サーシャ・ソコロフに衝撃を受ける。

リセットしてゲームやりながらAudibleで通俗的なベストセラー小説とか聞きまくってるけど、あれなんだよね、もう寝るから短いんだけど、保坂さんの「小説、世界の奏でる世界」で書かれてるんだけど、小説を書くことにおける千本ノックみたいな、棒術で言えば素振りみたいなものは何にあたるのか?っていうのが小説について考えることだって書いてあるんだけど、それはようは小説という媒体において何が書けるのか?というのを考えながら書くということで、一般的には一杯書いて文章表現を上手くするとかありふれた言い回しとかを考えなくてもすぐ書けるようにするだとかって考えがちだけど、保坂さんはそういうのは全く意味がないって言ってて「おお!」ってなったんだよね。

 

この奏でる世界は書き始めの頃に読んだんだけど、今こうやって壁にぶち当たってから読むとなんつーかある程度書いた上でちょっと書くこととか小説について分かった上で読むと全然違うんだよね。保坂さんが小説のことは小説家にしか分からないことがあるって言ってることのほんの一部だと思うんだけどさ、ようは俺は漠然とこれって思想と同じだなって思っててね、既存の物で説明するしかないんだけど、例えばキルケゴール的実存とニヒリズムとニーチェ的な神の死とニヒリズムとハイデガー的な実存とニヒリズムと・・・ってのをドゥルーズとかのポストモダンも踏まえた上でミックスアップして出力された思想なるものがあったとして、そういうのがあったとして、それは文章が拙くても「おお!」ってなるものがあればもうそれは思想だよねってことなんだよね。

 

よくあるのがちまちまと細かいところを優等生的に良くは書けているんだけど既存のもののなぞりとか要約でしかないっていう哲学学みたいなのが多い中で「これは思想だ!」ってのがあったとして、それが論文の体をなしてなくても、それはようは凄いじゃないですか?

 

小説もそうだよねっていうか映画もそうだけどウェルメイドなものが面白いのか?っていうと大量消費される物語とか媒体全般の山の中にまた一つ大量消費されるものを付け足すっていうだけで、特にインパクトはないよね。でもこれは凄い文章表現だな!とか、よくこれを小説にしたな!ってのがあったらそれってもうそれが凄いのよね。文章が下手でも全然それはかまわない。

 

だから技術じゃないんだよね。技術ではいくらでも書けるのがハリウッド式の脚本術みたいなので書かれてるシナリオの書き方とかなんだろうけど、純粋な芸術としての文学ってことになると言語表現じゃん?だからそれはもう書き手が小説で何をやろうとしているのか?というのがダイレクトに反映されるんだよね。物語を書こうとしているのか、言語表現をしようとしているのかでもう全然違うよね。芸術映画と大衆映画の違いだよね。でも映画とか音楽とかでも例えばエンタメ音楽と現代音楽って同じ音楽でも全く別物なんだけど、小説の場合、曖昧なんだよね。例のスナイパー少女のベストセラーみたいなのも一応文芸ってことになるんだけど、どう考えてもラノベとしか思えないし、でもあれはエンタメだからいいにしても、じゃあリアルな芸術としての文学って何なの?ってことになるとなんかもうそれは分からないとしか言いようがないっていうかさ、アウシュビッツ云々の話は別として、ブランショが書いてるような、文学はいかにして可能か?という問いが永遠と残り続けるよね。

 

それについて考えて悩んで色々と試してみて・・・っていう試行錯誤が言わば小説の練習になるってことなんだよね。でも改めて思うけど保坂さんの小説についての本はやっぱり相当突き詰めて小説を書いてたり取り組んでる人じゃないと分からないものってのがあるね。武術と一緒だわ。DVDとかYoutube見てるだけなのと、実際、俺の師父みたいな達人とフルコンタクトじゃないけど、バトル的なシチュエーションで実際に対峙してみて動きをしてみるとかってのを体感してそれでまた考えるって全然違うよね。

 

ただ知ってるだけっていうことがようは知識だけの武術で、実際に対峙してみて試したり実験して検証してるってのが現場なんであって、小説の現場ってのもまさに考えて実践する現場でどれだけ活動をしているか?ってことになるよね。多分そこがあれなんだろうな、作家になりたい!って人は芥川賞とかの本を参考にして俺も芥川取るんだ!とかって思って定型のエンタメを考えるんだろうけど、言語表現としての文学を考える人ってのは浮世離れしているというか、全くそういうのとは関係ないところで独自にやっていないといけなくて、変な商業的な夢とかもある意味で捨てなきゃいけないしっていうか望みを持っちゃいけないんだよね。たまたまご縁があって世に出ることになりましたってことがある場合もあるかもねってことで、ただ書いてるときは全くそういうのを考えちゃいけないんだよね。

 

いやさ、図書館で借りてきたサーシャ・ソコロフって人の「犬と狼のはざまで」ってやつがあるんだけど震えたんですよね。何十万と何百冊の本を買ってきて震えるのは滅多にない中で、たまたま適当に図書館で借りてきたやつがドツボで、買おうと思ったら実験的過ぎてマイナーなのか部数が出てなくてプレ値でしか売ってないっていうね、そうなるとなんかもう英語のペーパーバックで小説を読む訓練もしたほうがいいかなと思ってるんだよね。

 

小説読むって大変だよね。乱読ならぬ乱聴してるのも小説と接するってことを何百時間とか何千時間やり続けるっていう凄まじい時間色んなものに触れるっていうことで脳が順応していくっていうところでさ、まぁ二十歳とかで小説書いちゃう人って中学ぐらいから小説三昧だった人とか多いのを思うと、やっぱり接する時間って大事だよなって思うんだよね。まぁ中には全然読んだことなくて書けちゃうって人もいるんだろうけどね。

 

あとまぁ常に小説のことを考えながら生活するってのもさ、ようは日常で感じるものを小説の表現にしたらどういうことになるのか?とかさ、ありふれてるけど、ある意味、現実を虚構化するっていうのかな。あとは文章化したらどうなるんだろうか?っていうか俺だったらどうこれを書くんだろうか?とかって考えながら生活するっていうことだよね。んで読みつつ聴きつつ書きつつ生活するってことだよね。

 

書くこと=千本ノックとか素振りと思うとダメなんだよね。それよりかは読むことと考えることのほうがよっぽど重要なんだよね。多分、ここ半年ぐらいで俺が小説でやれそうなことはほとんどやっちゃってて、あとはもう古今東西の小説を読みつくして、頭に膨大なストックを蓄積してなおかつ小説について考え続けるってことをやらないと書けないだろうなって思うんだよね。

 

ホント、だから思想と一緒だよね。常に考えて生活するってことじゃん?その対象が小説になっただけで本質的に哲学するってこととあんまり変わらないよね。

 

ってことが結構俺的に衝撃っていうかね、書かなきゃダメだ!ってのは全然意味ないなって思ったし、ずーっと接してれば書きたくてしょうがない!っていうものが来るんだよね。まぁあとはとにかく色々と読みまくればソコロフみたいなものと出会える可能性が高まるってことだよね。まぁ本当に意味の分からない捉えどころのない小説なんだけどね。ソコロフってウィキによると何冊か本を書いた後に引きこもりっていうか隠遁生活に入って書いてはいるんだけど出版とかはしてないみたいで、まぁ一部じゃ有名なんだろうけど相当マイナー作家だよね。

 

ただまぁ頭がファックアップするような、何を読んでいるんだ?小説でもないし物語でもないしモノローグでもないし、何なんだこれは?っていうのってやっぱ凄いよね。でもただのめちゃくちゃじゃなくて凄く整合性があるっていうね、まぁこういうとんでもないものは本当にごく一部なんだよね。でもまぁとにかく凄いわ。

 

ってことでんじゃまた。