行方不明の象を探して。その2。

では小説の続きです。

 

俺は血まみれのコンビニに戻ってきた。さて、何を買おうか、というか、何を買おうとしていたのか。ところで、バイザウェイ、小説を書こうと思ったわけではないなどと俺は言ったと思う。でもとりあえず適当に書いてみたのだ。数日前に。そしてそれを自分がやっている弱小ブログに冒頭部分を載せたらnnというハンドルネームの人物から以下のようなメッセージをいただいた。

 

nn

 

文学初心者なので、冒頭の小説を書こううんぬんの部分が村上春樹であるということは分かりましたが、ほかは何を元ネタにしているのかまったく分かりませんでした。

 

ブログで掲載する小説の手法ならば、ブログの記事自体を小説におりこみ、たとえば小説のシーンの元ネタを紹介したりとか、その元ネタを紹介する「私」も小説の一部になるみたいな構成も面白いのではないかと思います。

 

要するに、できれば元ネタを教えてもらいたいです! 文学初心者の自分にとっては、答え合わせにもなり、「あたってたな~」という自己満足にひたれ、分からない元ネタの小説を買ったりとか、そういう楽しみ方がしたいというお願いになります!

 

まさか適当に書いてみた小説に即、コメントをもらえるなんて感無量だった俺はこんな風に返事をした。

 

nnさん、書き込みありがとうございます!人生で初めて第三者に小説(といってもコラージュが多いんですが)を読んでいただいて、なおかつコメントをいただけで感無量でございます!

 

nnさんがおっしゃる手法、早速、取り入れたいと思います。あと展開が思ったのと違ってたとか、といっても僕が書く小説なので支離滅裂なのですが、「こんな感じならよいのでは?」というのがあればまたどんどんアドバイスをいただけるとありがたいです。作者と読者で作っていく小説って面白いですよね!解説する「私」も小説に取り込んでいくというのもそのまま取り入れたいと思います。

 

ちなみにフランスのウリポという実験文学集団みたいな連中を真似てこの小説は小説に欠かせない「私」という言葉が一語も出てこないようになっていますって最初からネタバラシしてますね(笑)

 

嬉しかったのは事実だ。数日前に小説を書き始めたと言ったけど、実は半年前からずーっと書いていた。なぜ嘘をついたのか?「数日前」と書いてしまったので、それを訂正したくなかったからだ。裸でなぜ悪い?nnさんの書き込みには感謝しかない。しかしここで問題が発生した。「私」を含まない小説なのにnnさんの介入によって「私」が入ってきたが、これはnnさんの「私」であって、俺の「私」ではない。いや、問題はそこじゃない。

 

俺の小説はコラージュだが、書いているうちに変に自分の作家性などというものを意識し始めて、原形を留めないぐらいにアレンジした結果、というか結果というほどではないのだが、自分でも元ネタが分からなくなってしまっている箇所が相当あって、なおかつ思い当たるものにしても、例えば学術論文のように出典をいちいちメモっているわけではなかったので、例えばこれは「村上龍だったっけな」とうろ覚えしていても、どの作品だったか、もしくは作品名は覚えていても本の名前を憶えていなかったり、どれだったっけな?という風になってしまって、リバースエンジニアリングするのにずいぶんと面倒になってしまった、といってもそこは俺の作品だ。

 

厳密性が無くても「恐らく村上龍です」「恐らく村上春樹です」とかって書いてみて、名前を憶えているやつがあったらそこは書名なりなんなりを書けばいい。書くことに困ってしまってはもうそれは俺の作品ではない。カフカのようにブログを書くようにスラスラと小説を書くのが俺の夢なのだから。

 

ところでバイザウェイ、nnさんの手法をありがたく取り入れたとして、前後の繋ぎはどうするのか?ということになる。しかしこれはもう半年の執筆の経験からクリア済みの問題だ。とあるプロDJの講義を美学校で受けたことがある。DJ指南ではなくて美学校らしい授業なのかなんなのかよく分からない講義だが話だった。そのDJは美学校に来るぐらいだから元はヒップホップなどを回していたDJなのだが、色々とやっているうちにエクスペリメンタルな方向になっていって、所謂、ターンテーブリズムというような、タンテ(DJ界隈ではターンテーブルのことをこう呼ぶ)自体を楽器に見立てるような、何の話をしていたんだか忘れてしまった。

 

ようはそのDJが何を言っていたのか?ということだった気がする。気がするというのは嘘だ。何を言っていたのか?ということだ。それは主張というほどではなかったのだが、ポツリと言った何気ない一言だったように記憶している。DJはなんでBPMが合ったもの同士を繋げなければいけないんだ。三味線の曲の次にレゲエが来たっていいはずだ。そんな風な話だったと思う。

 

まぁそういうことだ。俺が言いたかったのは。構成とか前後関係とか、まぁ娯楽小説ならいいとして、俺みたいな輩が書くものにそんなものが意識されていたらつまらないに決まっている。というか俺はそういう構成とか関係性みたいなものをとてもダサいものだと思っている。決まっている型が大嫌いなのだ。この「なのだ」はまるでバカボンの語尾みたいなのに、やたら小説で使われるのが滑稽だという話が今後、腐るほど出てくると思う。

 

俺が書いた処女作の冒頭。最初は村上春樹の小説を適当に切り貼り、といっても本を見ながら写経のように写していったので、結果的に村上春樹の文体に影響を受けてしまったかもしれない。完全にバカにしているつもりだったのに、いつの間にか村上春樹が好きになっていた自分もいたりなんかして、ああそうだ、元ネタの話だった。そう、nnさんが言っているように村上春樹だ。

 

あと村上龍のコンビニという短編。「空港にて」という本として出版されている村上龍の短編集に入っている、ただひたすらコンビニの光景を事細かに描写した作品で、ずいぶんと感心したのでそのままほとんどコピーしていたものをどんどんと変えて行ってあんな形になったんだと思う。

 

世界の淀みがなんだとかなんだとかなんだとかはゴンチャノフのオブローモフだったか、とりあえず途中のプロセスにおいて、村上春樹をコピーしながら、主人公はオブローモフのようなどうにもならない小説としてはありきたりな無用者を主人公にするためにオブローモフをコピーしていたのが、これまた改ざんを繰り返して原型を留めなくなってしまったのと、何よりコラージュの密度が半端ではないので、いちいちどれがどれだったか物覚えが異常な俺ですら覚えていない。

 

でもそうだよな、元ネタはあってもコラージュを繰り返して改ざんを繰り返していったらそれはもう俺のアレンジで原型を留めなかったら俺の作品だろう。多分、そう主張したいがために原型を留めないようにしていたのだ。でもnnさんからのメッセージによって元ネタを開示することになった。なにも盗作をしようとしていたわけではないし、あからさまに元ネタが分かるようにしているのもあるので、あくまでコラージュ小説であるというスタンスは貫いているつもりである。

 

しかし問題はこうやって今、書いている時間すらも惜しいぐらい俺はとあることにハマっていて、そのハマっていることの練習がしたくてたまらなくなってしまった。だから練習に行ってこようと思う。そんぐらいでいいんじゃないか。いや、それでいいんじゃないか。「小説を書いてやる!」なんて必死になっているから俺に似合わないような、まさかの小説執筆に悩むようなことが起きるのだ。

 

ブログのように書けば悩むことはない。というよりブログのような脱力で書けば悩むことはない。中国武術と同じだ。脱力が基本だ。力んでいては面白いものが書けるわけがない。

 

「コンドーム嫌いです。生のほうが好きだから」

 

はなぜか覚えている。ニコルソン・ベイカーの中二階だ。違ってもニコルソン・ベイカーであることには間違いない。でもベイカーの小説にそんなセリフは出てこない。ちょっと気になった女性店員に会ったと思ったら、こういう店のバイトの移り変わりが激しくて、すぐに出会えなくなってしまう、という話、というか言い方がベイカーのものからの拝借だ。でも拝借したなどと思っていない。これは俺の作品だ。俺はメンタルではもう一流の作家だ。

 

街を歩いていても自分で「一流作家が歩いている」と常に思っている。電車に座っても「一流作家が電車に座った」と思っている。嘘だけどね。この「嘘だけどね」というやり方も度々出てくるのだが、全体で100万字あるので、そんなに目立たないはずだ。それにnnさんのおかげで執筆する量が増えた。

 

目標は19世紀的なやたらと長い小説の分量を書くことで、厳密には「目標の一つ」なのだが、トルストイの「戦争と平和」が140万字だったので、140万字を目指していたのだ。でもそれはロシア語で140万字なのか、翻訳で140万字なのか、まぁその辺はどうでもいい。

 

気が付いたらnnさんの書き込みや俺の返信も含めて4000字近くなってしまった。この執筆速度が理想だ。このようなスピードで執筆できればいいのだ。でも実際、執筆ばかりしていた時期は毎日5000字ぐらいは書いていた気がする。こうやって書いてみると5000字というのは大した量ではないということに気がつく。もちろんそれは半年ほとんど毎日執筆をしていたから書けるようになったということでもあるのだが。

 

でもこれは小説なのか?普段のブログの記事を小説風にしているだけではないのか?でも小説とはそういうもので、佐藤友哉がどの作品だったか忘れたが「小説家がこれが小説と呼べばそれは小説となる」というフレーズが出てきた、というより思い出した。コンビニ強盗のあたりは多分、佐藤友哉の作品だ。その後、スカトロ美少女がうんこをまき散らして敵を倒すシーンが出てくるのだが、それは佐藤友哉と高橋源一郎の「アダルト」を組み合わせてアレンジして再構成したからもうそれは俺のものだ。

 

コラージュしてアレンジして原型を留めなくすれば俺の物って実は誰でもやっている凡庸な手法なわけで、もはやこれはコラージュでもなんでもないのだ。そう開き直った俺はライトノベルから時代小説、ミステリからBLまでネタになるものはないか?と本を買いあさった結果、月の本の出費だけで30万近くになってしまった、というのが数か月続いたっけなというのを今更ながら思い出した。でもあの頃はそのぐらい執筆に夢中だったのだ。

 

今はその熱量がどこかに行ってしまった。どこに行ったのか?それが例の「俺の今、ハマっていること」である。秘密にする必要はないのだが大っぴらに言うようなものでもないのであえて言わない。匂わせるってスメルって意味ではなくて、なんとなく仄めかすというのは村上春樹の手法の常套手段だ。それとこれとは全く関係がないけどね。

 

さてもう我慢ならなくなった。練習に行く。今後も読者の方が「こんな風にしてみては?」というリクエストに答えていくつもりだし、仮にこれが大ヒットして出版されでもしたら全部印税は俺の物だけど、今のところはnnさんも共同執筆者ということになる。

 

なんだろう、坂本龍一というか教授の曲で「なんかいいベースライン無い?」って細野さんに聞いてみたら「こんな感じはどう?」「ああいいね」ってことになってそのベースラインが採用されても作曲者に細野さんの名前がクレジットされるわけではないし、印税が払われるわけでもない。でも細野さんが「こんな感じはどう?」と教授にアドバイスしたならばそれはそれで事実だ。

 

ってことで続きますのでんじゃまた。あとnnさん、マジで書き込みありがとうございました!