行方不明の象を探して。その19。

埋もれていた経験が完全な存在感によって蘇り、自分の存在を見失うときに、なぜ自分の中に閉じこもっていてはいけないのだろう?なぜ我々は、現実の感覚や精神的な内容を追い求めるのか。それは、僕たちの内なる流動性が客観化を否定しながら爆発的なエネルギーを閉じ込めることで、幸福の高みに至ろうとしているからではないか。この混沌としたプロセスに耐えられる人間はほんの一握りだろうが、消滅への強烈なイメージを持っている人間のほうがよりクリエイティブでいられるような気がする。

 

人生という高さからあなたは内面の無限の感覚に苛まれて、倦怠と精神の苦痛の強度を行き来する生活を強いられる。

 

そしていつも、夢に出会えるという、今は消えつつある希望を胸に旅をする。苦い理想の黄金幻想をかじりながら、死後の期待をくすぐるために、彼らは明るい恐怖さえも蔑ろにした。身体を個にして、苛烈な棘も突き刺すことを厭わずに、その恍惚の境地に達するために自分を欺くとき、絶えず、波は光の中に躍り出る。

 

その道すがら、黒い風は古の思いを広げ、その音を聞きたいと願う。そして、我々は未来の亡霊のことを後悔する。このように、ある種の愚か者は、あの世の単調な生活が沈黙し、言葉を持ち、未来の詩が生まれ、自己の発露をも輝かせることを期待しながら忘却していくのである。

 

それは詩人の不在という悲しい事実であり、我々の理性から逸脱したアンビバレントな欲望の究極の結末を代弁している。興奮のさなかにありながら、青空を見上げ、野生のたてがみを揺らし、優しい眼差しと微笑みで迎えてくれる人、僕の一瞬の喜びと絶望が同居するかすかな恍惚を、不思議な希望のために沈黙させるのだ。

 

絶望の真っ只中、庭の花に殉じざるを得なかった者たちの傲慢さ。旗のように羽ばたくだけの長年の欲望の観念が、その恍惚状態の苦しみから離れ、その歩みを鞭打つ前に、我々は笑い、そして飲み込む。パロールの空虚な魂と重く疲れた肉体は、ついに粉々になり、それは嘆きではなく、無限に巨大化したエゴの希望の光になって、秩序を追いはじめ、虚像と空虚は幻想の深淵を分離させることになる。

 

冒涜的なナンセンスを忘れながら、僕の喉は乾いている。そんな僕は殺風景な風景の中でただの客となった。

 

そしてアイロンの匂いとAgata ZubelのCleopatra’s Songs。ひどく酒が飲みたかった。できることならウィスキーをグラスになみなみと注いで、そのまま一口で飲み干したかった。黄昏時のウイスキーグラス。プロペラや卓上扇風機のように回転する羽根は、常に回転する物体のあるエッジがその場に静止しているように見えるが、光が当たる様子はとても美しい。ぼんやりとした輪郭さえも。これは、それぞれの羽根のカーブがそう見せているのだろう。

 

プロペラがあるって信じるならば、ファンもあると信じるべきだ。別にファンは無くてもいい。ファンじゃなくて卓上ファンがあるとか、好きに信じればよいわけだけど、そういうことを言いたいんじゃない。何かがあれば何かがなくなり、何かがあれば別の何かも現れる。そういうことを言いたい。何もかもを信じないでいられるのかってこと。だからそこにはきっと見かけよりずっと深い意味が込められているというのだろうということ。

 

敏感すぎるだの繊細過ぎるだのというのは本人にとっては苦痛の種でしかないけど、ポジティヴな見方をすればそれは良いむしろプラスの特性なんじゃないかと思えてくる。もちろんそんなことはありえないと思うことは可能だ。石ころに繊細だの鈍感だのという感覚はない。でも人は石とは違うという謎めいた確信がある。その時は自分が敏感すぎるということを受け入れる必要があるわけだけど。

 

なんだか物凄い性質を持つ人間がいたとする。他人はそいつを宥めすかして意思の疎通をはかるのだけど、話はなぜか通じない。話が通じなかった原因は、当の人間が石ころだの繊細だのという概念を信じてはいなかったというあたりに落ち着く。プロペラと卓上ファンなんていう複雑怪奇なものを、君たちは未だに使っているのか。不便じゃないかね。

 

当然、プロペラと卓上ファンの区別だけではないわけだけどね。その人間はそういいたい。もし叶うならそう言いたいが、その人間はプロペラも卓上ファンもわからないのでそうは言えない。この人間はバカだったのだ、とはできないだろう。もっともそんな人間が宇宙の虚空を、星の海と捉えているのか知らないけど。

 

その人間もきっと何かを信じてはいる。何かを信じてしまったせいで、別の何かも信じている。そうあるべきだと思う。そいつが何を信じているから遂に決してわからない。それでもやっぱり何か信じてしまったせいで、他の何かも信じる羽目になっているのだろうと、そんな風には考える。

 

人間には夢が必要だ。夢が無いとリアリティに押しつぶされてしまって、日常という吐き気を催す感覚に苛まれながら、日々、精神が死んでいくのを見守る以外の手立てが無くなってしまう。では夢の実現のために為すべきことは何か。ある人に聞いてみたら、毎朝、アファーメーションをすればいいと言う。なんだろう。「俺の夢は実現する!」と強く思い込むということだろうか。いや、夢を信じることなどただのありふれた事実でしかない。それはピラミッドよりも動かしがたいものだ。

 

運転手の強さと礼儀正しさ、そしてキュービクルの壁に貼られた大きなロール紙を目の前に、人間同士の違いに対する彼の心地よい無関心さ。そして、なによりも、湿った布の短い喜び、温かすぎず、冷たすぎず、僕たちは、この地球上で僕たちの種のために進行中の一時的だが幻想的なヒューマンスケールのスケジュールには何の関心もないのだ。我々はそれらを、便利さの分散という、進行中の一時的だが人間の規模では広大なことに何の影響も与えないように考えました。 

 

実際によく小さなキュービクルと洗面器とペーパータオルの部屋は、最も頻繁に使用されている。実際、建築的には、不可解なほど多様な食べ物や飲み物を含む、より大きな便利さのネットワークの一部が支配していて、時には、メニューを彼らの慎重な検討の後に取り出して、良い面と悪い面についての偏見を考えるようにする。ああ、言い忘れていた、昔のジョークは完全には覚えていない。 

 

転職を機に心へ向かったまでは良かった。小学生の頃、コーヒーメーカーの中にいた僕と彼女の間に何か起きようとしたとき、彼女はもう夜明けまで飲まないという顔をしたが、僕は何度か電話が鳴った時に、キーを出した。彼女は知り合いに秘密にしている人なので、彼女はいないということになっていた。僕は彼女が僕に連絡するときあることに気がついた。

 

それは例の小説が書けるようになる魔法のブレスレット。汗ばむ季節になってきた頃にブレスレットをしている手首が痒くなり始めた。端的に言えば金属アレルギーだった。でもこのブレスレットの石は隕石だから、何十億年前の石と自分の汗が化学反応を起こして炎症を起こしているということになる。何十億年前の石と自分の汗との化学反応というのは興味深いと思って痒くなってもブレスレットを外すことはなかった。

 

結果的に痒くなりすぎて手首を掻きむしってしまって、手首が自傷癖がある人間のような手首になった。武術を習っている先生にも「これは喧嘩でできた傷ではない」と念のため説明しておかないと、武術の実験をストリートファイトでやっているのでは?という疑いをかけられる可能性がある。最も先生は人格者なので、変な詮索はしないにしても、何しろ痒くなることよりも、掻き毟った後の傷の見栄えの悪さが問題だった。

 

バイザウェイの存在を隠している彼女、彼女に給水室があることを告げれば、仲直りすることは容易であった。給水所にまつわる事柄で喧嘩が起こったいきさつを書いてもしょうがない。一方、事務所では事務員が職場に泊ることは許されていなかった。結局、電話代滞納で彼女のアパートへ向かうことになった。彼女は自分の中で、何をするつもりだったのか、当番制だと言っていたが。しかし、今日、僕は他の、ブレスレットが原因ではないちょっとしたケガを見て彼女にこう言うだろう。

 

「愛は人を破壊する」

 

スーツやシャツを何枚か脱いで出勤したのだが、彼らと飲む機会はそう多くない僕の人生において、幼心に一日くらいタクシーの中のヤニとおっさんの体臭が混ざった匂いを嗅いで倒れそうだった。倒れる類の刺激臭ではなくて、それは労働の香りだった。そして、人だけでなく。彼女はベッドを壊したが、僕は電話線を持っていないので遠慮して、携帯電話の番号を用意して、また彼女から聞いて隠すために仮病を使った。

 

念のためパスワードは「鼻にかけたメガネのまま保健室に行って」に変更した。夜中に。どうしたの、それ?彼女は慣れた手つきで製造年月日不明のファンが埃で詰まっている熱いパソコンの中で、シンクを磨いているのは僕だ、と言った。説明があまりにも雑過ぎるから詳しく話すと、つまり彼女は僕の所在を気にしないようにしていて。彼女はまた、僕の仕事についての詳細を気にかけているようだった。

 

誰よりも早く出社し、印刷所にいる間、彼女に打ち明けるべきだったのだろう。実は無職で会社員のフリをしているということを。いえ、あの、まだ大丈夫です。そして彼女は25歳の誕生日を目前にして僕の前から姿を消した。三ヶ月前、まさかこんな無愛想な人がと思いながら、僕はデスクで電話を切った。どんなにお金がかかっても、コピーをしていた。

 

デートに誘われたり、メガネの下から逃げるように外に出ればきっと沈黙が訪れるのでなんでもないんだと自分に言い聞かせて、通知なしで迷惑をかけて申し訳ありませんと平謝りした。彼女は最終的に追い出された。でも全く気にしている様子はなく「だから何?」と言っていた。 

 

僕はその時彼女にこれはパソコンのモニターなのだと説明していたのだが、デートのために使うテレビのスクリーンをパソコンのモニターで代用するなんて考えられないと激怒していたのは誰だったか。彼女だったような気がしたのだが、得意のポーカーフェイスで、全くその意図を知ることができなかった。そもそも直接聞く気になれなかったのは事実だ。

 

結局、そのスクリーンを使いながらまた口論になったのは、回避タンクというアイデアだった。彼女曰く、回避率の高さを理由に敵の注目を集めて回避して敵の攻撃を潰すというのは厳密に言えばタンクと言えないのではないか?ということだった。タンクと言えば色々なゲームでまず思い浮かぶのは分厚いアーマーを着たアーマーナイトとかシールドナイトだろう。でも盗賊や踊り子や武闘家がその身のこなしを根拠に敵の攻撃を回避しまくっても、それは回避しているので、タンクではないということだった。

 

今思い返せばそれは言えなくもないことだと思った。別の言い方をすれば言えていると思ったということだった。タンクと言えばポリタンクとか貯水タンクとか、丈夫で強固で太いというイメージがある。でも回避するキャラクターは華奢でか細いからタンクという言葉のイメージに合わないということだった。

 

つまり彼女は言葉はイメージだと考えていて、僕はそこまで厳密ではないものの、言葉は機能だと思っていたので、相違はつまりは、実質的にタンクのような役割を果たしているけど、自慢の防御力で敵の攻撃を集めてガードしているわけではないから、それはタンクではないというのが彼女の言い分で、僕はそこまで厳密に考えずにタンク的な機能の面から、ただ普通のタンクとは違う、回避によってタンクの機能を担っているキャラクターとして回避タンクという言葉を使っていたのだが、別なところで彼女と口論になったのは、奨学金という言葉についてだった。

 

奨学金は奨学するわけだからローンとは違うわけで、奨学金という名前を使った実質の学資ローンは奨学金ではないわけで、それを奨学金と呼ぶなんて概念エラーだと思っていたのだが、実質的にローンのようなものも奨学金と呼ばれたりすることもあるということから、その言葉が使われ、人々の認識に浸透しているというところから、それは奨学金と言っても差し支えないということだった。

 

ファイヤーエムブレムという言葉を発するときに「エムブレム」と言わずに「エンブレム」と言うのだからそれはエンブレムなのであってエムブレムではないということでも口論になったときは、芋焼酎を飲み過ぎて口論中に吐いてしまった。鍋かなんかを食べた後で鍋が荒れた食道から出ている血と一緒に出ているのを見て、ファイヤーエムブレムだけではなく、エムブレムに関するものを見ると必ずゲロのことを思い出す。

 

夏が来ると思い出すとか、この音楽を聴くと思い出すとか、思い出すということは何も良いことばかりではない。芋焼酎の時は話がヒートアップしていて飲むペースや配分を間違ったのだと思う。

 

こうやって書けるときにはおしっこを我慢してでも書こうという勢いがある。おしっこにいっている時間が勿体ないと感じられるぐらい書けるということだ。そういう時に書けるブレスレットをしていたのかどうか。書けるが痒くなるブレスレット。よくある強くなるけどHPを削られるとか自動で付与される行動ポイントが回復しなくなるといった諸刃の剣的なアクセサリーとかと似ている気がする。