トライアングル ストラテジーにドハマりする。

トライアングル ストラテジーにハマってるんだけど、細かいことは書かないわ。まぁタクティクスオウガのシステムを踏襲したシミュレーションなんだけど、ファイヤーエムブレムの影響が大きいのか、キャラが立っててなおかつ個々が薄くなくて細かい設定とかダイアログがあるってのがまぁ言わばペルソナ的なナラティヴな感じってのが神ゲーの条件なのか、でもこれってよく考えるとさって考えるまでもなくゲームのコアだよね。

 

やたら映像とかグラフィックに金がかかってて中身が薄っぺらいとかってのはつまらんっていつも書いてるけどトライアングルって2Dのドットじゃん?それで超大作RPGみたいなのと比べても全然面白いってのがようはゲームはグラフィック云々じゃないってのを証明してますよね。

 

むしろ作りこみの部分ってシステム的な面もそうなんだけど、やっぱりテキスト量だよね。まだ一週目終わってないんだけど、これってようはフィクションのコアってことだよね。小説はオワコンって思ってるけどようはそれは文字だけのものってのが相当ニッチなジャンルになっているというだけで、所謂、文学っていうストーリーと出来事のレシ的なダイアログとかってのが人を楽しませるわけだし、あとまぁ和ゲーの特権はキャラの造形もさることながらクオリティが高すぎる日本の声優陣の演技によるものだよね。

 

だからこれは広義な意味でドラマだよね。まぁ海外でもそりゃありますよ。ボダランぐらいしか思いつかないけど英語であの声優じゃないと本当の良さが出ないっていうところでさ、和ゲーのあの独特の会話とかやり取りって日本のアニメとか漫画とか小説とかっていうカルチャーのヘリテージだからね。

 

それがあって和ゲーのシステムがあって、んで日本の声優陣がいるっていう最強の布陣が結局は最強のゲームなんだというのを端的に証明してる気がするわ。和ゲーの巻き返しが凄いっていう流れがここ数年あるような気がするけど原点回帰だよね。あと反省ね。どんだけ画期的なシステムとかオープンワールドだとかってしてもさ、村人が初期のドラクエの村人みたいな存在でしかなかったりしたら張りぼてじゃん?すっからかんのオープンワールドゲーってあるからね。

 

なんかやっぱり和ゲーの根幹って色んな特徴があるキャラが出てきて愛着があるキャラを選んで育成して強くさせるっていう感情移入よね。投票システムとかさ、単純に敵を倒せばいいわけじゃなくて統治のことも考えなきゃいけないとかってのもよくできてるんだけど、なんかあれなんだよね、最近全然書いてないけどめちゃめちゃ色々と読んではいてさ、んで小説なりフィクションってのは何なんだ?ってのを考えたときに、結局、広義な意味でゲームも含めたフィクションってのは文学なんじゃねーか?って思ってんのね。

 

ようは架空の世界があってそこで登場人物がいてストーリーがあってっていうものの原型ってようは小説じゃないですか?武勇ものとか三国志みたいな歴史モノとかさ、よく考えたら小説なんよね。で、人の心を掴んでるのがこんだけVRとかオープンワールドとかありつつも結局は神ゲーのファイヤーエムブレムとかさ、トライアングルも凄いじゃん?キャラへの愛着と没入感っつーの?

 

そもそもタクティクスオウガが硬派で大人なストーリーってことでカルト的人気があって、んでだんだん認知されてきて神ゲー認定されたっていういきさつがあるんだけど、結局、人の心を捉えるのはフィクションのナラティブなんだよね。枠だけ用意しておいて内容がお使いだけのRPGとかどんだけ世界感に魅力があっても糞なわけでさ、いや、洋ゲーでもFalloutとか思い出したけど、結局、やっぱ会話とかストーリーとか世界感よね。

 

ってことは文学なんだそれは。文学じゃないゲームだったら所謂ゲームらしいゲームのパズルゲームとかシューティングゲームとか、あ、んでもFPSのキャンペーンは映画みたいなもんだからあれもまぁ文学だね。超広義に捉えればね。何しろ文学に端を発していないストーリーのナラティヴってないわけだからね。

 

急に視点が変わったり人称が変わったりとかってのも小説のテクニックだしっていうか俺が文学を知るのが遅すぎたせいで当たり前のことに今更感動してるっていうところがあるだけなんだけどね。あとまぁ名作と言えばライブアライヴのSF編だよね。あれなんか完全にSF小説だもんね。

 

そういうストーリーリッチなもんがリメイクされたりリマスターされてるってのは結局、人がハマるのはストーリーとかレシなんだっていうことなんだよね。ただ2000年以降のFFとかは糞でストーリーが大したことないんだけど壮大なお使いをされて、出来事そのもののレシっていうのが徹底的に欠けてるんだよね。ブランショのレシの定義に完全に依拠するかはともかく、ペルソナで言えば各キャラとこコミュイベントがレシなのね。

 

ストーリーに絡んでるのもあるし絡んでない完全に個人対個人のやりとりとか関係性が描かれたものってのは言わばそれはもう短編小説みたいなもんでさ、そういうものが豊富なものが神ゲー認定されて作り手も「やっぱそこか」ってのが分かるようになってシナリオとかレシを重要視するようになった結果、和ゲーが巻き返してきてるってのは凄いことだよね。

 

海外にしてもストーリーリッチ系のさ、デトロイトとかDark Picturesのやつとかさ、ラスアスとかもそうだけど、ストーリー回帰してるよね。逆に超大作になると不安になるというか(笑)ファイヤーエムブレムなんて全然期待されてなかったわけでしょ。んであの神ゲーっぷりだからね。

 

そう思うとあれだわ、まぁ本質的な意味では文学は絶対死なないよね。人が惹きつけられるものが文学なわけだから。まぁすんげー広義に文学を定義するとそうなるって話なんだけどね。

 

まぁ逆を言えば下手な小説を読むよりもストーリーリッチなゲームをやったりするほうがよっぽどストーリーを楽しんだりフィクションを楽しめるっていうことで、紙媒体の小説がより売れなくなるっていうか、あえて苦労して活字で読む必要があるのかい?ってことになっちゃうってのはなんかしょうがないよなっていうか、例えば90年代ぐらいまでってのを考えたらさ、ストーリーがリッチなものって映画とかさっていうか映画ぐらいしか思い浮かばないんだけど、ゲームがもはやインベーダーゲームとかじゃなくてもう独立した凄いストーリーなりレシを持ったものだっていう風に規定すると物語とか文学的要素ってのを楽しむっていうものがめちゃめちゃ多いんだよね。

 

あとまぁ動画サービスの普及で映画見放題ってのもあるんだけど、でもまぁそういう映画ってのも小説が原作だったりするものもあるわけでね。虚構の世界を愛するってのを文学を愛するにしてもいいんじゃね?って思うようになってきてるわ。思うに人は世界につまらなさを感じてたり面白いものを求めるから映画を観たりドラマを観たりするわけでしょ?基本物語とかレシに飢えてるんだよね。

 

なんだろう、だから紙媒体の旧式の文学が売れなくなっているというだけで、娯楽的な文学ってのは形を変えて愛されてるってことなんだよね。あとまぁゲームの場合、傍観者として見るんじゃなくて能動的に自分がストーリーに入っていって色々と決断したりさ、どのキャラを使うのか?ってのを好みで決めたりとかっていう、まぁインタラクティヴな感じっつーのかな?

 

もちろん無駄にテキスト量が多ければいい話ではないんだけど、本編とは全く関係ないサイドストーリーみたいなのがさ、実はその豊富さが本編以上の楽しみになってたりするわけじゃん?トライアングルで言うと各キャラの深堀したエピソード見たいもんね。そのために出撃回数稼ぎするとか(笑)ってことがあるぐらいだからまぁ凄いよね。虚構の力は。

 

でもあれなのね。近年の映画魅せられてるだけみたいなFFとは違う見せ方なんだよね。近年のFFはプレイヤー置いてけぼりじゃん?でもファイヤーエムブレムにしてもトライアングルにしてもプレイヤーがその世界に没入した上で色々なストーリーとかキャラのエピソードが語られていくから、そもそも質が違うんだよね。一方通行じゃないっつーかね。

 

steamでもstory richっていうタグがあるように、やっぱりストーリーって原点なんだよね。別に純粋なシューティングゲームとかFPSとかそれはそれでいいんだけどね。ただ世界的にストーリーを求める人が多いってのはそもそも人間がストーリーを求める存在なのかもしれないよね。もしくは自分の自己実現の邁進している人は自分のストーリーに没入してるとも言えるわけでさ、人には夢が必要だみたいなクリシェと同じく、人にはストーリーが必要なんじゃないか?と思うよね。みんながみんなそうとは限らないけど文芸が斜陽ってのは紙媒体の出版物が売れなくなっているっていうただの一面で文芸っていう文とかナラティブで人を楽しませるっていう意味での文芸ってのはいつの時代も当たり前のように生き残るよね。

 

ゲームにハマりすぎて昼ぐらいになっちまった。

 

んじゃまた。