長話。

最近エレクトロにハマってるってのは書いたっけ?ウォール伝に書いたのか小説のほうに書いたのか覚えてないんだけど、凄くRawな初期のエレクトロね。808とブレイクスを使うビートしかないんで全部似通っちゃって廃れたみたいなやつっつってもエレクトロ史みたいなのを見てるとリバイバルが90年代にあってまた2000年代にあってっつってまぁ廃れてないんだよね。

 

いやさ、改めて90年代の卓球ってやっぱりテクノ史から考えてもヤバいんだよね。圧倒的なクオリティのクラブトラックを作りまくってた。日本人アーティストってそれこそケンイシイとかさ、あとフミヤとか数えきれるぐらいしかいなかったからね。いや、んで今更少年への猥褻行為を告発されたっつっても結構前だけどバンバータのミックスにTakbamのトラックとか入っててやっぱワールドワイドだったんだよなーって改めて思うんだよね。マニアックラヴにSubheadが来た時も入った時にPolynasiaかかってたからな。

 

Rawなのっていいよね。闇経ちしてるから聞いてないけどやっぱりRawなブラックメタルとか最強過ぎるしノイズもRawなやつが一番いいからね。んで今のあたしの分野である文学なんですがね、色々と読んでて音楽と一緒だよなーって思うんだよね。作家の知能指数=作品の良さじゃないところがさ、いや、文学ってなんかやっぱインテリのものって感じがするけどさ、ブコウスキーじゃないけど、飲んだくれのやつが創作に向かう場がタイプライターだったっつって書きなぐってたやつが面白かったとかさ、いや、カフカノートが面白いのも結局、ストリートなRaw感覚だったんじゃねーか?って思ってるんだよね。

 

色々と考察はあるよ。高橋悠治さんみたいなインテリがなんだろう、生成の真っただ中にある書かれつつあるものがそこに現前しているとかさ、カフカの断片の醍醐味って気がするんだけど、これってゲットーハウスとかに通じるものがあるんだよね。リリースするならもっと体裁保てよ!とかさ、エディットしなさすぎだろ!っていう一筆書きみたいなのをそのまま出しちゃうっつーかカフカのノートは出版予定じゃなかったんだけど作品よりある意味、面白いのってそのRawさにあるんだよね。

 

天然っつーのかな?ベケットなんかはそれを方法論的にやったとも言えなくもないよね。不慣れなフランス語であえて書くことで決められた文体とか自分が書きやすい形式から逃れることができた的な?ゴミカレの英語の補修の授業思い出したんだよね。他の生徒がさ「君の文章は「まるで子供のように」「そうなっていた」「上がった」「それから変えた」って感じでぶつ切りなんだよ」とかって注意されてたんだけどさ、なんかあれってベケットだったんだなってその生徒の注意されたエッセイを読んだわけじゃないし、そのクラスメートと仲が良かったわけでもなんでもないんだけど、文法的に正しいことが文学的に面白いことじゃないのは明らかだよね。

 

そんなもんつまんねーよ。逆に。あと文学はインテリとか情緒的と言えば聞こえがいい日本の女流作家とかに多いんだけどさ、やたら波とか山とか風とかをゴテゴテの言葉で形容するんだけどさ、「風が吹いた」なんて風だけにうすら寒いクリシェでさ、フローベルが紋切辞典だかなんだか、そんなのをあの時代に出してたぐらい文学的な紋切って多いんだけど、本当にダサいよなって思うんだよね。

 

どうダサいのか?というのを音で表現したほうが早いと思うので音貼るわ。

 


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深夜に流れる彫刻の森美術館のCMの音楽と言えば懐かしーって思う人がおっさん世代でいるかもしれないけど、文学にもこういうダサさがあるんだよね。情緒的なダサさ。ウィンストンなんて音楽的にムード音楽ぐらいの評価なんだろうけど文学だとなんなのか、評価するやつのセンスが悪いのか良い評価を得てたりするのが多いんだよね。よくこんなダサい本を絶賛するよなっていうか帯に色んな作家の絶賛の文章が書かれてたりするとまさにこのウィンストンのアルバムに「超名盤!いつ聞いても泣けます!」とかって寄せ書きをしてるような馬鹿さ加減っつーのかな?

 

文学は分からんうちは知能か技巧だろうって思うんだけど色々と書きながら研究すると結局、音楽と同じでただのセンスってことに行き着くんだよね。で、それは例えば音楽と一緒で音大出たからっつってグルーヴィーな曲を作れるわけじゃないどころか音大出てたりするとゲットーな感覚とかとは程遠い世界で音楽を嗜んできた人なんだろうからグルーヴィーさを期待しなくなるよね。で、大体ゲームのサントラとかやってんだけどねっつっても最近のゲームのサントラはクオリティ高いんだけど。

 

ウィンストンのダサいピアノを情緒的だって思うのは自由だけどそりゃセンス無さすぎなんですよ。あえてゴミ音楽として聴くっていう聴き方はあると思うけどね、言わばモンド的な聴き方ね、でも地で「涙腺が緩くなる」とかって言ってたら相当アレですよアレ。

 

音楽って早いでしょ。特に説明せずに「聞いてみ?」「うわーダッセー!」っていうのがさ、例えば分析的にコードがどうで構成がどうで音色がどうでとかっていう説明じゃなくて瞬間的にダサい!って分かるんだよね。説明する前に恥ずかしくなる感じ?文学も一緒やん。よくこんなの真面目に書けるよなってのがありますよね。多すぎないか?Audibleで聴けるとなるとそこそこ売れてる本ってことになるんだけど、やっぱり大衆のセンスって悪いのか!っていう結局、大衆音楽とは歌謡曲であるみたいな命題に行き着くんだよね。

 

逆に頭が悪くても理論とか分からなくてもグルーヴを知ってればかっこいい音楽を作ったり演奏できるかもしれないよね。明らかにバカなんだけど音楽の才能は凄いってやついるじゃん?でもバカなんだけど文学の才能は凄いってあんまりピンとこないのはやっぱり文学って知的な営みというイメージが強いからなんだろうなって思うんだよね。

 

ということはだよ、文学の囲い込みをしてるのってインテリばっかだよね。でも知能指数が高いからといってセンスがあるかどうかは全く別の話なわけでさ、で、それは文学にも言えるんだけどでも囲い込みはインテリがやってるってことになると回りくどいけどウィンストンのアルバムを絶賛する馬鹿なやつらのサークルみたいな衆愚感があるんだよね。

 

その辺の感覚が文学は緩いのは音楽より評価に時間がかかるからっていうか、時間ってのはあれね、そのあれだ、レコードに針を落としたら一瞬でそれが良いか悪いか分かるでしょ?俺ぐらいのディガーなら試聴時間なんて数秒だ。でも文学はそういうわけにはいかんでしょ。まぁ分からん、そのうちパラパラ読んで「ダメだこりゃ」って思えるようになるんだと思うし、今も数か月前に買った本で「なんでこんなつまらないのを買っちゃったんだろう?」とかって思ったりするわけで、多分、良し悪しの判断が結構一瞬でつくようになるような気もするけど、明らかにあれですよ、針を落とした瞬間分かる!的なスピード感はないですよね。

 

帯に推薦文書いてるぼんくらも金だけもらって本は読んでないかもしれないし、何しろ300ページぐらいあったらしんどいよね。アルバムなんてどんなに長くたって70分ぐらいでしょ。大体45分から60分ぐらいかな。あとあれだ、古典ね。音楽は一気にクラシックとかになるし古いのだとブルースとかジャズになってその時代の空気感とかその時代がある意味良さのピークだったみたいなジャンルもあるからアレなんだけど、例えばあれだ、映画ね、ポチョムキンが名画だから観ておけ!っつっても明らかにつまらないですよね。

 

文学然りでさ、闇雲に古典とされてて評価されてるっつっても無駄が多かったりさ、その悪い意味での無駄ね、あとエンタメ性に欠けてたりとかっていうか、ここが面白いんだからさっきの長い無駄な喋りのシーンとかいらないだろ!とかさ、でもそれって古い小説だからしょうがないんだよね。でも日本の古典っつーかあれだ、俺が言ってるのは昭和初期とかの作家のやつね、あ、内田百閒がめちゃめちゃ気に入ったって書いたけど、日本文学全集を買って百閒も入ってたのかもしれないけどつまらないのが多すぎて全然読んでないんだよね。でもそりゃそうなんだよな。田舎の田園風景を描いただけっつってもそれがシュルレアリスティックだったりすればともかく地でそれをやるとつまらないよね。

 

なんかここで虎の威を借りるけど高橋源一郎さんなんかもさすがに今読むとキツイ日本の古い作家の話とかしてるしさ、というか逆にね、逆にエイゼンシュテインが今の大作映画より面白かったらおかしいわけでさ、今の映画の方が面白いに決まってるんだよね。あくまで時代背景ってのを考えると価値があるっていうだけで現在の価値は?っていうとさ、それはなんだろうな、昨日書いたFF7のリメイクとファミコン初期のいっきみたいなゲームを比べるようなもんよ。同じゲームでも別物でしょ。FF7のリメイクなんて下手な映画より映画だもんな。ゲームとしてどうなのか?ってのは別としても。いっきと比べるのはおかしいよね。

 

まぁでもレトロゲーにはレトロゲーの良さがあるのはそりゃあるよね。チップチューンじゃないけどさ、8ビット音楽なんつーローファイ音楽のデジタルバージョンみたいなのもあるぐらいでそれってテイストなんだけどさ、あくまでシミュレーションじゃん?初期のファミコンのFM音源風の音楽っていうのをシミュレートしているわけでしょ?いや、それが良い悪いとかじゃなくて。

 

逆に今ポチョムキンみたいな映画をそのまま作ったら誰からも評価されないでしょ。ビートルズの存在が無くなった世界の映画じゃないけどエイゼンシュテインがいなかった世界ってのがあってポチョムキンと同じものを撮ったとして誰も評価しないだろうっていう。どっかの大学で学生に見せたらポチョムキンはぼろ糞言われたなんて話があるぐらいでさ、まぁ当たり前だよね、音楽で言えばミュージック・コンクレートは歴史的意義があるけどシェフェールの諸作品を聞けるか?っていうと眠くなるぐらい退屈でしょ。

 

日本とか海外に限らず古典っつーか1世紀前のやつとかはつまらなくて当たり前なんだよね。なのにも関わらずカフカとかウルフみたいな作家がいるからすげージャンルだと思うんだよね。文学って。まぁ好みなんだろうけどね。ウルフみたいなこれぞ小説!って感じじゃないやつが好きなんであってね、でもあれなんだよな、文学史的に言うとそもそもこれぞ小説!みたいなやつってもう20世紀初頭でやり尽くされてて「今後どうするべ?」ってのが課題の中でシュルレアリストやら他の色んな芸術も取り入れた中で前衛的な実験とかが試みられてきてさ、まぁそういう中にベケットとかがちょうどいる感じだよね。

 

なんかだから現代音楽とかと似てるんだよね。もう調性音楽は無理だっつって無調になったりセリエリズムみたいなのが流行ったり、んでシェルシみたいなアウトサイダー音楽を地で行く現代音楽の作曲家がケージ並の衝撃を作曲家に与えるっていうのもなんだかさ、カフカだって生前さっぱり評価されなかったわけだし、それで言うとメルヴィルとか結構いるんだよね。しかも没後すぐとかじゃなくて没後から結構経ってから発見されて評価されるっていう時代が追い付いた系のやつっつーのかな。バートルビーなんて1853年ですよ!日本で言えばペリーさんが黒船で来た時代にあの小説。ヤバ過ぎる。早すぎる!

 

俺が文学に異様に傾倒するのもお分かりでしょう?俺が傾倒してきた色々なものと比べても明らかに異様なんだよね。凄さの凄さ加減が半端ないんだよね。ゴミが9割なのは音楽も一緒だからそれはしょうがない。ただ凄い作家は本当に凄い。作曲家の場合、例えばアインシュタインの相対性理論はアインシュタインが発見しなくても時代と共に発見されていただろうと言われるように音楽もシェーンベルグは凄かった!っつーよりかは時代の産物という感じが強いじゃん?

 

それに比べてメルヴィルよ。メルヴィルさんよ。ペリー黒船来航の時代にあれを書くなんてさ、ヤバイだろう。カフカも早すぎるんだよね。しかも実質的な評価も遅くて、初期はブロートじゃないけど、くだらない現代社会の行く末のアレゴリーだのなんだのっていう意味論的っていうか記号論的っていうか、そういうくだらない文学的センスのないインテリの評論しかなかったんだけど、さっき書いた高橋悠治さんみたいな、文学ということに関係なく表出というか表象というかさ、それが生成されつつある場所的な、文学的トポスなんて言うと衒学的だけど、アルゴリズム的に分析できるようなアレゴリーとかではないものとして一部で読まれるようになったっていう読み方が提供されて俺みたいな1年生が「カフカ面白い!」ってことになるわけでしょ。まぁそれにもセンスが必要なわけだけど。

 

なんかだからカフカってちゃんと読まれるのにざっくり100年かかったっていう感じがするよね。でもそれはカフカがそういう意図で書いてたのかは全然別というか関係なくて、そこがRawさと書いた天然ってところなんだよね。ゲットーハウスはスカスカなのに異様にグルーヴィーでかっこいいってのをじゃあ作ってたブラザー達が意識してたのか?っていうと天然でやってたんだよね。んで後にドイツとかのインテリが取り込んで真似し始めるっていうね。

 

カフカは明日が仕事だってーのに書きたいことがありすぎて色々書きなぐって書いたやつを無理やり妹に聞かせて「どや?おもろいやろ?」なんて聞いてたらしいから、絶望がどうだとかさ、実存がどうだとか、カフカってそんな浅い話じゃないんだよね。逆に城を実存系として読むと浅いよね。実存のアレゴリーの話なんだったらもっと現代でサルトルとかがあるわけだからあえてカフカを読む必要がないんだよね。

 

文学ってそういう読み手の文字通りのリテラシーが反映されるっていうかさ、リテラシーによって面白くもつまらなくもなるっていうところが面白いんだよね。かといってもさ、「歳を取ってくるとブルースが好きになってくるんだよ」みたいなクリシェを使ってさ、あと昔だと「歳取ってきたからかな、最近演歌がいいなぁーなんて思うようになってきてさ」とかって完全にセンスゼロのやつのクリシェだよね。センスが無いから言葉にもセンスが無くてクリシェを使うしかなくなるから会話をしているようで全部借り物の言葉なんだよね。言葉自体がセンスだもんね。ワードチョイス。言うこととか発言すること。

 

会話のセンスがないやつと話しててもつまらないでしょ。壮絶な時間の無駄だから早く切り上げようって思うよね。でも大体そんなやつばっかでしょ。話が面白い人に出会う可能性は面白い小説に出会う可能性ぐらい低い。まぁ俺は面白い話ができる人が幸いにもいるけどね。師父と師匠ととある人だけども、まぁ言い方難しいけど何らかの形で何かの道を究めてきた人だよね。だから深い。といっても必ずしも求道者の会話が面白いとは限らないんだけどさ、でもなにもやってないやつの話は多分つまらないだろうな。内容が無いから。

 

そういうすっからかんの人間の心に幻想を与えたり空虚さを満たすためにエンタメとしての音楽とか映画とか小説があるんだと思うとさ、これもまた比較がおかしいだろ!ってことになるのね。ようはエンタメ小説はあれはあれでいいのよ。タルコフスキーとハリウッド映画を比較してもしょうがないでしょ。全く別物なんだから。ハリウッド映画でも深いやつもあるから、俺が言いたいのは古いけどダイハード的なボーンでボカーンで車キィーでドカンなやつね。

 

前にも書いたけど文学だとその境目が曖昧なんだよね。やっぱりそれは今の俺の仮説というほど大げさな話じゃないにしても、中身を検証する長さが違い過ぎるから比較が追い付かないっつーかね、クリティークが追い付かないっつーのかな?映画なら2時間か1時間半ぐらいだからジャッジが早いわけですよ。しかも映像だから情報が多い。

 

それに比べて文学は情報が文字だけで長いし読むのに時間がかかるから何が文学的で素晴らしいのか?ってのがそこまで明確じゃないままなんとなくの空気とか出版社のごり押しとかで名作ムードが出来上がって全くセンスがないやつがそれを鵜呑みにして名作だ!って思いこんでるっていう、まぁ村上春樹とか典型的にそうだけどね。まぁ俺は別な意味で村上春樹は好きなんだけどね(笑)

 

でもそれが日本固有の現象か?っていうと違って海外でも春樹作品は読まれてるしっていうか本人が海外を意識しているっつーのもあるのかもしれないけど、まぁ実際調べるとなんであんなにつまらないものが面白いとされるのか?みたいなブログなりなんかの雑誌の記事とか動画とかいっぱいあるからね。でも海外小説万歳!じゃないんだよね。すんげーつまんないのは日本の文学と一緒。

 

逆に日本の文学のほうが例えばどうでもいいOLの日常とかくだらない恋愛話でも情景が浮かびやすいからまだいいのかもしれないのに対してつまらない海外小説はそのお国柄っつーと変な言い方になるけどイメージしにくい日本にあんまりないタイプの家具とか家屋とか社会システムとかコミュニケーション作法があってなおかつ翻訳で劣化している可能性も高いからただですらつまらないのがさらにつまらなくなってる可能性があるんだよね。

 

あ、でもあれかな、ピンチョンは本当につまらないよね(笑)前にも書いたけど古い前衛だから当時は凄かったのかもしれないけど、あの分量を苦労して読むほどの内容じゃないんだよね。名作とかって言われてるくせに読破している人間がアメリカ人でもそんなに多くないってことはつまらないってことでしょ。実際つまらないからな。だからそれこそバートルビーとかカフカの断片とか意味が分からないような短いものを読んだほうがよっぽど面白いのよ。あと当たりはずれはあるけどカフカに影響を受けたとされるアンナ・カヴァンとかも雰囲気小説だけど面白いんだよね。

 

大体やっぱ俺が好きになる作家は最後に自殺してるか頭が元々おかしいのが多いんだけど類友なんだと思うわ。でも文学の本質がそこにあるんだとすれば大衆小説に文学のエッセンスが欠けているのは当然で、それは大多数の人は内面は実は狂っていても健常者ぶって生きてるから頭がおかしい人が書いたものに心から共感することはないんだよね。

 

現代作家でも真っ当な生活をしててワイフとキッズがいて大学教授でもあるとかって人の作品はやっぱり何かが足りないんだよな。まともな人に面白いのは書けないんじゃないか?とすら思うようになってるよ。最近。後付けですよ。面白い!って思った作家について調べてみると何作か書いて一切書かなくなったりだとか、数作発表した後に一切発表しなくなったのにも関わらず書き続けているらしいだとかなんだとか、今のところ立派な人っていないんだよね(笑)

 

ここも音楽と似てるなって思うところなんだよね。心底好きになるアーティストって大体ぶっ飛んでるのね。まぁ現代音楽とかは別だけどね。だからドラッグとかで騒いでるってパーティーでキメて騒いでるって意味じゃなくて(笑)やっただけで非人だ!とかって騒いでるのってどうかしてるよなって思うのもあれが普通だから普通のつまらない小説が売れるんだし音楽も同じなんだなって思うのね。

 

あとは実際はビートルズみたいに薬漬けで作ったようなアルバムでもそういう情報だけ抜き取られてっていうかさ、ドラッグとセットなのに、あとまぁ歌詞の意味とか考えないんだろうな。あとビートルズ世代だからみんな聞いていたっつーんでビートルズ好き!っていうね、大衆に骨抜きにされるビートルズ。でもRevolution 9とかキメてないと作れないしキメてるときに聞くやつだろって明らかに分かるのにね。キメたことがないから分からないのか。

 


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ドラッグやれ!とは言いませんよ。日本だと極刑で非人扱いされるから法的な意味で絶対ダメ。でも日本でやったら非人扱いされるというのと時代的にドラッグとかに緩かった時代にラリって作られた音楽とかサイケロックみたいなジャンルだとか、もちろん死ぬほど練習はしてるんだけどそこにさらにヘロインでブーストして吹きまくるチャーリー・パーカーとかさ、ドラッグと音楽ってセットだからねってここで何回書いたことか(笑)ドラッグおじさんだね。俺。

 

いや、でもこないだフリスク買ったのに金だけ払って店を去ろうとしたら店員のおばさんから「お兄さん、ねぇ忘れてますよ」って声かけられたから「まだお兄さんなんだ」って思ったしね、あと初老ぐらいの人から若いと思われてため口使われたりするから、まぁストレスフリーの生活っていいですよ。見た目が老けないんですよ。こうやって好きなことばっかやってるからね。

 

でもまぁさ、微妙に老害感あるけど村上龍の「限りなく透明に近いブルー」はいいよねっていうかああいうのを読むとやっぱりさ、ビートルズ世代っつってもドープな人ってやっぱドラッグのリテラシーあるんじゃないか?って思うんだよねっていうか多分、浅くない人ってみんな深堀するからそんなさ、音楽とドラッグがセットだったなんて当たり前のことなんだよね。

 

だから騒ぐのはいつでも無知な大衆なんだよね。音楽配信やら店頭にあるCDを全部自主回収とかいってさ、じゃあ洋楽でガンガンキメながら今も作ってるアーティストのCDとかも回収しろよ!って話なんだよねってそれは外国だから治外法権なのかしら?

 

でもだったらなんか異様にドラッグとかアルコールに厳しいイスラム圏みたいにさ、そういうのを称賛してるようなものを政府レベルで規制するとかさ、そんぐらいやれば納得するっつーか逆に納得しねーけどよ(笑)矛盾してんだよね。ドラッグから発生しているものをドラッグがあたかもないように享受してるってのがおかしいんだよねっつってもドラッグやりなさい!ってことではないんだけどね。

 

まぁでもコカイン擬きみたいなのやったことあるけどね、もちろん海外でですよ、やっぱりヤバいですよ。心拍数とか上がりまくるし寝れなくなるしこのテンションで言ったりやっちゃったことでもしかしたら取り返しがつかないことをする可能性があるのでは?っていうことで不安になったりしたからね。でも体に害がないならいいんだけど脳細胞やられるからね。あれは。だからやっぱ肺がんとかは別としてってまぁ大麻ってことだけど(笑)リアルに健康に被害があり過ぎるのはダメだよね。フラッシュバックとかがあったりするのとかメンタルがダメになって再起不能になったりするからね。

 

なんでハリウッドのセレブとかはやり続けられるのか?ってそりゃ金があって上物をやり続けられるからですよ。まぁフィリップ・シーモア・ホフマンみたいにあんだけヘロインやったら死ぬけどね。さっき書いたアンナ・カヴァンも長年のヘロイン愛好者でそれが原因の心臓発作で死んだらしいぜ。

 

でもリテラシーある人だとコカインまではパーティードラッグ程度ならありだけどヘロインなんてとんでもない!っていうのがあるわけよね。で、たまにセレブが住んでるビルとかでドラッグで死んだりする事件があるじゃん?たまにかどうか知らんけど(笑)でもああいうのってリテラシーが無くて混ぜちゃったりして死ぬんだよね。大体ドラッグってドクター役がいてさ、こんぐらいの量までなら死なないけどこれ以上は致死量になるとかっていうガイド役みたいなのが必ずいるんだよね。必ずか分からないけど、まぁあとはドクターというほどではないにしても殉ずるじゃなくて準ずるぐらいの知識を持った人間がいたりするわけよ。

 

でもまぁあれですよ、大麻は別としてって大麻ももちろん今はやってないですけどね、LSDとかやろうと思わないですよってのもリテラシーでさ、ドラッグ体験記みたいなのを古今東西のものを読むわけじゃん?ヤバいんだよね。レイヴの話とかでさ、LSDのシートを摂取した友達がトイレに行ったっきり戻ってこなくてパーティー終わりの明け方に戻って来てなにしてたのか?って聞いたら「トイレの渦に巻き込まれそうになっていたのをずーっとふんばって耐えてたとか」って言うわけよ(笑)やりたいと思わないでしょ?(笑)翼をさずけるーっつってリアルに翼が授かったと思って飛び降りちゃう人とかいるからね。本人が死ぬのはいいけど周りが迷惑じゃん?モラルなんだよね。

 

だから害があったり強すぎるドラッグってやっぱりダメなんだよね。だから神の恵みであるハーブは理に適ってるんだってアメリカのパーティーで力説したらドイツ人の女の子から「芥子の実だって植物じゃん」って突っ込まれて何も言えなかったですね(笑)阿片とかは依存性もさることながら人間がダメになっていくんだよね。摂らないと倦怠感が半端ないとかっていうリアル廃人になるからダメ絶対!は理に適ってるんですよ。大麻だけがおかしいんですね(笑)一緒にすなよ!って感じ。

 

大麻でキマってない日がなかったというぐらい海外で常用してて帰国後、一切やらずにちゃんと妻子を持って生活している人とかいるからね。それが原因で破綻しないどころか最高のリラクゼーションにもなりうるし、少なくとも辛い現実を忘れるために医者が警告するレベルで危ないストゼロみたいなのを飲むより大麻やったほうがよっぽど健康にいいんだよね。恐ろしいよね。医者が危ないって言うもののCMが打たれててさ、The Manzaiでも優勝したら「ストロングゼロ一年分の贈呈でーす」とかどんだけヤバい酒配ってんだよ!って話で(笑)まぁでもアルコール離れはいいことですよ。あんなのなんにもいいことないですよ。本当に好きな人はいいけど酩酊を目的にするなら絶対ダメだね。ホントあれ身体に悪いからね。

 

肝臓さんが毒であるアルコールを分解したときにできるのがアセトアルデヒドで、これが二日酔いの原因になったり頭痛の原因になったりするんだけど恐ろしいことにこれ自体が発がん性物質なんですよ。いや、そのちょい前の流行りのQアノンとかじゃなくてマジで(笑)アルコール自体にも発がん性があるからハードリカーばっか飲んでてチェイサー飲まないやつが食道がんになったりするわけで、口回りとか胃とかのガンってエグいからね。酒にもたばこと一緒でグロい「がんになる危険性があります」って海外の煙草みたいにがんの写真貼ったほうがいいと思うんだよね。なんであんな有害なものがレクリエーション的に使われ続けているのかさっぱり分からない。

 

酒とたばこをセットでやる人いるけど社会福祉を切迫させる原因を作ってるわけで、目指すべきは健康!なんですよ。あったりまえのことですけどね。禁煙ファシズムとかそういうレベルにするべきだとは思わないんですよ。ただセットで平気でバカスカ吸って飲んでる人ってどう思ってるのかな?って思うのね。内臓が悲鳴をあげているというのに。バレットさんみたいにさ「聞こえるだろー星の泣き声がよぉー!」って誰か注意してあげないと。

 

またいつもの流れだな。芸術かぶれ・大衆批判・衆愚批判・大麻万歳・大麻ボカン・オーディオ・アクティヴ・でも結局、最終的にありふれたモラリストの意見に着地するっていうね。ウォール伝のフォーマリズムですよね。守っているわけじゃなくて書いているとそうなっちゃうっていう。これが型ってやつなんですかね。型にハマりたくないって思ってるのに型が出ちゃうのね。でもなんかね、そういうのを知ったうえでモラルは大事!って言うのとモラル妄信って違うからね。ドラッグは一概に悪いとも言えないがただ最終的にやっぱ全体を見ればダメなんだってことが明らかだってことが分かった上でモラルって大事!ってなったときのモラルの大事さって半端ないべ?

 

まぁみんな幸せになるべきなんですよ。それが善。

 


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こうやって唐突にジャズを出してくるのが春樹流ですね(笑)「とりあえずジャズを出す」ってのも紋切辞典に入って良さそうな項目だ。あと「クラシックの蘊蓄を語る」とかね。それもあれなんだよな、文学のステレオタイプなんだよね。文学は高尚なものであるっていう前提があるから出してくる音楽も高尚とされるジャズとかクラシックとかってことになるんだけど、ジャズがドラッグまみれのストリートカルチャーだったってのは散々書いてきたし知ってると思うから書かないけど、そもそも文学って高尚じゃないからね。

 

アカデミズムに囲われた文学は教科書文学なわけでさ、偉大なのはほとんどアウトサイダーだからね。その辺がまた音楽と似てるんだよね。あとストリートってことだな。評価されずに死んだ人が多い中で大学で教えながら小説も書いて世俗的な成功もおさめながら良い小説を書いてた人なんてほとんどいないっつーか文学者がろくでもないやつだらけってのは日本の文学者に限らず世界でそうなんですよ。だからなんか本質的にアウトサイダーアートなんだよね。社会的にはダメかもしらんがアウトサイダーの良い感覚が文学っつー形で出力されるとそりゃ「違う」ものが出てくるよね。っつってもアウトサイダーっつっても9割以上がただのアウトサイダーでダメなやつばっかりなんだけどね(笑)よってアウトサイダー=文学者みたいなのも紋切ですな。

 

でもまぁ文学者のダメエピソードって哲学者とか思想家のダメエピソードと通じるものがあって、文化ってそういうダメ人間によって形成されてきたんだと思うとさ、なんか途端に愛おしくなってこないかい?高尚なものというイメージはしつこいようだけどセンスのないインテリの囲い込みの結果だからね。ああいうやつらは囲い込みをして論ずるしか能がないからそれやるしかないわけだ。でもそれでイメージが決まっちゃうってのはおかしいよね。そうじゃないわけだ。

 

だからマジでさ、また凡庸なモラリストみたいな着地点になるけど、小説読まない!って人も変なやつが書いたやつとか読んでみるといいと思うんだよね。今の俺みたいに全く違う次元の視野が広がる可能性があって、でも映画化されてたら映画見ればいいじゃんっつってもそういうことじゃないのがさ、例えば駄作ではないけどハネケの城とかってただのつまらない映画じゃん?でも同じ城なはずなのにカフカの原作を読むほうが面白いんだよね。こりゃ大発見だよ。文字じゃないと面白くないものがあるって凄くない?描写を細かく映像で再現しても文字の方が優れている場合、映像化は劣化にしかならないって凄いことだよ。滅多にないことだけどね。

 

きりない。はい終わり。

 

んじゃまた。