ドープなカフカ。

ソウルハッカーズ2のりんごの声やってる黒沢ともよってヤバいな。バカなやつが「素人みたいな演技」って書いたりしてるけど、演技派が超ナチュラルな喋り方をしてるってことなんだよね。敵にアタックをかけるときの「よっ」とか言う掛け声とか、神は細部に宿るというけど、この人ただものではないなって感じ。

 

いや、最近フィクションについて考えててさ、やっぱその音声っつーの?舞台とか映画なら俳優の演技なんだけどさ、フィクションのキャラクターの声ってすげー重要だよねってそんなもん自明なんだけどさ、ソウルハッカーズ2はりんごの声で持ってると言っても過言ではないぐらいの演技だわ。

 

軽く調べたら演劇をやっているとかやっていたらしくて、元々演技派らしいんだけど、なんかヤバいよね。一つ頭が抜け出ている感じ。調べたらファイヤーエムブレムのソティスも黒沢ともよだったのか!すげーな。

 

で、いきなり表象論。あ、その前にさ、メガテン5諦めてDLCでキャラ強化しまくって進めたんだけど、やっぱりダメだね。ただフォーマットには凄くポテンシャルがあって、あんだけだだっ広い砂漠と化した東京を舞台にするならCyberpunk並の砂漠になってない近未来だか現代の東京をオープンワールドにしてRPGにすればいいのにっていうか、ただ地名がアキハバラとかスキヤバシってだけで何の特徴もないもんね。あとイライラするのがマップで酔うっていうか目が痛くなるよね。長時間やってると。段差があるところに行きたいのに行くために廃墟のルートを探さなきゃいけなくて、それが色んな所から行けるんじゃなくてここからしか行けない!って場所が決まっててそれを探すのにグルグル回って気持ち悪くなるし時間の無駄感が半端ないとかね(笑)

 

やるゲーム無くなるからソウルハッカーズ2はちょっと置いておいてやってなかったゲームやろうと思ってつまらんメガテン5やったんだけど、DLC使うなり難易度Safetyにすると10時間もしないうちに魔王城まで行けるのね。んで魔王城の意味分からないただ不快なだけのギミックにモチベーションさらに削られてストップしてるんだけど、なんであーなっちゃったかな。

 

まぁマップの劣悪さとか意地悪さってメガテンの特徴でもあるんだけどさ、なんかもういらんよね。ああいうの。あとイシュタル倒すためにエネルギー装置みたいなのをぶっ壊すってのも肝心の似非オープンワールドが迷路過ぎて面倒なんだよね。だから戦闘だけSafetyにして1ターンで倒しちゃうとかさらにつまんなくなってるなとか思いつつ。

 

デザインって大事ですよね。デビルメイクライとかモンハンぐらいの機動力っつーとあれだけど昇れなさそうなところもジャンプでいけるとかさ、ただRPGにアクション性は求めてないわけでさ、あ、でもそう思うとニーアってやっぱよくできてるのかな。やり直すか。どこまでやったっけな?後半までやってボスかなんかで詰んで以来やってないんだよな。何年前だよ。

 

いや、小説と創作というと大げさだけどご執筆の間にゲームやるってすげー大事でさ、退屈しないでなんかやりながら永遠とフィクションと小説について考えるっていうこの世に生きてないような生活を続けると頭がどんどん冴えわたってくるんですよね。そのためにも神ゲーである必要はないんだけどゲームが必要なんだけど、ドラクエ3まだかなー。とりあえずあれか、オフライン版か。

 

なんかでも最近CyberpunkとかFF7のリメイクとかでも同じなんだけど最後の方まで行ってやることなくなるとエンディング見ないまま途中でやめちゃうことが多いんだよね。もしくは関心が他のことに行ってどうでもよくなってやめたのか、FF7ってインターグレード版がSteamで出たじゃん?ティファとユフィが抜けるからそれだけでもやる価値があるなとか思いつつFF7のリメイク自体は二週ぐらいしてるんだけど二週ともなんで最後までやってないのかな?

 

なんだかんだでやってんじゃんね。ソープ嬢に説教しながらやるおっさんみたいだな。あ、んでね、英語で小説を読むって話をしたじゃん?訓練をしようって。んでまぁ邦訳がプレ値ついてるからペーパーバックをわざわざ輸入する必要があった俺的に神作家のSasha Sokolovの「A School for Fools」が届いたんだけど読んでみたら普通に読めるねっていうかこの本の翻訳はどうか知らないけど下手糞な訳文より全然いいなってことは今後はなるべく英語で読んだ方がいいってことになるな。

 

でも日本語の場合、そのままコピーして使えるからね(笑)だからわざわざ翻訳買うんだけど。あとカズオ・イシグロの充たされざる者も元が英語だから英語で読めばいいじゃん!と思ってオーディオブックと文庫持ってるのに英語のやつも買ったんだよね。まぁそんぐらいあれ好きなんだよね。本人がどれだけマジだったかはともかく、書いた当時は俺が本当に書きたかったのはこういうものだったんだ!って言ってたらしいけど、そうなんだろうなって思うんだよね。

 

デビューの時にはちゃんとした体裁の小説を書いて評価を得て、そこからやりたいようにやったのが充たされざる者だったんだと思うんだけど、デビューであれ書いたら誰も出版してくれないからってことだと思うんだよね。ああいうなんか意味が分からない、読む必要があるかも分からない長いやつってあるじゃん?ムジールの特性のない男とか、あとアルフレート・デーブリーンのベルリン・アレクサンダー広場とかゼッツのインディゴとか、ある意味、確立されたジャンルではあるんだけどさ、いや、今、フィクション論とか物語論みたいなのも読んでてゲームもやってて小説も読んでるから眼精疲労マックスなんだけど、フィクションじゃないんだよね。ああいうのって。

 

なんだろう、ちゃんと書ければいいんだろうけど、タル・ベーラ的とでもいうのかな。カメラ置きましたっつって特に出来事らしい出来事が起こらないっていうやつだよね。イシグロのやつはカフカの城とジョイスのダブリン市民を足して二で割ったとか割る必要があるのか?って話だけど、プルーストとかジョイスとかカフカとかのさ、あの無駄に長い感じ系っつってもカフカは長くないんだよな。

 

やっぱカフカすげーわ。保坂さんの本でよくカフカと小島信夫の話が出てくるから保坂さんに洗脳されてるのかもしれないけど(笑)所謂、ステレオタイプだとさ、カフカって本でも絶望名人だかなんだかっつーなんか暗い実存系のキルケゴール系の人っていうイメージがあるけどマックス・ブロートのクソみたいだけど部分的に読む価値があるカフカの本曰く、審判だかなんだかの朗読会をしてカフカは人を笑わせていたなんて話があって、不条理っつーより「何なのこれ?」っていう小島信夫を読んでて思わず笑ってしまうみたいな、そういう系なんじゃないのか?っていう保坂さんのカフカ論があるけど、それで言うとイシグロの充たされざる者もブラック・ユーモアの本だって本人も言ってるようにさ、実存系の不条理小説と言えばわかりやすいけど、意味が分からない笑いの話なんだよね。

 

意味が分からないというところが形而上学的に難解だったりするのではなくて、意味が分からないよねっていうところで笑うか首を傾げるしかないというところでそれ以上でも以下でもないっていうようなものだよね。思うに小説って特にカフカみたいなものだとさ、一般的に流布してるイメージとか不条理小説だの鬱小説だのっていうレッテル貼りを失くす必要があるんだよね。クリーンな状態で読むべきというかさ、でも名著の類はこうこうこういう理由で名著なんですって言われて読み方が決まっちゃうんだよね。

 

でもそれは人によって同じ風景でも違って見えるように、特に何かが起こるわけではないことが永遠と書いてある小説なんて千差万別なわけですよ。でもあれだな、保坂さんが本で書いてるけど、不条理の先まで行かない人は踏み込まないで解釈しちゃってそれで終わってるって言ってるけど、それなんだよね。言葉では上手く説明できないんだけどって説明しろよって話なんだけどね。

 

でも保坂さん的な読み方ってパラドキシカルで保坂さん並に何十年のプロとして第一線で小説を書いてきてなおかつフィクションとは?小説とは?ってのを何十年も考えてきた人が至れる境地なんであってさ、あと書き手にしか分からないって部分があって、ようは書きながら葛藤してたり悩んでたりする人じゃないと分からない部分ってのがあるんだよね。

 

それは音楽の作り手じゃないとあるなんかの曲の良さが分からないのと一緒で、秘伝とかesotericってことではない読み手の主観に関わるところなんだよね。まぁでもそれ言うと哲学だってそうじゃん?ニーチェとかサルトルがガキの理解できるわけないのは仮に読めたとしても「永劫回帰とは・・・」っていう「ニーチェはこういった」という表層レベルの理解に留まるわけで、マジな理解ってやっぱ何十年も哲学について考えたりしてないと分からないんだよね。

 

分かるってことは何も読めるということではないからね。逆に読めるということが分かるということでもない。だから読めなくてもそれについて長年考えてきたり哲学とか文学とは別なフィールドで似たようなことを考えて来たりやってきた人がそれがを凄く理解していたりするのはやっぱり年月がいるっていうかさ、考えたりやってきた時間なんだよね。

 

分かるということはどういうことなのか?って昔から俺は書いてるし今でも分からないけど、でも文学を通じてまさかの分かるということの一つの理解が深まった感じがするのね。それは小説が読めるようになったということから、カフカとかベケットみたいなのを謎のまま読むんじゃなくて入り込んで「楽しい!」と思えるレベルで読めるようになったとかね、でもまだそれはつかめただけで、今後どんどん深まるんだよね。

 

ただとっかかりが分かったから読めばもっと発見があるだろうなっていうことになるわけ。逆にどんどんただ表層的なストーリーをなぞるだけみたいなものにはどんどん興味を失っていくというね。ブランショ的に言えばよりレシ的になってるってことなんだろうな。レシにしか興味ないしレシがそこで発生していて完結していないし物語にすら還元されていないっていう生のレシ状態を味わうっていう、なんか高級な寿司屋でゆっくりとカウンターで寿司と自分とあがりしかない状態で寿司を対峙しながら寿司を食べるっていうあの一対一の感じに似てるんだよな。

 

格差をつけるわけじゃないけどエンタメ小説ってジャンクフードなんだよね。もしくは若干高級だと美味しい飯屋のコース料理みたいなところがあるんだけど、やっぱりなぞってるんだよね。でも寿司とか素材そのものを味わう場合、一対一なんだよね。食事としてより抽象的なんだよね。場とかも含めて。もちろん高いから味わって食べなきゃ!っていう意識があるのは高い本を買ったときに適当に読めないのと似てるんだけどね(笑)

 

最近書いてたゲームというフィクションすらもフィクションの大枠というのを広義に文学として捉えるっていう乱暴な、なんちゃってなんでも文学論みたいなのを展開してた俺だけど、他方でカフカ的であったりベケット的であったり、さっき名前に出したような、分量はともかく何がなんだか分からないようなものなんだけど、恐らくそれは現時点では文字でしかなされないし文字でなされることが一番適している表現形態というのを文学ということにするとめっちゃ狭くなるんだよね。

 

灰野さんの即興演奏の定義と似てるかもしれない。「あれは俺しかできない」という実質的に即興と言ってはいるがそれはただの形式なんであって本質ではないって意味で灰野さんは凄く即興というのを広義な意味にしているわけでしょ。それと文学って似てるんだよな。色々読んでて思うのは「文学的だな」と思えるのって実は間違ってそれって詩的なんだよね。ポエティックでスタイリッシュで素敵!だとか粋だね!みたいなのとかと凄く近いものがある。というかそういうのが文学なんだって思わされてるところがある。

 

でも最近の俺の広義なほうの文学観だとさっき名前を出したような作家の作品群と、それの特徴を一言で言えれば苦労しないんだけど、人によってそれが表象に見えることもあれば、その場限りの表出で終わったものがシニフィアンの戯れ的な遊戯を通してフィクション化したものが読者によって現前化されるというようなものなんだけど、それはそういう意味で保坂さんが言うところのリンチ的な不可解さとかであったりだとか、もしかしたらそういうのは生活の中で「今ってどういう状態?」みたいな状況を俯瞰している自分に気づく自分が持っているイメージとそれを観察した時に喚起される意味不明な感覚だったりして、これは所謂、「文学的」というものが仮にさっき書いたような詩的で情緒的なものだとすれば、これも同じ意味で情緒的なんだよね。

 

なんだろう、すんげーメロドラマ的だけど教師と教え子の禁断の恋で、教師と教え子が誰もいない浜辺に座ってイチャイチャするわけではないけど、明らかに教師と教え子の距離感ではない接し方をしていて、そこで波がきて「波が綺麗。そのうちこっちまで来ちゃいそう」とかって女生徒が言ったりするのが凄くベタな情景における情緒なんだとしたら、人生は不条理だらけで、でもそれを主観的には不条理だと思っていないんだけど、ある時に、例えばカフカとかベケットを読んで「何これ?」って思っているのにも関わらず、何か喚起されるものがあるというその部分が人生の不条理とか意味不明な、そもそも何で生きているのか?とか、そんな大げさな話じゃなくても、なんで意味もなく待たされるのか?とかっていう主観的な不可解さが間接的に喚起されているっていう意味で情緒的なんだよね。それを味わいとするのは珍味を肴にして酒を飲むような好き者の感覚なのかもしれないけど、実際に好き者の俺が刺さるものっていうのはそういうものだったり、もっと広く見ちゃえば松っちゃんが尖ってた時期にっていうか今でもそうだろうけど、追及してたある種哲学的な笑いの感覚とかにも通じるものがあると思うのね。

 

でも万人受けするものではないのと、万人受けしないからこそ誰かが「こういうものだ」というレッテル貼りをして、例えばこれは不条理系だのシュール系だのっていう分類をしてそこで留まらせることでより読者がそれを読みやすくはなる反面、保坂さんが言うように不条理の先までいかない、そこで止まっちゃってるっていう浅さがあるから、カフカ的な「何なのこれ?」という先まで行く感じには到達できないんだよね。

 

それが表出なのか表象なのかが主観的に決まるなんつったら広義な意味ではなんでもそうなんだけど、カフカとかの文学的な感じっていうのはそれが顕著なんだよね。簡単に言えば分かる人には分かるけど分からない人には分からない。でも俺みたいにハマるポテンシャルがある人間でも結局は特に最初に読むときなんかは「不条理系小説」として読んじゃうわけで、全然本質が分からなかったりする。もしくは分かったようなフリをして「カフカ面白い」って言うことであたかもカフカを理解してるように振舞ったりするわけだよね。

 

でも本当にカフカが好きな場合、多分それはカフカが好きというより生のレシが起こっている紙の上というのを観察したときに脳内で生成されるイメージとか、カフカにどっかに引っ張られる感覚が好きなんであって、カフカの作品が好きかどうかとはまた別問題なんだよね。その引っ張られ方が好きっていっても身体的に例えば俺は彼女いないけどって言う必要ないけど(笑)彼女に物理的に腕を引っ張られる感じと母親に引っ張られる感じは違うよね。

 

かといっても彼女が怒りながら俺の腕を引っ張るっていうときは恐らくそれは心地の良い引っ張られ方をされていないわけで、ただなんか「いいなぁ」と思える「ねぇねぇ」って言われて軽く手を引っ張られた時の質感が良いとかっていう、テクスチャの話だったりするわけなんだよね。でもそれを局所的に見れば凄くコンテキスト的でそれが例えばディズニーランドでデートをしてて、「あのぬいぐるみ可愛くない?」と彼女が俺に言うために手を引っ張った時の質感が良かったっていうのはその場限りの質感だよね。

 

だからそれは一回性なんであって、カフカとかベケットとかあとウルフの波みたいなレシ系の中で起こる引っ張られ方ってのは毎回そういう一回性の独特の引っ張られ方があって、それがなぜか心地いいっていうマニアックなやつらがいるっていう話なのか、もしかしたらそれは生理学的に心地よいとされる科学的根拠があってそうなってるのかもしれないし、ただ現状分からないんだよね。

 

でも確実に「なんだこれ。意味分からない。面白い」という感覚があって、とりわけ小説ではそういうものに出会える可能性がめちゃめちゃ少なくて100冊本を買ったって気に入るものはそんなにないか、読めなくもないけど無人島まで持っていくかと言われたら「うーん」て悩んじゃうようなものが大半なわけだよね。

 

そういう中で独特の引っ張られ方をするものっていうのはそもそもそれは意識の中で起こっている引っ張られる感じなんであって、作品が表出なのか表象なのかリアリズムなのか反リアリズムなのか?みたいな後付けとは関係がない引っ張られ方なんであって、それはさっき書いた架空のディズニーランドデートで彼女に手を引っ張られた時の感じがどういう系統に属するのか?というのを分析するのが野暮ったいっていうようなものの質感なんだよね。

 

フェティストが耳とか臍とか足とか履物とかに異様に興奮するのと同じような、テクスチャとか質感に異様に脳が反応してしまうというところが喚起されるものというのがカフカとかベケットの作品に内在されてて、それが刺さると所謂「ハマる」ということになるんだと思うんだよね。

 

でもそんな簡単な話じゃなくてじゃあハマるにはどうしたらいいのか?とかそういう話ではなくて、それは俺が「なんなんだこれ」と思うようなものが元々好きであったり、人生全般に「何なのこれ?今のこのトイレに行って戻ってくる意味のない感じ」とかっていう虚しさのようなものを感じていたりすると、それが括弧の中に入って、ただトイレに行ったみたいなことが永遠に続いたり、トイレに入ろうとしてもなかなかトイレに行けなかったというお話でしたっていうなんでもない話に異様に突き刺さる部分があったりするっていうのはその人間の人生観とかそれまでどういう人生を送って来たか?とかにもよるわけだよね。あと年齢。

 

なんとなくだけど若い頃には哲学然りだけど無理なんじゃないかと思う。色々とまだ知らないことがあって異性でも同性でも性欲が強い時期だから「彼氏彼女欲しい!」って思ってたり、ブランドものの服が欲しかったり、頭の中が色々と忙しいわけでしょ。そういうのを経て色々落ち着いてきて「一体結局じゃあ人生って何なの?」ってところになったときに壮大な規模で人生というものが括弧の中に入るんだよね。入る場合もあるっていう蓋然性だけど。

 

そこからさらにまた経験と考えることと接してきた芸術作品でもゲームでもフィクションでもなんでもいいんだけど複合的要素が絡まって、そこでカフカ的なものが突き刺さる準備ができているっていう状態がある中で読むことができてなおかつ保坂さんのようにカフカを深堀している人のカフカの話を読むことができたという色んな偶然が重なって「ヤバいぞ!これは面白すぎる!」って感じられるこっちの準備ができているっていうことだったりもするんだよね。

 

一般的なカフカ論はそんなに面白くないよね。保坂さんのカフカ論というかカフカというより保坂さんが考える小説とかフィクションの面白さっていうところが俺は糸口になってて、そこから手繰り寄せて今みたいな認識にたどり着いたんだけど、それも偶然の産物と言えばそうなわけで、文学に目覚める前の俺にカフカを渡したところで、「そう言えばハネケが城って撮ってたよね」ぐらいにしか考えてなかったと思うんだよね。

 

でもブランショのカフカ論はやっぱ凄くて、例えば「僕は窓を見た」ということがそれ自体で凄く完結していてそれが完全にパーフェクトな表現だったというようなことをカフカがノートだか日記だかに書いてたんだかそうだったんだか似たような話があってさ、そこに究極の神秘性のようなものがあるみたいなことをブランショは書いてるんだけど、それって本当にテクスチャの話なんだよね。

 

高橋悠治さんがカフカノートを題材に作曲していたりだとか、使う言葉が凄く断片的で「門のところに誰々がいて・・・」とかっていうただの一節だったりして、あとクルターグ・ジェルジュという作曲家の作品にもカフカの断片がフューチャーされた作品があるんだけど、これは同じ意味か別な意味かはともかく、カフカが凄くテクスチャ的だということなんだと思うんだよね。だから音楽家の心に刺さって、それがあまりにも音楽的だから断片を素材にして何かを作りたくなってしまう何かがある。

 

もっと安易なところで言うとノイズっぽいセッションの上にセリーヌの朗読を入れるとか(笑)他の物に親和性があるものがその断片同士でくっつこうとするんだよね。それに気がついたメディエイターがそれをくっつけるわけ。その親和性になんで気がつくのか?っていうとそういうことを普段から考えているからだと思うし、とりわけ高橋悠治さんなんて音楽思想家と言ってもいいぐらい思想の人なんであって、あまり言葉に還元したくはないんだけど、ある種のそういう鋭い感覚を持った人の心に響くものを持ってるんだよね。

 

でも俺がこういう風に気がついたのも、そもそも俺は熱烈のリンチファンで、んで保坂さんの「遠い触覚」という本を読んでリンチとカフカの話を読んでツボというか「そこが刺激されているのだな」ということが分かるようになって、かといっても理知的ではなくて凄く感覚的に分かるようになった結果、凄くカフカ的なものに触発されるようになるっていう、でもそれはインランド・エンパイアを最初に見たときに驚きしかなかったように、でもあれと同じことがカフカの小説の中で起きているのにも関わらず、俺は文学とは縁が無いと思っていたし分かるわけもないと思っていたりしていたわけだから、それでたまたま小説を読む前にいきなり書くようになって、その書くようになったというプロセスを経てまた読むようになった結果、表層的ではなくてテクスチャ的な何かを掴むために小説を読んでいるとか、その質感が好きなんだよなっていう意味だと俺の本来のフェティスト的な感覚と同じで、例えばノイズが好きだったりアシッドが好きだったり90年代のテクノが好きだったりっていう、なんで好きなのか?って言われれば当時のあの質感としか答えられないような曖昧なものなんだけど、そういうようなものが文学にもあってというよりも恐らく俺の見立てだとそういうものが最も刺されば強いのが文学だと勝手に思ってるのね。

 

それが刺さっている人生と刺さっていない人生とでは「これを食べないで死ぬなんてもったいない」なんていう言葉があるぐらい、この感覚を知らずに人生を終えるなんて勿体ない!っていうぐらいのものがあるんだよね。で、その質感というのが音楽よりもさらに強いのね。音楽は好きな質感でもまだ遠い感じがするけど気に入る洋服の雰囲気とかシェイプとかテクスチャが大好き!というようなものと似ていて、それってやっぱり単純に着るものだから対象との距離が近いんだよね。だから質感がよりリアルなものになるし好きな質感の好き具合が身体レベルで好きという具合になるのと同じで、文学の場合、それが文字なのではなくて脳の中で起こることそのものだから、もっと近いんだよね。

 

言葉を尽くせばキリがないんだけど、ストリート界隈の人がヤバいものを「これはヤバい」という「ヤバい」という言葉で全てが言いつくされるように、ようはカフカもイルでドープなんだよね。実際はそういうストリートカルチャーの感覚に近いものがあると思うのね。文芸なんていうとアカデミックなイメージがあって凄く知的で理屈っぽいところがあるけど実際はヴァイナルに針を落とした時になる音で「このトラックヤバい」って感じる即物的なイルな感覚とほぼ同等なんだよね。それが音楽なのか文学なのかという違いだけで、ヤバさが喚起されて身体がそれに反応しているという意味ではどちらもイルでドープでしょう。

 

でもこれはadhoc過ぎて分からない人には全く分からないっていう好みの問題でもあるから、結局は普遍性に還元されないんだよね。つまりは方法論とか工学的なことに還元されないレシが生のままでそこにあるという現前性が全く動かされないまま存在するっていうレシのオントロジーが何にも侵されることなく担保されているんだよね。長くなったけどそれが俺の広義な意味での「文学」ってことになるんだわ。

 

小説書くようになってから文章がどんどん長くなってるけどまだまだいくらでも書けるんだけど(笑)大体言いたいことは言えたからいいや。走り書きのメモですよね。

 

ってことでんじゃまた。