行方不明の象を探して。その18。

Sukoraの「Tower」の最後の音が空中に消えながらCDが終了しようとしていた。しかし「Tower」に音はほとんど入っていないので、音と音の隙間が分からなくなる。一昔前のCDプレイヤーだったら「Tower」の音よりもCDプレイヤーが止まる音のほうが大きく聞こえるかもしれない。大量の睡眠薬とアルコールのちゃんぽんのおかげでやがて眠りが訪れ、闇が包み込んでいった。ただそこに夢は全くなかった。

 

翌朝といっても目覚めたのは夕方ぐらいだったけれど、相変わらず全く全てのことに対してやる気が出ないので、また例の椅子に座ってどうでもいいことを考え始めた。朝食は冷蔵庫が空の時だけに作れる例の彼女にぶちまけたスパゲッティを作って食べた。工程を書きだすとこれ以上の地獄になりかねないので省略する。でも他の地獄が始まりそうなので、それは省略しない。

 

スパゲッティを食べ終わると、Samuel Adlerを聞きながら食器を片付け、音楽をかけたまま温めのシャワーを浴び、髪を洗い、髭を剃る。そして長い時間かけて念入りに歯を磨く。相変わらず狂ってる。狂った人のほうがまともで朝のルーティンみたいなものがある人間のほうがよっぽど狂ってると思う。歯磨き粉はほんの少しにして、一本一本歯の表と裏にゆっくりブラシを走らせる。歯と歯の間の汚れにはデンタル・フロスを使う。原稿一枚いくらっていう金の換算だと、こういう無駄なことを書き続けるのが金を稼ぐ秘訣なんだろか。でもエンタメ性を相当犠牲にしてるよな。

 

洗面所には分だけで三種類もの歯ブラシが並んでいる。部屋に拷問器具が飾ってあるぐらい狂ってやがる。特定の癖がつかないように、ローテーションを組んで一回ごとに使い分けるのである。ローテーションと言えばオナホール用のローションが切れているから、それも買い出しに行かなきゃいけない。それにしてもオナホールを長年使っていると弊害が大きいのに気づく。

 

摩擦が強すぎるために膣でいけなくなる。こればかりは膣で射精することに興味がないので問題ないように思えなくもないが、単純にイキづらくなるということであり、オナニーに時間がかかってしまう。生きづらさなんて人生だけで充分なのにオナニーですらもイキづらいのかと思うと胸が張り裂けそうになる。

 

張り裂けると言えばオナホで長時間強くこすり過ぎると亀頭の表面の皮が擦り剝けて、亀頭包皮炎になる。人間が住む世界なんてばい菌だらけなので、あらゆる意味で体は色々なものから体を保護しようとしているのに、その最低限の保護ですらも、オナホの摩擦によって擦り切れてしまうと、特に不潔にしていたというわけでもないのに当たり前のように「チャンスだ!」と言わんばかりに菌が入ってくる。症状は皮が痒くなったり固くなってパンパンに腫れ上がったり色々ある。

 

良いところと言えばブーツで蹴られたときに普通よりかは亀頭の防御力が上がっているということぐらいだろうか。そんなわけで脱衣所の壁についた等身大の鏡の前にすっぽんぽんで立ち、あらゆる意味で傷ついたちんちんと自分の体を点検してみる。狂気の沙汰であることは十分承知している。

 

不思議な感動をもって自分の体の隅々までを眺めた。まず髪、それから顔の肌、歯、顎、手、腹、脇腹、ペニス、睾丸、大股、足。長い時間かえてその一つ一つをチェックし、プラスとマイナスを頭の中のリストにメモした。髪は若いころに比べれば薄くなっていたが、特に気になるレベルではないのでオッケーだろう。

 

そのあとはまたそのあとで考えればいい。かつらだって良いものができているし、場合は頭の形は悪くないから、禿げたとしてもそれほどみっともない恰好にはなるまい。歯は若いうちから宿命的な虫歯のせいでかなりの数の義歯が入っている。しかし三年前から念入りなブラッシングをつづけているおかげで、進行はぴたりと止まっている。

 

「20年前からこうしてりゃ今頃虫歯なんて一本もないんですがね」と歯科医は言う。

 

歯科医は顔をキョロキョロ眺めまわしながら

 

「実はね、お洒落なカフェを始めようと思うんです。儲からなくてもいいんです。歯科医をやりながら経営も誰かに任せてもいい。ただ自分のカフェが持ちたいんです」

 

あまりに唐突なことで笑ってしまった。今思えばずいぶんと失礼なことをしたものだと思う。

 

「そんな笑わないでくださいよ。本気なんですよ。あたしゃね、自分自身のデカダン的な生活に終止符を打ちたいんですよ」

 

なぜカフェをオープンすることと歯科医が言う「デカダン的な生活」を終わらせることに関係があるのかが分からなかったが、

 

「へぇーそうなんですね」

 

とだけ答えた。

 

「まぁ聞いてくださいよ。カフェといってもね、普通のカフェじゃなくて最新のVR装置とかのゲーム環境を整えたカフェ型のゲームセンターにしようと思っているんです」

 

「だったらそれってネットカフェと変わらないじゃないですか?ネットカフェにVR機器があるかは分からないですけど」

 

「いやね、VR機器なんて誰でも買えますよ。僕が言っているのはVR装置です。もっと最新の高いやつです。VRに没入してるほうがデカダン的でいるよりよっぽど健全なんですよ。今の若者は貧乏でしょう。で、世の中は永遠に終わらない不景気ときてる。もう終わりですよね。でもそこで世の中と気力を無くした若者を繋ぎとめるものはVRぐらいしかないんですよ」

 

「リアルがダメになったからVRの世界に逃げるってディストピア的なSFみたいですね」

 

「でも実際に現実はそうなっているでしょう?」

 

「そうですけど、なんで先生がそんなカフェをやる必要があるんでしょうか?」

 

「先ほども申し上げたように、僕のデカダン的な生活に終止符を打つためです。それにね、VRなんて今は大したことないですがね、現実よりもよっぽどVRのほうが楽しい!ってなったらみんなそっちに行っちゃうんですよ。もう物件は押さえてあるんです。あとは設備を投入するだけです」

 

「でもVRの世界に逃避したいと思う人がわざわざカフェにまで出向きますかね?それだったら質は劣っても自室に引きこもって安価なVR機器で済ませるんじゃないですかね?」

 

「それがデカダン的というものなんですよ。僕はそういうものに終止符を打つためにお洒落な内装にして、いかにもVRに逃げそうな連中が集まるような場所ではなく、お洒落なVR空間を演出したいのです、それが嘘偽りのない世界なのですよ。それはここの中にしかないのです」

 

そういいながら歯科医は自分のこめかみを指先でとんとんと叩いた。

 

まさか歯科医とこんな長い話をするとは思っていなくて、改めて歯科医の顔を見てみると肌は荒れていて、血色は良かったから一見若々しく見えるけれども、ちゃんと見てみると皮膚には細かい凸凹ができていた。頬の肉は多めについており、二重顎になるのは間近なようだ。体系については6割ぐらいでセーフといったところか。4割になると中肉中背といっても、どちらかというと太った印象になる。

 

人は老いていくのだ。どれだけ努力したところで人は老いを避けることはできない。虫歯と同じことだ。努力をすればその進行を遅らせることはできるが、どれだけ進行を遅らせたところで、老いは必ずその取り分を取っていく。

 

老いは彼の心の隅に不名誉であってはならないし、暗闇の中に細かい彼の目を、それは一般的には彼の良心と呼ばれているのだが、その先に待っているのは、同じことの繰り返しである。恐らく空気の白い吐息で思い出すだろう。蓋然性が行き着く世界は中途半端なものだから、大した期待はできない。それは非常にずさんな、世界を想像しようとする叫びだ。

 

彼は確実な暗闇の中であることを認めている。防波堤の冷たいコンクリートを、柔軟な骨組みで包み込む、という名目で、沈黙の時を過ごす。真夜中の海。彼は自分の指紋に幻想を抱いていなかった。宛名のない告白の手紙。たとえ海に出ることに自然的な限界があったとしても、彼の心はあまりにも気まぐれかもしれない。それは果てしない闇を通り過ぎることではないのだ。

 

しかしラフランスは言う。

 

「当世の流行作家もあちこちで剽窃すればよい。どんどんやって欲しい。どんなに盗んだところで、どうせラ・フォンテーヌやモリエールには敵わないのだから。剽窃を口喧しく言う奴らは、本当にものの書き方を知っててああ言うのだろうか。いや、あの喧しさには全く別種の理由がある。その筆頭に来るのが金だ」