「意思を弱めるということが女性化って聞き捨てならない言葉だな。お前も殺されたいのか?ポイントマンさんよぉ」
無口な少年に殺意を感じ震えが止まらなくなった。次は先生にセラピーを与える番だ。おなかを押さえて苦しそうな顔をした。先生は笑っていた。少年の殺意を感じない鈍感さが先生たる所以なんだろう。
翌週から先生とフリー・トーキングをした。
「猫についてなんでもいいから喋ってごらん」
考えるフリをして首をグルグル回した。回し過ぎて「グキッ」という音がして、筋がイッたなと思った。酒を飲んで顔をパンパン叩いて首をクルクル回すと気違い臭い。体の細部を一つ一つチェックし始めるのはもっとサイコ臭い。
「思いつくことならなんだっていいさ」
セラピー料金は給料から天引きなのか。勝手にセラピーの流れになってるけど、いつまで続くんだろうっていうか、助手たちはなんとも思わないのかな。しょうがないので質問に答えることにした。
「四つ足の動物です」
「象だってそうだよ」
「ずっと小さい」
「それから?」
「家庭で飼われていて、気が向くと先生を殺す」
少年の殺意が宿り、思わぬことを口走った。先生の言ったことは正しい。象だってそうだ。伝達すべきことが無くなった時、文明は終わる。パチン・・・OFF。ネットで何でも見れる時代に文字の娯楽なんてアナクロ過ぎる。なんか色々と読んでいてもイマイチしっくりこないのは、こんなマルタイメディアに囲まれた文字の世界というのが歴史上存在しなかったからだと思う。あとあの忌々しい「のだが」を全部削除するのも面倒だ。嫌な言葉を載せたくないし読みたくない。
殺意も伝達の一部だろうと思った。文明が終わるよりかは殺意でも持っていた方がマシな気がする。それにしても仕事は冴えないな。少年に「ポイントマンさんよぉ」って言われた時から、俺はポイントマンなんだ所詮はと思うようになって、少年が職をディスっているのではないにしても、ポイントマンであるという自覚を持たざるを得なくなってしまった。あの日、以来、人生は一変してしまった。
喉の渇きのためだろう、目覚めたのは朝の六時前だった。他人の家で目覚めると、いつも別の体に別の魂を無理やり詰め込まれてしまったような感じがする。やっとの思いで狭いベッドから立ち上がり、ドアの横にある簡単な流し台で象のように水を何倍か続けざまに飲んでからベッドに戻った。
「どうしたんだい?ハニー?やけに悲しげじゃないか」
象のように水を飲んだ甲斐があって、寝起きでもまともに発話できたことが感動だった。女は裸でアコギを抱えながら歌い続けている。開け放した窓からはほんのわずかに海が見える。小さな波が上ったばかりの太陽をきらきらと反射させ、目を凝らすと何隻かの薄汚れた貨物船がうんざりしたように浮かんでいるのが見えた。熱い一日になりそうだった。周りの家並みはまだ静かに眠り、聞こえるものと言えば時折の電車のレールの軋みと、イーグルスのグレイテスト・ヒッツといったところだ。
女の微かな歌声が全ての雑音に混ざり合って聞こえてくる。あれぐらいの声量で歌っていればスキルの無さを誤魔化せるし、これだけで女の歌が上手いなんて言えたもんじゃないものの、とにかくなんだかまぁ悪くなかった。環境と融合した女の声と弾いているんだか弾いていないんだが分からないアコギの音が良い侘しさを出している。
裸のままベッドの背にもたれ、煙草に火をつけてから、ギターを弾く女を眺めた。イーグルスを弾いているわけではないので、実質的に別々の音楽が鳴っていることになる。でも彼女が何の曲を弾いているのか分からないし、なんでイーグルスを流しながら何か別の曲を口ずさみながらアコギを弾いているのかがよく分からなかったが、とにかく悪くなかった。英語のほうがしっくりくる。Not badという感じ。
南向きの窓から直接入り込んでくる太陽の光が女の体いっぱいに広がっている。煙草を吸い終わってから10分ばかりかけて女の名前を思い出してみようしたが無駄だった。第一に女の名前を知っていたのかどうかさえ思い出せない。あきらめてあくびをし、彼女のヴァンデルヴァイザー楽派のような弾き語りを聞き続けた。
年齢は20歳よりいくつか若く、どちらかと言えば痩せていた。指をいっぱいに広げ、頭から順番に身長を測ってみた。女が「なにしてんのよ?」という余所余所しい目つきでこちらを睨んでくる。弁解の余地はないと思った。異様なことをしているのが悪い。
彼女の視線を気にしながら8回指を重ね、最後に踵のあたりで指先が一本分残った。158センチというところだろう。全く根拠がないのであるが。右の乳房に10円玉硬貨ほどのソースをこぼしたようなしみがあり、下腹部には細い陰毛が洪水の後の小川の水草のように気持ちよく生えそろっている。パイパンも悪くないけど、陰毛は陰毛でその良さがある。陰毛同士が擦れたときの厭らしい音はパイパンだと味わえない触感だから。
彼女の演奏は3時間続いた。余白の多い演奏で、終わるかと思ったらまた思い出したように弾いては、ウィスパーヴォイスというよりは、擦れた声を出すヴォイスパフォーマンスのような歌い方をして、時間間隔が狂う独特の演奏をしていた。途中で気がついたのだが、彼女の左手には指4本しかなかった。ジャンゴ・ラインハルトは薬指と小指に障害があったから、彼女のほうがまだジャンゴより弾きやすいだろう。
でもギターを4本の指で弾く感覚というのは分からない。分かるわけがない。4本しかない指で弾くのと4本しか使ってはいけないという制約の下で弾くのは雲泥の差がある。でも言うほど雲泥か?微妙な差があるというより雲泥の差というほうがスクエアに見えるから、そっちの言語表現を字面で恣意的に選んでいる可能性があるよな。でも概念の厳密さを考えれば、明らかにそれは雲泥ではない。ちょっとした差なのだろう。でも指は5本あるから一生分からないことだろう。
「誰・・・あなたは?」
ヴァンデルヴァイザーな彼女が尋ねる。
「覚えていない?」
彼女は一度だけ首を振った。煙草に火を点け、一本勧めてみたが彼女はそれを無視した。
「説明して」
「どのあたりから始める?」
「最初からよ」
「君が言っていることを僕に聞いてほしいなら話すのを一旦やめてみて」
しかし彼女は黙るということができないでいるようだった。彼には彼女が多分すべてを忘れてしまったことがよくわかった。その言葉は彼を困惑させることはなかった。彼女が知っていること、思い出によるより以前に忘却に酔って知っていることを自分が奪い取ろうとしているのではないかと彼は自問するのだった。
「なんであなたはそんな風にあたしのギターに耳を澄ませてるの?あなたがなにかしようとしてる時ですらもずーっと聞いているわよね。なぜあなたはあたしが次弾こうとしている調べすらも引き寄せようとするのかしら?そしてあなたは決してそれの邪魔をしない。あなたは決してあなたの何かをあたしに聞かせることをしない」
彼は意識したつもりはないのに彼女の調べに干渉しているようだった。それどころか発せられる音の全てが彼から来ているとは。音が耳に入る以前に音が繰り返されている。しかしそれは決して虚構ではない。
彼としてはこのことすべてをさすのに言葉を発することはできないとはいえ、彼女のギターを聞いているうちに彼の身に何かが起こったのは確かだ。それはギターが先行しているのか、身に何かが起こったからギターと彼の関係が変わったのか。
こういう印象を抱いた。つまり彼女はギターを弾いている。しかしまだ演奏はしていないという。だから彼は演奏されるのを待つ。彼は彼女と共に閉じ込められてきたいと言う大きな動く円環の中にいるのではないか。もしその一面が暗黒に包まれていなければ、いかなる象も鏡のなかに現れないのだ。
「あなたにはあたしのギターだけではなく音楽を聴けるようにしておいてください」
「うん。でも君にはそのためにやっておかなきゃいけないことについて何か言っておきたいことはある?」
「あなたがあたしのギターを聞いているってあたしに確信させてほしいです」
「いいよ。演奏を続けて」
「いったいどうしてあたしが演奏できるの?あなたが演奏を聞いてくれないとしたら?」
「分からないな。君の演奏を聴いているのだと思うけど。かれこれ3時間以上ね」
「あなたに頼んでいるのは話すことじゃなくて聞くことなんです」
「君の演奏を聴くということでしょ?もしくは一般的に音楽全般を聴くということ?」
「自分の演奏じゃありませんよ。ちゃんと分かってくれたのですね。聞くことなんです。ただ聞くこと」
「それなら演奏しているのが君じゃないといけないんだ。君がギターを演奏しているときに」
ただ一つの調べのうちに二重の音像を常に聞かせることだ。それは彼女が彼にもたらしている聴覚体験であり、それを通して彼女が彼の正しいことを求めてかつ認めているという沈黙の釈明なのだった。
彼女は想像していた。少なくともそういう感じがしていたのだが、彼が大いなる力をほしいままにしていて、その力を彼女が絶えず眼前にしていながら現実化することに成功しないように思えるあの真実の核心に到達するために用いることもできただろうにと。
しかし彼にはそんな力はないし、問題は力の有無ではなく、仮にその力があるとしても何をなすことも不可能であるので、彼女の思い込みは二重の意味で間違っている。もしくはただお世辞なのかもしれない。だとしたら相当高級なお世辞である。
ってことで続きますんでんじゃまた。