかもモノによってはやるってことになるよね。でも作り手としては一瞬と思えるカットに何週間もかけたかもしれないってのが二倍速鑑賞では一瞬で終わるか、ながら見とかをしてる人にはその何週間もかけたショットとかが見られなかったりするわけだよね。

 

もちろんこれはモノによるんですよね。映画で見た方がいいやつと本を読んだほうがいいやつとさ、ただそう思うと洋画でも小説が原作のやつってファイトクラブとかトレイン・スポッティングとかそうじゃん?で、トレインスポッティングの何十年前を描いたやつを今読んでるんだけどさ、何しろ国が違うから部屋なり生活なり日々に出てくる食べ物とか生活用品とかがいちいち違うから想像しづらいってのがあるよね。当たり前なんだけどね(笑)

 

でも映像の場合、一発だよね。へぇーこれがイギリスの労働者階級の狭いアパートかぁーってのが一瞬で分かる。なんか書いてて思うんだけどいい主題見つけたなって思うんだよね(笑)フィクションにおいて何が最善なのか?っていうね、それはまぁもう答えは出ててモノによるし人にもよるんだけど、例えば前にも書いたように怪談になると会談士の話芸が素晴らしいと下手に映像化するより正体不明のものが這ってこっちにくる感じとかが凄まじく怖かったりするよね。あとまぁ恐怖ってこと自体が人間の生存本能と関わってるからそういうものは想像しやすいし恐怖を感じやすくなってるんだとか。

 

だから平凡な日々が続くやつとかってのが超辛いわけだよね(笑)といっても異様なまでにそれが続きすぎて実存的になってるのが俺的にはツボなんだけど、日常の延長で現実には起こらないだろうけど物語としてはいいんじゃない?程度のものをじゃあ何百ページも読むのか?っていうと読まないんだよね。でも情報がギュッと集約された映画だったら楽だから見る。Audibleでも相当敷居は下がるから接しやすくなる。

 

だから文字読むって大変なんだよね(笑)だからなんだろうな、今の俺はかつてないほどのペースと分量の文学書を読んでると思うんだけどっていうか俺好みの前衛っぽいやつだけじゃなくて大衆的なものとかも含めてなんだけどね、例えばアメリカの一昔前の学校で読まされそうなグレート・ギャツビーでもいいんだけど(笑)ああいうのはやっぱり国語の授業!って感じがするよね。映画でもまぁつまらないんだけど(笑)昼ドラみたいなもんだよね。あれ。

 

でも駄作ではないんだけどね。ただまぁ眠くなるっつーか読破できる人が凄いなと思わざるを得ないというかなんというか。で、色々と古今東西読んでるけどさ、もう言っちゃおう、9割眠くなるね(笑)だから結構なんか絶望的な気分になったりするのね。すんげー鉱脈見つけた!と思ったらそうでもなかったっていうね、小説の数=まだディグってないコンテンツではないんだなっていうどころか、音楽とか映画以上に媒体が文字だからすんげー好みが合わないと読まないわけよ。それでも作家志望だから(笑)勉強だ!と思って読んだりするんだけど、まぁーなんの変哲もない短編とかって強烈だよね。

 

なんかね、だから思ったのが音楽の趣味とか映画の趣味と同じなんだよね。基本やっぱ相当狂ってたりダンスミュージックとかにしてもまぁ音楽は俺の好みは広いけど、本当に好き!ってなるとすんごくドープなもので、なかなかそこにハマるものはないから、結局、ベーシックチャンネルってやっぱすげーよなってことになったりするわけよね。映画は見るのが楽なのと可愛い女優が出てたりするとその人で見れたり、あと物語は何の変哲もないものでも役者の演技が凄いと役者が凄い!とかさ、あとまぁ監督の構成が凄い!とかっていう別要素が出てくるよね。評価点が多いんだよね。

 

じゃあ小説はどうなのか?っていうと文体が合わねぇーとかさ、読んでて眠くなるなとかさ、全然つまんねーなとかさ、そんなんばっかなのよ。ましてや文字だから能動的に読みにいかないと内容は分からないんだけど、つまらないとその読むという労力を使おうと思わないのね。でも文学は駄作だらけっていうとそんなことは当然なくて、ただ好きになるのが相当少ないってことなんだよね。

 

哲学とかだったらもっとなんか「これはフェイバリットなんだよね!」っていうのが結構あったりするのに文学になるとなんかあやふやなんだよね。んでここで最近、まぁ一時期の文学熱がこういう感じで冷めてるわけなんですよ(笑)熱ってたころは新たなジャンルだ!っつって何読んでも楽しかったけど、妙な熱が無くなると残るのは俺の素の好みってことになって、ほとんど読めないのね。

 

んでまぁまたブランショの影響受けすぎだろ!ってことになるんだけど俺は小説というよりレシが好きなんじゃないか?と思ったのね。ブランショがレシとして挙げてる既存の作品っていくつかあったけど、例えばウルフの波とかああいうのが好きなのね。物語が無くて風景だけがあったり、どういう会話なの?ってことを問うこと自体がナンセンスみたいな、風景とか物事そのものがそこにあるだけっていうものが好きなのね。

 

だから物事に向けて盛り上がるための展開のための物語だとかってのが本当に無駄に思えてきちゃう。でもAudibleだとそういうところも楽しめるしむしろ映画なんて物語ありきだろうって思うしね。あとまぁベケット三部作とかワットとか事の次第とかっていう、まぁこれって小説なんだろうか?っていうものね。小説が好きになったと思ってたんだけどどうやら違うらしいな。なんかやっぱ凄く特殊なものが好きみたいなんだな。

 

あとこれはプラトンとかをよく読んでた名残なのかなんなのか、不条理劇の戯曲とかはすんげー好きなのね。あとまぁ蜘蛛女のキスみたいなダイアログだけのやつとかね、それで言うとギャディスもそうなんだけど。でもまぁこういうのって正統派からすると相当異端だよね。っつっても囲われたもうすでにあるありふれた異端ではあるんだけども。

 

たださ、俺がこれぞ文学って思うのがやっぱまさにそういうもんなんだよね。活字じゃないと無理でそれを読み上げたところでも違うし、戯曲はまぁ演劇だから別としても、ベケットとかソローキンとかペレーヴィンみたいな俺の好物は読み上げても多分、意味分からないし、そもそも元が意味分からないから(笑)でもそこがいいんだよね。何を俺は読んでいるのだ?ってなるのが凄く面白いわけ。

 

でもそんな風に思えるものってすんげー少ないんだよね。それって前衛的であればいいって話でもないからさ、ストライクゾーンが狭いってことなのかな。あとはヴァレリーのテスト氏とか20世紀初頭とかに結構多い書けない主人公系の話が好きだったりね、っつってもあれってまぁ系統的に地下室の手記みたいなもんで、モノローグとさ、書こうと思ったんだけど邪魔が入ったとかなんだとか、まぁカフカ的と言えばそれまでなんだけど、書くということに異様なまでの自意識が行ってるやつが好きなのね。

 

でもそれはドマイナー文学なんだよね。あとまぁあれ、映像化しても文章に敵わないっていう圧倒的な俺的に点数が高い文学性ってのがあるわけよ。保坂さんのやつとかもそうじゃん?映像化したらただの日常の風景なんだけど、保坂さんの文体とか表現があるから異様なものになってるわけでしょ?異様なことが起こるわけじゃないのに異様なのね。山下澄人も同じだよね。天然か狙ってるのか分からないけどベケットみたいなのがもうちょっと具体的な下町とかとある劇団員の男の話とかで展開されてるのね。

 

でも本当に異様だからさ、あとまぁ本当に才能の賜物だと思うから圧倒的に量が少ないんだよね。もっとこういうのを読みたい!って思っても、もしかしたら書いてる人はいるのかもしれないけど、保坂さんとか山下澄人は例外としても、所謂、売れる本じゃないから出版社は出さないだろうしさ、流通しないっていうこともあるよね。

 

なんかもうだから俺が書いてるやつなんて絶望的ですよ(笑)本にしたい!って言った手前、やっぱ止めましたってのはないんだけどさ、どうすりゃいいの?ってまぁあんま考えてないけどね。あとなんか一日何文字!みたいな追い込みとかもつまらないから、なんか浮かんでもそれを頭の片隅に置いておいて、どちらかというともっと楽しい日常を送ることのほうが重要になってきてて(笑)でもそこで俺が満足するような文学ってのが圧倒的に少なくて、ただまぁあんま言いたくないことでハマってることは一つあるんだけどね、いや、犯罪とかじゃなくて(笑)

 

まぁそうやって生活していく中でさ、ただワードは常に開かれててなんか思いついたら書いてみるとかその勢いでずーっと書けちゃうみたいな時もあれば作業はいくらでもできるけどただ惰性だからつまんねーなって思う時は書かないしね、逆になんつーか書くことなんていくらでもできるから、だったらいくらでもできるようなものじゃなくてめちゃめちゃ面白かったり書いてて興奮するようなものを書きたいじゃん?でも毎日そんなことができるわけでもないから、それが偶然とか思い付きとかなんでもいいんだけど、そういうのがあったときに書くってほうがいいかなって思ってるんだよね。

 

あとやっぱなんか前にも書いたけど理想形がムージルの特性のない男みたいな感じでさ、書いてる人間の生活の中に特性のない男の話があって、それが淡々と続くみたいなね、そういうのがいいなって思ってるのね。

 

なんかでもそう思うとね、娯楽小説をAudibleで聴いてると物語書ける人ってすげーなって思うんだよね。俺って思い付きの場面とか前後関係ない「こういうこと」しか書けないから(笑)ブランショ関係なくある意味、レシしか書けないから、ロマン的な小説的なものを書きたいと思っているんだけど書けないんだよね。まぁそれもどっかからコピーしてくればいいんだけど、でも大体それがまたミックスアップされてレシ化していくんだよね。物語的なものが入ってくると凄くそれを詰めたくなっちゃうのね。

 

なんかさ、だから一体俺は何を書いているんだろう?って気になるんだよね。といっても誰もまだ読んだことのないような凄いものとか人智を超えたものではないことは確かだしさ、いろんなものの影響下にあって書いてるものだからオリジナリティなんてもんもないんだろうけど、かといっても小説でもないからさ、なんか不安になるんだよね(笑)承認欲求とかじゃなくて「いや、これいいっすね!」って第三者の一言があったらすんげー勇気づけられるのかもしれない。少なくとも俺は読んでて面白いって思うし、少々ラリってる時に書いたやつとかやっぱ素面の時とかじゃ書けないこと書いてるなぁーとか思うし、変性意識みたいになってるときに書いてるやつとかも異様で面白いんだけど、でも時間が経つと自分が書いたもののように思えなくなるのね。あと再現性ないし。

 

またここイッちゃってる感じで進めてみるとかっていうのができるわけじゃないのね。なんか急に書けちゃったときにそういうのが上手く行っただけで毎回できるわけじゃないからずーっとまぐれなんだよね。まぁそれでいいと思ってるんだけど。

 

まぁでも文学研究は続けますよっていうか文学研究っていうと文学者の研究とかって響きになるけど、一応書き手として、娯楽小説とかさ、俺がどう転んでも書けないようながっちりとした物語を書いてる作家の作品を読むとかね、やっぱそれは中心ですよ。でも以前ほど一日中それやってるって感じじゃなくなってきたのねってのは大体今の俺の知識と力量でやれるようなことは大体やっちゃったからなんだよね。それを膨らませればいくらでも書けるけどそれはただの繰り返しだからまたなんか革命的な何かが降りてきて(笑)こりゃ面白いぞ!みたいなのがあったときに続きを書くって感じかな。

 

ただホント、正解がないから分からないよね。だからもうなんか自分の感覚を信じるしかないっていうかね、逆に文学で好き嫌い激しいのはセンスはあるってことだろうからさ、そこで自分がドツボなものを書いていけばいいんじゃない?ってことなんだよね。

 

フィクションをどう消費するか?っていう話はまだまだ色々ありそうだからまた今度書くわ。ちなみにさ、面白いのがハリーポッターとかって映画は面白いけど原作はあんま面白くないとかって意見があったり(笑)めちゃめちゃな価値観の狂った話を書いているから全く文学的に評価されてないアイン・ランドの肩をすくめるアトラスは実は聖書の次ぐらいに広く読まれてるだとか(笑)文学的評価とどれだけ読まれてるか?って全然関係ないなって思ってるんだよね。

 

アイン・ランドはあの単細胞っぷりで適当な話で1200ページも書いちゃってるってところに狂気を感じるから逆にあそこまで振り切っちゃうと面白いんだよね。肩をすくめるアトラス読んでるんですよ。今。でもこれもまぐれみたいなもんだよね。安定して供給される類のものじゃなくて、特異点的なものだよね。なんかこういうのないかなーってホント、思ってるのね。まぁあとスカム系はいいよね。女の子が永遠とカフェでパフェを楽しむ話とかさ、文学性が一ミリもないような駄文が愛おしくてしょうがなくて(笑)言わば俺もやってることは同じなんじゃないかと。

 

可愛いわけじゃないしインスタ映えしないけど、書くこととは何なのだ?とか一体何なんだ?ってのを書きたいって悶々としてる男が何かを書いているっていうだけなんだよね。それが小説なのかなんなのかはどうでもよくて、そのどうでもよさが女子がカフェでパフェを食べるとか、ぶどうの食感とかプルルンとした質感がどうのとかっていう、ああいうどうでもいい感じに似てて(笑)なんかこの良さって言語化できないんだよね。そうだよ。ブランショじゃないけど良いところってやっぱ言語化できないんだよね。だから文学なんだよね。物語が良かったとか話の教訓が良かったとかそういうのを求めてるわけじゃないんだから。

 

なんかでもカフカみたいに書けないかなーって思うんだよね(笑)そこまでの才能ないから無理なのかな。ただ目だけは肥えてくるから(笑)無益につまらないものを書いてもしょうがないからさ、なんかこのウォール伝みたいな感じで小説を書きたいんだよね。それは俺が思っていることというより頭の中に展開している場面が勝手にどんどん進んで行ってるのを実況中継してるっていうか、それを描写してるっていうようなね、動いている物事だよね。

 

でもそう思うと今は動いてねぇーなーって思うわ(笑)毎日なんかは書いてるし実際は結構な量書いてるかもしれないけど、動いてる新しいものが入ってくるって滅多にないんだよね。だからそういうのが入ってくると凄いんだよね。まぁそれがそういうときが一番楽しい。でも再現性ないからつまらない日々が続くのが9割って感じだわ(笑)

 

かといってもさ、前衛主義!とか前衛以外認めん!ってことじゃなくてAudibleで聴いてすんげー面白いと思ったのが燃え殻の「これはただの夏」ね。後で調べたらNetflixで映画化されてた「ボクたちはみんな大人になれなかった」の作者だったんだけど、なんかさ、ホントすげーなって思うんだよね。描写がさ、くたびれた感じの雰囲気でベッドで一緒に寝てたかどうかは分からないけど、女の子がグッパーグッパーしながら手を上に上げているとか、まぁ実体験なんだろうけど、まず俺に降りてこないよなと思って(笑)ああいう人間の描写ができる人ってすげーなって思うんだよね。なんなんだろうな、人生経験?俺は女性経験が無さすぎるから女の子が気怠そうにグッパーグッパー手を上げている姿とかが出てこないんだ!

 

なんか結局、小説も音楽と一緒で技術だけで書けるところもあるけど、最終的にセンスと才能だよね。これがないとクッキーカッターみたいなのを永遠と書くぐらいしかできないんだよね。はぁーやっぱ才能かぁーとか、なんか数学やってた頃思い出しちゃってさ、最近テンション低いね。腰はだいぶ良くなったんだけど(笑)才能問題ってもうなんか鬱にしかならないわ。

 

ってことでんじゃまた。